書籍の分担執筆(論文形式のもの):1996:

フィクションとしての都市

磯部卓三,片桐雅隆,編『フィクションとしての社会-社会学の再構成-』世界思想社(京都),pp68〜87.


本稿を含む論文集『フィクションとしての社会-社会学の再構成-』は、世界思想社の「世界思想ゼミナール」シリーズの1冊として、10月刊行となりました。定価(税込)1950円です。よろしければお買い求め下さい。
1.「フィクション」の用法をめぐって
2.「フィクション」、「としての」、「都市」
3.「都市空間」を読む視角
4.都市をフィクション化させる<装置>
5.<フィクションの現実化>と<現実のフィクション化>
     引用・参照文献

フィクションとしての都市

1.「フィクション」の用法をめぐって

 この小論の表題「フィクションとしての都市」は、本書の編者から与えられたものである。いわゆる「お題拝借」だ。
 本書の基本的な立場は、社会を人間によってつくられたもの=「フィクション」とみる点にあるということのようだ。この場合、「フィクション」はきわめて広い意味で使われている。フィクションの反対語は「リアリティ」ではない。「フィクション」が「リアリティ」をもつということになる。
 「フィクション」が「リアリティ」と対立するのでなく、「リアリティ」をもつ、という点については問題はない。「リアリティ」というカタカナ言葉を「現実味」、「現実性」と率直に受けとめるならば、それが用いられるのは、もっぱら「フィクション」の出来を褒めるときか、さもなければその裏返しで、現実から「リアリティ」が欠落した事態を論じる場合だろう。だから、僕にとっても「リアリティ」は「フィクション」の対義語ではなく、「フィクション」の属性の一つである。ただしそれは、「フィクション」=「虚構」の対極に、生の「現実」を想定しているからである。「リアリティ」は「フィクション」の対義語ではないかもしれないが、「現実」は「フィクション」の対極に厳然と存在する。凡人の僕は、唯物論者ではないが、唯幻論者の純粋な狂気を共有することはできない。「現実」は厳然と存在する。
 きわめて広い「フィクション」という言葉の使い方とは対照的に、僕が日常的に自然な自分の言葉として「フィクション」を使う場合、それは当然「ノンフィクション」に対置される含意をもっている。この用法を無視したくない。人間のつくったもの、「人工物」とでも呼べばよいものをわざわざフィクションと呼ぶ意義があるとすれば、それは、「人工物」を「フィクション」といい換えることで、そこに「フィクション」=「虚構」というニュアンスを滑り込ませることができる点にあるはずだ。その点をはずすと、フィクションという言葉を使う意義は見失われてしまうだろう。
 実際、「都市」は、あらゆる意味において人間がつくりあげたものであり、紛れもなく「フィクション」に他ならないのだが、そんなことを今さらいっても何にもなりはしない。試みに、「都市は人間のつくったものですが、そのつくったものがリアリティをもつわけですね」と口走ってみよう。その無意味さ(少なくとも「つまらなさ」)は、ちょっと考えればすぐわかるはずだ。人間の大多数が農業生産に依拠した農村的コミュニティにいた時代、日本の常民が農民だった時代ならともかく、自然にリアリティの根拠を求めるノスタルジーなど、都市生活者には何のありがたみもない。あるいは、<自然/人為>といった二分法の(あるいは、弁証法の)無意味さが(少なくとも、限界が)これだけ暴露された、「何でもあり、メチャぶつけ」のポスト・モダン(僕はこの軽薄な言葉が大好きだ!)状況の下で、こんなことを考えていては、シーラカンス同然の生ける化石になってしまうだろう。もちろん、ポスト・モダン状況下では化石になることも選択肢の一つとして他と等価ではあるが、化石になりたいという願望は、僕にはない。
 というわけで、本稿では、もっぱら日常的な言語感覚を尊重して「フィクション」=「虚構」ないし「虚構の物語」ととらえて、議論を進めていきたい。そこで、再び表題の「フィクションとしての都市」に戻ってみると、論を起こすに当たって、予め明らかにしておくべき但し書き的な議論の必要が強く感じられる。要するに、ここでいう「フィクション」とは何であり、「都市」とは何であり、「としての」をどういう意味で用いていくのかを、多少なりとも限定しておかなければ、議論の空転は制御できないような気がするからである。

