雑誌論文(その他):2001:

地域の情報化から,地域の再構成へ.

コミュニケーション科学(東京経済大学),15,pp71-83.


地域の情報化から,地域の再構成へ.

地域情報化の図式と実態
再構成される地域
情報発信から情報公開へ,そして開かれた地域へ




地域の情報化から,地域の再構成へ.

山田 晴通

 情報化を論じ,情報社会を論じようとするとき,現実の社会が空間的な広がりをもち,地理的多様性をもつことは,捨象されていることが多い1)。現実の社会が「一点世界」にあるわけではなく,空間的な広がりの中にある以上,情報化の進展においても中心/周縁の差異は当然生じる。ところが情報化論の中には,空間的な意味での周縁の存在をほとんど無視したまま,議論を展開してゆくものが多い。また,中央から離れた,地方における情報化,地域における情報化が論じられる場合においても,議論は「中央」の視点からなされることが少なくない。
 このような現状の背景には,情報化そのものが,空間的差異などを克服して普遍的なサービスの実現を目指す,ユニバーサル指向をもった動きだという本質的な問題がある。実際,情報化の進展とともに,既存の空間的な差異,地域的な格差が克服されて,無化されることは多い。しかし,情報化は,中心が周縁まで拡大され,中央が地方を呑み込むといった単純な過程ではない。情報化がどんなに進んでも,当然ながら消えない差異もある。他方では,情報化のもたらした新しい技術体系や新しい社会関係が,新しい空間的な差異を生み出してもいる。
 社会の全面的な情報化が,個別の地域で何を普遍化させ,何をどう変化させるのかについては,地域における具体的な事態を前提とした,より一層の議論が必要なはずである。そのような議論は,情報化の過程で優位な立場を占めている中央の側からではなく,むしろ情報化の中心から一定の距離をおいた観点から提起されるべきであろう。必要なのは,地域の現実を踏まえ「地方」の視点に立った情報化論なり情報社会論の構築である。

