コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2001

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2001/03/23 ホームで警報が鳴った.
2001/03/31 銃撃する権利.
2001/04/25 リンゴの記憶.
2001/05/29 謎の「ホンシュ」市?.
2001/06/15 デジタル画像の笑顔.
2001/08/23 「ゲイシャ」を齧りながら.
2001/12/13 夏のクリスマス.<シドニー便り(1)>
2001/12/25 十二月の卒業パーティー.<シドニー便り(2)>


2001/03/23 

ホームで警報が鳴った

 つい先日のことだ。東京近郊のある駅で、私は都心に向かう上り列車を待っていた。平日午前のお昼に近い頃で、ラッシュ・アワーはもう過ぎており、ホームにいる乗客もまばらだった。ベンチに腰を下ろしていると、不意に聞き慣れない警報音が鳴り始めた。
 たまたま下りホームに到着したばかりの列車は、普通なら短時間ですぐに発車することろなのだが、停車したままになっている。一瞬、この下り列車が人身事故を起こしたのかと考えた。ニュースで見たJR新大久保駅の事故のことが、脳裏をよぎった。
 程なくして駅員がやって来て、ホームにいた男性客と何か大声で話し始めた。やはり警報音は、誰かが列車緊急停止装置を作動させたために鳴り出したらしい。断続的に聴こえるその男性客の話によると、上りホーム側で犬がホームから落ち、それを助け上げようとして、人が線路へ降りようとしたため、誰かが装置を作動させたのだという。
 そういえば、警報音のベルがけたたましく鳴って、何だろうと思っていたときに、中型犬を抱えた中年の女性が、ベンチにいた私の目の前を、改札口に向かって足早に通り過ぎて行った。
 結局、安全確認に時間がかかり、その駅に停車した下り列車も、一つ手前の駅で停車した上り列車も、およそ十分ほどの遅れで運行が再開された。
 愛犬家、愛猫家に限らず、ペットを愛でる人の中には、ペットを家族同然、人間同然に扱っている人が多い。それ自体は決して悪いことではないし、個人の自由である。特に近年では、日常生活のストレスを癒す貴重な存在として、ペットが注目を集めているし、住宅建設などの際にもペットとの共生を考慮することも盛んになりつつある。こうした方向に世の中が進もうとしていればこそ、公共の空間におけるペットに関するトラブルを避けるために万全を期すのは、飼い主の義務であるはずだ。
 JRはじめ鉄道各社は、(盲導犬は別として)犬などペット類を列車に乗せる際には、ケージに入れて持ち運ぶことを求めている。ヨーロッパなどで、リード(首輪に繋ぐ引きひも)をつけた状態での乗車が認められているのに比べれば、厳しい制限が課せられているわけだが、日本の列車のラッシュ時の混雑度や、文化的背景の違いを考えると、この制約も不当なものとはいえない。
 今回の出来事は、結果的には列車が少々遅れただけで、実害はなかった。しかし、一つ間違えば大惨事になっていたかもしれない。原因を作った犬の飼い主が、まだベルが鳴り続ける中、いち早くその場を立ち去ってしまったのだとすれば(おそらくそうだったのだろうと思うのだが)その無責任さは、とても残念なことだ。
 一部のペット愛好家の心ない行為で、ペット好きすべてに対する社会的な風当たりが大きくなるとすれば、それは社会全体にとって不幸なことであろう。


