私的ページ:山田晴通

フィンランド〜英国日記:2001年7月3日〜7月19日


 今回の旅行は、国際ポピュラー音楽学会第11回大会への参加と、来年度以降の本格的な調査に向けた英国での資料集めが主な目的でした。
 ここでは、山田の備忘録に掲出したときと同じように、個人名等は伏せた形で掲出します。文中にある料金のうち、宿泊費は一人で泊まる場合の金額です。1フィンランド・マルカ(FIM)は20円くらい、1ポンドは190円くらいです。
 このページへの転記に際し、原文の明らかな誤記は訂正しました。
 また、フィンランドで滞在した都市の名称は、当初は「テュルク」としていましたが、このページでは「トゥルク」に改めました。これはフィンランド語の名称で、もう一つの公用語であるスウェーデン語では「オーボ」といいます。

 →写真のインデックス
■ 2001/07/03 (Tue)
長い一日
大学から東京駅を経由して成田へ。
今回は、見送りなしの気楽な旅立ち。
スカンジナビア航空のコペンハーゲン便は、ジャンボ機ではなく細身のB767。ジャンボ以外で長時間というのは初めてかもしれない。機内ではまわりのお客さんたちと話もせず、うとうと眠るか音楽を聴くか、あえてビジネス・クラス席から回して貰った『南ドイツ新聞』を読む(というより知っている単語を拾う)かして時間をつぶした。 コペンハーゲンでは乗り継ぎが3時間以上あるのだが、初めてのところで慌てて市内へ行く気にもなれず、空港内をぶらぶらする。
ここでは、出発の1時間少し前にならないと搭乗口も決まっていないというシステム。最初は要領がわからずちょっと戸惑った。
8時過ぎの出発という乗り換え便を7時過ぎから搭乗口で待っているうちに熟睡に近く居眠りしてしまい、搭乗開始時にほかのお客さんに起こされ、乗り込む。
スカンジナビア航空の子会社エア・ボトニアの便は、フォッカー社(昔は爆撃機を作っていた)のF28(乗客70人乗り)で、これくらいの飛行機に乗ったのは、ホノルル=リフエ以来だ。機中のアナウンスで気づいたのだが、「トゥルク」の発音は「トルコ」に近く聞こえる。
トゥルクに到着して、タラップを降りると、空港はリフエや松本と同じか、もっと小さいくらい。パスポートのチェックも何もない。預けている荷物もないのですぐ外へ出てしまった。もう午後11時近い。バスはまだあることがわかったが、他の乗客は迎えがきているか、タクシーに乗っている。どうしよう。銀行も何もなく、現地通貨が手に入らない。 どうしようと思っているうちにバスがきたので、運転手にクレジット・カードと日本円しかないが何とかバスに乗れないかと話してみる。当然だが、だめだというので、とりあえず市内までの道(約8km)を教えてくれと食い下がる。そうこうしているうちに、見かねた乗客が10フィンランド・マルク(200)円くらいのバス代を出してくれるということになった。結局、手元にあった1000円札を渡して、もう少し小銭を融通してくれないかと頼み、20マルクちょっとをもらった。
市街地の中心になる市場のある広場 Kauppatori = market place で降車し、地図を頼りに5日からの予約を入れてあるホテル Hotelli Tutun Karina = Hotel Karina Turku まで行ってみることにする。夜中近いというのに空はまだ明るさが残っていて、夕方という感じだ。幸い、空き部屋があり、シングルベッドが2台入ったツインの部屋(47号室)に落ち着く。
■ 2001/07/04/ (Wed)
トゥルク市中心部を歩く
朝は6時過ぎに起床。シャワーを浴び、洗濯をする。
朝食は結構充実していて、ハムやチーズ各種をいろいろ楽しむ。
はがきを書くなどして、9時頃から中心部の市がたつ広場へ出て、いろいろ用を足した。
まずホテルのフロントで、銀行と電気屋の場所を尋ねてから出発し、薦められたとおり広場に面したFOREXで日本円5万円分をフィンランド・マルク(FIM)に替える。2700FIMちょっとになる。
2002年はじめからのユーロ通貨貨幣の流通開始で、この国でも独自通貨はなくなる。店頭には関連する説明資料がいろいろ置いてあった。
次に広場から1ブロックほど西へ進み、ストックマンStockmannという百貨店風のところの2階で、電話と電源のアダプターを店員に探してもらった。
結局、電話のプラグは台湾製があり5FIM。電源のほうは、ACアダプタに差し込むラインを探してくれたのだが、商品がなく、店で使用していない余りものをタダでもらってしまった。
さらに少し西へ進み、中央郵便局で切手を買って最初のはがきを出す。郵便局舎の外壁には弾痕が残されていて、「1940年の<冬戦争>の際に空襲で銃撃された跡」という説明のプラークがついていた。通常の、フィンランド語とスウェーデン語に加えて、わざわざ英語の説明があるということは、外国からの観光客にもこれをアピールしたいということだろう。
少し東に戻って書店に入り、ロードマップとロンリープラネットのフィンランド購入。結構割高だが仕方ない。425FIM。
川沿いに出て、東へ進み、絵はがきの定番になっている大聖堂の前へ行く。工事中で今ひとつ風情に欠けるが、まあこんなものか。時報なのか鐘が鳴り出した。
大聖堂の脇をさらに東へ進み、シベリウス博物館へ行く。モダニズムとコンクリート剥き出しの、地上一階、地下一階のシンプルな建物で、シベリウスに関する資料の展示は事実上一部屋だけだが、楽譜、パンフレット、写真、手紙等といっしょに、米国エール大学から名誉音楽博士号を贈られたときのガウンがあって面白かった。パソコンで英語による説明をひと通り見て、交響曲一番を聴きながら展示物を見た。
残りの展示は、民族楽器から自動演奏機械、おもちゃの楽器に至る各種楽器のコレクションで、こちらは教育目的といった感じが強い。学校のある時期(8月から5月)には定期的に演奏会をやっているという中央のスペースでは、トゥルクの夏の音楽イベントのポスターの歴史を展示していた。入館料15FIM。絵はがき(写真をそのまま使うもの)を3枚買う。これも1枚5FIMで、これくらいが絵はがきの相場らしい。
そのまま大学の構内を歩く(といってもヨーロッパの大学らしく、街中を歩いているとそのまま大学の建物が建て込む所を通るというだけだが)。
少し南へ進んで「テクノロジー・センター」を経由して、ホテルに戻った。
部屋では、さっそくインターネットへの接続を試みたのだが、どうやっても地元のアクセス・ポイントに入れない。仕方なく何と国際電話を東京にかけて、メールの送受信をする。インターネットの意味がない。情けない。
