雑誌論文(その他):2009:

佐賀県唐津市における地域紙興亡略史 ―明治後期(1890年代)から『唐津新聞』廃刊(2008年)まで―.

コミュニケーション科学(東京経済大学),29,pp143-169.


 原論文は、表2枚、図1枚を含んでいますが、さしあたり本文テキストと表だけをこのページに掲載しました。
 なお、ページ作成に際しては、原論文の明らかな誤植だけを改め、その他の表現はそのままとしました。訂正した部分は青字としました。

 pdf版はこちらにあります

佐賀県唐津市における地域紙興亡略史 ―明治後期(1890年代)から『唐津新聞』廃刊(2008年)まで―.

はじめに
I 明治〜昭和戦時体制までの唐津市の新聞事情
  明治期の諸新聞:『唐津商報』、『唐津新報』、『西海新聞』
  大正〜昭和戦前期の諸新聞:『唐津日日新聞』、『肥前日日新聞』、『唐津時事新聞』
  「一県一紙」統制への過程
II 『唐津新聞』の沿革(1946-2008)
  創刊準備〜戦後占領期の展開(1945-1950)
  成長から最盛期へ(1950年代-1960年代)
  安定の中での社内体制の更新(1970年代)
  経営環境の暗転〜廃刊(1980年代-2008)
  配達形態と普及率
おわりに




佐賀県唐津市における地域紙興亡略史 ―明治後期(1890年代)から『唐津新聞』廃刊(2008年)まで―.

山田 晴通

はじめに

 2007年末、佐賀県唐津市の日刊地域紙『唐津新聞』が廃刊した。最終号となったのは2008年1月1日付であったが、これは12月中旬までに刷り上がっていたものであり、廃刊の気配はまったく感じられない内容になっている。廃刊の告知などは、12月28日付の年内最終号に掲載された1)
 『唐津新聞』の廃刊は、単に一つの日刊地域紙が消えたということに留まらない意味をもっている。唐津市では、日刊紙に限っても、市制施行前の20世紀初頭から地元で発行される地域紙が存在しており、「一県一紙」統制の時代を挟んで、戦後には『唐津新聞』が永く存続した歴史がある。『唐津新聞』の廃刊は、戦時体制下の言論統制の時代から六十余年ぶりに唐津市から日刊地域紙が消えたことを、また、百余年にわたって日刊地域紙が根を下ろして来た地域から、公権力の介入ではなく市場の淘汰によって、日刊地域紙が姿を消したことを意味している。『唐津新聞』の廃刊は、メディアの多様化とメディア間の相対的な位置づけの変化の中で、日刊地域紙が従来とは大きく異なる厳しい状況に直面していることを端的に象徴している、という見方も、あるいは可能かもしれない。
 本稿は、こうした状況を踏まえ、明治から昭和戦前期の唐津町〜唐津市における日刊地域紙の展開について、もっぱら二次資料文献に依拠しながら整理するとともに、戦後の『唐津新聞』の興亡について、唐津新聞社および関係者への聞き取りをもとに、参考文献類を点検し、さらに唐津市の「近代図書館」が所蔵する現物紙面の閲覧から得られた知見を加味して、『唐津新聞』の創刊から廃刊までの経緯をまとめたものである。

表1 戦前期の唐津における地域紙

以下、特記のない限り、日刊
『唐津商報』1894(明治27)年ころ…刊行頻度不明、3号で廃刊?
『唐津新報』1896(明治29)年6月25日付創刊 旬刊
1904(明治37)年ころ日刊化?
1914(大正3)年10月『西海新聞』と統合(→『唐津日日新聞』)
『唐津日日新聞』1910(明治43)年6月創刊 日刊に準じる頻度(→『西海新聞』)
『西海新聞』1910(明治43)年10月『唐津日日新聞』から改題
『唐津日日新聞』1914(大正3)年10月『唐津新報』と『西海新聞』を統合
1939(昭和14)年11月『佐賀日日新聞』と合併
紙名は1941(昭和16)年5月『佐賀合同新聞』と統合まで存続?
『民衆新聞』不詳 昭和初期に『唐津日日新聞』に併合
『肥前日日新聞』1922(大正11)年1月1日創刊(佐賀市)
佐賀市を拠点としたが唐津にも関わりが深かった。
『唐津新報』不詳 『肥前日日新聞』が唐津での切替版に用いた名称?
『唐津時事新聞』1921(大正10)年3月創刊
『松浦毎日新聞』1931(昭和6)年に石井忠夫が経営し、間もなく倒れた非日刊紙
『唐津新報』1935(昭和10)年ころ 『唐津時事新聞』から改題 短期間存続

I 明治〜昭和戦時体制までの唐津市の新聞事情

 唐津市は、佐賀県の中では県庁所在地である佐賀市から離れた位置にあり、なおかつある程度のまとまった人口規模をもった都市であり、地域紙の成立に有利な一定の条件が備わっている2)。また、同じ佐賀県内ではあっても、江戸時代には佐賀藩と唐津藩という性格が大きく異なる藩の城下町であったこともあり、唐津から見た佐賀への距離感、あるいは対抗意識は、相当に大きなものである3)。こうした背景から、唐津では明治以来、地域紙が多数興亡してきた。しかし、管見する限り現在では、戦前の地域紙は公共図書館等には所蔵されておらず、その歴史は間接的、断片的な二次資料の記述から窺うことしかできない。
 戦前の地域紙について、全国を網羅する形で概観できる代表的資料としては、日本電報通信社『新聞総覧』(1910-1943/明治43-昭和18)と新聞研究所『日本新聞年鑑』(1921-1941/大正10-昭和16)があり、いずれも復刻版があって利用しやすい形になっているが、細部を検討するとその記載内容には遺漏や誤りが少なからず含まれているものと思われる4)。また、『新聞総覧』刊行以前の明治期の状況については、こうした年鑑類によって網羅的に情報を得ることはできない。唐津には、『新聞総覧』に先んじる明治中期から地域紙が存在していたが、その実態は、全国的な資料からは窺い知ることはできないのである。
 そこで、局地的な性格をもった、いわゆる郷土資料に目を向けると、明治から戦前にかけての唐津の地域紙に関するまとまった記述として、大正から戦前にかけて唐津の新聞界に身を置いていた石井忠夫による回顧(石井,1977)がまず注目され5)。ただし、これは85歳を越えてからの回顧で、新聞題号や年号に疑問のある箇所も一部に含んだ記述である。以下では、おもに石井(1977)に依拠しつつも、他の記述との整合性に注意しながら、戦前までの唐津における地域紙の興亡について整理していく。以下の記述では、異なる時期に同名異紙が存在する場合もあるので、注意して読み進まれたい[表1]。

明治期の諸新聞:『唐津商報』、『唐津新報』、『西海新聞』

 石井(1977,p106)によれば、唐津最初の新聞は、『唐津商報』といい、1894(明治27)年ころに3号で廃刊したというが、これについては石井自身が「古いことで老人に聞いて見ても知った人はいない」と記しており、他に裏付けとなる記述も見あたらない。
 永続的に刊行された最初の新聞は、1896(明治29)年6月25日付で創刊された旬刊紙『唐津新報』であった。唐津新聞社(1979,p137)所収の『唐津新報』創刊号の一面(内容は題号と広告のみ)の写真からは、代金が一部2銭で、定期購読は、十回18銭、三十回50銭であったことが読み取れる6)。石井(1977)によれば、『唐津新報』は「大きさは菊判四頁」(p106)で、「新聞発行部数は七八百枚であったが、日露戦争頃から、一般のように週六日の日刊に進み、唐津を独占して堅実な歩みをつづけた」(p108)という7)
 日本における新聞の歴史において、日清戦争(1894-1895/明治27-28)、日露戦争(1904-1905/明治37-38)をめぐる報道が部数拡大に大きく貢献し、報道記事中心の編集形態や、読者の新聞購読習慣を形成していったことは、しばしば指摘されるところである8)。『唐津新報』の創刊と日刊化の時期は、大都市における新聞界の動向が、地方都市にも影響を及ぼしていたことを示しているようにも解される9)
 1910(明治43)年6月には、『唐津日日新聞』が創刊された。石井(1977)によれば、『唐津日日新聞』は、当時の唐津で大きな論争となっていた「電力問題」(火力発電所を導入するか、水力発電所を導入するかという政策論争)を契機に、火力派と目されていた『唐津新報』に対抗する第二の新聞として、水力派のバックにいた西海商業銀行が資金を準備し、当時政友会の代議士だった川原茂輔(後に佐賀市で『肥前日日新聞』を経営)の画策により、『唐津新報』から人員を割る形で創刊されたものである。
 『唐津日日新聞』は、創刊から百号を区切りとして、1910(明治43)年10月に『西海新聞』と改題し、以降、唐津では日刊二紙の対抗関係がしばらく続いた。石井(1977)によれば、『西海新聞』は、『唐津新報』より判型も大きく、創刊時より佐賀に取材拠点を置き、東京からの通信記事を取り入れるなど、先取的な紙面づくりに取り組んでいたという(p110)。
 『新聞総覧』の1910(明治43)年版には、唐津に所在する新聞として『西海新聞』だけが掲載されている。初期の『新聞総覧』は、掲載される情報内容の形態が毎年のように変化していた。『西海新聞』については、1910(明治43)年版では、「政黨政派に對して中立公平を嚴守」した、合資会社による経営であることが記され(p382)、1911(明治44)年版では部数が「紙數三千五百を數ふる」(p331)と記されているが、この部数は過大なものであるように思われる。