2001/03/31 

銃撃する権利

 前回この欄で、愛犬家とマナーの話題に触れたのだが、それと多少関係する別の話をご紹介したい。もともとヨーロッパには、肉食中心の食文化があり、狩猟や畜産といった動物に絡む活動が、文明に深く根ざしている。このため、日本よりもペットを飼う人は多いし、社会のルールも、動物の存在を前提として作られていることが多い。
 例えば、イギリスでは、一般の道路以外に私有地等であっても人の通行が認められている山道などをパブリック・フットパス(公共歩道)というのだが、山道には実はもう一種類、パブリック・ブライドルウェイという道がある。ブライドルとは手綱など馬を制御する「馬勒」と総称される馬具一式のことで、ブライドルウェイは乗馬での通行が認められている道なのである。
 ブライドルウェイはフットパスよりやや広く、傾斜も緩やかなことが多く、途中に馬の水呑み場が整備されているところもある。地図でもブライドルウェイとフットパスは区別して記載されている。私自身は、ブライドルウェイで騎乗した人を見たことは一度しかないが、この制度はイギリスの田園、山岳風景にしっかり定着しているのである。
 イギリスでは、都市の公園でも、動物の存在がルールの前提になっている。どこの国でも看板に指示が書かれている事項は、そうしなければ(あるいはそうしても)それに反する行為をしでかす輩が後を絶たないということなのだろうが、イギリスの都市で公園に行くと、入口にペットに関する説明が書いてあることが多い。よく見かけるのは「この場所では、犬は常にリード(首輪に付ける引きひも)を付けよ」といった文言である。
 リードを外した犬に投じたボールなどを取ってこさせる(フェッチ)のは、よく行われる訓練だが、要は、この公園ではだめですよと言っているわけである。しかもご丁寧に、「ここから近い場所で犬をリードから外して良いのは○○公園」などという記述もある。犬を連れての外出も、社会のルールによって制御されており、しかもそれが街頭のあちこちで明文化されているのである。
 しかし、私がイギリスで見かけた犬がらみの看板で、一番強烈だったのは、湖水地方でハイキングをしているときに見かけた一文だった。「犬は常にリードを付けよ」という、よく見かける看板と一緒に、「農民は、羊を追いかける犬を見つけた場合、それを銃撃する権利を持っている」と警告文が書かれていたのである。
 つまり、ハイキングのコースになっているパブリック・フットパス(公共歩道)などを犬にリードを付けて歩くのは構わないし、理論上は、リードがなくてもコースをただ歩いているなら宜しいが、コースから外れて、農場(放牧地)の羊を犬が追いかけようものなら、即座に銃撃されても文句は言えません、というのである。
 実際にこうした状況になって銃撃される犬がどれくらいいるのかは判らないが、狩猟で森に入る人々が猟犬を連れているのは当然だし、ハイキングにペットを連れて行く人も少なくない。これぐらいの看板が出るのも不思議はないのだろう。


2001/04/25 

リンゴの記憶

 並木路子の訃報に接して、改めて『リンゴの唄』を聞き直してみた。もちろん私は、同時代にこの曲を聴いていた世代ではない。しかし、少し遅れて、少し豊かな時代なってから、代表的な「懐かしのメロディ」として、戦後最初の大ヒット曲として、子供の頃から繰り返しこの曲を耳にしてきた。
 私が幼かった昭和三十年代、東京方面でリンゴといえば青森産というのが通り相場だった。木箱にもみがらといっしょに詰められたリンゴは、子供心に随分と貴重なものだったように記憶している。ゴールデンデリシャスなど、今のリンゴにつながる食味のものは特に値段が高かった。
 印象に残っているのは、国光や紅玉。今の品種より少しばかり小ぶりで、酸味の強い、歯ごたえのあるリンゴだ。加山雄三が昔やっていた歯磨きのコマーシャルではないが、丸かじりすれば歯茎から血が出そうだった。その頃から見て、既に十年以上前の大ヒット曲だった『リンゴの唄』のリンゴも、酸味が強く、固い、昔風のリンゴだったはずだ。
 『リンゴの唄』は、戦後の映画制作第一号だった松竹映画『そよかぜ』の主題歌で、並木路子と霧島昇のデュエット曲である。手許の復刻盤CDの解説によると、この映画のもう一つの主題歌『そよかぜ』を並木と録音するためにスタジオにきていた霧島が、もともと並木のソロ曲だった『リンゴの唄』を聴いて気に入り、無理やり自分も歌うデュエット曲にしたのだという。既に大歌手だった霧島のセンスのよさと強引さを物語るエピソードである。
 霧島の歌う二番は、まるで並木をリンゴに見立ててその愛らしさを歌っているように聞こえてくる。この歌詞はやはり男声で歌ってこそ活きてくる。曲を締めくくる四番の歌詞では、並木と霧島が一緒に、歌は一人より二人で、さらにはみんなで歌うのが楽しい、という意味の歌詞を高らかに歌う。軍歌や戦意高揚を目的とした歌のように、人々を何かに動員するために声を合わせる歌ではなく、みんなで歌って楽しむ歌が戻ってきた。『リンゴの唄』は、そういう位置づけに応える歌でもあったのだろう。
 『リンゴの唄』が街に流れた頃は、物資が豊富にはない時代だった。しかし、そこには固くて酸っぱい小ぶりのリンゴとともに、物ではない歌声や、友愛や連帯が、社会の中に豊かな形で存在していた。物がなかった分、形ある物ではない、形のないものが大切にされていたのだろう。
 半世紀以上の時が流れて、昨今では物がなかった時代のことを想像することさえ難しくなりつつある。戦争の記憶だけではなく、戦中・戦後の生活の記憶も、もっと語り継いでいく必要があるのではないだろうか。
 「戦後は遠くなりにけり」である。