インターネットをいじっていてやる気がうせたので、ホテルの近所を散歩することにし、書き足したはがきを近くの小さい郵便局から送る。その角を曲がって南へ進み、ガソリンスタンドのコンビニで飲み物やクッキー、パンに魚の酢漬けなどを買ってくる。「芸者」という名前のチョコレートがあるのには少々驚き、思わずこれも買ってしまった。
朝が早めだったせいか、やはり時差ぼけか、午後7時頃にはかなり眠たくなり、結局しばらくテレビを見た後、寝てしまった。午後9時頃か。
■ 2001/07/05 (Thu)
美術館から美術館へ
朝5時過ぎに起床。
東京からメールで送ってもらったアドバイスにしたがって、とりあえずヘルシンキのアクセス・ポイントに繋げるようになる。
朝食は昨日より遅く9時頃。
その前後は、メールを出したり、この日記を作り始めたりとインターネットをいろいろいじる。
昼少し前にホテルを出て、丘の上のトゥルク美術館 Turun taidemuseo へ行く。エーデルフェルトというかろうじて名前を聞いた記憶があるという程度のフィンランドの画家の作品展をやっている。入館料45FIM。
実は、大して期待していなかったのだが、魅力的な肖像画に感銘を受けた。今回の展示は、画家のパリ留学時代の作品を集めた展示だが、特にパステル画の小品に魅せられた。残念ながら、この展覧会のカタログは編まれていない。別の展覧会のカタログと絵はがきを買う。65FIM。
この美術館は、二百年近く前に気象台(天文台)として建てられ、その後、海員学校、海事博物館として利用された後、三年前から美術館に改装されたという、建物自体が興味深いものだった。
この美術館を頂く丘 Vartiovuorenmaki の斜面には、公園や、古い町並みを保存しつつ博物館に利用している工芸博物館などが置かれている。芝の上で公園では日光浴をする人々や、逆に日陰でビールを飲んでいる人々もいた。
テレビの天気予報では気温が26-27度になるといっていたが、確かに日向では汗が出る。
大学で参加登録をあっけなく済ませ、商店を冷やかしながらホテルまで戻る。ホテルへの帰途、スーパーらしきものを見つけ、飲み物などを買い、部屋に戻って昼食にする。
レセプションが午後7時から、川沿いのウェイノ・アルトネン美術館 Waino Aaltonen museo であるというので、少し前の時間にロビーへ降りると、数名のIASPM参加者と思しき人々がいて、一緒に出かける。レセプションが行われた美術館では、ちょうどオリ・ルティケネン Olli Lyytikainen という画家の回顧展をやっていた。画家のポラロイド・コラージュ作品が集められた展示室で、ワインと軽食が振舞われる。
日本からは関西のO先生と、S先生がいて、いろいろな方に紹介してもらえた。金沢へ来た人も結構いて、こちらが覚えていなくても、思い出してくれる人もいた。
美術館では、ビアホールなどでお楽しみに歌われる古い歌などをレパートリーとする二人組み(M.A.Numminen & Pedro Hietanen)が演奏して座を盛り上げ、さらにひと通り展示を見て回った。
午後9時に、元学校の校舎と改装したビアホール「Koulu」へ全員で移動し、さらにビールを飲みながら、先の二人組みのステージを、いわば現場で楽しんだ。
部屋に戻ったのは夜中の12時近く。南の空には低く満月が出ているが、北の空はまだ明るい。一口だけ飲んだワインのせいもあって、すぐに就寝。
■ 2001/07/06 (Fri)
学会がはじまる
朝5時8頃、起床。
昨日が遅かったこともあって少々寝坊気味。昨夜は窓を開け放したまま寝たので、涼しくなって熟睡できたようだ。
朝食後、会場へ直行。既に挨拶の類が終わって、ちょうど最初のラウンドテーブルに入るところだった。ところが、聞き始めたものの英語がすんなり頭に入ってこない。ペーパーを読む形の難しい文体を読み上げられると、語彙力の不足からなかなかついてゆけない。
ついつい、呆然として、そのまま居眠りに入ったりしてしまう。
ラウンドテーブルに続くセッションでは、チリ、スウェーデンの発表に続いてS先生が登壇し、クレージー・キャッツを素材に話をされていた。聞きなれている日本人の英語は、英語が達者な方でもやはり聞きやすい。当たり前か。
昼食は、立食パーティーのような感じで料理も豊富に用意されている。もっぱら鮭の切り身など、魚をとって食べる、満腹に近く、また眠たくなってしまう。
自分の発表は、午後の最後なので、午後前半のセッションはパスしようかとも思ったが、カントリーとロックの話を聞きに行く。やはり英語がすんなり入ってこない。
いよいよ自分の発表のセッションが始まる時間になったが、機材のチェックだけして最初は席をはずし、ABBAの曲を取り上げた他のセッションの発表を聞きに行く。これはわかりやすい英語で(というより、ようやくこちらが英語に慣れてきたので)面白く聞けた。自分の会場に戻ると3番目のはずのU君(日本人)がしゃべり始めている。2番目の発表予定者が未着らしい。続いて自分の番になり、とりあえず原稿なしで一生懸命しゃべる。あっという間に時間が過ぎた。これで質疑になるかと思ったら、未着と思われていた発表者が来ていて、発表することになった。その後、若干の質疑があって無事終了である。正直なところ、まともな質問があったというだけでも、発表してよかったと思う。
引き続き、日本人参加者諸氏とともに、シベリウス博物館での北欧のポピュラー音楽に関する連続レクチャーに出かける。もちろん知らないことだらけで勉強になる話だったが、ハノイ・ロックスがフィンランドのマイノリティであるスウェーデン語話者のバンドだったとは知らなかった。
レクチャーの後で、O先生、Y君、U君と食事をしに市場広場付近へ出た。結局、広場に面したホテルの外庭で、ジャズの生演奏を聞きながらピザなどを食べた。演奏しているのは髪の毛を短く刈った、いかにも高校生か大学生という感じの男性4人だが、なかなか達者なので驚いた。
その後さらに、昨日と同じビアホールへ行き、9時半から、電子楽器(シークエンサーやらテルミンやら)などを使った前衛的な二人組みのパフォーマンスを見た。こういうのは確かに面白いし、結構楽しめたのだが、毎日聞くものではないとも思う(これはインド音楽で眠たくなるようなのも同じ)。結局その後のプログレには行くのをやめて宿に戻る。今日もすぐ沈没して寝る。
■ 2001/07/07 (Sat)
やっと少し英語がわかってくる
今朝も起床は8時頃。
9時からの最初のラウンドテーブルは間に合わないと覚悟して、最初から10時30分目標で支度をして、朝食とメールチェックを済ませる。ちょうど午前のコーヒーブレイクのときに会場に到着。