大正〜昭和戦前期の諸新聞:『唐津日日新聞』、『肥前日日新聞』、『唐津時事新聞』

 1914(大正3)年10月、『唐津新報』と『西海新聞』が統合し、『唐津日日新聞』が成立した10)。題号は『西海新聞』の旧題号を復活したものであり、社屋も西海新聞社に置かれたことから察すると、実態としては『西海新聞』側が優勢な統合であったようだ。統合後の発行部数は順調に推移し「一千五六百部をこえるに至った」(石井,1977,p110)という。第1回国勢調査が実施された1920(大正9)年当時の唐津町の人口が26,140、世帯数が5,371であったことを考慮すると、『唐津日日新聞』の世帯普及率は3割をやや下回る水準にあったものと思われるが、当時の一般的な新聞の普及状況から考えれば、これはかなり高い値である。『唐津日日新聞』は、大正末期に火災により社屋を失うが11)、新興の小規模紙『民衆新聞』を併合し、その施設を用いて刊行を継続した。『唐津日日新聞』は、昭和に入っても唐津の代表紙として永く存続し、最終的には「一県一紙」統制で『佐賀合同新聞』唐津支局となった。
 『唐津日日新聞』が唐津の代表紙であった大正から昭和戦前期にかけて、一時的にせよこれに匹敵する展開をみせた新聞は2紙あった。一つは、(最初の)『唐津日日新聞』創刊に関与した代議士・川原茂輔が、1922(大正11)年1月1日に佐賀市で創刊した『肥前日日新聞』である12)。『肥前日日新聞』は、最初から本格的な新聞としての陣容と設備を整えて登場し、佐賀県で最初に輪転機を導入したという(難波,1956,p451)。石井(1977,p111)は、『肥前日日新聞』について、「川原茂輔が、佐賀市で八頁大の「肥前日日新聞」を創刊するや、唐津日日の営業面の主役者渡辺賢助氏が独立して「唐津新報」という切替判[ママ]を出したが、佐賀本社が永続せずして中絶してしまった」と時期を明記せずに述べている。佐賀市の新聞とはいえ、もともと唐津周辺に地盤のある川原が主宰した『肥前日日新聞』は、創刊当初から唐津の新聞市場を意識していたのであろう。難波(1956,p451)は、当時、政友会から分裂した政友本党の有力者であった川原が「一つには目の上のコブ的存在である「唐津日日新聞」に対抗するため、二つには選挙対策を有利にみちびくため、いわば政治上の道具として新聞を発刊した」ことを説明している。『肥前日日新聞』(あるいは、その系列紙『唐津新報』)の登場は、『唐津日日新聞』にとって、一時はかなりの脅威であったようだ13)。しかし、1929(昭和4)年に川原が没すると、『肥前日日新聞』の紙勢は急速に衰えることになった14)
 もう一つは『唐津時事新聞』といい、難波(1956)には言及がないが、石井(1977,pp111-112)によると、『唐津日日新聞』の関係者の一部が独立して1921(大正10)年3月に創刊したもので、「それと前後して唐津町村合併問題や市制新設問題などで町政紛糾、増本清、林準次郎、岸川岩次郎氏等の諸氏によって、唐津民衆新聞、唐津新報、松浦新聞等、色々な日刊紙や月刊、旬刊紙が出て来たが、何れも財政其他の事情で廃絶、唐津日日と唐津時事とが残った」という15)。しかし、『唐津時事新聞』の経営は必ずしも順調ではなく、創刊十周年の1931(昭和6)年には、いわば身売りをする形で経営陣が交代し、当時の町長で、後に唐津市助役、市長を歴任した萩谷勇之助の影響下で、政友会系の機関紙的存在となったが、その後は急速に勢いを失ったという16)
 『唐津時事新聞』の名は、『新聞総覧』では、1927(昭和2)年版から1936(昭和11)年版まで、『日本新聞年鑑』では、1925(大正14)年版から1935(昭和10)年版まで掲載されている。『日本新聞年鑑』1934(昭和9)年版には、『唐津時事新聞』についての記事の末尾に「八年五月末、内訌の爲め休刊せるが、近く再刊の筈」とあり、翌1935(昭和10)年版では同様に「七年十二月前社長小關世男雄君より現社長(政友會代議士)に譲渡し、八年五月末、内訌の爲め休刊す」と記している。「現社長(政友會代議士)」とは、佐賀2区から選出されていた立憲政友会の藤生安太郎である。その後、『日本新聞年鑑』1936(昭和11)年版から1938(昭和13)年版までは、『唐津時事新聞』を改題した後継紙として『唐津新報』の記事が掲載されている。こうした年鑑類では実態が反映されるまで数年を経ることもあるので、記事の掲載がそのままその新聞のその時点での存在を保証するものではないが、1935(昭和10)年前後に『唐津時事新聞』を改題した『唐津新報』が刊行され、それが永続しなかったということは確かであろう17)

「一県一紙」統制への過程

 1930年代後半になると、戦時体制への傾斜を受けて全国的に展開された新聞の「一県一紙」統制が、唐津に拠点を置いていた地域紙に一掃していくことになった。この統制について、石井(1977, p113)は、「佐賀市の佐賀新聞を主体として唐津日日新聞は佐賀合同新聞として唐津支社となった」と簡単に述べているだけである。しかし、唐津における「一県一紙」統制には、より複雑な経緯があったようだ。難波(1956,pp453-454)によると、まず、もともと『唐津日日新聞』佐賀支局長として新聞界に入った江口嘉六が、1925(大正14)年に佐賀市で創刊した『佐賀日日新聞』(当時既に廃刊されていた同名の先行紙が複数あるので注意)が、1939(昭和14)年11月に『唐津日日新聞』を買収したという。ただし、この時点で『唐津日日新聞』の名が消えた訳ではなかったようだ18)。次いで、1941(昭和16)年に江口が健康を損なうと『佐賀日日新聞』は勢いを失い、5月1日には『佐賀新聞』が『佐賀日日新聞』を併合して、「一県一紙」体制下の県紙『佐賀合同新聞』が成立した。『唐津日日新聞』の立場から見れば、買収された親会社が吸収合併されて、『佐賀合同新聞』唐津支社に看板を掛け替えたということになる。
 こうして、明治末以来続いてきた、唐津における日刊地域紙の伝統は、戦時体制へと向かう国策によって、40年足らずでいったん幕を降ろすことになった。


II 『唐津新聞』の沿革(1946-2008)

 本来、戦時統制の体制であった「一県一紙」体制は、1945年の日本の敗戦後、連合軍による占領下で大きく変質することになった。占領体制下では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に設けられた民間情報教育局(CIE)の指導により、それまでの統制で禁圧されていた地域紙など諸々の小規模紙が、雨後の筍のように各地に叢生した。そうした動きの中で唐津に誕生し、その後、唐津の代表紙として長く存続したのが『唐津新聞』であった。  『唐津新聞』の歴史については、創刊から30年あまりを経た段階でまとめられた「唐津新聞社社史」(唐津新聞社,1979)があるが、これはわずか4ページの簡単な記述であり、内容の過半は創刊直後の事情の紹介に費やされているなど、貴重な情報を盛り込んではいるが、「社史」としては簡潔に過ぎ、また、バランスを欠いた感が否めない。以下では、この「社史」のほか、唐津新聞社および関係者への聞き取りや、『唐津新聞』の紙面から読み取れる内容などによって、創刊から廃刊までの経緯を追っていく。

創刊準備〜戦後占領期の展開(1945-1950)

 戦後、新聞の自由化を受けて、いち早く地域紙の復興を企図した唐津の新聞関係者たちは、留川[よう=羊にレンガ]二を中心に1945年11月に唐津市城内261番地に「日刊唐津新聞社創立事務所」を設け、創刊の準備を進めた。その成果である『唐津新聞』は、社屋を唐津市魚屋町202番地に置き、1946年2月14日付で創刊した(唐津新聞社,1979,p138)19)。当初の「発刊兼編集印刷人」は、『唐津日日新聞』出身の有吉清人(1900-1948)であった20)。『唐津新聞』は、創刊後2ヶ月余りを経た1946年4月24日には、第三種郵便物の認可を得た。
 『唐津新聞』は、創刊当初から日刊化を目指していた。現物が確認できるもので最も古い1946年6月1日付第26号の題号にも、「日刊」の文字が埋め込まれている[図1]。刊行頻度は、1946年5月頃までは週に1-2回程度であったが、6月以降は、週に5-6回程度のペースを実現していたようだ21)
 1947年12月1日付で、「組織を合名会社・唐津新聞社とし」たが、その際に宮崎芳郎(1900-1992)が「業務執行社員」として経営者となり、次いで1948年3月27日付で社長に就任した(唐津新聞社,1979,p138)22)。宮崎は、旧唐津村役場職員を経て、1932(昭和7)年の唐津市制施行を受けた第1回市議会議員選挙に当選し、以降、長く市政に関わった人物である。戦時中にあたる第3期(1940-1947)は市議ではなかったが、その期間にも地元政界の有力者であったようだ23)。『唐津新聞』の経営に参加した当時の宮崎は、1947年4月の戦後最初の第4回市議会議員選挙で再び当選したばかりであった24)
 社長の座に就いたとき、宮崎は合名会社の払い込み資本金189,000円のうち、139,000円を持ち分としており、残り50,000円は留川[よう=羊にレンガ]二が持っていた(唐津新聞社,1979,p138)。しかし、社長となった翌年の1949年には、宮崎は留川の持ち分を清算して単独出資とすることに成功したようだ。1949年6月1日付の紙面には、「社長 宮崎芳郎」の名で、合名会社を解消し、個人経営とする旨の「社告」が出た。そこでは活字の更新と社屋の新築が予告されていた。その予告通り、同年8月下旬に社屋は、唐津市本町1918番地に移転した。8月30日付の「社告」は「御承知のとおり新社屋は地方新聞界の大先輩である當時の唐津日々新聞社社長故富永こう[ママ]之助先生の生家であって、かつては同新聞社の社屋として地方新聞界に君臨した時代もあり謂わば郷土新聞揺籃の地とも稱すべく…」と、誇らし気に述べている。翌1950年2月28日からは、活字の総入れ替えが行われた25)
 こうして、宮崎はオーナー経営者となり、新社屋を構えたが、直接編集を指揮することはなく、新聞紙面の編集は代々の編集責任者が差配していた。初代の「編集兼発行印刷人」であった有吉清人が1948年12月に病没すると、同年1月に論説部長として入社していた久我萬吉が「編集主幹」となり、12月11日付の紙面から「編集兼発行印刷人」として題字下に名を記すようになった。しかし、久我は2年足らずの在任を経て1950年10月に退職した(唐津新聞社,1979,p138)。久我は、市議会第4期(1947-1951) 、第5期(1951-1955)の議員であり、市議に当選した後に論説部長に招かれ、編集責任者と務め、退任している。つまり、1948年から1950年に掛けて3年近くの間、市議会での同僚議員が、『唐津新聞』のオーナー社長と編集責任者という関係でもあったということになる。
 当時は、占領体制下であり、新聞には事後検閲があった。刊行された新聞現物は、1949年7月以前は、「福岡市橋口町松屋ビル」にあった「米陸軍第三地区民事検閲局」へ、1949年7月以降は(おそらくプレスコードが解除された10月まで)、「東京都港区芝田村町関東配電ビル」の「GHQ民事検閲局」に提出され、検閲を受けていた。『唐津新聞』は検閲当局から具体的な処分を受けることはなかったが、発刊した新聞の提出遅延への督促や、報道内容が指示に反していると非公式に警告する文書などを受け取ることがあったという(唐津新聞社,1979,p136)。
 占領体制下では、新聞用紙をはじめ、新聞印刷に必要な物資の統制も厳しかった。「社史」では、その一例として、1947年に、教科書用紙の確保を名目に、日本新聞協会から紙面の圧縮を求められたことを紹介している(唐津新聞社,1979,p136)。『唐津新聞』がこれにどう応えたのかはわからないが、当時の『唐津新聞』はタブロイド判2頁建ての「ペラ新聞」であり、判型や頁数をこれ以上圧縮することはできなかったはずである26)

