学内文書等の記事:2015:

コミュニケーション学と地域研究.

東京経済大学コミュニケーション学部・編『コミュニケーションという考え方 コミュニケーション学部の20年とコミュニケーション学』東京経済大学,pp.98-105.



コミュニケーション学と地域研究

山 田 晴 通  

 多くの概念と同様に、「コミュニケーション学」も「地域研究」も、その意味する内容は曖昧さを含んでいる。それも、境界線が不明瞭で、遷移帯があるという曖昧さだけではなく、異なる文脈において、異なる広がりをもった、いわば同名異人のような関係が関わった曖昧さが絡んでくる。とりあえず、日本語の「地域研究」は、英語ではまったく異なる概念である area studies と community studies の両方に対する定訳であるし、さらに曖昧に「地域」に関わる「研究」事例を、厳密な定義の意識なしに「地域研究」と称することもよくある。「コミュニケーション学」の方は、北米に起源をもつ communication studies の訳語で紛れはないが、それが包含し得る内容は、伝統的な学問の枠組に当てはめれば文学、芸術学、社会学、心理学から、経営学、工学、生態学などにも及び、余りにも広漠としている。
 1995年、東京経済大学に日本初の「コミュニケーション学部」が設立されて以降、各地に様々な「○○コミュニケーション学部」が開設された。「○○」には、「言語」、「現代」、「国際」、「情報」、「異文化」、「デジタル」といった言葉が入る。こうした後発の様々な「○○コミュニケーション学部」は、その命名からして、もっぱら「コミュニケーション学」の特定の一部領域に注力することを表明している。2010年に「コミュニケーション学部」を新設した名古屋商科大学は、設立時には現代教養学科と国際コミュニケーション学科、現在はグローバル教養学科と英語学科の2学科体制であるが、研究教育内容の重点は異文化コミュニケーションと英語に偏っている。また、いち早く1991年に学科として「文学部コミュニケーション学科」を設け、2000年に「コミュニケーション学部」を新設した愛知淑徳大学は、心理学科と言語コミュニケーション学科を設けていたが、2010年の全学的な学部再編によって心理学科は「心理学部」として独立し、言語コミュニケーション学科は新設された「交流文化学部」に合流して、「コミュニケーション学部」はなくなった。コミュニケーション学の領域的広がりを前に、敢えて特定の分野に特化せず、広く学問的背景を異にする研究者が集って研究教育活動を展開している東京経済大学コミュニケーション学部の取り組みは、少なくとも日本国内では、今もユニークな挑戦であり続けている。