2.「フィクション」、「としての」、「都市」

「フィクション」
 一般的に「フィクション」とは、文学の一つの形式を指す。要するに、事実に基づかない虚構の物語を「フィクション」と呼ぶのである。この意味で、「フィクション」と意識的に対置される文学の形式が、「ノンフィクション」ということになる。「ノンフィクション」や、その同義語〜類語としての「ルポルタージュ」「記録文学」等々をめぐっては、大変な消耗戦を強いられる議論があるわけだが、ここでは深入りしない。ただ、「ノンフィクション」がその定義上「フィクション」を意識し続ける限り、「ノンフィクション」をめぐる議論は、そのまま「フィクション」をめぐる議論になる、という点は確認しておこう。要するに「ノンフィクション」が曖昧な、定義の紛糾した概念だ、ということは、翻って「フィクション」もそうであることを意味しているのである。
 しかし、ここで忘れてならないのは、そもそも「フィクション/ノンフィクション」といった軸の立て方自体が、無批判に受け入れることはできない、という点である。虚構と現実の二項対立といった発想は、弁証法的思考の「頭の悪い」一面を露呈するものでしかない。一方では、「トマスの公理(1)」が示すように、「もしも人間がある状況をリアルなものとしてとらえれば、その状況は結果においてリアルである」わけだし、他方では、記号論が語るように記号表現と記号内容の関係が恣意的・偶発的である以上、言語表現であれ映像表現等であれ、記号を介して語られる物語は多重的に現実との結びつきが切断されており、すべての物語は何らかの意味で「フィクション」と捉えられるのである。この状況は、フィクションの反対語はノンフィクションではないという認識とは違う。あえて反対語を問うならば、「フィクション」に「ノンフィクション」が対置されることは変わらない。ただ、反対語を問うこと自体が無意味化しているのである。
 こうした「フィクション/ノンフィクション」といった軸の立て方自体がナンセンスな状況を前提として、あえて「フィクション」という言葉を振りかざす意義は、どのように主張することができるだろうか。この問いに対する解答は、さまざまな形で綴ることができそうだ。しかし、表現の形はさまざまでも、どこかで、何らかの意味で、決定的に反-リアルであること、あるいは、反=リアルであることが物語全体の価値に積極的に貢献していること、これが現状において敢えて「フィクション」を持ち出す場合の基準となることは間違いあるまい。日常的に最も頻繁に用いられる「フィクション」表現の一つに、「サイエンス・フィクション」があるが、これはSFという文学形式が、<決定的に反-リアル>であり、<反-リアルであることが物語全体の価値に積極的に貢献している>ことと無縁ではない(2)