今日は、エスニシティやらアイデンティティやらがテーマで、地理学的な感覚で見ることもできそうな発表が多い。午前中は、オーストラリア、ニュージーランド、ウェールズの話をそれぞれ聞く。やっと英語がわかり始めた感じで、面白く聞けた。特に、ウェールズ語に焼きなおされたウディ・ガスリーの「This land is your land」の話は興味深かった。
昼は例によって立食形式。またまた鮭の切り身が主食となる。塩味がちょっときついが、とても美味しい。
午後の最初のセッションは、合衆国に移民したペルーの山岳民のお祭りの話、モントリオールのサルサ・ダンス教師の言説の話、マケドニアの首都スコピオのラジオ事情と、これまたいろいろな意味で勉強になった。午後のコーヒーブレイクではショートケーキを二切れも食べる。午後後半のセッションは、あまり英語が頭に入らず、早々に切り上げてホテルに戻った。途中、また別のスーパーを見つけて飲み物を買う。
午後6時からのシベリウス博物館でのレクチャーは、アイスランドとノルウェーのポピュラー音楽事情の紹介。1986年、妊娠中だったビョークがシャウトしている、パンク・バンドのビデオなどを見る。ノルウェーの方は、なんと言ってもメタル系、特にブラック・メタル(黒魔術、悪魔崇拝の類)の話で盛り上がった。
その後で、中心部へ出てウィンドウ・ショッピング。というのも今日は土曜日で、大半の店はもう早仕舞いしているので何も買えないのである。昨日までと同じようにKouluへ行くが、今ひとつ面白くなさそうなのと、疲れがたまっているのを感じたので、あえて早めにホテルに戻った。それでももう10時を回っている。
■ 2001/07/08 (Sun)
創業者の言葉
今朝の起床は9時少し前。だんだん遅れてきているのが判る。
今日も、最初から10時30分目標で支度をし、コーヒーブレイク中に会場に到着。
最初に聞いたのは、地元フィンランドの大学院生による、クイーンについての報告だったが、単に英語音楽メディアで不当に低く評価されてきたクイーンをもっと評価してロック史にきちんと位置づけよ、というアジテーションに終わっていて、少々がっかりした。「結局、君はクイーンのファンなの?」などという質問が出ていた。しかし、それでもIASPMの参加者は概して若い人に優しい。いろいろアドバイスをしている感じが興味深かった。 今日の共通テーマは「見えざる主流」というのだが、今ひとつ魅力的な発表に乏しく、早めにランチに行って、食事を済ませた。
午後の前半のセッションは、Yさんが発表する「ハードロックとヘヴィメタル」の部屋に行く。最初のゴシック・メタルの話はよくわからなかった。次のヘヴィメタルにおけるモード奏法の解析は、音楽学的なことはチンプンカンプンだったが、こういう方向での議論もあり得るのだなあ、という感じで聞けて勉強になった。最後にYさんのビジュアル系の話だったが、時間が足りなくなって、事実関係の紹介に終始した感があり、少々残念だったが、海外の研究者には興味を引く素材だけに、たくさん質問が出てよい発表になった。 午後後半は、オーストラリアのラジオの話を少し聞いてから、抜け出して、O先生がパネルとして参加するサウンドスケープのラウンドテーブルへ出た。しかし、サウンドスケープ論をやると陥りがちな感じの話に終始して、議論が深まらず、ちょっとがっかりした。
午後6時からのシベリウス博物館でのレクチャーは、スウェーデンのポピュラー音楽事情の紹介だったが、本当にレクチャーで少々難しく、音楽もあまりかからない状態(みんな知っているからということで、ABBAさえなし)でつらかった。7時からの検閲問題のパネルはパスして、O先生と中心部へ戻り、街中のテックスメックス料理屋で食事をする。そこではABBAが流れ、隣の席の少女が歌を一緒に口ずさんでいた。
午後9時30分からは、いつものビアホールで「創業者のイベント」と称して、最初の創立時の委員だったポール・オリバーとフィリップ・タグのスピーチを聞く会があった。飄々と回顧談を語る(でもちょっと早口で英語が聞き取りにくい)ポールと、ユーモアを交えながらも辛らつにIASPMの現状を分析した演説を読み上げたフィルのスピーチは、それぞれに有益だった。
今日も、ここまででホテルに戻ることにし、部屋ではすぐ就寝。
■ 2001/07/09 (Mon)
長い、長い一日
前日、早めに寝たのが良かったのか、7時半頃には眼が覚める。
プログラムから考えると、今日の午前中のうちに買い物を済ませておきたい。メールなどをいじってから、まず9時過ぎにホテルのフロントに電話番号を調べてもらって、部屋から空港に電話を入れ、チケットのリコンフォメーションをする。
9時過ぎにホテルを出て、まずはストックマンへ。フィンランドのアーティストのCDが目当てである。結局、レクチャーの初日に名前が上がったものや、店員のお勧めを買う。それからスポーツ用品店にまわり、リュックを買う。膨れあがった資料類を飛行機で預けてしまうためである。その後、さらに土産物屋に立ち寄って、Tシャツなどを買い、リュックに荷姿を改めてから、ホテルに戻らず会場に直行した。会場に着いた時には、既に11時頃になっていたので、午前中は全面的にサボることにし、昼食まで時間をつぶした。
昼食時は、O先生とフィンランドの研究者の広告音楽談義に「介入」した。
午後最初のセッションは、メキシコのスペイン語訳ロックンロール、キューバのレゲエ、フランス語のラップといった報告を聞いた。フランスのラップの話は、発表のパフォーマンスを含め、面白かった。次のセッションでは、ディック・リーのオリエンタリズムの話を聞いて、別の会場で行われるKLFの発表だけを聞きにいこうと荷物を残して会場を移動したところ、その発表はキャンセルになっていた。ところが、元の会場に戻ろうとしたら、何と会場がロックアウトされている(内側からしか開かない)。仕方なく、さらに別の会場の発表を聞いてから最初の会場のセッションが終わるのを待っていた。
続けてIASPMの総会に出席。規約の改正などがあって、進行が随分ゆっくりしている。途中で、シベリウス博物館での6時開始のレクチャーについて、繰り下げて開始するがどうなっても7時には開始するというアナウンスが入り、7時少し前に途中退席した。
レクチャーはデンマークの日だったが、最初は5人くらいしか聞き手がいなくて発表者がかわいそうだった。まじめに最後まで総会に出ていたS先生は、結局20分ちょっと遅れて博物館に現れた。