表2 『唐津新聞』の一部販売価格と月額購読料の変化

1946年2月14日20銭3円50銭
1946年10月1日25銭5円
1947年5月1日30銭8円
1947年7月1日35銭10円
1947年10月1日50銭15円
1948年5月1日75銭22円
1948年7月1日1円20銭35円以上は「社史」の記述による
1951年1月1日?1円30銭40円値上げ日は推定(紙面現物がない)
1951年5月1日?1円50銭50円値上げ日は推定(紙面現物がない)
1951年9月1日?3円65円
1951年11月14日3円50銭65円
1953年2月3日4円90円ブランケット判へ移行
1957年3月1日5円100円
1959年6月1日5円120円
1962年3月2日7円150円
1965年3月18日10円100円
1965年10月2日10円180円
1966年7月7日10円230円
1968年1月1日15円230円
1969年2月5日15円300円
1972年7月3日20円400円
1973年7月2日20円500円
1974年11月1日30円700円
1978年6月1日40円900円
1980年4月1日50円1000円
1989年3月1日60円1200円
1989年4月1日60円1230円消費税導入(税率3%)
1997年4月1日70円1500円消費税引き上げ(税率5%)
2001年4月2日80円1800円

成長から最盛期へ(1950年代-1960年代)

 1950年には、『唐津新聞』はいろいろな意味で転機を迎えた。まず、同年7月下旬には、判型がそれまでのタブロイド判(406×273)から、ひとまわり大きい、A4切(440×312)ほどのサイズに拡大した27)。それまで通り、一行原則15字は変わらなかったが、一段60行程度×10段だった紙面は70行程度×12段となり、盛り込まれる情報量は4割程度増えることになった。判型拡大後は、2頁建の一面の下2段、2面の下6段ほどが広告に充てられた28)
 久我が退任した10月には、プレスコードが解除され制度的検閲はなくなった。久我の退任後、題字下の「編集兼発行印刷人」は宮崎芳郎となり、1953年にこの表示がなくなるまで、そのまま宮崎の名が残った。久我に代わって「編集長」として実質的に編集責任者となったのは、戦前の『唐津時事新聞』『唐津日日新聞』、統制期の『佐賀合同新聞』(戦後『佐賀新聞』に改題)と渡り歩き、久我の後任として『唐津新聞』に引き抜かれた坂本又一(1897-1969)であった(唐津新聞社,1979,p138)。坂本は1969年に輪禍に倒れるまで、二十年近く編集部門を統括していくことになる29)
 1951年5月には宮崎が市議会議長に選出され、経営からいよいよ遠ざかることになった。それを埋め合わせるかのように、経営の実務を担う人物として招かれたのが、戦前の『唐津日日新聞』や(『唐津時事新聞』改題の)『唐津新報』に関わった後、統制期に新聞界を離れ、県官吏を経て民間企業の役職者となっていた山下芳雄であった。専務取締役となった山下は、「政務多忙な宮崎社長…の懐刀として敏腕をふる」いつつ、「一方では営業部を総括して、社業を隆盛に導いた」といい、1975年に相談役に退くまで、四半世紀にわたって『唐津新聞』の実質的な経営を担った(唐津新聞社,1979,p138)。
 宮崎社長が市議会議長として隠然たる社会的影響力を持ち、編集は坂本編集長、経営は山下専務がそれぞれ長期にわたって取り仕切った1950年代から1960年代にかけては、結果的に、『唐津新聞』にとって最も恵まれた時期であった。『日本新聞年鑑』1955年版には、部数として6500部という数字が記されているが(p291)、これは、各所に見える『唐津新聞』の公称部数の中でも最も大きな数値であり、この前後の時期が実売部数においても最も好調な時期であったものと思われ30)。日本全体が高度経済成長期を迎えたこの時期、唐津の地域経済はその波に上手く乗れたとは言いがたい状態であったが、それでも終戦直後の苦境からは徐々に脱しつつあった。
 当時の唐津市にとって、また『唐津新聞』にとっても大きな意味を持つことになったのが、1953年の競艇事業の導入である。宮崎が市議会議長となった1950年の段階で、唐津市の財政は危機的な状況にあっ31)。その背景には戦前に遡る債務処理や、戦後における税制改革が市財政に不利な性格であったこと、さらには天災被害など、多様な要因があったが、これを克服するための施策の一つとして、公営ギャンブルの導入が検討され、市役所や市議会では、競艇と競輪のいずれを導入すべく議論が進められた。1951年には、競艇導入の可能性が広く認識されるようになり、正式な申請手続きが行われ、1952年には正式に認可が下りた。この間、市議会議長の座にあった宮崎は、社団法人佐賀県モーターボート競走会の設置準備委員、次いで設立時からの理事を務めた32)
 『唐津新聞』は、競艇導入案が具体化してくるとこれを紙面で取り上げ、また実際に競艇が開催されるようになると、様々な形で競艇関連行事を記事として取り上げた33)。また、競艇の勝舟投票券(舟券)の印刷を引き受け、安定した収入源を得ることになった。
 1950年代から1960年代にかけて、『唐津新聞』は紙面も順調に拡大していった。1950年の判型拡大のあと、1953年2月3日付で判型は更に拡大して、ブランケット判となった34)。1954年末には、例外的にタブロイド判で刊行された例もあるが、その後は一貫してブランケット判による刊行が続けられた。ブランケット判になってからも、通常2頁の「ペラ新聞」であることには変わりはなかったが、元旦号は8頁から12頁程度で印刷されていた。1960年代に入ると、通常号で4頁という例も見られるようになり、元旦号は16頁から20頁程度に増頁された35)。1966年以降は通常4頁が基本となり、廃刊まで続く形態が固まった。
 こうした紙面の量的拡大に伴って、この時期には購読料も段階的に引き上げられた、こうした値上げは、1953年2月のブランケット判への移行に伴う値上げのように、紙面拡大と連動する場合もあったが、全般的な物価水準との調整という色彩が強い場合が多かった[表2]。また、紙面拡大の背景には、広告が順調に入ってくる恵まれた状況もあったはずである。
 もともと唐津市は、明治以来、石炭の積出し港としての機能を持っていたが、1960年代前半には、高度経済成長期のただ中での石炭産業の衰退などから人口の流出を経験した。国勢調査の人口は、1960年の77,825人から、1965年には73,999人に減少し、この5年間で流出した人口が1960年の水準に戻るのには1980年の77,710人になるまで15年を要した。こうした人口減は、『唐津新聞』の部数にも一定の影響を与えた可能性はあるが、顕著な部数減があったわけではないようだ。紙面から、中心市街地の商店街の繁栄や、そこからの広告出稿を受ける『唐津新聞』の経営には、大きく影響しなかったようである。
 好調な経営環境に支えられていた『唐津新聞』は、1964年4月13日に唐津市弓鷹町1510番地5に社屋を移転し、さらに、1966年2月8日に唐津市西城内1番2号に移転した。短期間の間に移転が繰り返された事情は不詳であるが、西城内1番2号は市役所の隣接地であり。得難い立地と判断して移転に踏み切ったのかもしれない36)
 1960年代は、テレビの普及という新しい局面が、様々なメディアに大きな影響を与えた時期でもある。各地でマス・メディアに代わって全国ニュースや国際ニュースを報じていた日刊地域紙は、テレビの登場とともに速報性における優位性を失い、大きな打撃を受けることになった。「テレビの普及に象徴されるマスコミの発達が旧来のマスコミ機能代行型の地域紙へのニーズを消滅させた」のである(山田,1984,p223)37)。『唐津新聞』は、初期には重大な全国ニュースを取り上げることもあり、また、時事通信と関係を持っていた時期もあったが、創刊当初から地元記事中心の編集であったために、テレビの普及が直接の原因で部数を減らすという事態は、少なくとも直ぐには起きなかった。
 なお、唐津市では、1960年代前半から、つまり、歴史的に見てかなり早い時期から、唐津商工会議所を中心にケーブルテレビの導入が取り組まれていた。諸メディアの間の競合や役割分担を考えていく上で、この事実は特筆しておくべきだろう。1965年にはケーブルテレビ業務が開始され、1966年には運営母体が生活協同組合に改組された38)。これは1972年の有線テレビジョン放送法施行以前の先駆的な取り組みの一つであったが、この草創期においても、その後も、唐津新聞社は唐津ケーブルテレビジョン(通称「ぴ〜ぷる放送」)と特段の経営上の連携を持つことはなかった。

安定の中での社内体制の更新(1970年代)