「都市」
 細かい点では異論もあろうが、社会学史において、いわゆるシカゴ派の占める位置が、相当に重要なものであることは間違いない。シカゴ派は、その後の様々な研究の流れの先駆となったが、とりわけ都市社会学の確立は、重要な貢献であった(3)。「実験室としての都市」という有名な言葉にも象徴されるように、シカゴ派にとって「都市」とは、大衆社会(マス社会)の具体的な形態であった。シカゴという都市は、アメリカ合衆国にとっての高度経済成長期であった一九二〇年代に急成長を遂げ、その反動としての恐慌〜大不況の波もかぶった。シカゴを中心とした中西部は、経済成長の原動力としての鉄鉱業や自動車産業を抱えるとともに、豊かな穀倉地帯でもあり、シカゴはその取引流通の拠点としても君臨した。経済活動の発展は労働力の移動を引き起こし、都市に新しい人々が流入する。当時のシカゴには、中欧、東欧、南欧や、アジアからも新移民が流入したし、国内的には南部から北上してくる黒人たちがいた。白人富裕層の郊外化への動きが生じ、市街地内部ではセグリゲーション(人種間の空間的な隔離、棲み分け)が進んだ。人口の急増と、自動車という革命的な移動手段の普及は、都市空間の急激な変貌をもたらした。そんなシカゴを拠点として展開されたシカゴ派社会学は、「都市」を構成する人人を結びつける「新聞」に注目した。要するに大衆社会を束ねる仕組みとしてのマス・コミュニケーションに注目したわけである。平板な総括になるのを承知の上で、あえて図式化すれば、「都市」は大衆社会の具体的な形態であり、その大衆社会を編成し、構造化していくものとして、マス・コミュニケーション過程が重要な機能を果たす、というシカゴ派に由来する発想が、以降の社会学には大きく影を投じることになった。つまり、社会学にとって、「都市」と「コミュニケーション」は、「大衆社会」を媒介項とすることで容易に結びつけることのできる親和性の高い組合せとなっているのである。
「フィクション」が元来は文学の一つの形式であり、文学が「コミュニケーション」の一形態であることは、改めていうまでもない。そこで考えなければならないのは、反-リアルな「フィクション」と、それに対置される「都市」との緊張関係である。「フィクション」の中にだけ構築された「都市」、表現としてのみ存在する架空の「都市」は、モアの「ユートピア」であれ、映画『ブレードランナー』の二〇一九年のロサンゼルスであれ、それがどんなに魅力的で、どんなに<リアルに>描写されていようと、この小論の視界の外に置かれる。ここで扱うのは、現実に実在する「都市」である。さらに、この小論でいう「フィクションとしての都市」は、<「フィクション」に描かれた「都市」>という意味ではない。こうした、<文学作品に描かれた都市の解読>といった方向での議論の魅力については、改めて論じるまでもないが、ここではその方向には論を進めない(4)。「フィクションに描かれた都市」、あるいは、パイクのいう「言語都市」をめぐる議論は、ここでの関心ときわめて密接につながっているものではあるが、この小論の視界からは外れている、というより、意識的に外されている。要するに、ここで取り上げる「都市」は、それ自体が圧倒的にリアルな存在である(はずの)現実の「都市」であり、本来、「フィクション」とは、リアリティをめぐって緊張関係にある概念なのである。

「としての」
 もう一つ、「としての」についてもごく簡単に述べておこう。ここで「フィクションとしての都市」というのは、<「都市」には、様々な側面があるが、そのうちの一つである「フィクション」の部分について取り上げる>という意味ではない。そうした用法は、例えば、「女優としての山口百恵」というテーマを設定したとして(「山口百恵」の部分は、「美空ひばり」でも、「内田有紀」でも、誰であってもよい)、<彼女は、歌手、女優、物書き、その他さまざまな仕事をしているが、そのうちもっぱら女優としての仕事について論じる>という意味にとるのと同じである。この小論で論じるのは、「都市」のすべてを「フィクション」と受けとめる感覚についてであり、「山口百恵」の例でいうならば<彼女のすべてを「彼女は女優だった」という観点からとらえて論じる>ことに他ならない。
 どうやら、課題がはっきりしてきたようだ。ここでいう「フィクションとしての都市」とは、<圧倒的にリアルで存在であるはずの「都市」を、何らかの意味で反-リアルな存在として捉え直すことで、何らかの「フィクション」=「虚構の物語」を読み解く可能性が開かれるのではないか>という問いかけなのである。あるいは簡単に、「フィクションを読むように現実の都市を読んでいく」ことについての議論を展開する、といってもよいだろう。そこで、「フィクション」を持ち出す前段階として、「現実の都市を読んでいく」ことから、考えてみることにしよう。