レクチャーの後、再度、中心部へ出て別のCD店を探したが、結局探しているものは見つからず、土産のチョコレートだけ買って、いったん宿に戻った。とりあえず、S先生からの情報に基づいて総会の決定事項などをJASPM-MLに流す。
午後9時半頃に今大会のロゴ入りの帽子とマーカーをもって再再度中心部へ向かう。今日はビアホールの方ではイベントがないが、ちょっと足を伸ばして、クラブでのバンドのライブへ行く。妙に変拍子の多い、昔のプログレを彷彿とさせるような演奏だった。そこに居合わせたIASPMの人々(私と同世代以上が多かった)から、帽子にサインを入れてもらう。夜中の12時をまわってしまい、数人で連れ立ってホテルに帰ろうということになった。ところが、最後に分かれて一人になったら、橋の上で向こうから来る別の二人と出くわし、結局ビアホールまで戻ることになった。そこでしばしまた話し込む。ビアホールが閉店だというので、さらに若い人たちにまぎれて別のバーに行き、話をしていたのだが、この辺りまで来ると皆20〜30代の若者ばかりになっていて少々居心地が悪い。本当は、若いうちからこういう雰囲気に親しんでいないと、親密なコミュニケーションは難しいのだろうと改めて痛感した。今回の日本からの参加者は、元々若い層が少なかったのだが、その若い二人は、揃ってもう帰途に就いてしまっている。残念なことだ。
結局この店には3時過ぎまでいて、それから一人でホテルに戻った。
もう東の空が白んでいた。
■ 2001/07/10 (Tue)
いよいよ最終日
9時近くまで起床せず、やっとぎりぎりで朝食をとり、すぐに会場に直行するつもりだったのだが、部屋に戻るとやはり動く気にならない。午前最初のラウンドテーブルはまたもやパスし、午前後半のセッションへ少し遅れて参加した。
5日間(事前行事も含めれば6日間)の大会も、いよいよ今日が最終日である。
途中から入った午後後半のセッションでは、インターネット上のポルトガル語の音楽情報ネットワークの話、ウェブラジオの話などを聞いたのだが、質問しようとして英語がちゃんと出てこない。完全に頭の休養不足である。
昼からは、サウンドスケープのラウンドテーブルを踏まえて、昼食時間を利用して行われた「リスニング・ウォーク」に参加したのだが、完全に沈黙して20名余りで街を歩くというのは、はっきりいって奇異である。しかも、途中で銀行やらレストランやら、書店に入ってゆくのだから、ちょっとついていけない感じである。結局、途中から降り始めたにわか雨の中、大聖堂まで歩いていったのだが、大聖堂でお土産を買っているうちに、一行から完全にはぐれてしまった。慌てて外に出て回りを見回したのだが、どこにも姿が見えない。唖然として一人で会場に戻った。実はこのときは、みんなで大聖堂地下のカフェに入って議論していたのだそうである。まったく気づかなかった。ちなみにサウンドスケープ論というのはカナダのマレー・シェ―ファーが提唱者といえるのだが、フィンランドと日本は、それぞれサウンドスケープ論が独自に定着している国なのだそうだ。It's typically Finnish obsession とコメントする人もいた。
午後の前半は、最後のセッションがあり、日本人では、O先生と、今日になって姿をあらわしたM先生が、それぞれ別の会場で発表することになっている。とりあえずM先生と同じ会場の最初の発表だったEBNの前衛的ビデオという話を聞いて、O先生の発表へ行き、すぐに戻ってM先生の発表を聞こうとしたのだが、M先生の直前の発表がキャンセルになったそうで、結局M先生の発表は聞きそびれてしまった。両方のセッションとも、参加者が少ないのが残念だった。並行して行われていたS先生が司会したセッションにみんな集まってしまっていたのだろうか。
午後の後半は、総括討議ということで、かなりの人数が大階段教室へ集まり和気藹々とした雰囲気で大会の締めくくりが行われた。
夕方のクルージング・パーティまで少々時間があるので、いったんホテルに戻り、一休み。考えて見れは、今夜も含めてこの部屋には8泊もしたことになる。同じ部屋にこれだけ連続して泊ったという経験は、ちょっと記憶がない
6時15分頃にホテルを出て、7時集合の出発地点まで歩いて行く。ウッコペッカ号という船に乗り込み、船中と、途中で停泊する小島で食事が振舞われるという仕組みである。小島までの往路は、ボタン・アコーデオンを演奏する女性が登場して演奏し、帰路はジェリー・リー・ルイス(もちろん後年の)を髣髴とさせるピアノ/キーボード奏者が伴奏しての「カラオケ」(実演なのにこう呼んでいた)で盛り上がった。
船が戻ってきたのは夜の11時近くで、そこですべての行事は終了して解散となったのだが、おもだった顔ぶれはいつものビアホールに向かい、そのまま深夜まで話をし続けた。その間にも、「それでは、モントリオールで」とか、「モントリオールより前にぜひ会おう」といった挨拶があちこちで交わされていた。結局、ビアホールを出て、同じホテルに泊っている二人と一緒にホテルに戻ったのだが、到着は深夜2時の門限ぎりぎり。ホテルに到着するほんの少し前に雨が降り出し、部屋に戻って窓を開けると雷鳴もとどろく激しい雨である。ほんの僅かな差で濡れ鼠にならなかったのは幸運だった。
■ 2001/07/11 (Wed)
イギリスには来たものの
9時を回ってからやっと起床し、朝食の時間が終わりかけているところにやっと間に合った感じですべりこんだ。
結局、これまた時間ぎりぎりの正午少し前にチェックアウトを済ませ、前後してチェックアウトしたIASPM関係者三人と連れ立って市街地中心部のバス停まで歩いていった。バスに乗る前に、書店に立ち寄り、地名事典などを探すが収穫なし。フィンランドの苗字分布アトラスという珍しいものがあったが、値段が高く、結局買わなかった。
昼過ぎに、市場広場からバスで空港に向かい、一つ早い便でヘルシンキへ向かう参加者たちを見送ったあと、ストックホルム行きのボトニア航空のフォッカーF28に乗り込んだ。スチュワーデスが、コペンハーゲンから来たときと同じ人だったのには少々驚いた。それ以上に、ストックホルム上空で急旋回をしたのには驚かされた。
ストックホルムでは、一時間にもならない時間でロンドン・ヒースロー行きのスカンジナビア航空のMD90-30に乗り継いだ。着陸が近づくと、機はロンドン中心地の南側をテムズ川沿いに飛ぶ、今回は右側の窓側席だったので、ロンドンの市街地が手に取るように見えた。上空から見るロンドン市街の眺めは本当にすばらしい。
