雑誌論文(その他):1998:

新聞界の「先端」から学ぶこと−大不況下における小規模紙経営.

新聞研究(日本新聞協会),569,pp29〜32.


新聞界の「先端」から学ぶこと−大不況下における小規模紙経営
■バブル経済の崩壊とともに
■小規模紙の苦しい立場
■新聞はなかなかつぶれない
■問われる存在意義
■地域紙の強み


新聞界の「先端」から学ぶこと−大不況下における小規模紙経営


■バブル経済の崩壊とともに

 いわゆる「バブル経済」が破たんして以降、日本経済は深刻な停滞にあえいでいる。業種や規模を問わず、有名無名の無数の企業が、この大不況の中で経営上の苦境に直面し、力尽きて倒れる企業も後を絶たない。バブル期に、空前の広告収入に支えられて増ページを重ね、また、激烈な拡販競争を展開した新聞業界にも、「平成不況」の影は落とされている。
 バブル破たんの影は、当然ながら大規模紙にも及んでいる。「新聞研究往来」九月七日付の記事は、一九九〇年代に入ってからの新聞大手八社(全国紙とブロック紙)の法人申告所得の総額の動きを紹介している。九〇年度から九三年度まで、申告所得の総額は急落、その後盛り返して九六年度には九〇年度に近い水準まで戻したものの、九七年には再び落下している。しかも、九八年度にこの数字が好転しているとは、残念ながら考えにくい。この間、これら大手紙に大きな部数減はなかった。収入減はひとえに広告料収入の大幅減の結果である。大手紙の広告を支えている比較的規模の大きい広告主も、再び新聞広告費を抑制しようとしているのである。
表 1990年代に休廃刊した日本新聞協会加盟紙一覧
                     (  )内は休廃刊日

▲「関西新聞」(1991年4月17日):オーナー許永中氏の絵画取引にから
 み巨額の不渡り手形を出し、休刊後、事実上倒産。

●「フクニチ」(1992年4月16日):販売競争の激化、経営不振を理由に
 休刊。

▲朝刊紙「東京タイムズ」(1992年7月31日):経営改善に全力を傾けた
 が赤字体質の改善ができなかった、として休刊。

●「日刊福井」(1993年1月1日):休刊後、中日新聞社との業務提携とい
 う形で、題号は中日新聞北陸本社に引き継がれた。 
 その後、中日発行の「日刊福井」は改題され、現在は中日新聞福井支社
 発行の「日刊県民福井」となっている。

●「栃木新聞」(1994年3月31日):1987年から親会社だった鹿沼グルー
 プが、グループ企業の経営立て直しの一環として新聞を廃刊。

▲「新大阪」(1995年4月28日):長年にわたる販売、広告収入の低迷に
 加え、阪神大震災の影響による営業不振のため休刊。

●「北海タイムス」(1998年9月2日):1996年にオーナーとなった山崎種
 三氏が、1998年に社長に就任後、生え抜き役員と対立、山崎社長の休刊
 宣言などの混乱があった後、休刊、自己破産。