2001/05/29 

謎の「ホンシュ」市?

 今年度は国外研究の機会を得て、シドニーに滞在することになった。既に、四月に現地に渡航し、研究の準備作業を進めている。
 現在は一時帰国しているが、七月以降はシドニーから動かない。現地滞在中は、このコラムでも、シドニーやオーストラリアの話題を取り上げることになるだろう。
 さて、今回紹介するのは、シドニーの話ではない。一時帰国のためにシドニーから成田まで飛んだときに気づいた、重箱の隅をつつくような話である。
 旅客機に乗ると、長時間の退屈さを紛らわすためにビデオ上映がある。また、ビデオのあい間には、その時点における飛行機の現在位置を示す地図の画面や、飛行速度や飛行時間などのデータを表示した画面がスクリーンに投影される。
 こうして映し出される地図には、縮尺の違う数種類があり、その飛行機が今どの辺りを飛んでいるのかが、分りやすく表現されている。晴天に恵まれた昼のフライトなら、眼下に見える都市の名を知る手がかりが得られるし、夜や、地上が雲に覆われる天候でも、深い闇や雲海の向こうにある都市に思いをはせることができる。
 夜遅くシドニーを発つカンタス航空の夜行便は、早朝に日本に近づく。朝になってからは長編の映画は上映されないから、件の飛行データや地図の画面をもっぱら眺めることになる。「重箱の隅」に気づいたのはそんなときだった。
 日本に近づいてくると、主な都市名が表示された日本の一部を示す地図が表示される。東京付近から名古屋辺りまでが一枚の画面になっていて、前橋、東京、横浜、静岡、浜松、名古屋といった都市名がローマ字で表示されている。都市の位置は白い点になっている。
 ところが、この地図の中央やや上方、松本平か諏訪辺りと思しき位置にも、白い点が打たれているのである。そこにはなぜか「ホンシュ」とある。もちろん、これは「本州」なのだろうが、「ホンシュ」の文字は、他の都市名と同じ形、同じ大きさのアルファベットで、日本のことをよく知らない人が見たら、そこに「ホンシュ」という都市があるのだろうと誤解しそうな表現になっている。
 以前、ある日本の航空会社の便に乗ったときに、那覇市の位置に点があって「沖縄」と書いてあったのを見つけたことがあった。沖縄市(旧・コザ市)と那覇市は位置が違う。「沖縄」を県名と考えるなら、他の地名が都市名ばかりであることと整合性がない。
 「ホンシュ」や「沖縄」に限らず、同様のことは、我々が気づかないだけで、外国の地名でも起こっている可能性がある。この手の地図は、実は結構いい加減なものなのかも知れない。
 私が見た地図上の白い点が、実際にどこに打たれていたのかは、厳密には確かめようがない。しかし、もし実際に松本市付近に白い点があるなら、例えば松本市役所なりが正式にカンタス航空に申し入れれば、件の「ホンシュ」は「マツモト」に改めてもらえるかもしれない。そうなれば、オーストラリアの人々に「マツモト」の名を知ってもらう一助になるはずだ。