 1969年に坂本が輪禍に倒れて退任した後、編集長となった山口馨は、『毎日新聞』上海支局勤務から引き揚げ後『唐津新聞』に転じ、さらにNHK放送記者を経て再び『唐津新聞』に復帰したという経歴の持ち主であった(唐津新聞社,1979,p138)。1975年には、山口の後を継いで中尾恵太が編集長になったが、その後も山口は記者クラブ担当の嘱託として編集に関わり続けた。
 『唐津新聞』は、規模が小さいことから、日本新聞協会に加盟することはなかったが、市役所でも警察署でも、協会非加盟紙である『唐津新聞』も交えて取材の機会が提供されていた39)。こうした慣例が確立された背景には、この時期の『唐津新聞』が地域社会の中で一定の影響力をもっており、また、坂本や山口のように協会加盟メディアでの経験をもった編集責任者が、記者クラブに参加する全国紙・県紙・放送局の記者たちと対等と渡り合う力量を備えていたことがあったのだろう。記者クラブにおける『唐津新聞』の立場は、廃刊までそのまま維持された。
 1973年の元日号では、はじめてカラー印刷が導入され、以降、毎年元日号はカラー印刷が行われるようになった。しかし、元日号以外の通常の紙面でカラーが用いられることは、廃刊までないままであった。カラー印刷には一定の時間が必要であり、元日号は、通常は12月中旬までに作成されていた40)
 1976年には、また社屋が移転し、唐津市千代田町2568番地17の現社屋に移ることとなった。この建物は、もともと社団法人佐賀県モーターボート競走会の事務所として1967年10月13日に新築されたものであった(全国モーターボート競走施行者協議会,1970,p742)。新聞社屋として設計されていなかったため、一階部分を印刷工場としたものの、出入口が狭く、用紙などの搬入出にはやや不便であったようだ41)
 この新社屋に移った1976年は、『唐津新聞』創刊30周年にあたっていた。その記念誌としての性格を持った『松浦大鑑』は、作業が遅れて1978年に刊行されたが、そこには「唐津新聞社社史」も収録された。「社史」に記載された1978年9月当時の唐津新聞社の陣容は、役員3名(宮崎芳郎社長、宮崎五郎副社長、時津規美生常務取締役42)、編集長・中尾恵太以下編集部6名(記者クラブ嘱託=前編集長・山口馨、および、佐賀支局主任を含む)、営業部長兼務の宮崎五郎副社長以下営業部6名(相談役に退いた山下芳雄、および、支局営業嘱託を含む)、工務部15名、総務部6名という体制であった(唐津新聞社,1979,p139)。一見して、工務部の人員が多いという印象を受けるが、これは当時、写植オペレータが記事を入力し、「大貼り」を経てオフセットの刷版を作るという手順がとられていたことと関係している。工務部門の社員の氏名にはオペレータと思しき女性の名が目立っており、名前から判断すると15名中9名は女性であったようだ。
 この時点での公称部数は5,000部であり、具体的な数字は不詳だが、最盛期の水準には至らなかったものの堅調な経営をなし得るだけの実売部数があったようだ。しかし、この頃から、『唐津新聞』を支えていた唐津市の地域経済の基盤は徐々に揺るぎ始めていた。背景には、モータリゼーションの浸透と郊外への大型店の進出によって、伝統的な中心商店街が弱体化し始めたことがあった。既に1973年の段階で、佐賀県中小企業総合指導センターの「広域商業診断」は、「九州新幹線、佐賀空港、呼子線など、交通条件の変革で近隣都市との時間距離が短縮され、都市の文化、ファッションがストレートに持ち込まれるし、商業の競合関係、顧客の流出問題も広域的に考えなければならない。いまでも買い物調査では三五%の人々が市の中心街区に魅力を感じないと答えている。こんな時代に商店主が「まあ、なんとかなる」と昔ながらの“殿様商売”をしていると命取りになることを認識されたい」と警鐘を鳴らしていた(唐津市史編さん委員会,1990,pp385-386)。

経営環境の暗転〜廃刊(1980年代-2008)

 1973年の「広域商業診断」で示されていた危惧は、1980年代に入ると具体的な形をとるようになった。福岡への交通手段の利便性が高まったことによって、買回品の購買が福岡へ流出する「ストロー効果」が顕著になってきたのである43)。さらに1990年代に入ると、中心市街地の衰退は一挙に表面化していった。中心市街地の中核にあった地元百貨店の閉店・移転、商店街内の老舗の閉店が相次ぎ、中心商店街の来街者が激減した。他方では、大規模小売店舗をめぐる政策の転換によって、郊外型ロードサイド店舗の進出が続き、1999年に市街地東郊に開業した、ジャスコ唐津を中心とする唐津ションピングセンターは、店舗面積が2万m2を超える県内有数の規模となった。地域の小売業界におけるこうした変化は、広告出稿の後退、広告料収入の減少という形で、『唐津新聞』にも深刻な影響を与えた。
 1997年4月、8年ぶりに購読料が引き上げられたが、引き上げ幅は2割を超え、部数は減少したが、事前に予想された範囲内の規模にとどまった。しかし、その4年後の2001年4月に再び2割の値上げが行われた際には、読者の反発を買い、部数が予想外に減少してしまった44)
 2001年5月1日からは活字が大きくなり、従来通りの15段のまま、1行が12字から11字に減少した。この前後には、紙面制作の電算化が進み、編集機の画面上で紙面を構成することが可能になり、「大貼り」の過程がなくなった。さらに、2004年には、オフセット印刷の刷版を直接出力できる製版機が導入された。それまでのフィルムカメラに代わって、デジタルカメラの画像を直接取り込むことが可能になったのもこの頃である。しかし、こうした制作面での新技術の導入や、それに伴う紙面刷新は、部数の凋落を食い止めることはできなかった。
 工務部門の刷新は、かつての写植オペレータの数を大幅に圧縮させることにはなったので、人件費の面では経営にプラスであった。しかし、二回の値上げの後、部数の落ち込みが予想以上に厳しく、なおかつなかなか回復の見通しが立たないことが明らかになった2003年頃から、『唐津新聞』の将来への危惧が関係者の間に広まりはじめた。当時の唐津新聞社の経営は、集合広告チラシの発行や、本業ではなく関連事業から利益を得て、新聞事業の赤字を補填するという状態になってい45)。実際には、新聞社としての社会的信用が背景にあって成立している副業等もあり、そのように単純に考えることは危ういのだが、見方によっては、新聞がなければ、利益を上げていることになる状況である。廃刊直前の実売部数については確実な数字は明らかにされていないが、関係者の話を総合して推測すると、多めに見積もっても2000部に満たない水準であったことは確かなようだ。
 2006年からは、新たに総合通信事業部が設けられ、「からつポータルサイト びびっと!からつ」(http://bbit-karatsu.com/)の運営が始まった。このサイトの中にある「唐津新聞ニュース」は、『唐津新聞』に掲載された記事や写真を用いたニュース紹介として、写真を多用したブログの形式で2007年3月にスタートし、4月から12月までは毎月20日以上、休刊日以外はほぼ毎日、紙面から流用したニュースが紹介された。
 2007年12月はじめに、『唐津新聞』を2008年元日号をもって廃刊するという方針が、社内に伝えられた。有限会社唐津新聞社は存続し、『唐津新聞』の発行という本来の新聞事業は完全にやめてしまい、新聞輪転機も処分して、今後は広告チラシの企画・作成などを行う小さな会社となるという方針であった。編集部は全員が職を失うことになり、他の部門も人員が圧縮されることになった。
 形式的に、最後の号となったのは、2008年1月1日付であるが、実際に最後に編集、発行されたのは、2007年12月28日付である。(「休刊」ではなく)廃刊の社告があり、4名の記者それぞれのコメントも掲載されている。記者たちは、残務整理のために廃刊後もしばらく社にとどまったが、程なくして全員が退社した。4名のうち、2名は唐津にとどまって転職し、のこり2名は全国紙の地方記者となって唐津を離れた。
 ウェブサイトの構築自体は、新聞の編集とは独立して総合通信事業部によって担われていたため、『唐津新聞』廃刊後も、「唐津新聞ニュース」は、継続されているが、記事の流用ができなくなったこともあり、その書き込みの頻度は、月に数回程度に減少している46)

配達形態と普及率

 さて、以上の時系列に沿った経緯の検討とは別に、『唐津新聞』の特徴について、おもに他の日刊地域紙との比較する観点から、若干の検討を付け加えておきたい。
 『唐津新聞』は創刊から廃刊まで夕刊であったが、唐津市は全国紙や県紙の夕刊が配達されない地域であり、夕刊として配布するためには、他紙の配送網に依存せず、自前で配送網を維持しなければならなかった。夕刊紙として出発した地域紙の中には、同様の配送上の理由から朝刊紙に転換した例もあるが、『唐津新聞』は最後まで自前で配達する体制をとらなければならなかった47)。このため、実質的に配達可能な地域は、(2005年の広域合併以前の)旧・唐津市域の市街地、およそ2.5万世帯程度のエリアに限られており、旧・唐津市域の中にも、配達ができない地域もあった48)
 印刷された新聞を、各地域の配達員の拠点まで車で配送する仕事は、編集や営業の担当者が分担して行っており、編集部の記者も、午後4時頃までに業務を終えた後に数カ所の拠点を回る配送を、週3-4回程度は分担していた。配送の途中では、例外的に購読者宅へ直接配達する場合もあったといい、配送・配達をひと通り終えるためには、1時間余りを要したという。
 末端の各地区で配達をする配達員は、40名ほどで、子どもから高齢者まで、様々な人々が配達を担っていた。配達員に欠員が出ると、紙面には補充を求める広告が出され、後任が採用された。配達員の確保は廃刊までさほど困難ではなかったようだ。しかし、ひとたびこのような配達のシステムを構築すると、部数が減少していっても、それに比例させて人件費を圧縮することは難しい。部数が減ったからといって、従来通りの部数を担当できるように、隣の地区まで配達せよ、と配達員に指示することは困難である。結果的に、配達にかかる人件費は、部数の後退とともに割高になっていたはずである。
 あくまでも仮定の話ではあるが、もし『唐津新聞』が朝刊紙への転換を図り、配達と集金の業務を新聞販売店に委託していたとすれば、同紙が小規模な日刊地域紙として存続できる可能性はより広がったことだろう。
 晩期の『唐津新聞』の公称部数は5,000部であったが49)、聞き取りの中では、これは盛期の実売部数の水準に近い数字であったという見方が聞かれた。既に述べたように、『唐津新聞』の公称部数は最盛期のピークにおいても6500部であり、この見方は、やや強気な印象は与えるが、一応の整合性はあるように思われる。旧・唐津市域の人口は昭和30年代以来 8万人弱の水準で推移してきたが、世帯数は核家族化の進行で増加傾向にある。仮に、5000部の実売部数があったとして、昭和30年代の1.5万程度の世帯数をベースとすると、『唐津新聞』の世帯普及率は3割台、平成に入ってからの2.5万程度をベースとすると、およそ2割という水準になる。
 一般的に、新聞の経営は、発行部数が多いほど、また、配布域における普及水準が高いほど、安定しやすい。有力な日刊地域紙の中には、世帯普及率が5割を大きく超えている例が多い。発行部数が比較的少なくても、配布域における世帯普及率が高い新聞は、地域からのニーズが強く、経営的にも安定しやすい。たとえ部数自体が少数にとどまる場合でも、世帯普及率が一定の水準を超えれば(たとえば、一つの目安として5割を超えるような状態になれば)、死亡記事などを通して地域社会のニーズをしっかりと掴むことが可能になり、経営基盤は安定する。
 『唐津新聞』は、その最盛期において3割程度の普及水準に達したものの、その先へ普及率を押し上げきれないまま、地域経済(特に中心市街地の小売業)の後退に直面し、タイミングを誤った値上げによって部数の急減を招いて廃刊に至った。
 日本ABC協会会員となって発行部数の公査を受けている地域紙の中で、配布域の人口規模が『唐津新聞』と似た例を見ると、『紀伊民報』(和歌山県田辺市)は2008年4月現在で田辺市内で21,724部、6割強の世帯普及率にあり、市場規模がさらに小さい『南海日日新聞』(鹿児島県奄美市)も奄美市内で11,711部、6割弱の普及水準にある50)。こうした数字を見比べれば、『唐津新聞』の普及水準は、安定した経営が維持できる程度に達することはなかったと見ることができる。