□「石巻新聞」(1998年9月30日):長引く不況で営業成績が年々悪化し、
 高額化する印刷設備、通信機器の更新が経営を圧迫した、として休刊。

(印の説明) ●=「第二県紙」、▲=大都市の夕刊紙等、□=地域紙
 もっとも、どこの業種でも、大手以上に厳しい状況に直面しているのは中規模以下の企業である。バブル経済の崩壊以降、新聞界でも、地方紙などの小規模紙に廃刊例が目立つようになった。筆者は九二年に、編集部から依頼されて、協会加盟紙の中でも相対的に規模の小さい新聞や同規模の協会未加盟紙の経営について『新聞経営』に寄稿した。このときは、前年の「関西新聞」に続いて、福岡県の「フクニチ」、「東京タイムズ」が相次いで倒れた直後だったが、今振り返れば、八九年末に日経平均が史上最高値を記録して以降、バブル経済の崩壊が始まった最初の時期に当たっていたことになる。この旧稿で筆者は、冒頭で三紙の廃刊に触れ、「小規模紙は経営危機が事業の存亡に直結する。昨今の状況の中で、小規模紙経営をめぐる諸問題の再考は切実な課題なのである。」と指摘した。筆者の基本的な認識は、この旧稿から変っていない。
 バブル経済の崩壊後、九〇年代に入ってから休刊・廃刊した協会加盟紙をまとめてみると、別掲のように八紙の例がある。旧稿の発表後では、九三年に「日刊福井」が倒れ、中日新聞に(言葉は悪いが)身売りする形で中日新聞福井支社の発行する「日刊県民福井」となり、九四年には「栃木新聞」が廃刊、九五年には大阪の夕刊紙の一角「新大阪」が消えた。そして今年、九八年の九月には、「北海タイムス」と「石巻新聞」が、前者は衝撃的な形で、後者は静かに、事実上の廃刊となった。個々の事例を見ていけば、休廃刊に至った事情は様々であるが、それぞれの背景にバブル破たんの影を読みとることは難しくない。


■小規模紙の苦しい立場

 バブル後の不況の打撃は、新聞事業の規模や種類の違いを超えたものであろう。しかし、そうした経営環境の悪化が、事業の行き詰まり、休廃刊にまで至るか否かには、新聞自体の事業形態や経営体力が大きくかかわってくるようだ。九〇年代に入ってから、休廃刊に追い込まれた諸紙のほとんどは、かつて言論の多様化を標ぼうして県紙に対抗しようとした(しかし、県紙には大きく差をつけられた)「第二県紙」タイプの地方紙か、大都市部の夕刊紙である。
 現在の日本の新聞界の業界秩序は、「一県一紙」統制という一九四〇年代前半の体制を基軸としている。戦後、GHQ支配下で新聞の自由が導入されたときも、「一県一紙」体制下で強固な基盤を築いた諸紙の解体は行われないままであった。結局、戦後に新たな有力全国紙やブロック紙が出現することはなく、「第二県紙」や、大都市の夕刊紙、地方都市などを基盤とする地域紙といった様々な小規模紙が、「一県一紙」体制下の全国紙・ブロック紙・県紙といった諸紙に加わる形で、業界の階層構造が形成されてきたのである。こうした体制は、一九五〇年前後から今日まで、基本的に変わっていない。
 こうした業界の構造の中で、多くの小規模紙の経営環境は、好不況の波の中で多少の浮き沈みがあるとはいえ、ほとんど常に厳しい状況に置かれてきた。とりわけ、「第二県紙」や大都市の独立系の夕刊紙の大半は、常にぎりぎりのところで厳しい綱渡りをしてきたといってよいだろう。さらに、首都圏など全国紙・ブロック紙の発行拠点に隣接した地域では、「一県一紙」体制下の県紙も弱体化して「第二県紙」などと同様の状況に立ち至ってしまう例が散見される。もちろん、県紙が早々と倒れてしまった地域もあり、そうした地域で後から新「県紙」を標ぼうして創刊された県域紙なども、結局は苦しい経営を強いられてきた。地域紙の中には事情が異なるものも多いので、小規模紙のすべてを一括して論じることはできない。しかし、有力な地域紙以外の、ほとんどの小規模紙は、戦後の業界秩序の下で苦しい経営が常態化していたといっても過言ではない。