2001/06/15 

デジタル画像の笑顔

 文章を読み出す前に気づかれたかもしれないが、今回から、この欄の顔写真が、新しいものになっている。
 この「ランダム・アクセス」が始まったのは、九年前の一九九二年春だった。執筆者の顔写真が掲載されるようになったのは、同年の秋だったが、それ以来、顔写真はずっと同じものを使ってもらっていた。十年近い時間が経ち、さすがに写真と実物がかけ離れてきたのだろう。昨年の年末に、編集部から「新しい写真を用意して」と求められた。確かにこの間に、歳をとり、体重は増え、髪も薄くなった。
 前回まで使っていた顔写真は、当時勤務していた松商学園短期大学の卒業アルバムにあったスナップ写真を流用して、顔の部分だけを切り取ったものだった。証明写真のような固い感じがなくて、自分でもずいぶんと気に入っていたし、「にこやかな印象でいい」と評判もよかった。
 新しい顔写真が必要ということになり、とりあえず手許にあるスナップ写真や証明写真の類をいろいろと引っぱり出して探してみたのだが、なかなかよい雰囲気のものがない。自分自身の顔というのは、普段から直接見るものではないから、イメージの中では適当に美化されている。ところが、写真は容赦がない。「写」し出された「真」の姿を見て愕然とするのは、程度の差こそあれ、誰しも経験があるだろう。
 もっとも、写真は撮影の仕方や、焼き付けなど仕上げの工夫で、ずいぶんと印象が変わるものである。スナップ写真と、ポーズを決めてのポートレイトでは、同じ人物でも雰囲気は異なって当然だ。同じポートレイトの証明写真でも、素人の撮影とプロの撮影では、まったく別物になる。さらに、写真館で撮影して貰っても、店によって力量や個性の違いがある。就職活動をする学生たちの中には、履歴書用のポートレイトを選ぶために、何軒もの写真館を回る者もいる。
 いろいろと考えた末に、今回は大学の技術スタッフの助けを借りて、デジタル動画からフレームを選び、簡単な画像処理をして、デジタル画像として編集部に写真を渡すことにした。カメラでシャッターを切ると、どうしても撮影の瞬間に緊張し、自然な表情が出にくい。そこで、デジタル・ビデオを回しっぱなしにして、その前で笑顔を作り、後で気に入った瞬間の表情を取り出そうというわけである。
 今回は、こうして得た画像に簡単な処理を施し、編集部に電子メールで画像を送った。昨今では新聞紙面の写真も、ほとんどがデジタル・カメラで撮影されたデジタル画像になっている。インターネット経由の原稿や写真のやりとりも日常化している。本当に便利になってきたものだ。
 デジタル画像は、加工の容易さが大きな特徴になっている。やろうと思えば、薄くなってきた髪を増やすことも、仏頂面を笑わせることも可能だ。もちろん今回は、画面を明るくしただけで、それ以上の加工はしていないが、デジタル画像の場合、「写真」に「写」っていても「真」の姿とは限らない。
 てきぱきと手際よく作業を進める技術スタッフの仕事ぶりを見守りながら、便利さとともに、ある種の怖さも感じた経験だった。

 編集部に送った画像(フルサイズ)


