雑誌論文(学会誌査読論文):1984:

宮城県石巻市における地域紙興亡略史−地域紙の役割変化を中心に−.

新聞学評論(日本新聞学会),33,pp215〜229.


国立情報学研究所 CiNii 本文PDF へのリンク
 この論文は、山田が博士課程2年のときに発表した、最初の学術論文です。

 原論文は、年表2、図4、表4を含んでいますが、さしあたり本文テキストと表だけをこのページに掲載しました。年表は別ページになります。図の掲出は、もうしばらくお待ち下さい。
 なお、ページ作成に際しては、原論文の明らかな誤植だけを改め、その他の表現はそのままとしました。例えば、(原論文は縦書きなので)「左記」とあるのは「下記」のことですので、ご了解下さい。


宮城県石巻市における地域紙興亡略史
−地域紙の役割変化を中心に−


宮城県石巻市における地域紙興亡略史
−地域紙の役割変化を中心に−

はじめに

 新聞が都市を単位としたメディアとして発達した欧米では、小さな町でも立派なタウンペーパーが発行されていることが多い。新聞題号には必ずといっていいほど都市名が冠されており、純粋な全国紙・広域紙は例が少なく、全国的に配布されていても題号には都市名がつき、内容も地方色を持っているといった例も多い。ところがわが国では、戦時統制の経験などの歴史的事情から、今日では新聞界の主流を全国紙と県紙が占めている。このため市町村などを単位として発行される地域紙(1)は新聞学の対象としてさほど重視されず、資料の収集保存や研究の公刊などが遅れている(2)
 地域紙は、個々の発行部数や配布圏の点では全国紙や県紙とは比較にならないくらい小規模であり、中には「アカ新聞」とか「盆暮新聞」などと称されるものもある。特に非日刊紙は個人の独力でも発行できるため、一般紙とは同列に扱えないビラのようなものも多いのは事実である。
 しかし、発行を維持するために組織が必要となり、採算も考えなければいけない日刊紙の場合は、それぞれの地域で重要なメディアとして機能しているものが多く、中には地元市町村で八〇パーセント以上の世帯普及率に達している例も少なくない。近年、地域メディアを媒体別にではなく全体的に一括して扱う研究が散見されるが(3)、そこでも日刊地域紙の位置づけは大きい。文化的中央集権・全国的画一化の方向に進みつつあるマス・メディアのあり方への批判として地方・地域メディア研究が展開される中で、日刊地域紙の意義は再発見されつつある。
 ところが、こうした地方・地域メディア研究は、日刊地域紙を他の媒体(自治体広報・広告紙・CATV等々)と並列して考察していることが多く、他の媒体が比較的短い歴史しか持たないこともあって、歴史の記述が簡単に済まされいることが多い。しかし明治以来のわが国の地域紙の歴史を考えると、少なくとも日刊地域紙については、現状理解を深めるためにも何らかの歴史的考察が必要なことが感じられる。
 本稿は以上のような問題意識から、石巻市における大正以来の地域紙史をまとめる作業を通じて、地域紙の役割の変化についての仮説を示し、現状の理解を深めることを試みたものである(4)