■新聞はなかなかつぶれない

 そうした厳しい実態があったにもかかわらず、数多くの小規模紙がつぶれずに存続してきたのはどうしてなのだろうか。赤字続きの新聞社が、簡単には倒産せず、何とか営業を継続させているのは一体どうしてなのだろうか。
 一般企業であれば、単年度赤字が積み重なって累積赤字が拡大し続ければ、経営者は転業や廃業も含めた、厳しい選択を迫られる。もちろん新聞経営においても、健全な経営を確保すべく、経営者は努力をする。特に、編集権の独立を尊ぶ立場からすれば、経営が編集に干渉しない社内環境を保つためには、新聞社の内部から経営に必要な人材や資金が確保されていることが望ましいということになる。しかし、そうした努力にもかかわらず累積赤字が拡大していくような事態となったとしよう。新聞社がなかなかつぶれないのはここからである。
 現実に、(有力な地域紙は別として)小規模紙の多くは、現在のような大不況に立ち至る前から、本業である新聞発行の部分で慢性的な赤字体質を抱えていた。「北海タイムス」の最後号に、率直に綴られた「北海タイムスの歴史は経営難との闘いでもありました」という一節を見て、我がことのように感じた新聞人は少なくないはずである。このまま漫然と事業を続けても赤字が膨らむばかり、となれば経営にあたる者は文字どおり万策を尽くそうとするだろう。紙面改善や営業活動の努力といった、本業の新聞発行による収入増(購読、広告とも)につながる方策は当然取り組まれるはずだし、それ以外にも、経営合理化や財務の見直し、収入増の期待できる関連事業への展開などが試みられるだろう。実際、協会加盟紙の中にも、金融機関からの派遣役員を受け入れてきた社もあるし、様々な「副業」の部門を構えている社も少なくない。
 しかし、慢性的な赤字体質を抱えた新聞社にとって最も肝心なのは、「スポンサー探し」である。例えば、新聞以外の事業で成功した事業家が新聞社の負債を引き受けてオーナーになる、というのはよくある話である。事業家にとって、新聞社は収益性といった面からは魅力的な事業ではない。またかつては、新聞事業の所有が、言論の支配、情報の操作につながっていたが、メディアが多様化した今日では、一小規模紙を所有しても情報操作は行えない。しかし、新聞社の公共性に裏付けられた社会的威信は、いわば一種の含み資産、あるいは「のれん」として大きな魅力をもっている。オーナーとなる事業家は、他の事業で得た利益を新聞社という赤字部門に投じることで、自分個人や、自らが経営する企業グループの社会的威信を獲得できるのである。
 もちろん、「スポンサー」は、一人の事業家なり資産家である場合だけでなく、地域の特定の産業界や、特定の政治勢力など、複数の主体から構成されている場合もあろう。支援の仕方も、負債の肩代り、増資、(効果を厳密に考慮しない)広告出稿など、多様な形態が考えられる。これまで、慢性的な赤字体質を抱えた新聞社がつぶれることなく存続してきた背景には、多くの場合「気前の良いスポンサー」の影がある。しっかりと「スポンサー」を確保していくことで、新聞はなかなかつぶれず、生き延びてきたのである。


■問われる存在意義

 九〇年代に休廃刊した新聞のほとんどは、「第二県紙」や大都市の独立系夕刊紙であり、元々そうした「スポンサー」に依存する経営体質を抱えていた。バブル経済の崩壊の後、新聞を支えていた「気前の良いスポンサー」の本業が傾いて、新聞を支える余裕がなくなったとき、見放された新聞には自力で生き延びていく道はほとんど残されていない。怪しげな「スポンサー」の巻き添えで倒れた「関西新聞」は不運な特殊事例だとしても、親会社の企業グループがバブル後の生き残りに奔走する中で、ばっさり切り捨てられた「栃木新聞」の事例は、同じような立場にある小規模紙が少なくないだけに、広く新聞界に警鐘を鳴らしているといえるだろう。
 この厳しい不況下に、構造的な赤字体質を抱えた新聞が生き延びるには、「スポンサー」の支援を確保できるだけの説得的な存在意義がなければならない。「この新聞は、構造的に採算がとれない、しかし地域に必要な新聞なのだ」という認識が地域社会に共有されていれば、そこに資金を投じて支援することで社会的威信を得ようという事業家が現れるかもしれないし、地域の経済界が一体となって新聞を支えるかもしれない。しかし、そのような存在意義を示し得ないとしたら、新聞は地域社会から顧みられることもないままに消えていかざるを得ない。
 その意味では、言論の多様性を旗印にしてきた「第二県紙」や独立系夕刊紙が苦境に立たされているという状況は、メディア形態の多様化と個別メディアにおける寡占化の進行という、今日のメディアを取り巻く一般的情勢の反映と見ることも可能である。小規模紙に限らず、不幸にして寡占化傾向の中でとうたされそうな側にいるメディア企業は、他メディアとの競合の中での位置どりを含め、存在意義を地域社会に訴えていく方策を採り、支持を獲得していかなければ、未来への展望は開けない。


■地域紙の強み

 存在意義という観点に立てば、同じ小規模紙でも、地方都市における地域紙、特に地域における普及率で優位に立っている地域紙には、強固な基盤がある。地域紙は「地域に必要な新聞」であることが、何よりの強みなのだ。ひとくちに地域紙といっても様々な実態にあるので極端な一般化はできないが、有力な地域紙の多くは、この大不況下にあって、広告収入減を上手にしのぎながら、新たな広告主の掘り起こしや、部数の拡張に取り組んでいる。仮に、大不況のあおりを受けて構造的な赤字に陥った地域紙があったとしても、地域紙は「第二県紙」よりも強い存在意義を主張し、地域社会の支援を受けることができるだろう。
 もちろん、地域紙であっても、地域紙間の競争で劣位に置かれている新聞は、「第二県紙」などと同様に存在意義を強く問われることになる。「石巻新聞」は、九〇年代に廃刊した協会加盟紙のリストで唯一の地域紙であるが、筆者が石巻市の地域紙を調査した八〇年代はじめの段階で、既に、放置すれば存続が困難な状態にあった。石巻市には、協会未加盟の「石巻日日新聞」と、「河北新報」系列の「石巻かほく」という地域紙が存在し、地域紙の間でも厳しい競争が展開されている。「石巻新聞」の廃刊は、実態としてはもっと早い段階で整理されてもおかしくはない状態で存続していた新聞が、ついに幕を閉じたという性格のものであった。逆説的にいえば、それだけ地域紙はつぶれにくいのである。
 不景気の逆風の中でも地力をみせている地域紙は、少しずつゆっくりとではあるが、「一県一紙」体制にくさびを打ち込みながら、日本の新聞界の業界秩序の中にしっかりと根を下ろしてきたという歴史がある。一九四六年に日本新聞協会が結成された時、地域紙の会員は、現存する「室蘭民報」と「デーリー東北」の二紙を含め五紙程度だった。現在、協会に加盟している地域紙は二十一紙を数える。さらに、協会未加盟の地域紙の中にも加盟資格の基準に達している有力紙はまだまだ存在している。
 戦後半世紀、日本の地域紙は、ゼロから出発して、戦前の地方の群小紙とも、欧米のタウン・ペーパーとも違うスタイルを築き上げてきた。地域紙は、地域密着という特性を自らの存在意義とし、地域社会の支持の中で、全国紙や地方紙の競争とは少し離れた位置で独特のメディアとして発達してきた。メディアの多様化が進む中では、地域紙の基盤もいつまでも安泰ではなく、無代広告紙など新しいメディアによって、侵食されようとしているのだが、それでも地域紙の多様な経験の中には、他の新聞や、他のメディアが学ぶべき点が数多くある。
 地域紙を、新聞界の「底辺」としてではなく「先端」として見直し、その強みを吟味していく作業は、この大不況下におけるメディア企業の経営に大きな示唆を与えることだろう。

(参考文献)
山田晴通(一九八四)「宮城県石巻市における地域紙興亡略史−地域紙の役割変化を中心に−」『新聞学評論』三三.
山田晴通(一九九二)「「小規模紙」からみる新聞経営」『新聞経営』一二〇.

(やまだ・はるみち)



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