2001/08/23 

「ゲイシャ」を齧りながら

 ある国際学会に参加するため、はじめてフィンランドに渡り、トゥルクという歴史の古い街に一週間ほど滞在した。もちろんここは北極圏ではないが、夏時間の関係もあって夜の十一時過ぎまで空は明るい。十二時になっても北の空は明るさが残っているし、朝方は三時過ぎには明るくなり始める。起きている間がずっと明るいというのは稀有な体験だ。この長い昼のせいもあって、学会では、通常の行事が終わったあとも、午後六時からレクチャーがあった。さらにその後も、顔見知りが毎日のようにビアホールに集まり、議論の花を咲かせた。
 世界各地からの参加者たちと雑談していたら、フィンランドはヨーロッパの中でもちょっと変わった文化があり、日本に通じるところがあるという話になった。例えば、フィンランドを代表する作曲家といえばシベリウスだが、彼の作品がよく演奏されるのは母国フィンランド以外では、イギリスと日本くらいなものなのだそうだ。
 また、「サウンドスケープ」つまり「音の風景」という、もともとカナダの音楽家が提唱した発想が、もっとも深く受け入れられている国がフィンランドと日本だという話もでた。フィンランド人のヤンソンが創作したムーミンの人気がこれだけ高いのも、母国のフィンランドと、日本くらいらしい。アメリカからの参加者は、ムーミンをまったく知らなかった。フィンランド人はサウナが日常生活の一部だが、こうした蒸し風呂を好むというのは、他のヨーロッパ人にはアジア的と見えるようだ。
 もともとフィンランド人の先祖は、シベリア方面からここに来た「アジア系」と考えられている。彼らは、ロシアなど東方のスラブ系と、ドイツやスウェーデンなど西方のゲルマン系の狭間で、少数勢力として厳しい歴史を歩んできた。
 現代のフィンランド人を見てもとてもアジア系とは思えないが、言語的には確かに他の主なヨーロッパの言語とは異質である。フィンランドでは、人口の五パーセント強にあたる人々がスウェーデン語を母語としており、フィンランド語とスウェーデン語の両方が公用語となっている。もちろん、両言語に通じている人も少なくないのだが、言語系統が大きく異なるので、大多数の人は母語しかわからないのだそうだ。
 ヨーロッパの一部だが、ちょっと異質だというフィンランドの位置づけは、ヨーロッパではないが価値観を広く共有する日本に通じるものがあるのかもしれない。確かにフィンランド人には、日本びいきがけっこういるようだし、物事に対する感受性が近いのかもしれない。
 そのせいかどうかは知らないが、地元の食料品店でよく見かけるチョコレートに「ゲイシャ」という商標のものがある。ピンク色の包装に芸者のイラストがあしらわれたパッケージで、さっぱりしたナッツ味だ。しかし、フィンランドの文化と日本の文化をつらつら比較して考えながら齧ってみると、随分複雑な味のようにも感じられるから、不思議なものである。

 フィンランド〜英国日記:2001年7月3日〜7月19日


2001/12/13 

夏のクリスマス <シドニー便り(1)>

 今年度は国外研究の機会を得て、オーストラリアのシドニーに滞在している。春先に一度、準備のために渡航した後、七月下旬に再渡航した。このまま来年三月まで、当地に滞在する予定である。
 再渡航後は、このコラムもしばらくサボっていたが、今回から、シドニー便りという形で、この間、いろいろと見聞きしたことなどを紹介させて頂く。
 オーストラリアは、南半球にあるので、季節は日本と逆になり、今は北半球の六月に相当する初夏である。オーストラリアの大部分では、日本の梅雨のような雨季はない。この時期、シドニーでも雷雨は時々あるが、短時間しか続かない。雨が上がればすぐまたカラッとしてくる。東京よりは信州に近い気候だが、湿度は更に低い。
 季節に半年のずれがあると、年中行事にも雰囲気に変化があっておもしろい。その極めつけが、夏のクリスマスである。
 多文化主義を掲げ、様々な移民の文化が共存するオーストラリアだが、キリスト教の社会的な位置づけは非常に大きい。各宗派の教会は、それぞれ社会生活に密着した存在として、日常的に様々な活動を展開している。当然クリスマスも、日本のように浮かれ騒ぎばかりの日ではない。クリスマスは人生や社会を見つめ直す契機となる厳粛な日である。
 日本の小中高に相当する学校では、クリスマスの前の週までで、学年が終了する。一年を締めくくり、卒業生を送り出すパーティーが行われ、そこから五週間ほど学校は休みになる。子供たちにとって、クリスマスは一年を締めくくり区切りであり、楽しい夏休みの始まりである。
 クリスマスは、家族が集い、絆を深める機会でもある。家に飾り付けをするのも、家族の集う場を、特別なものにしたいという思いが込められている。クリスマス当日の二十五日と、翌日のボクシング・デイ(プレゼントの箱を片付ける日という意味)はどちらも休日で、連休となる。普段実家を離れている家族が戻って来るのがクリスマスである。
 商店の店頭には、九月頃からクリスマス用品のコーナーが登場していた。季節が春から夏へと移ってゆくにつれ、商店はもちろん、普通の家の窓や庭などに、クリスマスの飾り物が目立つようになった。飾りつけは赤と緑の装飾が中心だが、雪をイメージした白い飾りも結構見かける。クリスマスといえば、やはり雪らしい。
 タスマニア州などを除けば、オーストラリアの冬は概して穏やかで、雪の降る地域はほとんどない。シドニーが真冬だったはずの七月にも、気温は同じ七月のロンドンと大差がなかった。オーストラリア人が、雪の積もった冬景色を擬似的、間接的に見る機会が多いのは、テレビで北半球の冬が報じられ、冬景色を思わせるクリスマスの飾りつけが街中に氾濫する、この初夏の時期なのだろう。
 もっとも、こちらで見かけるクリスマス・カードには、半ズボンにハットを被ったサンタ・クロース(当地の郵便配達夫のような服装)がカンガルーやコアラにプレゼントを配っている図柄や、半裸のサンタが、サーフィンをしていたり、浜辺でくつろいでいるといった、オーストラリアらしい図柄もある。
 いろいろなクリスマスのイメージが入り乱れる中、「盆と正月」ならぬ「夏休みとクリスマス」が、オーストラリアならではの形で一緒にやって来るのはもうすぐである。