 さて、「コミュニケーション学」と「地域研究」を、広く緩やかに捉えるとして、両者の間にはどんな関係性が構築し得るだろうか。これに答えるためには、詩と真実の両面から考える必要がある。そこで、敢えて下世話な話から始めることにして、「コミュニケーション学部」と「地域研究者」の関係を整理しておきたい。
 実はこれまで、コミュニケーション学部には、少なからぬ数の地域研究者が在籍してきた。1991年に東京大学を定年退職後、本学の特任教授となり、1993年に経営学部教授を経て、1995年のコミュニケーション学部の設立に参加された、中東イスラーム圏研究の権威、板垣雄三先生はその代表的な存在であった。設立時の教授会には、マルキストの立場からのラテン・アメリカ研究者で、日本におけるインターネット普及初期における先駆的活動家のひとりであった山崎カヲル先生や、ハワイ社会の研究者で、放送大学で映像人類学者として活躍された山中速人さん(現在は関西学院大学)、また、社会経済地理学の立場からメディア研究をしていた筆者のように、広義の地域研究と、コミュニケーション学の双方で、あるいは、その両者が重なりあう局面で仕事をしてきた教員たちがいた。また、中国・雲南をおもなフィールドとする文化人類学者だった松本光太郎さん(2010年死去)も創設時のメンバーであったし、後に経済学部に戻られたイタリア史学者の藤澤房俊先生や、入れ替わるように途中からコミュニケーション学部に加わられたスペイン文学者の荻内勝之先生のように、単に歴史学、文学にとどまらず、それぞれの地域の専門家と見なすべき方々も、初期のコミュニケーション学部に加わっていた。
 残念ながら、その後、教員構成は変化し、フィールドワークを軸に研究を進めるタイプの地域研究者は減少してきた。現状は、筆者のほかに、松本さんの後任の文化人類学者で、ニュージーランド研究などに取り組んでいる深山直子さんがいるのみ、あるいは、敢えて加えるとしても英文学者の本橋哲也さんくらいまでであり、また、研究対象地域は、もっぱら英語圏に限られている。私自身、ひとりの地域研究者として、この変化は残念だが、これは、コミュニケーション学部が時代の要請に応じ、常々体制を組み直してきたことの現れである。
 なぜ地域研究者は減少していったのか、と問う前に、まず、初期のコミュニケーション学部に地域研究者が少なからず所属し、一定の厚みをもっていたのはなぜか、と考えてみよう。私は1995年のコミュニケーション学部開設時に東京経済大学へ着任したので、それ以前の事情については、間接的な伝聞としてしか承知していない。私が仄聞しているのは、かつて経済学部、経営学部に次ぐ、第三の学部を構想する議論の中で、コミュニケーション学部構想とともに、国際関係論ないし地域研究を軸とした学部を模索する流れがあり、その一部が最終的にコミュニケーション学部構想に合流した、という話である。こうして、おもに海外の地域をフィールドとする地域研究者が、コミュニケーション学部に集まったのである。
 これは私の勝手な想像だが、そのような状況は、コミュニケーション学部構想の牽引役であった田村紀雄先生の研究上の関心とも、無関係ではなかったのだろう。田村先生は社会学者だが、その研究対象は、田中正造、地域メディア、移民新聞、日系人社会などと、相互に関連をもちつつも多岐にわたる。左翼などの言論活動ヘの関心が、オルタナティブな小規模メディアへの関心につながり、それが地域、コミュニティへの関心に裏打ちされた、地域メディアに関する先駆的業績を生んだ。電話帳の研究なども、電話というメディアへの関心とともに、地域の便覧、ディレクトリーとしての機能に着目したものだった。その先で田村先生がたどり着いた課題が、ハワイ・北米を中心とした日系人社会の、特に草創期における、移民新聞の研究であった。
 コミュニケーション学部設立時のカリキュラムには「地域のコミュニケーション」という通年科目が立てられ、2003年度まで存続した。現在の半期科目「地域文化論」は、その内容の一部を独立させたものだ。この科目は「地域」と「コミュニケーション」を結びつけ、授業担当者として田村先生を想定した科目であった。ところが、当初学部長に擬せられていた香内三郎先生が学部設置認可申請の時点で健康を害され、代わって田村先生が学部長に就くこととなり、授業担当コマ数を圧縮する必要から、急遽この科目の担当者として私が追加採用されることとなった。結局、田村先生は、「地域のコミュニケーション」を担当される機会がないまま定年を迎えられたが、これは少なからず皮肉な帰結であった。

 さて、書生論を承知で論じるなら、「コミュニケーション学」と「地域研究」の接点に、どのような論点を構築できるだろう。地域研究における「地域」を「地域社会」の意で捉える限り、社会の紐帯を成す人間同士のコミュニケーション行動は、地域を構成する出発点である。地域を有機体に見たてるなら、個々の分子結合を支えているのがコミュニケーションである。地域社会について考えることは、そこで展開されるコミュニケーション活動について考えることに直結する。こうした原論的議論についての私の考えは、学部開設当時に『コミュニケーション科学』に発表した論文(山田、1995)から、大きく変わっていない。20年間大した論理的深化もないままかと叱られそうだが、当時の考察の多くは、デジタル・メディアの登場と普及にも、ほとんどそのまま当てはまる。
パーソナルなコミュニケーション論が、その議論の普遍性を無意識のうちに前提としているように、また、マス・コミュニケーション論やテレコミュニケーション論が、克服されるべき障害として地域間の「格差」を捉え、しばしば「場所に意味はない no sense of place」状況を理想化して語るように、「コミュニケーション学/研究/科学」は、基本的な部分において没「地域」的な性格をもっている。
そこで十分に認識しておかなければならないのは、コミュニケーションが、何らかの共通性、普遍性を指向するものでありながら、現実的には差異/差別を創り出すという、本質的な矛盾を抱え込んでいる、という事実である。複数の主体の間でコミュニケーションがおこなわれるということは、そのコミュニケーションから疎外された主体との間に差異の一線が画されることを意味している。情報が豊富に流れるほど、ある情報を共有する人々と、その情報をもたない人々の間には、大きな差異が生じていくわけである。