3.「都市空間」を読む視角

メディアとしての都市空間
 「現実の都市を読んでいく」ことについては、衒学的に多数の西洋人の名を並べることが簡単にできる。だがそれは僕の得意な仕事ではない。その代わりに、もっと個人的なスタイルで、自分にとって印象的だった議論を紹介しよう。
 まだ学生だった頃だから、もう随分と昔のことだ。『マス・コミュニケーション入門』という新書版の本がでた。当時、専攻分野とは違っていたものの、マス・コミュニケーションには関心があったので、何の気なしに、面白ければ買おうかな、という程度の関心でその本の目次をめくっていて、一種の衝撃というか、不思議な気持ちに襲われた。その目次には「テレビの出現」「マス・コミュニケーションの特質」「ジャーナリズム」「広告」といった諸章に並んで、「都市空間」という章が設けられていたのである。執筆者は中野収であった。当時の中野は精力的に執筆活動を展開しつつ、軟派のテレビ番組を含めてメディアに露出することも多い、活動的な研究者だった。
 問題の章で、中野は、高度経済成長期を通じて日本の「都市空間において情報システムのウェイトが増している」ことを指摘した上で、これを「都市空間が媒体性を帯びている」ことと捉え直し、記号論的な視点に立って「メディアとしての都市空間」という切り口の議論を展開していた。
 未開人が自然の中に多くに意味を読みとっていくように、人間にはさまざまなものを「記号として解読する習慣をもっている」が、都市空間も、そうした意味作用を引き起こす。都市空間の場合、個々の「独立した建物が建築家によってメッセージを与えられる」ことはあるが、記号総体としての都市空間には特定の「送り手」は存在しないし、都市空間とは本来、「多元的な解釈を許容するもの」なのである。

われわれが、ある都市空間の全域を見るのは、高層ビルの展望台の上か、航空機からの俯瞰か、航空写真を見るときぐらいで、日常的なことではない。高層ビルなど、その全壁面を視界に収めることすらできない。したがって、都市空間の記号的連鎖は、ひとつひとつのウィンドウであり、店頭であり、ディスプレイであり、立ち並ぶ道路標識・交通標識であり、ネオンであり、看板であり、そして疾走する思い思いの色彩とスタイルのクルマであり、分子運動のように−自由意志に従って−移動し、流動して止まない人間の群れである。既存の地上の街頭は、比較的記号的統一性は低いが、最近つくられるサブナード、プロムナード、駅の構内は、記号的連鎖を表象しようという志向が濃厚である[中野 一九七九、一三二]。
 このような都市空間は、「ある時期の風俗の集積体」であり、「多様な意味の入れもののように見える」ということになる。ここで中野は、テクストという用語こそ動員していないが、要するに<都市をテクストとして解釈する>という視点を提示し、その解釈の多元性を一つの(好ましい)必然的帰結として指摘したのである。
 「現実の都市を読んでいく」ことについては、中野とは異なる視点からのアプローチも当然可能である。例えば、<テクストの解釈>に際して、支配者や、都市計画者ら、「送り手」の意志を読み解こうとする立場は、中野とは異なるコミュニケーション観に立って「都市を読んで」いることになる。「送り手」から「受け手」に向けて「メッセージ」が伝達される、いわゆるアメリカ学派の図式と、中野や、ヨーロッパ学派の論者が共有している記号論的な図式は、議論の出発点が全く異なっている。他方、多元主義的状況認識を肯定する中野の結論は、テクストに潜在するイデオロギーの支配力を強調するヨーロッパ学派のスタイルと、一線を画している(5)。もちろん、それぞれ異なる立場から「現実の都市を読んでいく」ことが十分に可能であるし、そのそれぞれが魅力的な議論を展開させているわけだが(6)、ここでは紙幅の都合もあり、中野の議論を踏まえて、もっぱらその延長線上でものを考えてみよう。