2001/12/25 

十二月の卒業パーティー <シドニー便り(2)>

 クリスマスから正月にかけて、オーストラリアは夏休みだ。公けの休日は、クリスマス当日とその翌日、それに元日だけだが、公共機関でも、日本のお盆のようにその間ずっと休むのが一般的だし、学校は、丸々ひと月以上が夏休みになる。
 その夏休み前に、娘が小学校を卒業した。こちらでは、一つの学期が正味十週間の四学期制で、学年の始まりが一月末、終わりがクリスマス前になる。学期と学期の間の休みはそれぞれ長さが違い、五週間ほどある夏休みが一番長い。八月下旬から地元の小学校へ通い始めた娘は、第三学期の後半と第四学期に在籍したことになる。
 日本で小学校を卒業するといえば、卒業式に親もたくさん集まるという感じだが、こちらでは、季節のせいもあるのか、随分と勝手が違う。そもそも日本のような、卒業証書を授与する卒業式は、あまりないようだ。
 娘の卒業証書は最後の週の火曜日に、担任の先生が教室で配ったのだそうである。確かに日本の卒業証書のような立派な感じではない。それでも、娘がこれを持ち帰ってきたときは、こちらも思いのほか嬉しかった。
 卒業証書をもらってきた翌日も、授業は普通にあり、娘は学校へ出かけて、制服(普段着の体操服)の背中いっぱいにクラスメートのサインをもらってきた。しかし、最大のイベントは、この日の夕方六時からのパーティーである。これは、五年生が主催して六年生を送り出す会で、食事が出て、ダンスや余興もある。親が顔を出すものではない。娘はいったん帰宅して私服に着替えてから、ビデオカメラを抱えて一人で会場に向かった。
 パーティーの終了は午後九時を回る頃になるので、出迎えには行かなければならない。その時間に合わせて、小学校に近いレストランで食事をすることにして、午後七時過ぎにいったん会場の体育館を覗きに行った。体育館の外では、十人ほどの父母が涼をとりながら、ビール片手に腰掛けて談笑している。
 入口から中を少し覗いてみると、在校生代表と思しき子がスピーチをしている。子供たちは、数名ずつテーブルについている。盛装している子がかなり多い。子供でも、パーティーにはイブニング・ドレスという感じなのだろう。ちなみに外にいる親たちは、当然ながら皆カジュアルな格好だ。ネクタイをしているのは、中にいる校長と副校長だけだ。
 こちらも食事を終えて再度戻ってみると、ちょうど最後に卒業生一人一人の名前を読み上げているところだった。卒業証書は昨日既にもらっているはずだが、何だろう。覗いてみると、記念品(ボールペン)を校長が一人一人に渡している。名前が呼ばれると拍手が起きる子もいる。
 結局、パーティーがお開きになったのは九時半を回ったころだった。驚いたことに、さらにその翌日の木曜日の朝も、娘はいつものように登校した。さすがに授業らしい授業はなかったらしいが、級友と別れを惜しんできたようだ。これでシドニーでの小学校生活もおしまいである。(ちなみに最後の週の金曜日は休日だった。)
 われわれは、三月に帰国するので、娘は日本の小学校も卒業することになる。こちらはどうなることだろう。


このページのはじめにもどる
2000年///2002年の「ランダム・アクセス」へいく
テキスト公開にもどる

連載コラムにもどる
業績外(学会誌以外に寄稿されたもの)にもどる
業績一覧(ページトップ)にもどる

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく