雑誌論文(その他):1999

論文

昭和初期の長野県松本市における小規模日刊紙
−紙面からみた「朦朧新聞」の実態−.

人文自然科学論集(東京経済大学),107,pp13-36.


 テキストと表のみを掲出しております。図(新聞紙面)の掲出は省略しております。
 なお、ページ作成に際しては、原論文の明らかな誤植だけを改め、その他の表現はそのままとしました。訂正した部分は青字としました。
 なお、印刷テキストp24の図2では、『信州報知新聞』『信濃新報』『信濃日報』(十九日付)のキャプションが入れ替わっております。記事と紙名の組み合わせは、本文の記述が正しいものです。ご注意下さい。
■はじめに
■戦前の松本市における小規模日刊紙
■紙齢の表示からみた刊行頻度の推定
■記事の引き写しの実例
■「ハガキ集」における記事と広告の連動
■おわりに


参考文献
謝辞/献辞

英文要旨


昭和初期の長野県松本市における小規模日刊紙
−紙面からみた「朦朧新聞」の実態−1)

■はじめに

 本稿は、戦時統制以前の昭和初期に、長野県松本市において多数刊行されていた小規模日刊新聞を対象として、紙面から読みとることのできる内容の一端を整理しようとするものである。もともと長野県は、県域が山地によって縦横に分断され、盆地や谷筋を中心とした地域ごとに生活圏が自立する傾向が強い。とりわけ、松本市を中心とした「松本平」と称される範囲は、県都・長野市を中心とした「善光寺平」に匹敵する地域として、長野県の中でも大きな位置を占めている2)。長野県におけるメディアの歴史を見ていくと明らかなように、松本市では、長野市に成立する県域メディアに対抗するかのように、地域メディアが成立することが多かった3)。なかでも、戦前期の松本市における新聞の乱立は、他の地方都市に例を見ないほど著しいものであったといわれている4)
 ところが、後述するように、この時期の新聞紙面の現物は、ごく一握りの最も有力だった数紙を除いて、ほとんど残されていない(あるいは、史料として発掘されていない)のが現状であり、実際の紙面の現物に即した紙面分析的な研究は存在していない。明治期の新聞が、いわば例外的で貴重な存在だったために、保存もされ、研究も進んでいるのに対し、大正から昭和初期にかけて、新聞の普及が進んだ時期の紙面は、新聞統制の時代に生き残った県紙を別にすれば、多くが散逸し、忘れられた存在になっているケースが大半である。特に、ここで焦点を当てる小規模な地域紙には、有力紙とは少々違った怪しげな存在が多かったこともあって、従来から研究の対象として取り上げられることはほとんどなかった。
 本稿は、筆者が偶然からその存在を知った松本市の個人蔵の地域紙現物を考察の対象とした研究の一部を成している5)。詳細は後述するが、この紙面の現物は、断片的ながら、多くの情報を読みとることのできる貴重な史料である。本稿では特に、松本市における新聞の歴史に関する記述の中で、従来からしばしば一般的に述べられてきた小規模地域紙の特徴が、具体的にはどのような形であったのかを確認していくことにしたい。なお、本稿で直接言及する紙面は、今回利用できた紙面のすべてを網羅するものではないが、議論を整理していく上では、すべての紙面が何らかの意味で参考になっているものと理解して頂きたい。

■戦前の松本市における小規模日刊紙

 松本市では、1872(明治5)年の『信飛新聞』以降、自由民権運動と関係した新聞や、政党系新聞などが多数興亡を繰り返したが、やがて1894(明治27)年創刊の『信濃日報』と、1899(明治32)年創刊の『信濃民報』が、それぞれ改新党と政友会を背景に成立し、松本市を代表する有力紙として定着するに至った6)。その後、新聞統制によって両紙を合同した『信州日日新聞』が1940(昭和15)年に成立するまで、両紙は松本市の代表紙として、長野や東京など地域外の新聞の販売攻勢の中、一定の部数を保ち続けた7)。この明治末から新聞統制に至る時期は、第三の有力紙として『志な野』が刊行された1925(大正14)年から1928(昭和3)年にかけての短い時期を含めて、両紙が他の地域紙に大きく差をつけ、競い合った「二紙体制」の時代と捉えることができる。しかし、この「二紙体制」の時代にも、松本市で発行されていた新聞は、まだ他に数多く存在した。厳密に言い直せば、松本市で発行しているものとして届けられていた新聞は、『信濃日報』と『信濃民報』以外にも多数あったのである。
 戦前期の小規模な新聞の中には、新聞とは名ばかりで、もっぱら強請、集り同然の行為によって収入を得ていた、「悪徳新聞」、「ゴロツキ新聞」、「朦朧新聞」などと称されるものも少なくなかった。特に、中央の権力の目の届きにくい地方では、この手の新聞が多かったものと思われる8)。戦前の松本市で叢生した多数の地域紙も、その大半は、やはり余り尊敬できるような新聞ではなかったようである。松本市における新聞の歴史には、こうした小規模な地域紙に関係した事件として、1904(明治37)年の「新聞疑獄」と、1922(大正11)年の「小新聞退治9)」が記録されている。
 1904(明治37)年の「新聞疑獄」について、松本市役所(1933,p729)は、次のように記述している。