クルマ体験の意味作用
 さて、中野の議論には、実は重要な続きがある。それは、「クルマによる移動」がもたらす意味作用についてであり、「都市空間における大量現象」としての流行についてである。とりわけ前者は、本稿の議論に非常に示唆的だといってよい。中野は、五木寛之の表現を引用しつつ次のように述べている。
……それにクルマを運転したものなら誰しも経験するように、あるスピードに達したとき、人は新しい感覚が内部に目ざめるのを感じるはずだ。さもなければ、クルマに乗ったものが一度は経験するスピードへの憧れの説明ができない。人間は筋力の限界を越えたとき、必ずある感覚能力が既存の感覚を変えてゆくのを自覚するはずである。クルマは、たしかに「地面の体験を非現実的なものにする」。しかし、文明とは、そもそも「地面の体験」を拒否するところから始まったのではなかったか[中野 一九七九、一三六]。
 ここで中野が引いた「地面の体験を非現実的なものにする」という五木の表現は、日常的な停止/歩行の体験とクルマによる速度の体験が、根本的に別のものであることを指摘すると同時に、後者が与えるリアリティによって、本来なら逃れがたい現実であるはずの前者がリアリティを喪失する(あるいは、そのリアリティが隠蔽される)ことを意味しているのであろう。どうやら、この辺りに、「都市」を「フィクション」として見ていく鍵がありそうだ。


4.都市をフィクション化させる<装置>

クルマ、ウォークマン、サングラス
 中野よりずっと後に、少し異なる視点からクルマによる移動について魅力的な議論を展開した上野俊哉は、次のように述べている。
 モビルスーツとかパワードスーツにぼくは目がない方である。パワードスーツへのぼくのパラノイアは、しばしばクルマとのコミュニケーションによって補填されている。黄色信号を突っ切るとき「やらせるか!」と叫ぶとか、トロいのを抜くとき「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」などと口走ってしまうときに頭にあるのはまぎれもなく−強化服−としてのクルマのイメージである(「ガンダム」を知らないひとごめんなさい)[上野 一九九二、二四〇]。
 首都高か中央高速で、めいっぱい飛ばしているつもりの僕の中古国産車を、上野のミニが追い越していくとき、彼にとってのリアリティはニュータイプとして何かを「感じる」自己の中にあるのだろう。だが、それはあくまでもフィクションである。速度の中のリアリティは、減速と停止の現実の中で雲散霧消する。それは渋滞であれ、故障であれ、時として肉体的死に至る衝突事故であれ、あるいは長距離ドライブの途中休憩であれ、速度を否定する様々な事態を想定すれば容易に理解されるだろう。そこにあるのは、ただの生の現実である。
 クルマという速度メディアに乗り込み、「外」をテクスト化させるとき、「外」に置かれた現実は、加速とともに容易にフィクションとなる。恋人たちのドライブは、速度によるフィクションを経て、非日常空間への地理的移動によるフィクションへと至る、複合的にフィクションを追求した仕組みであるし、カミナリ族以来の様々な「族」の衝動にも、現実に代わるリアリティ溢れるフィクションを求める共通した心情がある。本稿の最初でも指摘したが、日常的な表現として<リアリティ>が動員される機会は、非現実的なものについてである。「つくりもの」についてこそ、<リアル>だというのが褒め言葉になるし、フィクションであればこそ、リアリティが議論の対象になるのである。
  しかし、クルマに限らず、現実を容易にフィクション化させる機能をもった装置は、まだまだ他にもある。例えば、ウォークマン(あるいは一般的に、それに準じる携帯型の音響再生装置)は、それを身につけた一人(あるいは二人(7))にだけ聞こえる音によって、現実をフィクション化する。僕もウォークマンを最初につけてみたときの感覚は、BGMの流れる中で街を闊歩する映画の登場人物になったような気分であった。その快感は、フィクションの中に身を置く快感に他ならない。BGMや、効果音は、「現実」の場面には存在しない。BGMや効果音は、NHKのニュースよりも民放のニュースで、ニュースよりもワイド・ショーで、ワイドショーよりもドラマで多用される。ウォークマンも、カーステレオ(ラジオ)も、現実をドラマに変える。
 あるいは、視覚に作用するものとしてサングラスを考えてみよう、サングラスを通して見る街の風景は、裸眼に映る風景とはニュアンスを異にする。サングラスが視線の方向を隠してくれるおかげで、人は気兼ねなく視線を動かせるようになる。さらに、サングラス姿のもつ記号性は、周囲から投げられる視線にも大きな変化を与えるだろう。「最後の皇帝」溥儀も、厚木飛行場へ降り立ったマッカーサーも、一九六〇年代のモッズも、サングラスによって現実をフィクション化し、翻って自らを現実から浮遊したフィクションと化したのであろう。いうまでもなくサイバーパンクのミラーシェードは、装置としてのサングラスがもっている、こうした多様な機能の遥かな延長線上に構想されているのである。