ヒースローからは、とりあえずユーストンへ地下鉄で向かう。地下鉄から降りてみると、外はもう暗くなっている。ユーストン駅の近くで宿を取るか、ミルトン・キーンズまで行くか迷ったのだが、とりあえず夜中近くに到着するとしてもミルトン・キーンズほどの町なら宿はあるだろうと考えて、列車に乗った。
ところがこれが大失敗で、とりあえずミルトンキーンズには着いたものの駅近くのホテルは満室で泊れない。仕方なくタクシーでホテルを探すことになった、まず、手元に現金が足りないのが気になって銀行の支払機へ行き、ワールドキャッシュから現金を引き出した。最初に行ったポストハウスというホテルは満室だったが、ここで周辺のホテルへ照会の電話をかけてもらえた。
ところが、ミルトン・キーンズ一帯のホテルはすべて満室だという。結局、かなり離れた場所にあるクランフィールドの会議場 Cranfield Management Development Centre のホテル(クランフィールド大学が経営している)まで行くことになり、夜中過ぎにやっと落ち着くことができた。
ここは、企業関係の会議などで使うところのようで、一泊は85ポンドからつまり日本円で17000円はするかなりの値段である。一人でこれだけの宿泊をするのは随分久しぶりの贅沢である。駅近くのトラベロッジは一泊が40ポンドくらいだから、ざっと倍である。もっとも、ポストハウスは、ここよりさらに5割高い設定だったから、この辺りとしては妥当なのだろう。普通の町がなく、企業需要対応の施設しかないということの意味を実感した。
■ 2001/07/12 (Thu)

ミルトン・キーンズいろいろ
9時少し前に起床し、朝食に降りてゆくと、テーブルごとに会社の名前が印刷された札が立っている。アクセンテュアなど、どこかで見たようなロゴ入りのものもある。やはり、企業対応なのだと改めて実感、やっと個人客用のテーブルを見つけて朝食をとる。
11時にチェックアウトして、バス停まで歩く。ここは一つの大学がそのまま小集落になっているという感じ。フィンランドよりずっと寒い気候なので、バスを待つ間はわざわざ日向に出て暖まっていた。やがてやってきた二階建てバスに乗り込み、ミルトン・キーンズへ戻る。途中、何度もラウンドアバウトで向きが変わり、どこをどう走ったのかはさっぱりわからない。途中の車窓の光景は、古い集落から田園、パブや商店の並ぶ古い町からニュータウンらしい事業所の並ぶ一角、住宅地区、未造成地と、めまぐるしく変化する。そのまま、30分ちょっとはかかった感じで、ミッドサマー・ブルバードの大ショッピングセンターの終点に到着した。時間はまだ12時を回ったばかり。連絡をとろうと思っていたA先生へは午後2時以降に電話することになっていたので、郵便局で両替をして、絵はがきと切手を手に入れ、絵はがきを出し、さらに店を見て回って時間をつぶした。
2時にA先生と連絡をとり、車で迎えに来てもらい、ニュータウン地区に隣接するストーニー・ストラトフォードという古い町のはずれにあるご自宅へ伺う。お目にかかるのは1年3ヵ月ぶりくらい。とりあえずご自宅に着いて、旅装を解かせていただき、ほっとする。こちらに大きな荷物を残して北へ行こうというわけだ。いろいろ雑談し、夕食は先生の手料理。日本出発以来初めて米の飯を口にする。夜10時頃、A先生と二人で近所のパブを冷やかしに出る。Fox and Hound という店で、ちょうどライブの真っ最中だった。
11時過ぎには家に戻る。
■ 2001/07/13 (Fri)
バーーミンガム、そして北へ
8時前にA先生に声を掛けてもらい起床。シャワーを浴び、メールチェックなどをしてから朝食をいただく。荷物の整理をしてから、9時過ぎに、車で案内していただき、センターの一角にある市役所の窓口へ行き、開発計画に関する資料などを貰う。筑波学園都市の視察に行ったことがあるという担当者氏は、大変丁寧に対応してくれた。計画見直しの進行状況などの話を興味深く聞く。その後、フードセンターの近くに車を停めて、フィルムを現像に出し、書店で本を買い、さらにショッピングセンターをひとまわり。ザ・ポイントのレストランで昼食をとり、さらに劇場のところにあるツーリスト・インフォメーションに行き、またいろいろ資料を買う。買い込んだいろいろな資料などはA先生に預けて、午後1時半頃ミルトン・キーンズ・セントラル駅まで送っていただく。ここには17日に戻ってくる予定。
切符を買うときに、今日が13日の金曜日だということに気づく。だからどうということはないのだが。
一時間ちょっと列車に乗り、一眠りしているうちにバーミンガム・ニューストリート駅へ。ミルトン・キーンズもそうだったが、この町で降りるのは初めてだ。とりあえず駅前の案内図を見てツーリスト・インフォメーションを探す。実は後でわかったのだが、このとき出た駅前のブル・リングという一角は、絵はがきになるような名所だったのだが、現在は再開発の真っ最中で囲いの中で重機が動き、その向こうに古い教会が残されているという光景だった。少し歩いて、ハイ・ストリートなど、人出の多いにぎやかな通りを見て回る。インフォメーションで地図の類をもらい、再開発が済んで新しい中心になっているという運河網のある一帯を見に行く。途中で通過した市役所前のビクトリア広場も再開発で面目を新たにしたところらしく古い建物を活かしつつ、奇妙な彫刻や、段差のない歩道網などがあって面白かった。運河の近くには、まだ再開発が着手されていない一角もあり、19世紀の工場跡と思しき「危険建築物」が半ば廃墟となっているのだが、そのすぐ隣が今でも使われているシナゴーグだったりするところがまた面白かった。
18世紀後半に整備された運河は近年まで荒れていたそうなのだが、再開発されて運河沿いに散策ができるようになり、観光用と思しき細長い小船があちこちに係留されている。オフィス・ビル、住宅、劇場、博物館と、本当に古い建物を活用したカフェやパブが並び、歩いていて本当に楽しい。鉄道以前に産業革命が進んだからこそ、これだけ内陸まで運河のシステムを張り巡らしたわけで、この町の産業都市としての歴史の厚みを実感した。
ふたたびビクトリア広場までもどり、今度はさっきとは別の、広場に面したインフォメーション・センターに入る。入口に、運河の一帯でも見かけたのと同じEUの標識があり、この再開発がEUの地域開発援助を受けて行われたことが記されている。インフォメーション・センターにあったシールに刷り込まれた Europe's meeting place というモットーは、こうした事情を反映したものだろう。ここでは絵はがきと、カルバン・クラインのロゴをパクったような UK BIRMINGHAM のロゴ入りキャップを買う。
時間は午後5時少し過ぎ、日はまだ高い。今夜の宿泊をどうしようとかと迷ったのだが、マンチェスターやリバプールはゆっくり見たくなると思ったので今回は立ち寄るのをやめ、ヨークシャーのブラッドフォードへ直行することにした。マンチェスター・ピカデリー駅まで2時間弱、そこで乗り換えてハダースフィールド駅でさらに乗り継ぎ、ブラッドフォード・インターチェンジ駅に着いたのは、午後9時ちょっと過ぎ。まだ日はあるがさすがに夕方という感じになる。市役所、警察の前を通り、オデオン跡(映画館だった大きな建物)、大学付近などをひと回りする。ここは以前、アジア系の市長が選ばれたこともあり、イスラム系の雰囲気の名を冠したレストランやクラブもたくさんある。
市街地を少し歩いてキャッスル・ホテルという古いホテル、というより今はパブが本業という感じのところを見つけて泊ることにする。素泊まり27ポンド。ダブルベッドの部屋で、雰囲気はオーストラリアでよく利用した古いタイプのホテルとよく似ている。もちろんこちらの方が原型なのだろう。電話はないのでインターネットにアクセスできないのは仕方ないが、それを除けば快適な部屋である。ひさびさにゆっくりテレビを見る。警察もののドラマ、ニュース、音楽番組(ロックステディ)。天気予報では今夜は8度くらいまで温度が下がるという。
■ 2001/07/14 (Sat)
さすがは英国と思いつつ、さらに北へ
9時過ぎにゆっくり起床。シャワーを浴び、テレビを見ながら朝食代わりに紅茶をいれ、ビスケット類を齧る。土曜日とあって、テレビではスポーツ番組が多いようで、競馬番組(レースそのものの中継ではなく、競馬談義のバラエティ)や、なぜか草クロケットの番組をやっている。地域のチームをどうマーケティングするか(スポンサーを集めるか)といった話題などを大真面目にやっていて、なかなか英国らしい。チェックアウトの時間は確かめていなかったが、11時頃には出ようと思い、支度をして部屋の鍵を開けようとしたのだが、錠が半ば壊れていてどうやっても開かない。どうしよう。十分あまり格闘したがだめ。廊下に人の気配もない。部屋には電話もないので、従業員を呼ぶこともできない。少し頭を冷やそうと思い、またお茶をいれ、しばらくコンピュータでゲームなどをする。
結局、小一時間してから再度ガチャガチャやっていると、廊下で従業員が異変に気づいたらしく、外から開けてくれるという。助かった、と思ったのだが、その従業員も開けられない。最後は昨夜受け付けてくれた亭主と思しき大男がやってきてやっと開けてくれた。
ホテルに近いマーケットから初めて、街中をでたらめに歩いて中心部の雰囲気を楽しむ。バーミンガムもそうだったが、ここでも European Regional Development Fund の助けも借りて市街地の再開発が進められたようで、歩行者天国になっている中心商店街の舗装などが、昔風の舗装で、真新しいものになっていた。
郵便局によってポストマン・パットの絵はがきなどを買ってから、市庁舎の一角にあるツーリスト・インフォメーションへ向かい、土産物などを買う。改めて昨日歩いたコースをたどって国立写真映画テレビ博物館へゆく。ここはロンドンの国立科学博物館の分館だそうで、IMAXシアターも内部に設けてある。こちらのお目当ては、豊富なはずの古い写真資料と、テレビ史の展示である。結論から言えば、さすが英国だけあってコレクションは充実している。コダックが全面的に協力したという写真関係の展示も、展示の仕方が親しみやすく工夫されていて面白かったし、1930年代のテレビ放送などの展示は非常に興味深かった。番組アーカイブでは、1940年代の子供番組や子供の頃見た記憶のあるスティングレーを見て、十二分に楽しんだ。来館者には子供が多いが、高齢者がけっこういたりする。離れておかれた2台のベッドに、他方のベッドの上で起こっていることを投射するというおもしろいビデオ・アート感覚の展示物のところで、白髪のおじさんがベッドに上半身を投げ出していろいろ遊んでいたのが、見ていて微笑ましかった。
3時過ぎに博物館を出て、市庁舎に近いアラスカという店でフィッシュ・アンド・チップスと紅茶をとり、絵はがきを書く。ゆっくり座っていたら一時間近くが経っていた。ブラッドフォード・インターチェンジ駅へ行き、ニューキャッスル・アポン・タインまでの時間と費用を、電車とバスの両方について聞いてみる。基本的には、電車のほうが速くて高い。どうしようかと思ったのだが、結局バスにすることにして、6時発のバスを待つことにした。インターチェンジ駅の上が、白を基調とした明るいバス・ターミナルになっていて、ここも European Regional Development Fund がらみの再開発であることがうたわれている。一時間ちょっとの待ち時間だったのだが、うとうとしているうちに長距離バスがやってきた。既に乗客が乗っていて、ブラッドフォードで下車する人もいたから、もっと南から走ってきたのだろう。ブラッドフォードを出てからは、まずリーズに停まり、ここでは30分ほど休憩となった。その後、ウェザビー、ミドルズバラ、ストックトン・オン・ティーズ、サンダーランドと停車しながら、午後10時少し前にニューキャッスルのバス・ターミナルに着いた。途中、リーズとサンダーランドで運転手が交代し、最後のニューキャッスルで下車した乗客は、自分も含めて3人だけだった。
途中のサンダーランドあたりから雨が本格的に降っていたのだが、ニューキャッスルに着いても雨は止んでいない。土曜日の夜とあって繁華街では若者が大騒ぎをしている。昔のロックから、ヨーロッパに普遍的といっていいテクノまで、いろいろな音が通りにも溢れ出ている。雨の中をホテルを探すのがつらかったので、少々高くつくのは承知で、クオリティ・ホテルというチェーンのホテルに入る。週末割引きのB&Bで70ポンドだという。部屋には電話はあるが、インターネットへは接続できない。レセプションの従業員がいろいろあたってみてくれたが、やはり接続できる環境はないという。明日の午前中にアダプターを探して、部屋ではなくレセプションの電話から接続を試みるしか手はなさそうだということになり、あきらめて部屋に入る。シングルベッド2台のツインの部屋だが、設備自体はかなり古くてくだびれている。それでもバスタブがあるのはありがたい。湯沸しのポットとは別に、紅茶を入れるためのポットが置かれている。なるほど英国である。
表の通りに面している部屋ではないのだが、隣の敷地が低層なので、窓を開けているともう夜中だというのにまだまだ表の通りで騒いでいるのが聞こえる。ニューキャッスルは経済的に立ち直ったという話を聞いてここまできたのだが、なるほど少なくとも夜の街に活気があることは間違いないようだ。
■ 2001/07/15 (Sun)
雨の日曜日
昨夜は雨の中を外へ出る気にならずずっと部屋にいたのだが、それでも外の盛り上がりに影響されたのか、眠り損ねて夜中に風呂に入り直したり、そのままバスタブでうとうと寝入ってしまったり、そうかと思うと早朝の5時台に目が冴えてしまって、ずっとゲームをしたりと無茶苦茶だった。結局、9時過ぎにゆっくり起床。メールがいつつながるか判らないまま、送るべきメールを数通用意してから、朝食をとりに6階(日本式では7階だが、この建物は斜面に建っているので、表の通りから見れば8階)のレストランに行く。席に案内され、イングリッシュ・ブレックファーストをサーブされる。ほかの建物があまり高くないこともあって、なかなか眺めがよい。ふと気づくと、40人ほどいる客のうち、男性はなんと私ともう一人だけ。あとはみな女性である。やや値段が高いツーリストホテルの週末は、こんな感じになるのだろうか。
10時過ぎに朝食を済ませ、レセプションの男性に、電話のソケットのアダプターを売っていそうな店の場所を教えてもらう。それにしたがって、ディクソンズという、この辺りで一番大きい電器屋へ行くと、開店は11時らしい。仕方がないので、一度通ってきたエルドン・スクエアをあちこち見て回る。ここは、1976年に大規模な再開発で建設されたショッピングセンターで、町の数ブロック分を丸ごと大きな建物にしてしまったような感じで、とても広い。既に通路の通行はできるようになっていたが、日曜日は店の営業が11時からで、しかも休みのところも多い。一回りしてディクソンズに戻り、開店と同時に入って聞いてみると、入口近くの棚だという。ところが、アダプターは置いていなかった。別の店員にきくと、アダプターはないという。例によって、知らないことを断言する英国人のパターンだ。
二人目の方を信用することにして、ここにないならどこの店にありそうかと聞くと、エルドン・スクエアの中のBTショップへ行ってみろという。とりあえず礼を言って、エルドン・スクエアに入り、ちょうど仕事を始める準備中の案内嬢に、BTショップはどこかと訊いてみた。すると、何とBTショップはエルドン・スクエア内ではなく、別のショッピング・センター(メトロ・センター)にあるというではないか。しかも日曜日は休みじゃなかったかなあ、などとのたまう。近くにBT関連のオフィスはないかというと、センターから出て左へ行き通りの端にあるという。でも日曜日は...、と繰り返す。仕方なく言われたとおりに行ってみるがBTらしきものは公衆電話以外何もない[後で月曜日にここを歩いたときには、ちゃんとあることに気づいた]。こういうときは、戻って文句を言っても不毛なのでさっきとは別の入口からエルドン・スクエアに入り、携帯電話のヴォーダフォンの店で、結構軽いノリのお姉ちゃんという感じの従業員に聞いてみると、うちでは扱ってないけど、その先のところの別の電話の店で聞いてみて、という。そうしたたどり着いたのは、携帯電話と家庭用の電話を両方扱っている、その名もリンク Link という店だった。たしかにBTショップではない。結局ここで無事アダプターを入手する。9ポンド99ペンス。さっそくホテルにとって返し、レセプションのカウンターで接続、上手く繋がった時には本当に嬉しかった。
結局、チェックアウト時限の12時ぎりぎりでチェックアウトし、外へ出る。昨夜の喧騒がうそのように静かで、人通りもそんなに多くない。土曜日に目いっぱい楽しんで、日曜日は本当に休むのだろう。とりあえず、まずツーリスト・インフォメーションに行き、買い物。安ホテルの情報も入手する。それから取って返して、長距離バスのターミナルへ行き、予約をしようとしたのだが、何と日曜日はお休み。仕方なくとりあえず先に宿を決めようと思い、大学地区をかすめて、市街地の北東方向に歩き、ハンセン・ホテルというB&Bに落ち着いた。バスルームは共用で、24ポンド。玄関のちょうど真上の部屋である。部屋のサイズや天井の高さで、ボンダイ・ビーチのビルトモア・ホテルを思い出した。もちろんこちらの方は、こぎれいで落ち着いた雰囲気なのだが、建てられた時期は同じようなものかもしれない。
寝不足気味なので睡魔に逆らわず昼寝。目を覚ますと午後3時過ぎ。ぼちぼちまた中心部へ行こうかと、支度をして玄関まで出てみると、何と結構本格的に雨が降っている。これでは出かけられない。
部屋に戻って、しばらくテレビでF1や音楽番組を見たり、ゲームをしたりしていたが、雨はまだまだ降り続いている。学会期間中に買ったクッキーの残りと、部屋の紅茶で空腹をしのぎ、部屋でだらだらしながら雨が上がるのを待つことにする。
午後7時を回って、ようやく雨が止んだようなので、夕食をとりに出かける。大学地区を抜け、駅方面を目指す。途中で中世の城郭が残されているキープとブラック・ゲイトをひとまわりする。駅を経て城壁跡に沿って中華街へ。目的地は、バスを降りたときに見かけた食べ放題のインド料理店である。各種のカレー、サラダ、チャパティの類に、フルーツやアイスクリームまである。別料金の飲み物を合わせて、7ポンド50ペンスだったので、8ポンドを置いてきた。満腹でいい気持ちになって宿に戻ったのだが、宿の隣のガソリンスタンドの明かりに引き寄せられ、立ち寄って菓子類を買う。部屋に戻ったのは10時過ぎ。
■ 2001/07/16 (Mon)
ニューキャッスルの収穫いろいろ
朝6時台から眼が覚めては、もう少し寝て、というパターンを繰り返し、8過ぎに朝食をとりに降りてゆく。朝食の前後は、テレビをだらだら見ていた。
10時少し前に宿を出て、大学へ。地理学の受付で地域開発センターの担当者のオフィスを教えてもらい、アポなしで出かけるが、当然ながらゆっくりは相手をしてもらえない。それでも、アニュアル・レポートと名刺をもらって、立ち話程度には情報をもらえた。 ニューキャッスル大学の中の古い建物(実は元々は別の大学のものだった建物)を見て回ったりしながら結構時間をつぶし、11時頃、長距離バスのターミナルへ行く。ここで夜11発のロンドン行きのバスを予約する。片道22ポンドで、列車より随分安いが、往復だと条件によっては24ポンドだというから、いかに往復を別のルートにするのが不利かが判る。 そのまま昼食をとろうかと思ってエルドン・スクエアに向かったが、モニュメントのところでしばし寄り道し、グレインジャー・マーケットで本屋に入る。ここで、絵はがきと、古い地図の復刻版を買い、さらにシャーロック・ホームズのストランド・マガジン掲載編の復刻本(古本:5ポンド)を入手。これは大きな収穫だ。