(……)そは吉田に一失あり酒に対すれば往々にして流連荒亡事を誤る。松本新聞創刊以来諏訪地方に集め得たる資金又悉く其酒資に供され、毫も経営に用ゆる能はざりしに由るものにして、吉田退きて日報に復し、過なかりしの上野出され反て松本新聞に寄る、而も又久しからずして去るや、石塚獨り残塁を死守す、偶ま松本未曾有の新聞社員疑獄事件起り、其影響直に各社に及ぶ。
 何時もながら各社の財政斎く窮乏、特に新興に於て最も甚し。されば、賛助金或は前拂の新聞代金、廣告料金は往々出向したる社員に於いて脅迫強要となり、更に其社に出入りしたる者にして漫に社員と稱し脅迫威嚇に出るあり批難紛々たり。検事局之を聞き注意の中に於て松本新聞社員渡邉治が検事鈴木豊次郎の住宅たるを知らずして不穏の請求を行ひしかば罪跡明白、検事審問せらるゝに従い醜類續出、南信評論・信陽新聞等諏訪より押送せられたるものを加ふれば前後五十七名に及び、軽重の處刑又十餘名に及べり。此内松本新聞實業新報各三四名あり。幸にして日報民報共に一名の被疑者を出さゞりしが、反つて両社の三面記者にして早く踪跡を昧まし、以て其難を遁れしもの三名、遁れて遁れ得さりしもの一名ありき。只事餘りに雑多にして今や明かならざるあり、兎に角省略に従うべし。(……)
要するに、新聞経営者の中に非常にいい加減な人物がいて、人の出入りが激しかったところに、疑獄事件が起こり、多数の新聞社の関係者が摘発されるに至った、というのである。この一件は、『信濃日報』や『信濃民報』についても、行方をくらました記者は出る、くらまそうとして逃げ切れなかった者が出る、という大事件だったようであり、事件から30年近くが経過した時点でも、詳しい経過を記述することには差し障りがあった様子が行間から伝わってくる。
 一方、1922(大正11)年の「小新聞退治」について、松本市役所(1933,pp734-735)は、次のように記述している。
 翌十一年は警察署長小林嘉三郎の小新聞退治に始まる、明治三十七年の打撃に次げる新聞社員の疑獄なり。署長は所謂小新聞に關係ある多くの社員に廣告強請等の續出するを見て、最早寛假す可からずとし、之を一網打盡せんと欲せるものにして、一月決行の手は先づ美篶新聞及市場農蠶新聞に下り、廿九日の拘留に處せられたるもの各二名、将来新聞に従事せざるの誓約を以て免せられたる者両三名あり。而して其手は他新聞にも延び一時二十餘名に及べるが老獪逋脱、結局效は勞を償はず。乃ち方針を變じ小新聞の合同を慫慂せしかば、信濃新報・商工新聞・信濃時報・松本新聞・松本毎日新聞は快く之に應じ、直に松本新聞合同株式會社の計畫を開始せるが、そは只計畫に止まりき。顧みれば大新聞を以て居れる者が、是等の小新聞と伍すること屑とせず、六年の忘年會には朦朧新聞退治の決議を為し、八年の新年宴會には日刊記者のみを以て開かれたり。然れども當初毎月一回又は三回なりしものも、警察の小新聞退治頃は各成長し頭を擡げしかば、最早大新聞の力も之に加ふる能はず、其れだけ又小新聞にも各社立脚の地在りしかば、遂に其合同も協定に至らざりしなり。(……)
つまり、もともと「朦朧新聞」とか「小新聞」とかは廃止すべきだとかけ声だけはかかっていたが、実効が上がらなかったため、警察による「退治」が行われた。しかし、それも結局のところは「效は勞を償はず」つまり、効果がなかったというのである。ここで、効果がなかったと述べているのは、そうした新聞が存続したという意味ではなく、ある新聞が潰れても、それに携わっていた人たちが別の形でどんどん新聞を出す、といったことが繰り返されたということのようである。
 要するに、『信濃日報』と『信濃民報』による「二紙体制」の下にあった明治末から新聞統制期に至る時期の松本市では、両紙以外にも多数の新聞が発行されて(あるいは、発行されていることになって)おり、その大半は、まともな新聞事業であるよりも強請、集り同然の「朦朧新聞」だったのである。そして、こうした新聞は、警察の牽制をくぐり抜け、「二紙体制」の時期を通して、題号別に見れば入れ替わりがあるものの、一定の数が存続し続けたのである。日刊紙だけでも十数紙が登録され、非日刊を入れれば四十紙にもなるという状況は、県内の他の都市に例がないだけでなく、全国的にも特異な状況であった10)
 こうした状況は、やがて「一県一紙」体制に至る新聞統制の中で、小規模新聞への攻撃が徹底的な形で展開されることによって、激変した。既に新聞の整理が始まっていた1939(昭和14)年6月の段階で、「長野県警察部長」名で各新聞社長宛に出された文書(長野県,1988,pp745-746)は、次のような記述で締めくくられている。
(……)今日に於ては同種相重り肩々相摩し、各々の存在意義を相互に抹殺し、不識の間に要せざるを強ひ小範囲に相競ひて大局の人物経済資源節約の国策に悖り、延いては往年の景仰と感謝とを失はるゝなきかを恐れしむる状況をも認められ、業界の為深く惜む処に候、斯る趨勢は勢ひ
一、他人の名誉信用を損し業務の妨害になるがの如き記事を掲げ、或は之を利用して恐喝強談威□に出づるもの、
二、賛助金、寄附金、広告等新聞の威力を巧に利用して強要するもの、
三、申込みを為さざる新聞を配達し、申込みなき広告を掲載して其の代金を強要し、
四、一般に関係なき各方面の暴露記事を掲載して公益性を没却せるもの、
五、不義密通の男女関係並花柳界方面の風俗上好しからざる記事を多く掲載し、
六、一定の発行時期に理由なく発行せず、若は納本のみを発行糊塗するが如き確実性なきもの、
七、記事に権威なく且紙面の過半を広告を以て充すが如きもの
等、新聞紙の使命を没却して世人の顰蹙を買ふものも尠からざるの実情にて、時局に鑑み遺憾此事に有之候、素より各社には各々永き伝統と特異の環境とを有せらるゝの尊重せらるべきは言を俟たざる処に候へ供、宜しく時勢の趨く処を察せられ、新聞紙本来の使命達成の為、或は数社の合併を企図し或は自発的に廃刊統合の実を挙げらるゝ等可然善処相成様致度、茲に微衷を披瀝して観奨を申上ぐる次第に御座候、
ここで、きわめて具体的に列挙されている新聞非難の各項目は、かつての「朦朧新聞」非難と全く重なっている。新聞整理という形で押し進められて新聞統制は、以前から社会に存在した新聞に対する否定的な評価をすくい上げる形で展開されていったのである。
 さて、こうした経過の中で興亡した松本市の小規模日刊紙に関する史料は、管見する範囲では、ほとんど残っていない。公共図書館等で閲覧できる紙面の現物は、皆無といってよい11)。当時の代表紙であった『信濃日報』と『信濃民報』は別として、「朦朧新聞」の類が、保存しておく価値もないものと見なされたことは想像に難くない。
表1 川舩一氏所蔵の地域紙
題 号紙齢発行日刊行
形態
判型(mm)面数備 考
信州報知新聞1741928.07.18.日刊480×3152
信濃新報36701928.07.19.日刊390×2702夕刊。
信濃時報19111928.07.19.日刊315×2304欠損あり。
松本新聞21811928.07.20.日刊400×2752夕刊。
夕刊商工新聞47041930.11.10.日刊390×2752夕刊。切りとり、欠損あり。
岳東タイムス31931.02.01.日刊400×2754
松本毎日新聞47721931.02.03.日刊315×2354
松本新聞28991931.02.03.日刊400×2752夕刊。
高日本921931.03.25.旬刊400×2754欠損あり。
興信新聞921931.03.29.週刊395×2754長野市で刊行。
深志3521931.09.10.日刊315×2304
大衆日報15511932.12.13.日刊315×2304
判型は紙面の縦×横のサイズで実測し、5mm刻みの概数で示した。
 本稿で検討の対象とするのは、筆者が偶然からその存在を知った松本市の川舩一氏所蔵の地域紙現物である。川舩氏所蔵の地域紙は全部で11題号あり、そのうち、長野市で刊行されていた週刊紙1紙を除いて、残り10紙はすべて松本市の地域紙である。10紙のうち9紙が1部ずつ、『松本新聞』が2部含まれている。この中には、月刊・旬刊が各1紙含まれており、日刊紙は8紙9部ということになる(表1)。このうち、『信濃時報』を除く7紙は、1939(昭和14)年の新聞整理まで存続していた日刊紙として記録されているものである。以下、本稿では、当時の小規模日刊地域紙、あるいは「朦朧新聞」と呼ばれたであろう新聞の実態について、これらの紙面から読みとることのできる情報を整理していく。

■紙齢の表示からみた刊行頻度の推定

 先に挙げた「長野県警察部長」名の文書が、「六、一定の発行時期に理由なく発行せず、若は納本のみを発行糊塗するが如き確実性なきもの」という項目を挙げていたことからも察せられるように、「朦朧新聞」の類の刊行頻度は、届出とは必ずしも一致していなかったものと推測される。当時の小規模地域紙は、「日刊」を標榜していたり、題号に「○○日報」といった名をもっているとしても、実際に日刊で発行されていたかどうかはわからないのが実際である。
 ところで、一般に新聞には、「第○○号」といった形で紙齢が記載されている。また、創刊された年月日も紙面に記載されていることが多いし、そうではない場合にも諸々の資料に明記されていることが多い。単純に考えれば、この両者から、その新聞の発行頻度を概ね推定することが可能なはずである。もちろん、「納本のみを発行」するような状態が続いていたりすれば、実態の把握は出来ないし、紙齢の表示に乱れがないとは限らない。また、資料によって創刊年月日に食い違いがあるようなケースや12)、非日刊紙として創刊されたものが途中から日刊化されることもある。このため、事は単純ではないのだが、そうした限界を承知した上で、川舩氏所蔵の地域紙のうち日刊紙は9紙について、その紙齢と創刊年(月日)から刊行の頻度を一律の手続きで推定してみることとした。具体的には、創刊年月日、または、日刊化された日を起点として、紙面現物の日付の日までの日数を概算し、紙齢をその日数で除し、365を乗じて、一年あたりの推定刊行頻度を算出した。ただし、途中から日刊化されたことが、各種資料から明らかになっている『信濃新報』と『大衆日報』については、日刊化の月日までは明らかにならず、また先行した非日刊で刊行された期間が短かったので、紙齢を、日刊化された年の年初からの期間で除すこととした。また、日付の異なる2部が存在する『松本新聞』については、2181号と2899号の間隔に基づいた値も求めた。(表2)
表2 紙齢の表示からみた刊行頻度の推定
題 号紙齢発行日創刊年月日年刊行頻度(概算推定)
信州報知新聞1741928.07.18.1924.08.10.320.8(44.2)
信濃新報36701928.07.19.1908.12.07.
(日刊化 1910)
207.2(1910年初からの期間で計算)
信濃時報19111928.07.19.1917.11.20.179.0
松本新聞21811928.07.20.1919.10.01.247.9
夕刊商工新聞47041930.11.10.1914.08.03.289.0
松本毎日新聞47721931.02.03.1920.12.28.創刊以来の日数より紙齢の方が大きい。
他紙からの紙齢継承か?
松本新聞28991931.02.03.1919.10.01.283.9(2181号からの期間で計算)
深志3521931.09.10.1928.06.01.
(日刊化不詳)
日刊化の時期が不明で,推定できない。
大衆日報15511932.12.13.1927.08.--.
(日刊化 1928)
313.3(1928年初からの期間で計算)
 作業の結果、まず『松本毎日新聞』については、データに問題があることが明らかになった。つまり、『松本毎日新聞』の4772号は、創刊から3500日ないし3700日程度しか経過していない時点で刊行されていたのである。可能性としては、創刊の時点で、既に他紙の紙齢を継承していたことなどが考えられるが、具体的な事情を示す資料がなく、これ以上の推測はできない。また、『深志』については、創刊から数年は月刊として届けられていたことが『長野縣統計書』の記載から読みとれるが、1935(昭和10)年版以降現れた『日本新聞年鑑』の記載にも、日刊化の時期は明記されていない。このため、頻度の推定は出来ない。仮に、同紙が月刊から一挙に日刊化し、年間300回程度のペースで刊行を継続していたのだとすれば、1930(昭和5)年夏頃に日刊化が行われていたはずである。また、日刊化後の刊行ペースがこれよりゆったりしたものだとすれば、日刊化の時期はもっと早い段階にあったことになる。いずれにせよ、『深志』についても、これ以上の推測はできない。
 一方、『信州報知新聞』は、第174号と極端に紙齢が若く、これを他紙と同じように通算の紙齢として計算すると、年に44回という週刊よりも少ない頻度であったことになる。しかし、『信州報知新聞』は、紙面内容から判断する限り、週刊以上の間隔があったとは考えにくい。そこで、この号数を、その年の年初からの号数と解釈し、頻度を推定した。
 こうして推定された年刊行頻度のうち、最も信頼性が高いのは『松本新聞』の2181号から2899号までの期間である。この間、『松本新聞』は、週あたり5.5回のペースで刊行されていたことになり、かなり安定した日刊紙としての刊行を維持していたものと推察される。また、2181号までの時期にも、週あたり4.8回の刊行があったことになり、2181号から2899号までの期間の数値とよく一致している。従って、『松本新聞』に関する数値は全体として信を置いてよいものと判断される。逆に、『信濃時報』の値は、同紙の創刊から初期の段階で非日刊紙として刊行されていたか、発行頻度が極端に少ない時期があった可能性があり、この値をそのまま昭和初期の刊行頻度と断じることは難しい。ただし、日刊化の時期が、ある程度明らかになっている『信濃新報』についての値は、比較的信頼できるものと思われるので、『信濃時報』の値もそれほど無根拠なものとはいえない。
 総じて、信頼の程度にばらつきはあるものの、検討した各紙の中には、年に300回以上という、『信濃日報』や『信濃民報』に匹敵する頻度で刊行を維持していた本来の意味での日刊紙もあれば、週4回程度と、隔日刊に近いものも存在していたものと判断される。もとより、ここで検討の対象とした各紙より、刊行頻度の上で問題を抱えていた新聞が存在した可能性もあろうし、ここでの結果だけで、「一定の発行時期に理由なく発行せず、若は納本のみを発行糊塗する」新聞は実際にはほとんど無かったのだと論じることも適切ではない。しかし、日刊紙として届けられていた小規模地域紙のかなりの部分が、実際に、少なくとも週4回以上のペースでの刊行を維持していたことは、肯定的に評価しておくべきであろう。