もう一つのアイデンティティ
 さらに論じれば、現実を容易にフィクション化させる機能をもつのは、何も装置ばかりではない。例えば、名前や職業などについて本当のことはいわず、アイデンティティを偽って飲み屋の常連になる、といった粋人のささやかな習慣は、都市化した社会における匿名性を前提とした「ごっこ遊び」の一つの形態であり、現実をフィクション化する素朴な仕掛けであろう。都市と並んで匿名性を確保できる簡単な方法は、旅人となって出かけた旅先に身を置くことである。旅もまた、現実をフィクション化させる機能をもっている。「旅の恥はかき捨て」という諺は、匿名性が確保された場所における解放感を捉えたものである。旅先では、自己のアイデンティティを偽っても許されるし、旅先で行った行為(犯した罪)は、(旅から戻ってきた)現実の自分にとっては他人事に過ぎない。また、旅先の変形として、上京者にとっての都会(東京)を考えてみてもよいだろう。少なくとも明治以降の日本文学にとって、「青雲の志を抱いた」上京者の都会における経験は一貫して重要な主題であったし、日本の人口分布構造が激変した高度経済成長期の大衆文化にとって、若き上京者のエネルギーを挑発し、あるいは回収することは、定番の手法であった。そこには常に、「リアリティとしての故郷」対「フィクションとしての都会」といった緊張関係がはらまれていた。
 さらに、匿名性がむしろ積極的な意味をもつ前提となっているパソコン通信のネットワーク上で、現実の自己のアイデンティティから離れた人格を作り上げる(異性の人格をかたるのは、典型的な例)行為は、「ごっこ遊び」の究極的な姿であろう。あらゆる「ごっこ遊び」に人気のある役と、いやがられる役があるように、電脳空間に徘徊するアイデンティティにも大きな偏りがある。例えば、動物に関連したハンドルに注目すると、猫に関するハンドルの多さは、犬関連のハンドルの少なさとは好対照であり、電脳空間というフィクション化された社会空間において「求められるアイデンティティ」として、媚びず、群れず、自由気ままな猫が理想視されていることは明らかである。電脳空間において自由な猫というアイデンティティを獲得し、フィクションに浸る、あるいはフィクションの中を疾走する人々のかなりの部分が、現実の生活において犬の視線を強いられているのであろうことは想像に難くない。