I・石巻における地域紙の現状

 江戸時代から北上川の水運と近海漁業で栄え、明治以降は工業化が進んだ石巻は、仙台から五〇キロメートル余り離れ、独立した都市圏を形成する人口一二万の港湾都市である。ある程度の人口があり、地理的に孤立し、県都・仙台への依存度が比較的低いという事情は地域紙の発達に有利であり、大正以来石巻における地域紙の活動は盛んであった。
 現在石巻には、日刊紙・三、週刊紙・一、計四紙の地域紙がある。このうち週刊紙『牡鹿新聞』(昭和二五年創刊)は、渡波地区(旧渡波町)と女川町を配布圏とするタブロイド判二頁の「ペラ新聞」であるが、非日刊なので本稿では扱わない。日刊紙三紙は、形態が似ており、記事内容にも共通点は多いが、編集方針や経営面では互いに大きく異なっており、歴史的背景も大きく違っている。(表1
 『石巻新聞』は戦後いち早く発行された夕刊紙で、共同通信の全国・国際ニュースも載る編集で全国紙や『河北新報』の夕刊代わりの役割を果たしている(5)。部数の大半は市の中心部向けで市外配布はほとんどない。創刊以来和田鉄夫社長の個人経営である。
 『石巻日日新聞』は大正元年創刊の『東北日報』・同二年の『石巻日日新聞』(昭和一五年廃刊)の紙齢を継承して昭和二三年に復刊した地元ニュース専門の「田舎新聞」である。部数の九割が市内全域に配布され、残りは矢本町や女川町へ市外配布されている。人的交代が激しく、戦後だけでも社長交代三回・社屋移転四回を経験している点でも『石巻新聞』とは対称的である。
 『石巻かほく』は河北新報社の子会社・三陸河北新報社が昭和五五年に創刊した朝刊紙で、広域紙市町村県を構成する石巻周辺の一市二郡(九町)で『河北新報』と事実上のセット販売がなされているやや特殊な地域紙である。『河北新報』の別冊といった感もあり公称部数は配布圏内の『河北新報』ABC部数と同数とされている。定価が安く、セット化は進んでいるが、一部には『石巻かほく』はとらない世帯もあり、無料配布の例も若干あるようである。三陸河北新報社は河北新報石巻支局と同所にあり、役員は石巻出身の河北新報関係者・OBで占められている。
 三紙の特徴を、各々の相違点をとらえて一言で表現すれば、『石巻新聞』=全国紙・県紙の夕刊代わり、『石巻日日新聞』=地元ニュース専門、『石巻かほく』=地域外新聞資本の系列紙、ということになる。現在の三紙の共通点・相違点を理解するためには、石巻における地域紙の歴史的展開をさかのぼる必要がある。『石巻新聞』と『石巻日日新聞』の競争がどう進行し、部数格差はどのように生じたのか。『石巻かほく』創刊の影響はどのようなものだったのか。そうした問題は、歴史的文脈の中で整理され、現状のより深い理解を可能にするであろう。


表1 石巻市の日刊地域紙三紙
紙名石巻新聞石巻日日新聞石巻かほく
創刊年昭和21年創刊大正元年創刊
昭和23年復刊
昭和55年創刊
発行所石巻新聞社石巻日日新聞社三陸河北新報社
組織形態個人経営株式会社株式会社
社員数463818
印刷方法オフセット
昭和55年導入
オフセット
昭和46年導入
オフセット
石巻新聞社へ委託
建頁4頁4−6頁4−8頁
判型ブランケットブランケットブランケット
発行形態夕刊・週6回夕刊・週6回朝刊・週6回
公称部数1万26001万80004万
推定実数20001万65003万1000
日本新聞協会会員
共同通信準会員

II・戦前(黎明期〜一県一紙体制(6)

 石巻における地域紙の先駆は明治末の月刊新聞雑誌に求められるが、最初の日刊紙は大正元年一〇月創刊の『東北日報(7)』である。創刊後数年間の同紙は、経営難で経営者が次々交代し、題号もすぐに『石巻日日新聞』に改題されたが、編集陣の一部と紙齢はしっかり継承された。経営が安定し始めた大正五年頃以降は、新聞統合によって廃刊に追い込まれるまで常に石巻の代表紙であった。戦前の日刊紙にはもう一紙『日刊宮城』があったが、経営的には、成功していなかったようである。
 戦前の『石巻日日新聞』は今日では全く失われているが(8)、僅かに残された大正一二年と昭和六年の紙面を見ると、相違点も多い中で、全国・国際ニュースと文芸が目立つといった共通点のあることがわかる。広告はほとんどが地元石巻に限られており、同時期の『河北新報』が積極的に東京・大阪の広告を集めた(9)のとは対称的である。文芸・コラム・啓蒙記事が多いのは、取材陣の手薄さを補うために文人記者が健筆をふるったためである。(図1・2(10)
 大正一二年の紙面に比べると昭和六年の紙面は全体的に記事量は多いが、その増加分は通信社記事によるもので、地元ニュースの量はさほど増えていない。当時の『石巻日日新聞』が石巻におけるほとんど唯一の媒体であったことを考えれば、通信社記事=全国・国際ニュースが紙面の軸になっていたことも理解される。『石巻日日新聞』は地域的ミニコミとしてではなく、たまたま石巻に配置されたマスコミとして機能していたのであり、今日の地方テレビ局が中央の番組をネットするだけの「たれ流し」によって全国的に広がるマスコミの一端として機能しているように、通信社記事を「たれ流し」ながらマスコミとして機能していたのである。
 一県一紙体制以前の地域紙の多くは『石巻日日新聞』と同様に地理的距離という障壁に護られて、各地域で唯一の媒体としてマスコミ機能の地域的独占(寡占)を成立させ、地域ニュースばかりでなく全国・国際ニュースに至るまであらゆるニュースを報じる役割を担っていた。交通が未発達で配布圏拡大が困難を伴った戦前は、後に県紙となるような有力紙にとっても、県都から離れた周辺部における地元地域紙の勢力を競争によって一掃することはできなかったのである。
 昭和一五年三月以降県特高警察からから廃刊を迫られていた『石巻日日新聞』は、遂に用紙配給を止められ一〇月末で廃刊に追い込まれた。昭和一七年一月には『河北新報』が大河原の『仙南日日新聞』を合併し、宮城県の一県一紙体制が完成された。地域紙の地域的独占は、新聞同士の競争を超えたところで、言論統制を狙った権力によって粉砕されたのである。一方、結果的に県紙となった有力紙にとっては、一県一紙統制は有力な競争紙を排除し経営基盤を固める好機となったのであった。

III・戦後(群小紙乱立〜二紙対立(11)

 戦後いち早く地域紙を発行したのは『石巻日日新聞』の元植字工で印刷業者として成功していた和田鉄夫であった。印刷業を営み、用紙入手にも有利であった和田は、昭和二一年二月に石巻新聞社を設立し、共同通信との契約などの準備を整え、五月一日には『石巻新聞』(週三回刊・タブロイド判二頁)を創刊した。同紙は昭和二四年に日刊化し、石巻で戦後最初の日刊地域紙となった。
 創刊時から共同通信を受けていた『石巻新聞』も、全国・国際ニュースをよく使う点では戦前の『石巻日日新聞』に通じ、やはりマスコミとしての機能が全面に出ていた。経験者を編集陣に揃え、速報性において同時期の群小紙に勝っていた『石巻新聞』は、創刊後ほどなく、当時としては抜群の部数五千部を誇るようになる。
 同紙が部数八千部とも一万部弱ともいわれる最盛期を迎えたのは昭和二八〜三五年頃であるが、部数飛躍の契機は昭和二六年の一連の紙面刷新であった。まず五月に用紙統制が撤廃されると、同紙は判型をブランケット判に固定した。続いて九月には共同の文字送信受信を始め、それに合せて十五段制の採用と写真製版の導入が行われた。工務関係の改革を受け、編集面でもサンフランシスコの日米講和報道を手始めに一層はっきりと全国・国際ニュースが重視されるようになった。他紙の紙面刷新が遅れていたこともあり、『石巻新聞』の新紙面は読者に歓迎され、部数も最盛期を迎えることになったのである。(表2

表2 「石巻新聞」の一面トップ記事
         (10月1日付または9月30日付による)
昭和21年東北自給製塩への補助打ち切りの影響  [仙台発]
  22年(欠号)
  23年石巻公民館敷地決定
  24年石巻定時制高校ルポ
  25年石巻地元中小企業の動向
  26年国際アンザス会議への英国の抗議  [ロンドン発]
  27年全国第四回衆議院議員総選挙
  28年国際国連総会、朝鮮問題で対立 [ニューヨーク発]
  29年全国洞爺丸事故、国家補償なし
  30年全国台風22号九州に大被害
  31年全国対ソ往復書簡公表せず
  32年国際明日、国連安保理事国選挙 [ニューヨーク発]
  33年石巻市議会、常任委員を改選
  34年全国台風15号(伊勢湾台風)    [名古屋発]
  35年石巻五輪トトカルチョに市長も反対表明
  36年全国政府外貨予算
  37年石巻新任教員配置
  38年石巻市議会開始
  39年全国常陸宮家婚礼
  40年石巻渡波地区水道問題
(昭和41年以降は毎年石巻の地元ニュース)


 一方、戦前『石巻日日新聞』で長く編集長を勤めた佐藤露江は、昭和二三年十一月には印刷業、松本幸雄の協力を得て、戦前からの題号と紙齢を継承した『石巻日日新聞』を「復刊」し、翌二四年には日刊復帰も果した。しかし「復刊」とはいっても、佐藤社長以外は全く新たに集まった人々であり、記事内容も地元ニュース専門で、新聞の性格は戦前とは完全に断絶していた。復刊後数年間は、佐藤社長と他の役員・社員の関係がうまく運ばず、経営も不安定であった。社内体制が安定するのは、佐藤が社を去り、横町久円寺通へ移転し斉藤末治が事実上の社長となった昭和二七年以降であり、『石巻新聞』の最盛期には『石巻日日新聞』は一応の競争紙ではありながら目立たない存在に過ぎなかった。
 戦後の新興紙ブームにはこのほか多数の非日刊紙が石巻や女川で発行されていたが(12)、こうした群小紙のほとんどは、用紙統制が解除された昭和二六年頃までになくなってしまった。群小紙の衰亡の原因は、直接的には記者の不祥事による信用の喪失などがあったが、有力二紙がいち早く日刊化を達成し読者の支持を集めたことが重大であったと思われる。
 石巻における戦後地域紙史の第一期「群小紙乱立期」は、『石巻新聞』創刊から群小紙が淘汰された昭和二六年頃までである。続いて『石巻新聞』の紙面刷新と『石巻日日新聞』の社長交代を機に第二期「二紙対立期」に入るわけであるが、「二紙対立期」はさらに三期に分けられる。前期(昭和二六年頃〜三五年頃)は『石巻新聞』の最盛期であり、中期(昭和三五年頃〜四五年頃)は二紙の力が伯仲・逆転した転換期であった。また、後述する後期(昭和四五年頃〜五五年)は『石巻日日新聞』の成長期である。
 中期が転換期となった原因には、『石巻日日新聞』のプラス要因として紙面の改善が進み『石巻新聞』に見劣りしなくなったことをあげることができるが、それ以上に『石巻新聞』側のマイナス要因が重大であったと思われる。その要点をまとめれば、(1)和田社長が県議選に出馬し「不偏不党」イメージを損なったこと、(2)編集陣から優秀な人材が一挙に去ってしまったこと、(3)『河北新報』夕刊が石巻に進出し競争が激化したこと、(4)テレビの普及に象徴されるマスコミの発達が旧来のマスコミ機能代行型の地域紙へのニーズを消滅させたこと、の四点ほどになる。
 この四点のうち(1)〜(3)が多少なりとも石巻の事例に特殊な、偶然性を含んでいるのに対し、(4)が当時わが国に普遍的に見られた、いわば必然的要因であったことは注目される。昭和三五年頃〜四五年頃のこの時期は高度成長期の最中であり、テレビを先頭にわが国のマスコミが量的拡大を爆発的なまでに見せた時期であった。地域においてマスコミ機能を担ってきた戦前の『石巻日日新聞』や『石巻新聞』のようなタイプの地域紙がこの時期に打撃を受けたのは石巻に限ったことではなかったのである。全国紙の夕刊がなく、『河北新報』夕刊も少なかった石巻で、早く、安く(13)全国・国際ニュースを含めた報道をすることで支持されていた『石巻新聞』は、相対的な速報性の優位を失い、部数を減らしたのである(14)
 低落傾向の中で『石巻新聞』は地元ニュース中心へと編集方針の転換を余儀なくされ、当時既に読者の間に広まっていた「地域紙は地元ニュースに徹するべきだ」という考えを受け入れる方向に徐々に進んでいった(表2参照)。しかし同紙は地元ニュース専門で実績を築いていた『石巻日日新聞』の質を抜くことができず、あいまいな性格は魅力を失い、石巻市の急速な世帯数増にもかかわらず、中期以降部数は伸び悩んだのである。(図3)
 後期(昭和四五年頃〜五五年)になると二紙の間には歴然とした部数格差が生じる。両紙が相次いで四頁化した昭和四二年頃、部数はどちらも四千部程度であった。『石巻新聞』はその後部数を漸減させ、昭和五七年現在で推定実数二千部程度まで落ち込んでいる(15)。一方『石巻日日新聞』は、昭和四六年のオフセット導入時(16)に六千部程度になっていたが、それ以降「手の汚れない鮮明で美しい新聞」として部数を伸ばし、『石巻かほく』創刊直前の昭和五五年には実数一万八千部程度にまで達した。この間の『石巻日日新聞』の部数と石巻市の世帯数の推移を見ると、両者が平行して急増したことがわかる。新たに石巻市へ転入した人々にとって『石巻日日新聞』は地元を知り、生活するために必要な媒体だったのであり、同紙の部数増は転入者によって支えられていたのである。
 『石巻かほく』の創刊で『石巻日日新聞』はやや減り、昭和五七年現在の部数は一万六千余部となっている。しかしこの減り方は関係者の事前の予想よりは小さく、むしろ『石巻日日新聞』への読者の支持が根強いことを示している。筆者の調査(17)でも、『石巻日日新聞』購読者の四五・〇パーセントは同紙を「一番よく読んでいる新聞」としており、『石巻新聞』の二七・三パーセント、『石巻かほく』の九・五パーセントに比べ、読者によく読まれていることがわかる。部数の上では一歩譲ったものの、『石巻日日新聞』が石巻の代表的地域紙であることは現在も変わらない。
 昭和五五年四月二一日に『石巻かほく』が創刊されて以降は、第三期「三紙鼎立期」と呼ぶことができる。この時期の三紙関係は競争的というよりは役割分担・共存的になっている。後述するように『石巻新聞』は『石巻かほく』の受託印刷で経営を支えており、一方『石巻日日新聞』も若干の部数減は甘受しながらも読者の支持を失っていない。
 『石巻かほく』は地域外新聞資本・河北新報社の系列紙であり、発行形態にもやや特殊な点がある。そこで節を改め、『石巻かほく』発行の背景と三紙鼎立状況について整理することにしたい。

IV・『石巻かほく』以降(三紙鼎立)

 『石巻かほく』は形式上は独立した地域紙であるが、実際には『河北新報』とセットでしか購入できず、実質的なセット率は八割程度に達している。セット販売を前提としているため『石巻かほく』にはラ・テ欄がなく、『河北新報』の方でも『石巻かほく』創刊後は宮城県内版における石巻周辺の記事量を減らしている。
 『石巻かほく』の取材は、発行所である三陸河北新報社(河北新報社が全額出資した子会社)が当たっているが、広告業務は河北新報社広告局が一括買い上げの形で代行しており、配達は『河北新報』の販売店網に乗っている。一方、印刷は石巻新聞社に委託されており、同社は受託印刷を機に河北新報社から援助を得てオフセット化を 行っているのである。このように『石巻かほく』は、河北新報社の圧倒的な力(販売・広告・資金など)を背景に強引に強引に普及が図られた地域紙である。
 石巻市をはじめ三陸地方の市町は、元来宮城県下では比較的『河北新報』が伸び悩んでいる地域である(図4)。『石巻かほく』発行の狙いは、『河北新報』の紙面を補い、部数を増すことにあった。『石巻かほく』創刊後も部数の大きな動きは見られなかったが、一方で読者の『河北新報』に対するブランド・ロイヤリティーを高める効果は上がっているようである。特に、従来は地域紙との接触が少なかった桃生郡・牡鹿郡の読者にとっては、地元ニュースを提供する地域紙が手に入るようになったことは歓迎すべきことであった。『河北新報』から全国紙へ切り換えると『石巻かほく』の地元ニュースが入手できなくなるため、読者の『河北新報』への支持はより固定的となりつつあるようである。
 『石巻かほく』創刊によって『石巻日日新聞』の部数が頭打ちになったことは前述した通りである。『石巻日日新聞』が大幅な減少を見せなかったのは、読者が固定的であり、また『石巻かほく』が安価だったために両紙を併読する世帯が予想より多かったためである。しかし、直接の部数減以上に『石巻日日新聞』にとって打撃なのは、『石巻かほく』のいち早い進出で周辺各町における潜在的な需要を失ったことである。これまで順調な成長を続けてきた『石巻日日新聞』が今後この事態をどう切り抜けるかは大いに注目されよう。
 『石巻新聞』は社勢の後退の後、受託印刷や副業で経営を支える状態にある。また個人経営の社長である和田の高齢化に伴い、法人化問題も持ち上がっている。近い将来、同紙には大きな変化が起きるかもしれない。
 地域外新聞資本の系列紙とい形態は、社会・経済的条件が不充分な地域にも地域紙を成立させることができる、という意味では貴重な地域メディアの一形態である。石巻の場合でも『石巻かほく』はそれまで地域紙が普及していなかった周辺各町で新たな地域メディアとして歓迎されたのである。今後三陸河北新報社がどのような系列展開を見せるかは、気仙沼などの既存地域紙との関係からも注目される。また、岩手県の「いわにちグループ」や長野県の「市民新聞グループ」などと違って(18)、大きな力を持つ『河北新報』が行う、いわば「大規模紙支配型」の系列展開が地域紙の育成・活性化にどのように寄与できるのか、自然発生的に地元の資本と人材によって生まれる地域紙に比べ、地域外資本の地域紙がどういう長所短所を持つのか、といった点からも、『石巻かほく』の、そして三陸河北新報社の動向は今後とも注目されるのである。

V・まとめに代えて

 石巻は地理的条件に恵まれた、地域紙の発行には有利な都市である。かつてマスコミ機能の地域的独占が行えたのも、今日読者の地元ニュースへの関心が高いのも、石巻の都市圏がまとまりのある独立性の強い地域であることと深く関係している。
 石巻における地域紙史の中で起こった、マスコミ機能代行型(戦前の『石巻日日新聞』・最盛期の『石巻新聞』)から地元ニュース専門型(『石巻日日新聞』・『石巻かほく』)への読者の支持の変化は、石巻に特殊な現象ではなく、高度成長期におけるわが国マスコミの爆発的拡大が地域メディアに及ぼした普遍的影響と考えるべきである。例えば、長野県における『南信日日新聞』の後退と「市民新聞グループ」の興隆(19)も同じ視点から理解することができる。
 今日、成功した地域紙の多くは、ニュースに関しては通信社記事などを利用しない地元ニュース専門紙であり、政治色も比較的薄く、一様に「コミュニティー・ペーパー」を標榜している。筆者が石巻で行った調査(20)でも、読者が地域に根差したニュースを求めており、そのニーズに応える媒体として地域紙が選択されている(表3表4)。マスコミが十二分に発達した今日、地元ニュース重視が地域紙に求められている役割であることは明らかであろう。本稿で論じた地域紙の例に限らず、どのような性格の媒体が成功するかは、いつの時代でも読者ニーズの所在と諸媒体間の関係によって決するものなのである。

表3 関心のあるニュースの種類
国際全国東京県域石巻エリア市町
228389 54434460341
32.1%56.5% 7.8%63.0%66.8%49.5%
3つまで選ばせた。  N=689


表4 ニュースの種類による媒体の選択
国際全国県域石巻エリア市町
全国紙109(15.8%)182(26.4%) 54( 7.8%)15( 2.2%)14( 2.0%)
河北新報124(18.0%)145(21.0%)375(54.4%)110(16.0%)55( 8.0%)
地域紙 3( 0.4%) 3( 0.4%) 64( 9.3%)459(66.6%)313(45.4%)
自治体広報 1( 0.1%) 0( 0.0%) 23( 3.3%) 64( 9.3%)190(27.6%)
NHKTV367(53.3%)290(42.1%)126(18.3%) 16( 2.3%) 5( 0.7%)
民放TV270(39.2%)281(40.8%)229(33.2%) 45( 6.5%) 21( 3.0%)
各項目ごとに媒体を2つ選ばせた。  N=689
媒体の選択肢はこのほかにもあるので、タテの和が200%よりずっと小さい場合もある。


<註>

 本稿の内容は主として昭和五七年に筆者が調査した成果によっている。その際貴重な証言を頂いた方々、特に相沢雄一郎(河北新報石巻支局)、近江弘(石巻日日新聞)、佐藤信男・斐子、千葉堅弥、辺見和郎(福島民友)、和田鉄夫・こまつ(石巻新聞)の各氏に紙面を借りてお礼を申し上げたい。

 その後、『石巻新聞』は、創業者/社長だった和田鉄夫氏の死去を乗り越えて続刊されたが、結局1998年に休刊した(事実上の廃刊)。この時期の新聞界の状況については、山田(1998)を参照されたい。
 三陸河北新報社は、この論文の脱稿後に気仙沼に進出し、『気仙沼かほく』を創刊した。さらにその後、岩手県で『釜石新報』を刊行したが、こちらは1999年に撤退している。三陸河北新報社のホームページによると、現在の同社の社長は、本稿取材当時に河北新報石巻支局長としてご協力をいただいた相沢雄一郎氏である。
[2002.06.20.]

 その後、2005年3月に『気仙沼かほく』は休刊となり、<河北新報気仙沼地域版「リアスの風」>に衣替えしている。
[2009.05.25.]


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