などと整理した内容は、今日のインターネット環境において、より先鋭化した形で立ち現れている。

 改めて、学部の初期に一定の厚みをもっていた地域研究者が、その数を減らしたのはなぜだったのか、考えてみよう。東京経済大学では、退職した教員の後任をどの科目で採用するかは、ゼロ・ベースで議論され、自動的に同じ科目で採用するとは限らない。もちろん、同一科目で補充されることも多いが、その場合も、それは学内の議論の積み上げの結果である。地域研究者の数が減っていったのは、退任した地域研究者の後任が、地域研究者によって埋められなかったからである。山中さんのように、地域研究者とメディア研究者の顔を併せもった方の後任を選ぶときにも、地域研究への考慮は優先順位が低かった。
 少し角度を変えれば、この間の教員人事には、爆発的に普及が進んだインターネットを巡る状況が影を落としていた、と考えることもできる。コミュニケーション学部は、インターネットを先取りするように、開設当初から山崎先生や粉川哲夫先生、桜井哲夫さんなどを擁し、さらに、後に教員として学部に戻った大榎淳さんがメディア工房のスタッフに加わっていた。しかし、インターネットの普及と社会の全面的なデジタル化は、デジタル・メディア環境におけるコミュニケーションを考察するCMC(Computer Mediated Communication)研究の必要を、当初の想定を遥かに超える形で急速に高めた。地域性のみならず、ネット環境の中の結び付きに依拠するコミュニティを対象とする研究が必要とされ、例えば、社会心理学や社会調査関係の教員を求める場合も、そうした方面で業績のある人材の拡充が優先された。現在のコミュニケーション学部のスタッフが、川浦康至さん、柴内康文さんをはじめ、この方面で厚みのある研究教育体制を組んでいることは、時代の要請に応えたものだ。そして、その背後で、地域研究者は学部内での比重を、徐々に減らしていったのである。
 しかし、どんなにデジタル化が進行しても、人が生身の存在として現実世界の空間の一部を占め続ける限り、すべてがネット環境に移行できる訳でもない。「地域」という現実は、普遍性を主張するコミュニケーションのモデル化された議論に対し、異議申し立てをする機会が常にある。デジタル技術によって形成されるヴァーチャル環境は、現実から遊離してしまえば、単なるフィクション、幻想、妄想に過ぎない。この辺りの議論は、山田(1996、2001)も参照していただきたい。
 コミュニケーション学と地域研究の結びつきは、議論の焦点の所在を変えながらも、なくなるということは決してない。地域の現実を見つめ、地域におけるコミュニケーションを見つめる作業は、今後とも長くコミュニケーション学の枠組の中で重視されていくことだろう。そこでは、広義の地域研究の技法と思考を身につけた研究者が働ける場が、数多く用意されている。

山田晴通(1995):「地域のコミュニケーション」という視点.コミュニケーション科学(東京経済大学),3,pp.53-64.
山田晴通(1996):フィクションとしての都市.磯部卓三,片桐雅隆,編『フィクションとしての社会-社会学の再構成-』世界思想社(京都),pp.68-87.
山田晴通(2001):<幻のコミューン>が形成される−「デジタル時代」の地域社会.新聞研究(日本新聞協会),595,pp.63-66.


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