5.<フィクションの現実化>と<現実のフィクション化>
フィクション化された「都市空間」
 ここで、一つ確認しておきたいのは、ここまで例示してきたような<現実をフィクション化させる>行為は、主体的な行為であり、何らかの意味で他者から強制されるものではない、ということである。例えば、カルト教団から、SF商法やある種の企業研修まで、世界観を覆し、現実からかけ離れた認識を人々に植え付ける仕掛けは、様々に存在する。しかし、カルト教団の信奉者にとっては、他者にはフィクションとしか思えない彼らの奇妙な世界観こそが、圧倒的な現実にほかならない。主体としての個人が自己制御できない形でフィクションが現実に流れ込んでくる状況は、いわば<フィクションの現実化>ではあっても、ここで論じてきた<現実のフィクション化>とは違っている。ウォークマンをはずし、旅から帰り、パソコンの電源を落とせば、フィクション化された現実は(瞬時にではないにしろ)解消される。渋滞気味の一般国道で上野俊哉が運転しているのはモビルスールではなく、扱いにくい愛すべきクルマである。フィクション化された現実は、あたかも外套のように容易に装うことができ、また脱ぐこともできる。その意味では、皮膚となり、血肉となり、脱ぎ捨てることのできない生の現実とは、まったく異なっている。カルト教団の信奉者の認識が、<フィクションの現実化>だというのは、それが個人の主体的な選択によって脱着できなくなっていることを指している(8)
 小川博司は、混乱して語られることの多いマクルーハンの「ホットなメディア/クールなメディア」という対立軸について、これを「完成品の需要/過程への参加」と「単一感覚/共通感覚」という二つのベクトルに解体し、相対的位置づけとして、それぞれの組み合わせの最初の項目(「完成品の需要」と「単一感覚」)に近いものほど「ホット」なのだ、とする明晰な理解を提示した[小川 一九八八、七−一二]。この枠組みを援用して述べるならば、現実の都市空間が、誰しもが「共通」して「完成品」として受け入れざるを得ない客観的実体であるのに対して、フィクション化された「都市空間」は、個々人が「参加」によって「単一感覚」を獲得できる場ということになろう。<フィクションの現実化>と<現実のフィクション化>の位置関係は、いわば「ホット-クール」対「クール-ホット」といった対称性をもつことになる。
 圧倒的な現実である都市空間に対して、人々は、あるいはクルマで疾走することによって、あるいはウォークマンで耳を塞ぎ、サングラスで光を遮ることによって、あるいはもう一つのアイデンティティを構築することによって、それぞれにフィクション化された「都市空間」へと逃避する。もちろん<逃避>という否定的な含意の言葉を用いず、<主体性を回復すべく適応する>といった言い回しをしてもよい。いずれにせよ<フィクション>が、<ノンフィクション>よりも遥かに自由度が大きい形で、自由主義的=多元主義的事態を招くことは確かであろう。それは、身につけることのできる外套が無数に存在し、それぞれが選びとるお気に入りがそれぞれ違ったものになるのと同じである。そして、少なくとも<フィクション>に身を委ねている間、僕たちは一つの現実、一つのリアリティ、一つの<ノンフィクション>(あるいは、そう呼ばれる<フィクション>)に束縛される状態から解放される。そこでは、連続体としてのリアリティの切断し、あるいは細分化し、さらには解体〜脱構築まで回路を拓くかもしれない、いわば現実のコリをほぐすマッサージとして、「多品種少量」の<フィクション>が用意されている。やがて、「多品種少量」を是とし、<フィクション>を許容する括弧つきの「相対主義」は、社会の求心力を確実に弱めていくことになり、個人にとって「街」=都市は希薄化していく。それは、例えば、国家といった単位の全体社会が希薄化していくことと同一の現象である。

隠蔽する「都市空間」
 だがちょと待て。<フィクション>におけるフットワークは、決して生の現実の中でのフットワークそのものではない。『逃走論』が、そのままでは「闘争論」たり得ないのと同じことである。<フィクション>は美しく立ち現れるが、やがて日常性に埋没していく。<ノンフィクション>は、生の現実を裏付けとして、いつでも<フィクション>の亀裂から吹き出してやろうと機会をうかがっているのだ。ジョン・レノンの歌で「イマジン」することは、現実の戦争と国境をなくすことそのものではない。ただ、そこで「イマジン」してみることからしか、始まりようがないというだけである。
 さまざまな議論の中で指摘されているように、都市空間の基本的な特徴の一つは、隠蔽である。これは田園の可視性との対比で重要な特徴である。もっとも、田園には、森とか山といった不可視空間が共存しているのだが、今この問題には踏み込まない。思うに、この不可視性が解読の暴走を促す大きな契機なのである。都市の巨大化、肥大化、複雑化は、都市の決定的な不可視化を促し、現実の隠蔽は、大衆社会の常態となっている。リアリティの揺らぎ〜崩壊、フィクションの侵入(<現実のフィクション化>であれ、<フィクションの現実化>であれ)は、その必然的な帰結である。
 僕たちは、屠殺を知らず肉を食らう。僕たちは政治に無知なまま納税する。僕たちは企業の内情を見ずに株を買う。都市に生き、大衆社会に生きることは、全体像が見通せない組織の一員として生きることを意味する。知り得ないことに由来する不安は、いくら上手に隠蔽されていても、根元的に消えることはない。そこで、僕たちがすがるのは、一編の<フィクション>による享楽なのであろう。各人それぞれのフィクションに憑かれた人々(彼らはやがて「フィクションに疲れた人々」となるのかもしれない)が、隣人として集住するという状況自体は、逃れ得ないリアルな生の現実である。それは、あらゆる神秘的救済の言説に対して厳然と煩悩の元が存在するのと同じだろう。