おわりに

 I章の冒頭で述べたような立地条件に恵まれた唐津は、日刊地域紙の成立には比較的好条件が揃った地域であった。山田(1985)の基準を単純に当てはめれば「不安定発行地」に当たるが、実際にはそれよりも安定した経営基盤があったと考えて良い。しかし、他方では、唐津市の経済状況自体が、戦後の経済成長の中で周辺地域に比べて出遅れたまま現在に至ったことは、『唐津新聞』にとっても不利な側面であった。その意味では、『唐津新聞』は地域経済の落ち込みと運命をともにした、と見るべきかもしれない。
 『唐津新聞』の最盛期においても、その後においても、地域政界の有力者としての宮崎芳郎社長(会長)の存在は、地域社会において『唐津新聞』のカラーとして広く認識されていた。それは『唐津新聞』の強みであったと同時に、実際に紙面の内容が中立公正な報道姿勢であったとしても、一定の偏向したイメージを生み、普及率の頭打ちを招いていたという見方も可能である51)。その意味では、宮崎が市議会議長を退いた段階から(1967年)、あるいは、宮崎と懇意であった実力者・保利茂が死去したときから(1979年)、『唐津新聞』の衰退は始まっていた、とさえ言えるのかもしれない。
 21世紀を迎え、日刊地域紙に限らず、新聞、あるいは、紙媒体一般は、インターネットの登場に代表される新しいメディア間競争の環境の下で、厳しい事態に直面し、生き残りをかけて模索を続けている。若い世代のインターネットへの傾斜が地域紙を含めた新聞の購読習慣にどのように影響を与え得るのか、議論はまだまだ先が見えていないが、従来通りの経営形態、紙面構成で、事業が安泰と考えている新聞経営者はいないだろう。その意味では、『唐津新聞』のインターネット事業が、一般的に見ればかなり遅めに、廃刊の一年少し前からようやく立ち上がり、現在ではインターネット上の「唐津新聞ニュース」が『唐津新聞』の題字を掲げる唯一のメディアとなっているというのは、何とも皮肉なことである。
 本稿で省察した唐津市における地域紙の盛衰の経緯が、現状における日刊地域紙にとってどのような示唆を与え得るのかは、読者の解釈に委ねるとして、『唐津新聞』を失った今後の唐津市の地域社会が(あるいは、既に末期の『唐津新聞』が地域社会にとってとるに足らない存在となっていたのであったら、既に現在の唐津市の地域社会が)、どのような地域コミュニケーションの形態を模索していくのか(いるのか)、という問いは、今後に残されている。日刊地域紙という形態が、20世紀という世紀に殉じて消え行くべきものなのか、21世紀のメディア間の棲み分けの中で確固たるニッチを見出せるのか、あるいは、21世紀の地域コミュニケーションは、いかなるメディアを、どう使い分けていくのか、問い続けられるべき課題は尽きない。

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1) 本文中の年号の表示については、明治から昭和20年までの範囲を西暦と元号の併記とし、戦後については西暦のみの表記とした。
2) 山田(1985)は、当時、東北地方において日刊地域紙が成立していた都市の分析から、全国紙や県紙といった「主読紙」の配布競合状況の地域性とともに、県都からの道路距離で捉えられる位置と人口で捉えられる都市規模といった地理的条件が、中小都市における日刊地域紙の存否に深く関わっていることを論じ、特に、全国紙の配布構成比がおよそ50%以上、県都からの道路距離が100km以上、人口5万人以上の都市で、「一般に安定した高普及率の日刊地域紙が成立する」こと、また、全国紙の配布構成比がおよそ30%以上で新聞全体の世帯普及率が95%以上、県都からの道路距離が30km以上、人口5万人以上の都市には、「日刊地域紙が成立する可能性がある」ものの不利な条件を抱えた「不安定発行地」となることを示した(pp107-108)。
 唐津市は、県都・佐賀市から道路距離で40kmあまり、人口は戦後最初の国勢調査である1950年の時点で5万人を超え、平成の大合併で市域が拡大した現在では12万を超えている。山田(1985)の基準に当てはめるなら、「不安定発行地」の例と見なすことができる。
3) 佐賀県の新聞史を包括的に記した難波(1956)は、「大正初期の新聞乱立時代」という節の中で、当時の『唐津日日新聞』に関して次のように述べている。  「元来唐津地方はいわゆる松浦党の根拠地で、明治以前は小笠原藩として佐賀の鍋島藩と相容れないものをもっていた。このシコリは同じ佐賀県に編入されてもすぐ解消するはずがなく、油と水のようにとけ合わないものをもっていた。それが新聞の上にも現われて、佐賀市の新聞は唐津地方には伸びなかった。この特殊地盤によって「唐津日日」は地道な経営を続けていった。」(p451)  佐賀藩は、幕藩体制下では外様の鍋島氏が一貫して藩主であり、幕末にはいわゆる薩長土肥の一角を担って、明治政府にも多数の人材を輩出した。唐津藩は、初代の寺沢氏は外様であったが、以降は、譜代である大久保、松平、土井、水野、小笠原の各氏が、それぞれ数十年の治世で交代し、幕末には佐幕派として戊辰戦争に深く関わった。
4) 山田(1999, 注10)参照。
5) 石井(1977)『明治・大正の唐津』は、1967年から1972年に唐津商工会議所の機関紙『ニュース』に、石井忠夫が「山中海太郎」の筆名で連載した「思い出のトピック」を、石井の死後にまとめて冊子としたもの。初出は未見。
 石井忠夫(1887-1974)は、蓮池町(現在の佐賀市の一部)生まれ。1910(明治43)年に早稲田大学を卒業し、1911(明治44)年に唐津を本拠地とした『西海新聞』の佐賀支局勤務の記者となり、1912(明治45)年に唐津本社勤務となって以降は1919(大正8)年に『西海新聞』を退職して以降も、終生唐津に居住した。『西海新聞』退職後は、電器販売などを自営しながら地域の政治やジャーナリズムに関わり続け、1931(昭和6)年2月には『松浦毎日新聞』を創刊したが、これは半年もたずに廃刊となった。その後いくつかの企業経営を経て、1941(昭和16)年から1955年まで唐津市立図書館の館長を務めた。
 以上、石井の経歴は、石井(1977)の「著者略歴」(ページなし)に加え、同書所収の石井自身の文章や、関係者の寄稿を参照した。ただし、市立図書館長の着任時については、岸川欽一の寄稿(ページなし)が「唐津図書館には昭和十六年に入り、十九年より三十年まで館長を務めておられます」と記しており、「著者略歴」の「唐津市図書館長(自昭和十五年、至同三十年)」と食い違っていたため、唐津市近代図書館に確認した所、1961年に当時の唐津市立図書館が発行したパンフレット「創始五十年の歩み」にある歴代館長の記載に「石井忠夫(昭和十六年―)」とあるのを根拠に、1941(昭和16)年という回答を得たので、ここではそれを尊重した。1940(昭和15)年に、いきなり館長ということではなく図書館に入り、1941(昭和16)年からは館長職(あるいはそれに準じる事務取扱い等の職)にあったと考えるべきであろうか。
 なお、石井(1977)はネット上に全文が公開されている。
http://tamatorijisi.web.fc2.com/isiibon.html
6) 『佐賀県大百科事典』(佐賀新聞社,1983)には、「唐津新報」が立項されている(p157:執筆・尾形善次郎)。そこには「定価は一銭五厘」とある。これは創刊後に値下げしたのかもしれないが、この記述自体の根拠も特に示されておらず単なる錯誤とも思われる。
 なお、『唐津新報』の創刊の日付について、松代(1925=1973)『東松浦郡史』には、これを「二十九年七月四日」とする記述がある。あるいは『唐津新報』創刊号の日付の記載に関わらず、実際に発行されたのがこの日であったということかもしれないが、この記述自体の根拠も特に示されていないので単なる錯誤である可能性が高い。
 なお、松代(1925=1973)はネット上に全文が公開されている。
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/higasimatuuragun.html
7) 『唐津新報』についての石井(1977,pp106-108)の記述には、創刊号のほか、第二号(7月5日付)、第四号(7月25日付)、第七号(8月25日付)、第九号(9月15日付)の紙面内容への具体的な言及があり、これらの紙面の現物を目の前において原稿を執筆している可能性が高い。
 『佐賀県大百科事典』(佐賀新聞社,1983)の「唐津新報」(p157:執筆・尾形善次郎)の項には「初号は約八〇〇部、七月五日の第二号は一四〇〇部程度に増刊した」とある。
8) こうした論点からの記述をいくつか例示しておく。
 (日清戦争について)「ともあれ、従軍記者の苦心の結晶である戦況報道は、はじめて外国との戦争を経験する人々にとって、熱狂的な関心をさそうものとなった新聞の紙数[ママ]は、各紙とも急増した。一八九四(明治二七)年の内務省統計報告に現われた一年間の発行部数から一日あたりの発行部数を推算すると、第一位は「大阪朝日新聞」九五、〇〇〇で、以下「大阪毎日新聞」六四、〇〇〇「東京朝日新聞」五五、〇〇〇「万朝報」四八、〇〇〇の順であった。わずか二年前の一八九二(明治二五)年には「大阪朝日新聞」は六三、〇〇〇にすぎなかったし、「大阪毎日新聞」にいたっては二一、〇〇〇をかぞえたにすぎない。」(岡,1969,p62)
 「新聞事業は戦争のある毎に発達するという通念を決定的にしたのは日露戦争であった。また国民の新聞購読欲は戦争によって刺激されるものであるから戦時中に発行部数の増加を見たのは日清戦争以上に激しかったのである。しかし、それだけであるならば戦後になれば激しい反動が来るはずであるけれども、右の「通念」はただ単に戦争そのものが読者をふやし、それが事業の繁栄の唯一の原因だと解しては間違いである。日清、日露の両戦争は、いずれも日本の商工業の画期的躍進の契機となったことは事実である。いうならば、これによって人々が都市に集中し大衆購買力が増大して行く、そして直接商工業との関係からいうならば新聞紙による広告宣伝の力によって需要が激増したことが新聞企業発達の基礎的条件をなしているといってよい。」(伊藤,1960,p298)
 なお、日露戦争については、全体的な部数拡大のみならず、当時の東京の各紙の間でも部数の増減に大きなばらつきがあったのに対し、大阪から進出した朝毎両紙が東京で大きく部数を伸ばしたことが指摘されている(伊藤,1960,pp298-299)。
9) 日清・日露戦争と地方新聞の伸長との関係については、小野(1961)に次のような言及がある。
 「政党と政党新聞の弾圧によって減少した地方の新聞は、政党の復活によって次第に増加し明治二十五、六年頃には県庁所在地には一紙乃至二、三紙を有するに至った。日清戦争は大都会同様これらの地方紙にも影響を与え、大都会紙の号外頒布圏外にある新聞は相当その発行部数を増加した。なかでも九州の新聞はその発達最も著しく、「福岡日日新聞」のごときは動かすべからざる基礎を築いた。」(小野,1961,p63)
 「地方新聞界も日清戦争後の好景気に乗じて、中小都市に実業界の支持する多数の新刊紙があらわれた。日露戦争によりこれらの新聞は皆一斉に発行部数の増加を見、久しく振るわなかった東北、北海道地方にも新聞の続出を見るに至った。すなわち仙台の「河北新報」「秋田魁」「北海タイムス」などが発展したのはこの時であった。」(小野,1961,p77)
 ここには、県庁所在地よりさらに小規模な都市への直接の言及はないが、例えば1901(明治34)年の電報通信社の設立に代表されるように、日清・日露戦争を契機として、地方新聞社に記事を提供する通信社が活動し始めたことなども考え合わせれば、唐津のような地方小都市においても、日刊紙成立への追い風が吹いていたものと思われる。
10) 難波(1956)は、この合併について次のように述べている。
 「この頃新聞ブームに乗って現れたものに「唐津日日新聞」がある。同紙は大正三年十月草場猪之吉、岸川善太郎氏らの唐津新報と、原孝徳氏らの西海新聞が合併して唐津日日新聞と改題して発刊された。富永[金堅]之助氏が理事兼主筆として経営に当った。」(p451)
 一方、当時『西海新聞』の記者であった石井(1977)は、同じく次のように述べている。
 「その内、はげしかった水力火力の問題も曲りなりに落着がついたが、大正三年十月、弁護士阿部清氏が仲介して両新聞合併が成立、氏名を唐津日日新聞とし、西海新聞社で統一執務することとなった。責任者は阿部氏を始め、富永[金堅]之助、原孝徳、瀬倉亀才、渡辺賢助、宮原嘉太郎其他であったが、初めの結合が結合だけに、意志の統一を欠ぐ[ママ]こと多く、いつの間にか次第に離散、最後に富永氏が一人社長として仕事を統一することになった。」(pp109-110)
 一方、『新聞総覧』では、それまで記載のなかった『唐津新報』について、1914(大正3)年版から1917(大正6)年版まで、4年連続して同一内容の記述が掲載されているが、これは誤記と思われる。
 なお、富永[金堅]之助は、1929(昭和4)年3月から1933(昭和8)年3月までの一期、佐賀県会議員を、1940(昭和15)年から1947年4月までの一期、唐津市議会議員を務めている。
 富永の死後『唐津新聞』1946年11月8日付に掲載されたコラム「あの人この人」における富永の追悼記事(無署名だが、当時の編集責任者・有吉清夫が執筆したものと思われる)では「私がともかくも新聞記者となつたのは、富永さんの手引に負ふところ少くない」とあり、さらに「市長候補に推されたり、郷土人材の第一人者でもあつた富永さんも、政治家としてより、新聞記者としての方に、より闘志を燃してゐたからでもあらう」いうくだりがある。富永が、新聞人に軸足を置きながら、地方政治にも関わった人物であったすれば、戦後に『唐津新聞』を経営した宮崎芳郎は、地方政治に軸足を置きながら、新聞事業に参入した人物であったといえよう。
11) 『唐津日日新聞』の火災は、難波(1956, p451)が1925(大正14)年4月10日のこととしているのに対し、石井(1977,p110)は、1926(大正15)年秋としている。
12) 『佐賀県大百科事典』(佐賀新聞社,1983)には、「肥前日日新聞」が立項されている(p702:執筆・桜木末光)。創刊の日付はその記述による。
13) 難波(1956,p453)は、大正末年の毎日と朝日の北九州への進出が引き金となって、毎日、朝日に地盤を切り崩されつつあった『福岡日日新聞』が佐賀県、長崎県への進出を試みて支局網の整備などにも取り組んだ結果、「それでなくとも弱い地盤に、少ない資本で辛うじて寿命を保っていた佐賀県下の新聞は大打撃をうけた」と述べた上で、唐津の状況について「この頃「唐津日日新聞」も「福日」などの斬りこみと川原茂輔氏の「肥前日日」の攻勢で腹背に敵をうけ、タジタジの経営を続けていた。紙代にもこと欠く窮乏ぶりでときどき臨時休刊する有様であった。」と記している。
 また、1922(大正11)年版の『日本新聞年鑑』(p117)は、佐賀県の状況を概説して次のように記している。「佐賀縣下は福岡、長崎、熊本、大分諸縣の新聞に挟撃されて、太だ振はず、推定部數は佐賀新聞四千、西肥日報四千、唐津日日二千五百、河原茂助君[ママ]新創刊の肥前日日三千を數ふるのみ。他に九州日報の切替版たる佐賀毎日は千五百部を出して居る。」
 有力政治家・川原を背景とした『肥前日日新聞』の存在は、地域の代表紙であった『唐津日日新聞』にとっても脅威だったのであろう。後の『福岡日日新聞』と『肥前日日新聞』の協力関係については、注14を参照。
14) 難波(1956)は、「[川原]氏が衆院議長在職のまま昭和四年五月十九日死亡したのちは田中恭平氏の経営に移ったが、これまた思わしくいかなかった」(p451)とし、後段では「これより先「肥前日日新聞」は昭和七年「佐賀日報」と改題して細々と煙りを立てていたが、間もなく消えてしまった」(p454)とも述べている。
 『佐賀県大百科事典』(佐賀新聞社,1983)の「肥前日日新聞」の項(p702:執筆・桜木末光)によると、川原の死後の『肥前日日新聞』は、1931(昭和6)年6月8日に『佐賀日報』と改題し、一時は『福岡日日新聞』の「添付紙」となったものの1934(昭和9)年2月11日に独立を回復したが、1936(昭和11)年11月からは月刊になり、1938(昭和13)年10月10日付で廃刊したという。難波の記述との年号の不一致に注意。
15) 石井(1977)所収の関係者からの寄稿(ページなし)から判断すると、1931(昭和6)年の『松浦毎日新聞』経営の失敗後、新聞から離れて自営業者であった時期にも、石井は『唐津日日新聞』や『唐津時事新聞』によく顔を出していたようだ。特に、『唐津日日新聞』記者だった井出以誠、『唐津日日新聞』と『唐津時事新聞』で記者を経験した笹本寅の寄稿(いずれもページなし)を参照。
16) 当時、唐津の代表紙であった『唐津日日新聞』は、もともと政友会系の政治家との繋がりもあり、『新聞総覧』などでも、基本的には「中立」とされながら、年度によっては「政友会系」と評されている例もある。『唐津日日新聞』のそうした背景にもかかわらず、萩谷町長が旗幟鮮明な政友会系の機関紙を設けようと試みた背景には、萩谷町政〜市政に対する批判が多く、「中立」を標榜する『唐津日日新聞』も批判に傾斜していた。といった事情があったものと思われる。
 石井(1977,p112)は、萩谷町長が政友会系機関紙の創刊を画策したことを説明した上で「時あだかも唐津日日新聞[ママ]は財源難におちいっていた頃だったので、丁度好期[ママ]とばかり唐津時事新聞十周年を機会として、小関社長其他が勇退し、萩原氏他政友会有志が堂々と名をつらねて華々しく発行したが、予期しなかった色々な問題が出て来て、永続出来なかった」と述べているが、最初の方で出てくる『唐津日日新聞』は、文脈からすると『唐津時事新聞』の誤りである可能性もある。
17) 唐津新聞社(1979,p138)には、戦後『唐津新聞』の経営に関わった山下芳雄の経歴に触れる中で「昭和三年・日本大学専門部中退、同年、唐津日々新聞社に入社した。同九年には、唐津新報の編集兼印刷発行人となって主宰したが…」という記述がある。これは、1934(昭和9)年の段階で、(『唐津時事新聞』改題の)『唐津新報』が存在していたことを示唆するものである。
18) 『日本新聞年鑑』に、『唐津日日新聞』の記載があるのは1940(昭和15)年版までであり、1941(昭和16)年版の佐賀県についての概説部分では「又唐津市(人口三萬二千)に唐津日日新聞あり東松浦郡方面の特殊な地盤による活躍してゐたが十四年十一月佐賀日日の合併する處となつた」とあり、『佐賀日日新聞』の記事末尾には「十四年十一月唐津日日新聞を合併す」と記されている(p98)。さらに、上記の概説部分の続きには「本縣の新聞統制は十四年八月縣の方針により月刊、週刊全部を廃刊せしめ、ついで唐津日日の廃刊となり一段落をつげたが、尚近き將來に一縣一紙が問題化するに至るであらうと見られてゐる」とも記されている(p98)。
 しかし、これに続いた1941(昭和16)年版(p127)と1942(昭和17)年版(p126)の『佐賀合同新聞』の記事には、沿革の最後の部分(両年版とも同文)に「更に昭和十六年五月佐賀日日新聞、唐津日日新聞と合併し佐賀合同新聞と改題す」と記されている。これを踏まえると、『佐賀日日新聞』による『唐津日日新聞』の買収後も、『唐津日日新聞』の題号はそのまま用いられていた可能性が高いように思われる。
19) 戦後の日本新聞年鑑の「全国新聞・通信要覧」は、協会非加盟紙へのアンケートの回答をまとめたものであり、非加盟紙の動向が網羅的に捕捉されているわけではない。『唐津新聞』についても、紙名と所在地等の簡単な情報が掲載された年度もあれば、掲載されていない年度もある。創刊日について、理由は不明だが、日付まで明示する場合は1946年2月11日付(1968年度版など)となっている。また、「復刊」という表現が用いられている例(1966年度版など)もあるが、『唐津新聞』にははっきりした戦前の先行紙があったわけではなく、紙名、号数も先行紙を継承したものではないので、この表現は不適切である。
20) 唐津新聞社(1979,p138)によると、有吉清人は、元『唐津日日新聞』記者(1922(大正11)年入社)で、「大毎唐津通信部記者」を経て、「日刊唐津新聞社創立事務所」に参加したとされている。一方、『唐津新聞』1948年12月3日付の死亡記事には、『唐津日日新聞』勤務の後、『佐賀日日新聞』記者を経て、戦時中は「大毎伊萬里支局員」であったとある。
21) 唐津市近代図書館に所蔵されている『唐津新聞』は、原紙を冊子体に仮製本した合本の形で保存されているが、数カ月分の冊子ごと欠落している部分もあるし、日付や紙齢の表示から判断すると、冊子から欠落している号も少なくないものと思われる。合本に際しては、紙面の一辺が綴じ込まれて読みにくくなっている上、他の三辺は裁断されており、その結果号数や日付が読みにくく、あるいは全く読み取れなくなっているものも多い。
 なお、こうした「合冊製本」での新聞資料の保存は、現実には止むを得ない面も強いが、「現実には、「保存」というより、「破壊」に近い資料管理法である」(西野,2004,p10)といった手厳しい批判もある。
 また、号数については、一部に明らかな誤記も認められる。誤記があった場合、その後の号で本来の号数に戻される例もあれば、そのままにされる例もある。さらに、当時は、発行実績がなくても、号数表示を操作することで安定して発行しているように装う行為がかなり行われていた可能性があり、号数表示を鵜呑みすることは危うさもある。
 号数表示からの刊行頻度の推定は、以上のような限界を了解した上で行われるべきことである。
 近代図書館所蔵の『唐津新聞』で最も古いものは、1946年6月1日付第26号である。2月14日の創刊から3ヶ月半で25号が刊行されたことになり、週あたりに換算すると、ほぼ1.6日になる。
 また、6月以降は、毎月20日分以上の紙齢が積み上げられており、所蔵されているものとしては1946年の最後にあたる12月17日付第176号まで、(号数表示を鵜呑みにするなら)200日間に計151号が刊行されたことになる。これは、週あたりに換算すると、ほぼ5.3日になる。
22) 唐津新聞社(1979,p138)には、宮崎の経営権取得を「戦時統合で佐賀新聞に合流した唐津日々新聞の旧社主で、その復刊を志した富永[金堅]之助氏の遺託を受けた宮崎芳郎が、経営を継承して業務執行社員となった」と、それまで新聞事業と直接の関係がなかった宮崎による経営を、1946年11月に死去した富永の「遺託」として位置づける記述がある。
23) 唐津(旧・鬼塚村)出身で、衆議院議長などを歴任した保利茂(1901-1979)を追悼する文集の中で、宮崎芳郎(1985)は、1944(昭和19)年の保利の最初の立候補(補欠選挙=翼賛会推薦候補=無投票当選)を地元・唐津から仕掛けたのは、富永[金堅]之助、宮崎治吉と自分であったと述べている。この時点で宮崎芳郎は市議会の議席を持っていなかったが、富永と宮崎治吉は市議であった。市議会を離れていた時期も、宮崎芳郎が地元政界の有力者であったことが察せられる。
 また、宮崎と保利の個人的な繋がりは、唐津新聞社と保利の繋がりとしてその後も永く続くことになった。保利の寄稿は『唐津新聞』元旦号に定番として掲載され、他の機会にも保利の動静は紙面に反映された。さらに、実体を伴ったものであったのか定かではないが、『日本新聞年鑑』1968年版の「全国新聞・通信要覧」の『唐津新聞』に関する記述では、唐津新聞社の東京支社の所在地が「保利茂方」となっている(p494)。
24) 市制60周年の際に出された『唐津新聞』1992年4月23日付の紙面には、「唐津市政担当60年の顔」と題して、歴代の市長・助役、市議会議長・副議長・市議の網羅的な名簿が掲載されている。それによると、宮崎はその後、1967年に勇退するまで議席を守り、第5期から第8期まで(1951-1967)の16年間は市議会議長の職にあった。
 なお、唐津市史編纂委員会(1962, p1058)の「歴代市議会議員」の詳細な記載には、戦前の第1期、第2期の市議の名簿には「宮崎芳郎」の名はなく、代わって「宮崎芳五郎」の名がある。この「宮崎芳五郎」は、第1期(1932(昭和7)年1月21日-1936(昭和11)年1月20日)は任期満了までひと月余りを残して1935(昭和10)年12月11日に退職しており、第2期(1936(昭和11)年1月21日-1940(昭和15)年1月20日)も任期満了まで二年近くを残して1938(昭和13)年4月25日に退職している。詳しい事情は分らないが、この「宮崎芳五郎」は、上記の「唐津市政担当60年の顔」では「宮崎芳郎」に置き換わっており、また、他の場所での宮崎の経歴(例えば、『唐津新聞』1992年4月21日付の死亡記事)でも第1期から市議であったことが記されているので、「宮崎芳五郎」と「宮崎芳郎」は同一人物である。したがって、宮崎芳郎は、戦前から通算するとほぼ26年間市議を務めたことになる。
25) 『唐津新聞』1950年2月23日付「社告」は、新活字を「六ポイント三扁平」と紹介している。新聞用に広く用いられていた扁平活字を調達したということである。
 ところが、「社史」(唐津新聞社,1979,p137)には、これと矛盾する記述がある。1948(昭和23)年度の段階で『唐津新聞』は「平版印刷機一台」しか印刷機を所有していなかったというのである。もとより、活字を用いる印刷は凸版印刷であり、平版印刷ではない。
 実際の当時の紙面を見た印象でも、この時点での印刷方法は平版印刷ではないように思える。
26) 日本新聞協会は、『唐津新聞』のような非加盟紙に対して、何等の統制手段ももっていなかったはずである。文面には「日本新聞協会会員社は、三月度より向う三ヶ月間、一週二回タブロイド判を発行し、その節約による余剰用紙を自主的に提供することになりましたが、司令部とも(注GHQ)協議致しました結果、貴社に対しても御節約を願い、全国児童の為に犠牲を払って頂き度存じます.大変厚顔しいお願いでございますが、右趣旨を御諒承の上、何卒、司令部よりの希望並びに当方の……」とあったそうだが、実質的に非加盟紙に何かを求めているというより、GHQ向けのポーズとして出された文書であるように感じられる(唐津新聞社,1979,p136)。
27) 唐津市近代図書館が所蔵する『唐津新聞』の紙面は、合本に際して紙面の三方が裁断されているため、もともとの正確な紙の大きさは確認できない。近代図書館が所蔵する『唐津新聞』の現物の中では、1950年7月23日付が、この大きさで発行された最初であり、その後は従前のタブロイド判に戻ったが、8月8日付以降はこの大きさが定着した。『唐津新聞』は、1953年2月3日からブランケット判に移行するが、それまではこの、タブロイドとブランケットの中間の大きさで新聞が刊行されていた。
 当時の紙面の大きさは、明らかにA3判よりも大きいのだが、『日本新聞年鑑』1953年版の「日本新聞協會非加盟主要新聞・通信一覧」の「一般日刊紙」『唐津新聞』の記載では、判型は「A3」とされている(p476)。
 なお、1951年、台風ルースの直撃で唐津が大きな被害を出した際には、例外的にA4切をさらに半分に裁断した用紙で、10月16日付が印刷された。このときは「十四日夜からの颱風ルースによる停電のため新聞印刷不能になりましたので本社では人力印刷によりこれを克服發行することにしました。右の事情で本日は紙面が狭少になりました點惡しからず御涼承[ママ]下さい電力復舊次第明日から平常通り發行します」と「社告」が出された。
28) それまでのタブロイド判10段制であった時期は、2頁建の一面の下2段が広告というのは一貫していたが、二面下の広告段数は、時期によって変化があった。創刊後しばらくは二面でも段数は2段であったが、1946年秋以降は3段が定着し、1948年ころには4段が多くなり、判型拡大前の1950年には5段という例もしばしば見られる。判型拡大の背景には、広告が順調に入るという手応えがあったのであろう。
29) 坂本について、「社史」は「坂本氏は、一貫して唐津地方の言論界で活躍し、晩年はその重鎮だったが、四十四年三月三日に自動車事故で負傷し、再起できぬまま、同年十二月に退職後死去した」と記している(唐津新聞社,1979,p138)。
30) 一般的に、公査を受けていない新聞の公称部数は、あまり当てにならないことが多い。広告効果を広告主にアピールするため、新聞は実態よりも部数を誇大に表明したがるものであり、実態に若干の数字を上乗せしたという程度のものから、実態の数倍の数字に膨らんでいる場合まで、いろいろな例がある。この時期の実売部数を推測することは、単なる推測以上のものではなく、危ういが、聞き取りの中で聞かれた「晩期の公称部数であった5,000部は最盛期の実売部数に近い」という見解には、他の状況と考え合わせても整合性が認められるように思われる。
31) 唐津市の戦後期の財政問題については、『唐津市史』第六編現代 第二章政治 第三節戦後市財政の推移(唐津市史編纂委員会,1962, p1080-1103)に詳しい。1955年12月に地方財政再建促進特別措置法が制定されると、唐津市は1956年3月に再建の申し出を行い、4月には指定を受け、9カ年計画での財政再建に取り組んだ。その過程でも、その後も、競艇事業特別会計の繰出金は唐津市にとって貴重な財源となった。
32) 唐津市への競艇事業の導入と、その後の経過については、全国モーターボート競走施行者協議会(1970)『競艇沿革史』所収の「唐津市」(pp710-726)、「社団法人佐賀県モーターボート競走会」(pp727-743)の項に詳しい。
 唐津競艇は、当初は松浦川河口付近の水面を利用して開催されていたが、競艇には好ましくない環境条件もあり、またそれがきっかけで1969年に判定をめぐるトラブルから騒擾が起きるなどしたため、1975年に松浦川河口から3キロメートルほど上流に遡った右岸側に、現在の競艇場が建設された。
 『唐津市史 現代編』(唐津市史編さん委員会,1990)の記事、「唐津競艇場でファンが暴徒化」(pp256-258)、「新競艇場がオープン、上々のスタート」(pp465-466)なども参照。
33) 『競艇沿革史』(全国モーターボート競走施行者協議会,1970)は、唐津新聞の報道例として、1952年1月11日付「軍配は何れに?モーターボート競走場誘致に両者猛烈なる争奪戦を展開」(p734)を挙げたり、1954年新春のレースが記録的な売り上げを達成したことを「地元、唐津新聞は「新春最大の贈り物」と題して、何回も掲載し、競艇事業の成功を市民とともに喜んだものであった」などと紹介している。このほかにも、競艇導入案の時点から『唐津新聞』はコラムや記事で競艇に言及することが良くあった。例えば、1951年11月14日付のコラム「もんだい」「競輪場と競漕場(二兎を追う唐津市)」、1953年1月30日付のコラム「もんだい」「競艇場決定まで 腹を据えた市長」はそうした例である。実際に競艇が開催されるようになってからの『唐津新聞』には、競艇の普及を意図したような記事も載るようになった。例えば、1954年3月2日付から連載された「本社主催 選手を圍んでの競艇座談會」は、選手7名、競走会の理事長、専務、事務長、競技委員長、審判長、市議会競艇委員長、市役所競艇課課長、宣伝主任に、『唐津日報』から宮崎社長、山下専務、坂本編集長らが参加するという大規模な企画であった。
34) 『日本新聞年鑑』「全国新聞・通信要覧」の『唐津新聞』についての記載では、1955年版(このときは「全国新聞・通信一覧」)以降、判型を「B3」と表してることが多い。
35) 宮崎社長が市議会議長であった1967年ころまでの元旦号の一面は、県知事、代議士、市長、県会議長、そして社長であり市議会議長である宮崎自身の寄稿などで埋められていた。この紙面構成の特徴は、その後は徐々に変化していったが、宮崎社長の年始挨拶の掲載は、会長となったあとも、1992年(没年)まで続けられた。
36) 1966年2月7日から、唐津市城内地区の住居表示が改められ、新たに東城内、西城内、北城内、南城内、大名小路と、新町名が作られた。それまで唐津市城内西338番の1だった、唐津市役所の所在地は、唐津市西城内1番1号となった(唐津市史編さん委員会,1990,pp133-134)。唐津新聞社の移転は、この新たな住居表示の開始にタイミングを合わせたものであった。
37) 戦前や、戦後の早い時期には、全国紙や県紙の夕刊の配達がない地域などを中心に、通信社記事を利用して全国ニュースや国際ニュースも盛り込んだ紙面づくりをする日刊地域紙が多数存在したが、その多くは、テレビの普及時期に衰退するか、紙面改革を行って地元ネタ中心の紙面づくりに転換することになった。山田(1984)で論じた、宮城県石巻市の例では、戦前の『石巻日日新聞』、戦後の『石巻新聞』は、そうした「マスコミ機能代行型」の事例である。
38) 唐津ケーブルテレビジョンは、その後も永く生協組織がケーブルテレビを運営する全国唯一の例として知られ、ケーブルテレビの番組コンテストなどでも度々入賞するなど全国有数の良質なケーブルテレビ局であった。しかし、2001年には生協組織を解消して、株式会社に移行し、インターネット関連事情にも乗り出して現在に至っている。
39) 日本新聞協会は、比較的近年に至るまで、日刊地域紙の加盟には消極的な面があった。実質的な加盟の目安として1万部超の部数が条件となっていた上、県紙の反対などがあるとなかなか加盟が実現しないというのが実情だった。共同通信準会員となるために、早くから協会加盟紙となった『石巻新聞』(1998年廃刊)などは、実態としてこの目安を下回る部数しか持っていなかったため、共同通信準会員、協会加盟の地位を維持するために、実態から離れた誇大な公称部数を表明し続けなければならなかった。
 各地の記者クラブでは構成員となる要件に協会加盟紙(放送局)であることを定めているのが普通で、雑誌記者やフリーライターはもちろん、協会非加盟紙の記者が記者クラブでの取材から締め出されている例は少なくない。長野県のように、非加盟紙の多い地域では、こうした加盟紙の記者クラブとは別に、非加盟紙は別のクラブを作って取材に当たっている場合もある。
40) 通常、年内最終号は12月28日付、新年最初の通常号は1月4日付なので、元日号は一週間近い間隔の中頃で配布されることになるが、そこには、速報性のあるニュースはいっさい載っていない。
 なお、『唐津新聞』は、年末年始の他、盆と「唐津くんち」の祭礼期間中にも休刊していた。
41) 廃刊後、輪転機をスクラップとして売却して搬出する際には、出入口の扉の枠を破壊して曵き出さなければならなかったという。印刷機を搬入した際には、分解して持ち込み、組み立て直したのであろうか。
42) 宮崎芳郎社長から見れば、宮崎五郎副社長は息子、時津規美生常務は姻族にあたる。時津常務は、「編集主幹」であったが、コラムの執筆などは積極的に行ったものの紙面編集の実務にはあまり関わらなかったらしい。  なお時津常務は、地元では古代史研究家としても知られており、『高天の原は唐津だ』と題する著書(時津,1976)を唐津新聞社から出版している。
43) 1983年に筑肥線の付け替えが行われると、筑肥線と福岡市営地下鉄で福岡市への連絡が大幅に改善された。その後、福岡との間の道路連絡の高規格化が進むと、高速バス路線が競争力を持つようになった。特に、2001年に西九州自動車道と福岡都市高速道路が接続されると、福岡の都心部まで、一時間余りで到達できるようになると、高速バスの利用が急増した。現在、唐津の住民が公共交通機関で福岡に出かける場合は、割引率の大きい回数券を利用して高速バスを利用するのが一般的になっている。
44) 具体的なデータはないので、あくまでも一つの仮説に過ぎないが、かつて『唐津新聞』の最盛期に購読習慣のあった読者が高齢化し、退職などを機会に家計の見直しを迫られるタイミングで、2回の値上げが重ねられたため、結果的に『唐津新聞』の購読をやめてしまう例が増えてしまった、という説明も可能であるように思う。
45) 唐津新聞社は、1980年代から、集合チラシの企画発行を行っている。現在は、カラー印刷の「タウンタウン」(毎週金曜日)と、単色の「サンデーからつ」(毎週日曜日)が発行されている。こうした集合チラシの企画・編集は、『唐津新聞』の編集とは全く切り離されて、営業部の中で処理されていた。内容は、あくまでも広告を集めた「集合チラシ」であり、「生活情報紙」「フリーペーパー」とは言い難い。
46) 現在では『唐津新聞』が存在していないため、「唐津新聞ニュース」の記事・写真はすべて総合通信事業部のスタッフによるものである。フルタイムで取材を行えないため、独自取材に頼るとなると更新頻度は激減せざるを得ない。2008年1月以降の11月までのブログへの書き込み日数は、6-8-11-6-6-4-6-6-4-6-4 とほとんど一桁となっている。
47) 全国紙や県紙が統合版しか来ない地域では、速報性を武器にした夕刊紙が地域紙として成立する例がよくある。特に、テレビの普及が進む以前には、夕刊紙の地域紙が、全国ニュースなど地域外のニュースも速報することを特徴の一つとして成立しやすい状況があった。しかし、時代の流れとともにテレビの普及などによって速報性への需要は後退し、配送・配達の経費はかさむようになった。全国紙や県紙の夕刊がある地域であれば、新聞販売店に比較的低い経費で配達を任せられるが、それがなければ夕刊のみの配達を一般の新聞販売店に求めることは事実上困難であり、必然的に配達体制を内製化せざるを得ない。その負担は、どの地域でも、人件費の上昇とともに拡大してきた。
例えば、戦後間もなく戦前の先行紙を復刊する形で1945年12月に創刊され、1951年3月に夕刊として日刊化した『倉敷新聞』(2000年休刊)は、1986年5月から朝刊紙に転換した。
48) 旧市域でも周辺部の山間部などは、配達区域に入っておらず、若干の部数が郵送で送られていた。
 平成の大合併の結果、2005年1月1日には(旧)唐津市、東松浦郡浜玉町、厳木町、相知町、北波多村、肥前町、鎮西町、呼子町が合併して(新)唐津市が誕生した。翌2006年1月1日には七山村が編入合併となり、現在の市域が確定した。合併によって市域面積はおよそ4倍(127km2→487km2)、人口は8万人弱から13万人弱へ5割増となったことになる。こうした市域拡大を、部数拡大の好機として普及エリアを広げるという力は、晩期の『唐津新聞』には残されていなかったようである。
49) 聞き取りの中では、最晩期には公称部数を3,000部としていたという話も聞かれた。ここでは、ウェブサイト上の表現を優先して5,000部としている。
50) 人口、世帯数は2008年3月末現在の住民登録による。部数は2008年4月現在。なお、『紀伊民報』は田辺市外に15,751部、『南海日日新聞』は奄美市外に10,538部を配布している。
51) 山田(1984)で検討した『石巻新聞』の例でも、社長の県議選出馬が紙勢に不利に働いたものと思われる。


文献

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時津規美生(1976):『高天の原は唐津だ』唐津新聞社,315ps.
難波 栄(1956):佐賀県新聞史.日本新聞協会・編『地方別日本新聞史』日本新聞協会,pp447-455.
西野嘉章(2004):新聞紙・新聞誌・新聞史.西野嘉章・編『プロパガンダ1904-1945新聞紙・新聞誌・新聞史』東京大学総合研究博物館,pp6-11.
松代松太郎(1925=1973):『東松浦郡史 改訂増補版』久敬社,594ps.[復刻版:名著出版社]
宮崎芳郎(1985):初当選のとき.保利茂伝刊行委員会・編『追想 保利茂』保利茂伝刊行委員会,pp439-440.
山田晴通(1984):宮城県石巻市における地域紙興亡略史 −地域紙の役割変化を中心に−.新聞学評論(日本新聞学会),33,pp215-229.
山田晴通(1985):東北地方における日刊地域紙の立地.東北地理(東北地理学会),37,pp95-111.
山田晴通(1999):昭和初期の長野県松本市における小規模日刊紙 −紙面からみた「朦朧新聞」の実態−.人文自然科学論集(東京経済大学),107,pp13-36.

新聞研究所『日本新聞年鑑』各年版[復刻版(日本図書センター,1986)による]
日本新聞協会『日本新聞年鑑』各年版
日本電報通信社『新聞総覧』各年版[復刻版(大空社,1993-1994)による]

 本研究の現地調査に際し、御協力をいただいた多くの方々、特にインタビューに応じていただいた唐津新聞社関係者の諸氏、資料閲覧に便宜を図っていただいた唐津市近代図書館に深く謝意を表する。

 本研究には、2008年度の東京経済大学個人研究費、および、2008年度の東京経済大学個人研究助成費(A08-25)「日刊地域紙における新聞製作技術デジタル化への取り組みについての聞き取り調査」の一部を用いた。
 本稿のテキストは、当研究室のウェブサイト上で公開している。(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html



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