さらに、ツーリスト・インフォメーションで郵便局と地図屋の場所を教えてもらいひとまわりした。モニュメントからメトロ(中心部では地下鉄になる郊外電車)に乗って、タイン川の河口近くまで行こうと思い立ち、サウス・シールズへ。船着場近くの青空市場でジョーディーズがらみのTシャツを買う。渡し舟に乗って対岸のノース・シールズへ。郊外の雰囲気が少しでもつかめたような気がする。既に2時を回っているのに気づき、再びメトロでセント・ジェームズまでもどり、3時半近くにトゥルクで知り合ったK先生のオフィスへ。トゥルクから英国への移動の途中、ストックホルムで別れて以来ほぼ一週間振りである。オフィスでK先生の仕事のことや、ニューキャッスルの町のことなど、いろいろと有意義な情報をもらいながら雑談した後、モニュメントに近い劇場の脇のイタリア料理店でコーヒーを飲み、そのまま誘われるままにご自宅で夕食をご一緒することになった。ご家族も一緒になって音楽の話やスコットランドの話で盛り上がり、結局最後はご夫妻揃って車で長距離バス乗り場まで送っていただく。
夜行バスの座席は意外に座りごこちが悪いが、走り出すとすぐ寝てしまい、夜中の2時頃に休憩したときには車外に出たが、そのままロンドンに着くまで起きなかった。
■ 2001/07/17 (Tue)
帰国準備だけのロンドン
夜行バスは、予定よりかなり早く、朝5時にヴィクトリア駅に隣接した長距離バス・ターミナルに到着した。ターミナルでは、まだロビーが開錠されていないので、早朝の便を待つ人たちが、バス乗り場の建物の外側にたくさんいる。とりあえずヴィクトリア駅へ、今日一日をどう過ごそうかと段取りを決めかねて、しばらく駅の待合席でぼんやりし、少しだけうとうとする。結局、1999年のときに滞在してなじみがあるユーストン駅とラッセル・スクエア駅の間の辺りで宿を見つけてから、ミルトン・キーンズへ向かうことにする。ユーストンまで地下鉄で行き、南へ歩きながら、安ホテルをめぐるが、まだ7時ちょっと過ぎの早朝なのでレセプションが開いていない(セキュリティしかいない)というところがあり、ドアのベルを押しても応答のないところもありと、芳しくない。「朝食」と看板を出した小さな店に入り、ハンバーグとチップスと紅茶を注文。ここはイタリア系の店で、この時間に来る客はなじみの客ばかりらしく、英語よりイタリア語がたくさん飛び交っている。ニューキャッスルで出しそびれた絵はがきをここで書く。
8時頃になって、アクロン・ホテルという安宿に部屋があるというのを確認して、20ポンドをデポジットして押える。一泊38ポンド。古い下宿屋そのものでトイレは共用、タオルも自前だが、ロンドンでこの値段はなかなかない。
ユーストン駅まで行き、ミルトン・キーンズまで往復しようとしたが、9時20分以降のシルバーリンクが運行する列車が安いというので、それまで30分くらい駅のベンチで休む。ミルトン・キーンズまでは一時間ほど。ところが、駅からA先生への電話連絡がうまくつかない。一時間おきくらいに電話をしてみるが連絡が取れないまま、だらだらと駅のロビーで、ニューキャッスルで買ったシャーロック・ホームズをゆっくり読む。途中で万引きしたと思しき黒人少年を、セキュリティが追いかける一幕を目撃。そうこうして待っている間に、天気は雨になる。
結局、お昼過ぎに連絡がとれ、車で迎えに来て頂いた。まず、ショッピング・センターの店に現像を頼んでおいた写真を回収してからご自宅に向かう。A先生宅では、メール・チェックをしてから、前回置いていった荷物の山の詰め直す。何とか荷造りが済んでからは、お茶を頂いてまだ読書。そうこうして待っているうちに、A先生手料理の夕食を頂く。圧力釜で炊くという栗ご飯は焦げてしまったという話だったが、ステーキのソースなどは凝った味付けで、なかなか美味。
そのまま、ゆっくりさせていただき、午後8時頃駅まで送っていただく。
ユーストンに着いたのは午後9時頃で、ホテルに直行。テレビはアンテナが壊れていて映りが悪いので、ラジオ代わりにして、外へも出かけずそのまま休む。
今回はロンドンをまったくあきらめたのだが、もしもうちょっと時間があったら、フェルメールの画家のアトリエなどの展覧会をしているナショナル・ギャラリーや、ミュージカルにも行ってみたかったところだ。しかし、まあ、一人で行っても余り楽しくはないだろう、と思い直す。
■ 2001/07/18 (Wed)
8時間短い一日
寝過ごしてはまずいと思って寝ているせいか、朝5時過ぎから、ちょっと眼が覚めては時間を確かめて、また寝るというパターンを繰り返す。結局、8時少し前にホテルを出る。ラッセル・スクエア駅まで歩き、ヒースローまでしばし、うとうとする。空港では、すぐにチェックインし、出国手続きへ、と思ったら、出国はパスポート・コントロールさえない。入国はうるさいのに不思議なものである。早めに出発ラウンジまで達したのだが、出発前一時間ほどになっても、ゲートが決まらず、ラウンジで待てという表示のままである。機の準備ができていないのではなく、人の流れを制御しているのであろう。ラウンジには免税店が並んでいるので、残りのポンドでお土産物を買う。もっとも最近では、イギリスの空港にあるものは、日本で簡単に買えるものが多いから、選ぶのもついつい時間をかけてしまう。
定刻の11時15分を少し回って、スカンジナビア航空のMD-90機は出発。コペンハーゲンまで1時間ちょっとの飛行である。機中では、読書と仮眠で過ごす。コペンハーゲンでは、トランジット・チェックインの案内に沿って進んだら、パスポート・コントロールを通過することになったのだが、実はこれは勘違いで、既にチェック・インされているのでパスポート・コントロールを通ってくる必要はなかった。すぐにまた逆に通って待合室へ向かった。法的には数分間のデンマーク滞在である。
東京行きのフライトはB767。幸い隣が空席だったので、二人分を占領して窮屈ながら横になって眠れた。東へ進むので、今日は短い一日。
■ 2001/07/19 (Thu)
帰国
日本時間で朝の4時頃に眼が覚める。北極圏に近いシベリアを飛行しているので、外は目いっぱい明るい。機中では、窓を閉めて映画をやっている。しかし、あまり面白そうでないので、サンドウィッチと紅茶をもらい、しばらく読書灯をつけてホームズの続きを読む。 9時過ぎに成田に到着。着陸がめちゃくちゃ上手くて驚く。着地のショックより、減速のGの方が強く感じられたくらいだった。


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