  1. 「トマスの公理」については、[藤竹 一九七五、二一]を参照。
  2. さしあたり、[小松 一九九五](初出は一九九一)を参照。ここで小松は「虚構」の意義を、複素数の虚数部に準えて論じている。ことの当否はともかく、美しい例えである。
  3. 特に日本においては、シカゴ派の影響が強い[富永 一九九五、一八五−一九四]。
  4. さしあたり、文学からのアプローチとして[前田 一九八二、パイク 一九八七]を、地理学からのアプローチとして[杉浦 一九九二]を参照。
  5. ここでいう「アメリカ学派」、「ヨーロッパ学派」といったコミュニケーション観の整理については、[バージェス&ゴールド 一九九二]を参照。
  6. 「フィクション」といった視点から見れば、例えば、「没場所性」といったキーワードを用いて、現実に構築される虚構的な空間を論じた[レルフ 一九九一]などが、とりわけ興味深い。同様に、[吉見 一九八七]にはじまる吉見俊哉の一連の仕事も重要である。
  7. ウォークマンには、恋人たちを想定しているのか、二人分のイヤホン・ジャックが用意されているタイプもある。しかし、街角や電車で実際にしばしば見かけるのは、一人用のステレオ・イヤホンを片方ずつ使っている女の子の二人連れである。こういう光景に出くわすと、思わず「女たちの身体的なインティマシー、つまり自我の境界が溶解しあうような親密さ」[上野 一九八九、一〇六]といった表現が思い起こされる。もちろん、他者との人格の融合感覚、例えば恋愛に絡む一体感は、それ自体が一つの「虚構」=「フィクション」である。
  8. もっとも、ここまで論じれば、カルト教団のみならず、われわれは皆それぞれに現実化したフィクションに囚われているのだ、と言うこともできる。しかし、それは「フィクション/ノンフィクション」という軸の立て方自体を問題とする議論であり、本稿の前提そのものを崩してしまう。そのような議論が展開され得ることを認めた上で、ここでは論を進めない。
引用・参照文献。
上野千鶴子 一九八九『スカートの下の劇場』河出書房新社。
上野俊哉 一九九二『思考するヴィークル』洋泉社。
小川博司 一九八八『音楽する社会』勁草書房。
小松左京 一九九五「科学と虚構」、鏡明編『日本SFの大逆襲!』徳間書店。
杉浦芳夫 一九九二『文学の中の地理空間』古今書院。
富永健一 一九九五『社会学講義』中公新書。
中野 収 一九七九「都市空間」、早川善治郎ほか『マス・コミュニケーション入門』有斐閣新書。
パイク、B 一九八七『近代文学と都市』(松村昌家訳)研究社出版。
バージェス、J & J・R・ゴールド 一九九二「序論−場所、メディア、大衆文化」バージェス & ゴールド編『メディア空間文化論』(竹内啓一監訳)古今書院。
藤竹 暁 一九七五『事件の社会学』中公新書。
前田 愛 一九八二『都市空間のなかの文学』筑摩書房。
吉見俊哉 一九八七『都市のドラマトゥルギー』弘文堂。
レルフ、E 一九九一『場所の現象学』(高野岳彦他訳)筑摩書房。
参考文献
引用・参照文献には、入手の容易な邦文の単行本だけを挙げた。そのまま参考文献となろう。


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