■記事の引き写しの実例

 当時の小規模地域紙の記事について、宮下(1965,p232)は、同時期の高踏的な週刊評論紙『大高原』の論客たちの見方を紹介している。
 また、「これらの新聞の記事は大体大楢通信から買ったもので記事など書けるものは少なく、甚だしきに至っては文字も書けぬものが新聞を発行していたのだからその品位は知れたものだ」と石川葉村は当時を追憶して嘆いている。また中島瓢堂は大高原で「松本には近くいろいろの新聞が新に生まれると言はれる。何でも従来の社にいた社員が独立してやる計画らしい。信州人の協力大をなすを知らざる欠点の現れかも知らん。どうせ似たような新聞を出すなら信濃日日の大楢君に原稿を任せて、平野商工新聞あたりを頼んで題字と見出しを取り換えて一まとめに印刷して貰ったらどうだ、その方が経済的で経営も幾分楽にならう」とやゆしている13)
 当時、記事の引き写しが日常的に行われていたことは、半ば常識的に語られているが、具体的にどのようなものであったのかは、必ずしも紹介されていない。川舩氏所蔵の地域紙のうち4紙は、発行日が1928(昭和3)年7月19日前後に集中している。そこで、この4紙の内容を比較検討し、併せてこの前後の『信濃日報』の紙面を参照したところ、典型的な記事の引き写しの例が発見された。以下では、少し性格を異にするものと思われる2件の引き写しの事例について、具体的紙面に即して検討していきたい。


□事例1:「質素になった今年の登山者」

 4紙の中で日付が早いのは『信州報知新聞』である。その一面2段目に次のような記事がある。(図1)
「質素になった今年の登山者 むだ銭は決して使わぬ」
北アルプス登山は愈々最盛期に入り山上は至る處満員の盛況を呈して居るが登山が庶民隊級に普及したのと又一つには財界不況の影響を受けた為か今年の登山者は服装並びに山上の生活状態が驚く程質素で酒ビール其の他の贅澤品は數年前の三分の一も賣れなく案内人や強力も規定の賃銀以外にチップの思想を受ける事が全く稀であると山上の營業者は此の不景氣振りに驚いて居る
(『信州報知新聞』昭和参年七月拾八日、一面)
この日の『信州報知新聞』の紙面は、「燕は乾性 上高地には濕性を栽培 北アルプスの高山植物園」という記事がトップで、他にも「乗鞍に登るなら頂上で一泊しろ 七合目は山櫻滿開」、「全國の青年團代表 檢ヶ岳で登山講習」といった山岳関係の記事が集中的に掲載されている。この一連の記事は、記者が営林署などへ取材に行き、まとめて書き上げたものと推測される。仮にこれら全てが他紙からの引き写しだとすれば、相当量の一連の記事を引き写したことになり、かなり不自然である。したがって、この記事自体は、他紙からの引き写しではなく、『信州報知新聞』の自前の記事と考えてよいだろう。
 最初に記事を載せた『信州報知新聞』は朝刊であるが、この記事と同日の夕方に、翌日の日付で出された夕刊が『信濃新報』である。その一面左上隅の記事は、『信州報知新聞』の記事の露骨な引き写しになっている。新たに追加された情報として、松本駅を通過する登山者云々という部分があるが、それ以外はほとんど一致している。ちなみに、登山者の数に関する記述は、『信州報知新聞』の別の記事の引き写しとも思われる14)
「登山者にも不景氣風」
北アルプス登山は愈よ最盛期に入り松本驛を通過する登山者は連日四百名内外に達して居るが登山が一般區した為と財界不況の影響を受け今年の登山者は服装も質素で山上の生活状態も驚く程節約し酒ビール其他ゼイ澤品は二三年前の三分の一も賣れず案内人や強力も規定の賃銀以外チップを貰ふ事は全くまれであると山上の營業者は此の不景氣振に驚いて居る
(『信濃新報』昭和三年七月十九日、一面)
 しかし、こうした記事の引き写しは、小規模地域紙だけの行為ではなかった。松本を代表する地域紙である『信濃日報』も、同様の行為は日常的に行っていたようだ。『信濃新報』のさらに翌日、20日付の『信濃日報』にも、同趣旨の記事が掲載されている。
「不景氣風が山の上まで吹く チップも少く案内人や強力の嘆聲」
北アルプス登山はいよいよ最盛期に入り松本驛を通過する登山者は連日三百名内外に達してゐるが登山が一般化した為と財界不況の影響をうけ今年の登山者は服装も質素で山上の生活状態も驚くほど節約し酒、ビール其他贅澤品は二三年前の三分の一も賣れず案内人や強力も規定の賃金以外チップをもらふ事は全く稀であると山上の營業者は此の不景氣振に驚いてゐる
(『信濃日報』昭和三年七月二十日、三面)
表現を比較すれば明らかだが、『信濃日報』は、『信州報知新聞』ではなく、『信濃新報』の方を見て引き写している。しかも、数字の一部に食い違いがあるが、ほとんど丸写しに近い。地元の代表紙といえども、記事の引き写しは日常的な営みだったのであろう。


□事例2:「金銭を強要して亂暴」

 次に取り上げるのは『信日報』を含む3紙(朝刊2紙、夕刊1紙)が同じ日付で報じた事件の記事である。(図2)
「裁判審理中の[A:氏名省略]又暴れる 今度は棍棒で脅迫 松本署で厳重取調べ」
松本市駒町米穀商[A:氏名省略](四五)は前後四回に亘り同業市内城西町[B:氏名省略]方へ兇器を持つて侵入し脅喝罪で告訴され松本區裁判所で審理中のものであるが又々十七日午後十時頃こん棒をもつて同家へちん入し二百圓を借せろと脅迫中松本署員に取押へられ目下厳重取調中
(『信濃日報』昭和三年七月十九日、三面)
「米屋の[A:名省略]審理中暴れる」
松本市駒町米穀商[A:氏名省略](四五)は前後四回に亘り同業市内城西町[B:氏名省略]方へ兇器を持つて侵入し脅喝罪で告訴され松本區裁判所で審理中のものであるが又々十七日午後十時頃こん棒をもつて同家へちん入し二百圓を借せろと脅迫中松本署員に取押へられ目下取調べ中
(『信濃時報』昭和三年七月十九日、三面)
「コン棒をたずさへ金銭を強要して亂暴 以前も數回に亘って脅迫」
市内コマ町[A:氏名省略](四五)は十七日午後十時頃知人である市内城西町[B:氏名省略]方にコン棒をたずさへて亂入百二十圓を出せ出さなければ叩き殺すぞと脅迫し始末に行かぬので家人が松本署へ急報、係官出張[A:名省略]を本署に引致取調ると以前にも數回同家を訪づれ金銭を強要した事があつたが應じなかったので最後の手段に出た者であると
(『信濃新報』昭和三年七月十九日、一面)
これら3紙の記事のうち、『信濃日報』と『信濃時報』の記事は、見出しと最後の文の文末以外は、まったくの同文である。しかし、同じ日の朝刊に掲載されたものなので、記事が印刷された後の引き写しではない。これが現代のことであれば、警察発表をそのまま記事にしたのだろうと疑いたくなるが、この場合は、警察発表のような公的な情報源の共有に起因する記事の類似ではない。原因は、共通の通信記事の引き写しに求められる。もちろん通信記事といっても市内での事件であり、東京などからの電報通信ではない。このような酷似した記事は、宮下(1965,p232)が引用した石川や中島が指摘したような、地元ニュースを記事の形に仕立てて流す「通信紙」、ないしは、「通信」屋が存在し、『信濃日報』のような地元の代表紙の紙面にも、そうした「通信」による記事が反映されていたことを如実に示すものである。
 夕刊である『信濃新報』の記事は、このように他の2紙と並べてみると、要求した金額に食い違いがあったり、やや詳しい描写があったりするので、同じ事件を独自に取材したようにも見えるが、実際には朝刊からの引き写しか、「通信」を潤色した記事と考えられる。3紙の記事が掲載された日の翌々日の『信濃日報』に、その証拠となる記事が掲載されている。
「新聞取消申込」
拝啓貴紙昭和三年七月十九日發行第一一九〇七號三面記事中裁判審理中の[A:氏名省略]又あばれると題し自分對[B:氏名省略]に關する記事之有候[一字欠]自分は深夜棍棒をもって[B:氏名省略]方[一字欠]侵入脅喝したる事實なく又金銭上の交渉等はさらに之無く又裁判所の審理をも受け居るものに之無く全く事實無根にして何人かゞ為にする事有つての報導と存じ従つて自分の迷惑一方ならず候に付き全文御掲載の上御取消相成り度此段申し込候也昭和三年七月廿日[A:氏名省略]印信濃日報社御中
(『信濃日報』昭和三年七月二十一日、三面)
つまり、この「事件」はまったくの虚報だったのである。『信濃日報』以外については、記事掲載日以外の紙面がないので確認できないが、少なくとも『信濃日報』は、この「取消申込」を紙面に掲載せざるを得ないところまで追い込まれたのである15)。記事の内容からすれば、記者が警察や裁判所に裏付けをとる取材をしていれば、即座に虚報であることが判明していたはずの素材である。この事例は、全く事実関係がないにもかかわらず、複数の新聞社に何らかの形で情報を流して、そのまま垂れ流しの報道させることが可能であったこと、それが『信濃日報』のような地域の代表紙をも巻き込んだ形で、(おそらくは頻繁に)行われていたことを暗示している。そして、『信濃新報』の記事の独自性は、素材となった「通信」を、記者が潤色した結果ではないかと疑われるのである。
 記事に潤色が施されていると思われる事例は、他にもある。例えば、事例1で取り上げた『信州報知新聞』の記事の下に、女性が貨物列車に飛び込み自殺をしたという記事がある。この記事と、同じ事件を同じ日に報じた『信濃日報』の記事について、それぞれの書き出しの部分を示す。(図3)
「中條の踏切で 美人の飛込自殺」
十七日午前二時三十分松本驛發上り貨物列車が松本驛構内南方にあたる中條踏切附近を驀進中一見二十才前後の美人が列車目がけて風込み頚部を切斷され無惨の最後を遂げた[以下略]
(『信州報知新聞』昭和参年七月拾八日、一面)
「中條の魔の踏切で 若い女の轢死」
十七日拂暁松本驛を去南方約五丁南中條地籍すゝき川鐵橋に接した魔の踏切りに首を切斷されてゐるうら若き女の轢死體あるを通行人が發見して松本署[三字欠]出た[以下略]
(『信濃日報』昭和三年七月十八日、三面)
『信濃日報』を信じれば、貨物列車は飛び込みに気づかずに現場から去り、その後、死体があったのを通行人が見つけて警察に届け出た、ということになる。そうすると『信州報知新聞』の「一見二十才前後の美人が列車目がけて」飛び込んだというのは誰が目撃していたのか、ということになる。要するに、『信州報知新聞』のセンセーショナルな報道には、著しい潤色が施されていたのではないかと疑われるのである16)

■「ハガキ集」における記事と広告の連動

表3 「ハガキ集」の概況
題 号掲載面表 題本数商店等関係本数
/対応広告本数
信州報知新聞2/2はがきよ便り144/2
信濃新報な し
信濃時報3/4浮世百態102/2
松本新聞2/2はがき集144/3
夕刊商工新聞3/4ハガキ欄*121/0
松本毎日新聞3/4ポスト 70/0
松本新聞2/2はがき集115/1
深志3/4ハガキ欄*120/0
大衆日報2/2ポスト209/3
 宮下(1965,p232)は、当時の小規模地域紙に特徴的な記事であった「ハガキ集」について、「これはハガキの投書をそのまま掲載するという形式をとった世評欄で、市内の商店などはこの欄に毒舌悪口が載せられることを極度に嫌って広告料・賛助金を止むなく奮発して喜捨せざるを得なかった」と紹介している。読者の投書という形で、責任を曖昧にしながら、新聞が飲食店や商店などの評判記を書く、悪口を書く。するとあらぬことを書かれたくないので、飲食店や商店は広告を出すというのが「ハガキ集」の仕組みである。『信濃日報』や『信濃民報』には、「ハガキ集」に相当する欄は見当たらない。しかし、小規模日刊地域紙にとっては一般的な企画欄であり、『信濃新報』を除く8紙が同種の欄を設けている(表3)17)。建て前としては読者の投稿によって構成される欄であり、投稿を歓迎する旨の記載もあるが、実際にはほとんどすべてが記者による創作(捏造というべきか)によるものと推測される。
 「ハガキ集」の記事の内容は、
   花柳界関係の話題
   飲食店・商店等の良い評判
   飲食店・商店等の悪い評判
   個人等のゴシップ
   一般的な世相風刺
に大別することができる。新聞によって分野ごとの比重にはばらつきがあるが、その新聞でもこれらの類型のうち少なくとも3つ以上を「ハガキ集」に並べている。比較的、記事本数の多い『大衆日報』と『松本新聞』(昭和三年七月二十日付)を例に、カテゴリーごとの本数を数えてみると、多少分類に迷うものもあるが、『大衆日報』が概ね「1/9/1/2/7」、『松本新聞』が「3/4/1/4/2」となる。(図4、図5)
 花柳界関係の話題の例としては、芸者などが関係するゴシップや、お披露目の予告、表彰への言及などがある。こうした記事は「小新聞(こしんぶん)」の伝統に連なるものである。『松本新聞』の「はがき集」にも、「男一人で不足な藝者屋の女将がある」といったゴシップや、お披露目の予告記事が見える。ただし、花柳界関係の記事は、広告と連動するものではない。
 広告と連動するのは、飲食店・商店等の良い評判を綴った記事である。こうした記事の本数と、そこで言及された商店等が同日の紙面に出した広告の本数をみると、この種の記事は同じ日の紙面への広告出稿と連動する形で出される場合が半数近くを占めていたことがわかる18)。同日の紙面に限ってみてもこれだけの対応関係がある以上、良い評判の記事はほとんどが広告と連動していたと考えるべきであろう。
 一方、飲食店・商店等の悪い評判は、相手の名をあからさまに挙げてはいないが、関係者から見れば、不愉快なものが多かったことと思われる。宮下(1965,p232)が指摘するように、商店等はこれを嫌って渋々新聞を購読し、広告を出したのであろう。これに対し、個人等のゴシップには、思わせぶりなことをこの欄で書いておいて、それを強請、集りの材料にしたのではないかと疑われる例が多い19)。『信濃時報』には、この種の記事が目立つ。(図6)

■おわりに

 本稿では、断片的に残された新聞紙面の現物を史料として、昭和初期の松本市に多数存在した小規模日刊地域紙の性格を再確認した。従来、『朦朧新聞』といった名の下に、一括して論じられてきた当時の小規模日刊地域紙の実像には、まだまだ不明な点が多い。代表紙と称された『信濃日報』や『信濃民報』でさえ数千部程度20)の規模であった当時、他の小規模紙が通常の購読料収入や(通常の)広告収入で企業的経営を成立させていたとは考えにくい。当時の小規模紙が、世間の顰蹙を買いながらも存続した経緯は、決して尊敬し得ない活動の結果であったのかもしれない。しかし、企業的経営が成立し得ないところで、いわば生業的経営を強いられる市場環境の下で、多数の小規模紙が存続し続けた経験は、同じように生業的経営を強いられている数多くの現代の地域メディアの分析に、何らかの視座を提供してくれるものと期待される。
 本稿では、従来の通史的記述において小規模日刊地域紙の特徴として論じられてきた点を、具体的な紙面から読みとれる情報によって整理してきた。本稿で取り上げたのは、形式的な要素ばかりであり、個々の新聞の論調などは、まったく触れていない。もちろん、将来、さらに多くの史料が利用可能になることも考えられるが、今回扱った史料だけでも、まだまだ検討すべき点は多々残されており、今後もこの史料のより詳しい分析に取り組んでいきたい。




1) 本稿は、1997年3月23日のユタ日報松本研究会における講演で言及した内容を含んでいる。この講演は、『ユタ日報研究』第4号(1998)に載録されているが、本稿と内容が一部重複していることをお断りしておく。
 本文中の年号の表示については、明治から昭和20年までの範囲を西暦と元号の併記とし、戦後については西暦のみの表記とした。
 また、戦前期の文献の引用に際して、一部の漢字は現行の字体を用いていることを、お断りしておく。
2) 長野県は習慣的に4つの地域に区分される。長野市を中心とした「善光寺平」を含む地域が「北信」、上田市から千曲川流域に広がる「佐久平」を含む「東信」、諏訪盆地周辺と伊那谷筋を含む「南信」と並んで、松本市を中心とした「松本平」と木曽谷筋をまとめて「中信」という。「西信」と呼ぶべき地域を「中信」とする習慣には、松本市が県民の意識の上で一定の中心性を占めていることを暗示している。また、松本市には、(長野市にはない)日本銀行の支店があったり、信州大学の本部キャンパスが置かれるなど、長野市に匹敵する中心性をもった都市であることを象徴する機関が立地している。
3) こうした傾向は、現在の各メディアの立地状況にも反映されている。県紙『信濃毎日新聞』は、実質的な本社機能は長野市に集中しているが、1950年以降「松本本社」を設け、取材などの拠点機能を置き、中南信向けの現地印刷を行ってきた(1994年から印刷は「塩尻制作センター」へ順次移管され、松本本社での印刷は1995年に行われなくなった)。県域民放4局の内、1980年に3番目の民放として開局したテレビ信州(TSB)だけは本社を松本市に置いている。しかし、実質的な制作機能は松本市にはほとんどなく、本社機能の面でも長野市の放送センターの比重が大きくなっている。1988年に開局した県内唯一の民放FM局である長野エフエム放送(FM長野)は、本社を松本市に置き、制作の面でも本社スタジオの比重が大きい。
4) 宮下(1965,p232)は、「昭和一四年ころには日刊一六社、その他合せて四〇余の新聞雑誌が存在しており、人口八万足らずの松本市としては、まさに日本一の盛況であった」という記述を山田晩華(奇作)の談として引用している。山田晩華は、末期の『信濃日報』編集長で、新聞整理の過程で『信州日日新聞』の編集長にもなった人物である。
 また、松本市の新聞が2紙に整理された直後に刊行された『日本新聞年鑑 昭和十五年版』(p64)は、長野県全体で「三十九種の普通日刊新聞が一擧にして九種に激減した事實は全國でも餘り多くの例を見ないであらう」と指摘した上で、各地の整理状況に触れ、「又松本市では九月一日既に十種に餘る群小新聞が悉く癈刊して殘るは信濃日報、信濃民報の二紙となったが、此の二紙も近く一紙に統合せられるのではないかとの噂もある。併し大體此處らで一段落をつげたものゝ如くであり往年の新聞國も誠に寂寥の感なしとしない。」と述べている。統制以前の松本市の状況は、全国的に見ても特異なものと見なされていたことが読みとれる。
5) この川舩一氏所蔵の地域紙については、筆者が前任校・松商学園短期大学に勤務していた1994年の春に、その存在を知った。その前後の経緯は、松本市の地域紙『市民タイムス』のコラム(1994年11月19日付「ランダム・アクセス」)で、簡単に紹介したことがある。その後、筆者は1995年から東京経済大学に移り、1997年以降にこの史料を中心とした研究に手を付けるようになった。
6) 松本市における新聞の歴史については、まず、最も包括的な宮下(1965)を参照されたい。また、上条(1995a・b)、塩入(1990)も参照のこと。これらの記述の基礎ともなっている松本市役所(1933)のまとまった記述も重要である。長野県全域の新聞史を記述するという立場、あるいは、県紙『信濃毎日新聞』の側から見た記述としては、本多・塚田(1956)があるほか、信濃毎日新聞(1973)の随所に関連した記述がある。以下、松本市における新聞の歴史に関連する一般的な事柄については、直接の引用は別として、各文献の対応箇所をいちいち示すことはしない。
7) 『信濃日報』も『信濃民報』も、創刊された明治末の段階では、実際には日刊の体制になっていない。両紙は、大正初期から、年間に300号以上が出るような日刊の体制に移っていったが、この間の出来事で、最も重要だったのは、1902(明治35)年の篠ノ井線の開通である。元々、東京の新聞が松本で講読できるようになったのは、1893(明治26)年とされている。当時は、開通したばかりの信越線で東京の新聞を上田まで運び、一山越えて新聞を松本に運び込んでいた。それが篠ノ井線の開通によって東京から鉄道で新聞が運べるようになり、東京紙の進出が本格化した。さらに、1908(明治41)年には、市外電話が開通し、電報に依存していた東京との連絡が大幅に改善された。こうした状況を受けて、『長野新聞』や『信濃毎日新聞』が、松本に支局を開設し、続いて東京の各紙が、1909(明治42)年の『報知新聞』を皮切りに次々と支局を松本に開設した。『東京日日新聞』や『朝日新聞』も、1921(大正10)年に至って松本に支局を開設している。長野や東京の各紙は、松本ローカルの記事を載せた「附録」や「号外」を松本で印刷するなどして、販売の拡大に取り組み、『信濃日報』や『信濃民報』もこれに対抗して紙面の充実と日刊化を進めることになった。
8) 例えば、後藤(1927,p213)に見える、新聞発行者に義務づけられていた保證金制度についての解説の中には、「大體に於て内務當局は地方の悪徳新聞紙の簇出防止という取締の上から存置を主張し居た」という記述がある。
9) ここでいう「小新聞」は、明治期の「こしんぶん」と一致する概念ではないので、区別して「しょうしんぶん」と読むべきであろう。ただし、後述するように、ここで考察の対象としている時期の松本市の小規模新聞の内容には「こしんぶん」的な要素が色濃く反映されている場合もあるので、「こしんぶん」と読んだとしても必ずしも誤りとはいえない。
10) 当時の『長野縣統計書』各年版には、年次によって記載の形式は変化があるが、警察編の中に、届け出られている新聞に関するデータが記載されている。例えば、1926(大正15)年版には、『信濃日報』と『信濃民報』のほか、9紙の日刊紙、25紙の非日刊紙(県紙および東京紙の号外3紙を含む)が記載されている。しかし、1930(昭和5)年版以降は、個別の新聞社に関するデータは省略され、刊行形態別の紙数が示されるだけになったので、どの新聞がいつまで存続したのかといったことを知ることはできない。
 単なる届出上の記録にとどまらず、何らかの調査をした上で対象紙を選択し、日刊紙のリストを作成していた同時代の年鑑類としては、日本新聞研究所『日本新聞年鑑』、電報通信社『新聞総覧』、萬年社『廣告年鑑』などがある。しかし、これらの資料の記載は必ずしも網羅的ではなく遺漏があり、また誤りを含んでいるものと推測され、互いに記載内容が一致しないことも多い。例えば、新愛知新聞社が松本市で発行していた『新信濃』は、『日本新聞年鑑』では1936(昭和11)年版まで記載があるが、『新聞総覧』では1932(昭和7)年版まで(それ以前にも記載のない年次あり)、『廣告年鑑』では1928(昭和3)年版までで記載が終わっている。
 このように、多少曖昧な点は残るが、以上の資料から総合的に判断すると、『信濃日報』と『信濃民報』以外の日刊紙としては、1928(昭和3)年頃には『志な野』、『信濃新報』、『新信濃』、『松本新聞』、『松本毎日新聞』、『夕刊商工新聞』の6紙、1933(昭和8)年頃には『信濃時報』、『信濃新報』、『新信濃』、『信州報知新聞』、『南信中央新聞』、『松本新聞』、『松本毎日新聞』、『夕刊商工新聞』の8紙、1937(昭和12)年頃には『信濃新報』、『信濃中央新聞』(『南信中央新聞』改題)、『新信濃』、『信州報知新聞』、『寸鐵新聞』、『大衆日報』、『中信日報』、『松本新聞』、『松本日日新聞』、『松本毎日新聞』、『深志』、『夕刊商工新聞』の12紙が、活動していたと考えられる。
 また、長野県(1988,p747-478)所収の「日刊新聞整理統合表」は、整理前新聞紙として『信濃日報』と『信濃民報』以外に14紙の名を列挙しているが、これは1937(昭和12)年頃に存在したであろう12紙から『新信濃』を除き、『信濃通信』、『信濃毎夕新聞』、『松筑日日新聞』を加えたものである。そして、これら14紙は1939(昭和14)年8月31日をもってすべて廃刊したものとされている。
 残された『信濃日報』と『信濃民報』は、翌1940(昭和15)年6月末をもって廃刊、統合され、7月1日付から『信州日日新聞』となったが、1942(昭和17)年4月末をもってこれも廃刊となり、『信濃毎日新聞』を県紙とする「一県一紙」体制が完成した。
11) 松本市中央図書館には、明治時代の地域紙が8種類が所蔵されている。大正から昭和初期にかけての地域紙としては、『信濃日報』と『信濃民報』がマイクロ・フィルムで閲覧可能である。また、政友会の分裂を受けて、短期間ながら、最新鋭の印刷機械を導入するなどして大々的に刊行された『志な野』は、欠号はあるがほぼ全期間の分が所蔵されている。ただし、『志な野』は、他の小規模紙と同列には扱いにくい。非日刊紙では、1927(昭和2)年に創刊された月刊紙『信濃中央新聞』の1929(昭和4)年刊行分の一部だけが所蔵されている。このほか、1925(大正14)年創刊の週刊紙『大高原』が、復刻合本されて所蔵されている。しかし、小規模日刊紙はいっさい所蔵されていない。
12) 例えば、『松本毎日新聞』の創刊は、『長野縣統計書』各年版では1921(大正10)年10月1日となっているが、『日本新聞年鑑』各年版では1920(大正9)年12月23日となっている。いずれにせよ、後述の紙齢との矛盾は残る。
13) 中島は『大高原』の発行者で、石川は記者。『大高原』は復刻合本が存在するが、ここで引用されている記事の掲載号は未調査。
 文中で「大楢」とあるのは、『信濃通信』の大楢藤太郎と思われる。大楢については未調査。また『信濃日日新聞』は、当時の長野市で三番手の(最も弱い)日刊紙。また、「平野」は『夕刊商工新聞』の発行者、平野茂雄である。
14) 『信州報知新聞』の一面の下の方に次のような記事がある。
「今朝の登山者 三百名」
十七日松本驛を通過した登山者は信濃鐵道へ百十名筑摩鐵道へ百八十二合計二百九十二名であつた
(『信州報知新聞』昭和参年七月拾八日、一面)
 この『信州報知新聞』の記事が、この時期の常設欄か、この日だけの単発記事なのか不明である。また、前日付の『信濃日報』には、十六日のデータによる記事が載っている。こちらは、単発記事で、前後数日間に同様の記事はない。
「昨日の登山者 松本驛賑ふ」
十六日朝松本驛にをしよせた登山者は四百十九名で信鐵二百十二名筑鐵二百七名おもたるものは名古屋並に東京鐵道局、四高、横濱商工、中央大學、明大、大阪高商等である
 『信濃新報』の記者は、『信州報知新聞』の二つの記事から記事を作ったか、『信州報知新聞』の記事に『信濃日報』からの情報を加えて、記事を構成した可能性が大きい。また、『信濃日報』の記者は、『信濃新報』を引き写しながらも数字の操作に気づき、数字だけを直した、ということになる。その際、『信濃日報』の記者が参照した情報源は確認できないが、毎日記事にはなっていなくても、松本駅が登山者数を毎日公表していた可能性は大きく、おそらくはその最新の発表にしたがって数値を書き換えたものと思われる。
15) この「取消申込」は、実質的には記事の取り消しの告知に代わるものだが、こういう申し出があった、と手紙を紹介しているだけで、「お詫び」の含意は感じられない。その後数日分にも今日の「お詫びと訂正」に当たるもの出ていない。当時は、この手紙の紹介で充分というのが習慣だったのだろう。報道被害者の立場は、それだけ弱かったのである。
16) 逆に『信州報知新聞』を信じ、その目撃者は『信濃日報』のいう「通行人」であるとするなら、『信濃日報』の報道はいささか間が抜けている。『信州報知新聞』が目撃者への取材を特ダネとして「抜いた」のだと考えれば『信州報知新聞』の方が正しいという解釈も成り立つ。また、目撃者が「通行人」とは別人であるならば、届出を怠った現場の目撃者を『信州報知新聞』が発見したということになる。しかし、小規模紙である『信州報知新聞』が、事件記事で『信濃日報』を「抜く」ことができたという想定は、現実的ではないように思う。
17) 『夕刊商工新聞』と『深志』は、いずれも「ハガキ欄」という名称になっているが、見出しには全く同じロゴが使われている。前出の宮下(1965,p232)を考え合わせると、『深志』が、『夕刊商工新聞』と同所で印刷されていた可能性もあるが、この件は未調査。
18) また、単なる印象の域を出ないが、記事で言及された商店等の広告がない場合に、同業他店の広告が目立つという傾向があるようにも思われる。これについては、今後検討したい。
19) 川舩氏所蔵の長野市の週刊紙『興信新聞』(昭和六年三月二十九日、四面)の「ポスト」はさらに強烈である。
▲川岸村の下地方帯で昨年の新聞紙代を踏み倒し申候(それで疑員づら)[中略]▲平野村でのプロ階級配達になってゐる新聞を來ませんとて虚言を吐露し痛い所をおしましよか
などと、新聞代未払いを糾弾している記事が並んでいるのだが、前出の長野県(1988,p746)に挙げられた、「三、申込みを為さざる新聞を配達し、申込みなき広告を掲載して其の代金を強要し」の典型のように見受けられる。
20) 本多・塚田(1956,p234)は、統合時の『信濃日報』の部数を「二千部内外」、『信濃民報』の部数を「三千部内外」としている。


参考文献

謝辞/献辞

 本研究は、川舩一氏に史料閲覧の機会を頂いたことで可能になった。まず同氏に御礼を申し上げたい。松本市中央図書館には、所蔵している新聞やマイクロ・フィルムの閲覧にご配慮を頂いた。本稿の原型は、ユタ日報松本研究会の席での講演のために作成したメモに遡る。きっかけを与えて頂いた、小出栄致氏、手塚英男氏には、特に感謝したい。関連諸文献については、東京経済大学図書館、松商学園短期大学図書館にも諸々の便宜をはかって頂いた。以上、記して感謝申し上げる。

 永らく本学で教鞭を執られた阪下圭八先生は、1997年度をもって定年退職され、名誉教授の称を受けられた。筆者は、1995年の本学着任以来、3年間という短い間、しかも限られた機会に同席するだけのおつきあいではあったが、先生の折々の御発言から様々なことを教えられた。しばしば同席した教員の集まりで、気楽な意見交換をするような機会にも、先生の沈着な発言に学ばせていただくことが多かった。甚だ拙い内容ではあるが、これまでの御厚誼に感謝し、記念号に掲載される機会を得た本稿を、阪下先生に献呈申し上げる。

 本研究には、1996年度〜1998年度の東京経済大学個人研究費、および、1997年度の東京経済大学個人研究助成費(PR25-97)「昭和初期の長野県松本市における小規模地域紙の記録保存と内容分析」を用いた。
 本稿のテキストは、当研究室のページで公開している。(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html
英文要旨

"Notorious" Newspapers:
Small-scale newspapers of the early Showa period in Matsumoto City, Nagano, Japan.

Harumichi Yamada

Summary:

   Until the 1930s, Nagano prefecture was famous for the large number of local papers which flourished there. Matsumoto, the second largest city in Nagano prefecture, was especially well-known as a boom town for small newspapers. In 1939, there were sixteen daily papers, and more than twenty non-daily papers published (or at least registered) locally in this city of 70,000 residents. This is believed to be the largest number of newspapers published outside of the major metropolitan areas anywhere in Japan at the time.
   Among the dailies, the two best-known titles are the Shinano Nippo and the Shinano Mimpo. Their records have been preserved relatively well. Issues of these two papers are accessible at the Matsumoto Central Library in the form of microfilm. However, practically no copies of other small-scale local papers are available at public libraries, the largest extant collection being the private collection of Hajime Kawafune, a local bibliophile. The Kawafune collection is small, but valuable as one of the few available resources that shed light on these forgotten dailies. It includes issues of eight small-scale daily local papers published in Matsumoto between 1928 and 1932.
   Written histories of the press in Matsumoto have referred to these small-scale local papers only in general terms; almost none of the descriptions of these dailies give concrete examples. This paper examines some of the assumptions widely shared by historians through analyses of the newspapers in the Kawafune collection. Following a brief historical review of the local papers in Matsumoto, three aspects of these papers are discussed: 1) frequency of publication, 2) quotation or "theft" of stories, and 3) the relation between fake "readers' posts" and advertisements. Relatively reliable data are available for six of the eight dailies, which are estimated to have been published roughly 4 to 5.5 times per week.
   Through a content analysis, several examples of crude quotation or "theft" of news stories were found. Two types of such "theft" are distinctive. The first type is quotation from published issues of other local papers, in which the same (or similar) stories appear on successive dates. The second type is quotation from shared local news sources, whose function resembled that of a local news agency. In these cases, the same stories appear on the same date.
   Fake "readers' posts" were a well-known feature of these small-scale local papers, which were "notorious" for extorting money from local business. Most of the small dailies had such a feature, and nearly half of the shops or restaurants who are referred to positively put their advertisements on the same page as readers' posts which mentioned them. Negative reputations retain anonymity, probably in the purpose of making money in some unlawful ways.



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