地域情報化の図式と実態
 「地方から情報化を考える」という観点に立つとき,1980年代以降,省庁間の縄張り争いを背景に様々な形で展開されてきた,一連の「地域情報化」政策を無視することはできない。地域情報化の主張の背景には,社会における全面的な情報化の進行が,もっぱら中央=大都市圏において展開し,地方=小都市・農村部は,放置すれば情報化に取り残されるから,これを是正するための措置が必要だ,という共通した理念が存在していた。地域情報化の諸施策について,一括した評価を試みることは難しく,またあまり意味がない。しかし,中央と地方の情報化の進度の差がもたらす情報格差がこれらの政策によって大きく是正された,と楽観的に評価することは躊躇される2)
 地域情報化政策に沿って,地方ではあちこちで様々な事業が展開された。しかし,中央から大きな資金が投下され,地元も応分に負担を引き受けて展開した地域情報化関連の事業が,事前の計画通りには機能していなかったり,事業自体が大きく変質したりすることは,常態化している。事業自体が順調に行われて,比較的肯定的に評価されているような事例でも,施設の更新や,サービスの維持・運営に伴う経費など,様々な形で生じる事後的な負担が事業主体を圧迫しているのが普通である。徐々に変化が見られるとはいえ,基本的に箱モノや設備には資金が確保できても,ソフト面や人件費には資金が足りないという,補助事業にありがちな構造は,地域情報化関連の場合にも当てはまる。もちろん,例外的に論じるべき事例もあろうが,多くの場合,地域情報化関連で整備された施設は,ハードがその開設時点では高水準にあったとしても,サービスを継続していくための資金的裏付けが乏しく,ハードの特性が十分に活用できないうちに,新たなメディアの普及や技術的展開によってハードは耐用年数を待たずして陳腐化し,施設の維持や運営自体がいよいよ困難になってくる,という共通したパターンが認められる。
 放置しておけばもっぱら中央で展開すると考えられた新しい情報化の動きを,具体的な一つの事業として地方に移植しても,それを維持し,展開させることはできない。広い意味でのインフラストラクチャーといってもよいし,単に背景の広がりと曖昧に述べても良いが,一つの事業を支える基盤が中央と地方では,当然異なっているからである。例えば,一つの情報メディアなり,ネットワークを十全に機能させるためには,その事業を担う側にも,サービスを受ける側にも,ハード面では関連する施設なり環境,ソフト面ではノウハウやリテラシーが必要になる。情報化の進展は,それらの諸要素が,相互に影響し合いながらダイナミズムを生み出していくものである。情報化する社会を一つのシステムと見なすなら,新たなメディアの普及や技術的展開といったダイナミズムが,そこには最初から組み込まれていなければならない。しかし,格差是正といった発想には,そのような視点は欠けている。実際,地域情報化政策の下で進められた諸事業は,次々と中央の側から生み出される新しいメディア,新しい技術,新しい状況によって,僅かな時間の経過の中で陳腐化を余儀なくされてきたのである3)
 このように,情報化のもたらす中央/地方の格差を,もっぱら施設などのハード中心に是正して行こうとする従来からの地域情報化政策の図式では,近年の情報化の実態を,地方の視点,地域の視点から前向きに捉え直していくことはできない。1980年代以降,通信網の整備と情報機器の普及は,中央・地方,業務・民生を問わず,広く社会に定着,浸透してきた。この過程は,情報化社会の新たなインフラストラクチャーの構築過程にほかならない。特に,インターネットへ接続できる環境は,とりわけ重要な情報インフラストラクチャーとなっている。パーソナル・コンピュータに代表される情報機器の普及と,携帯電話などの移動体通信から光ファイバー網に代表される広帯域ネットワークまでを巻き込んだ通信網の再編成の結果,インターネットは,一般家庭や個人レベルにまで浸透が進んだ。また,衛星関係のメディアや,インターネットを活かしたメディアのように,地域差などに関係なく,どこにいる人々にも等しくサービスを受けるチャンスがあるように思われる新しいメディアも登場してきている。こうしたインフラストラクチャーの普及や,ユニバーサル・サービスの登場が,従前の中央/地方の格差を是正する方向で機能することは確かである。しかし,電話回線の品質や携帯電話の受信状態に地域差があったり,地上波デジタル放送の開始が当面は首都圏から始まることに象徴されるように,ユニバーサル指向のサービスにおいても,その普及過程における中央の優位ははっきりとしている。あくまでも普及率と新しい技術を中心に考えるならば,中央と地方の格差は是正などされず,むしろ拡大していると考えるべきであろう。
 ポスト・バブル期の地方における動向に注目すれば,もはや,地方が情報化の水準において中央にどこまで追いつけるかは問題ではない。むしろ,地方の状況,地域住民が置かれている環境が,それぞれの地域における情報化をどのように受け止め,また,情報化が具体的に各地域の状況をどのように変え得るのか,変えて行くのかという問いかけが,より重要になっているように思われる。必ずしも最先端の技術によるものではないとしても,情報化を支えるインフラストラクチャーが地方へと拡散して行くに従って,中央におけるあり方とは異なる形で,地域ごとに独自性を帯びた具体的な情報化,すなわち中央からの画一的なお仕着せではない,真の意味の地域情報化が論じられるべき状況が生じているのである。


再構成される地域

 地域社会は,従来から,特定の地理的範域としての地域に身を置く人々が織りなす,相互作用の束として把握されてきた。地域の広がりを示す指標として従来から考察されてきた,商圏,通勤圏,通婚圏,等々の概念は,人々の相互作用の特定の局面に注目したものということになろう。情報化の進展とともに,新たな機器やネットワークが創出され,普及して行けば,こうした相互作用における情報交流=コミュニケーションの局面と,何らかの意味での直接接触を不可欠とする局面とは,分離され,両者の関係は変化することになる4)。新たなコミュニケーション手段の出現は,連鎖的に人々の相互作用の形態を変えて行く。これは最近の新しいメディアに限ったことではなく,例えば,もっぱら直接接触に依存する対面コミュニケーションによって情報が交換されている地域社会に,新たなメディアとして印刷媒体が登場すれば,直接接触がなくとも情報が伝わり,それまでの情報伝達の範域を越えて,新たな相互作用,新たな社会的関係が生じるものと考えられる。
 情報化の進行は,地域社会に新たなコミュニケーションの回路を作り,新たな情報の流れをもたらすが,その動きは従来の地域社会の枠組みをなぞりながらも,その内部構造に変革をもたらすことになる。また,そうした動きは既存のシステムの枠組み内にとどまらず,枠組みを乗り越える広がりをもって展開し,システムを開放系へと変化させてゆく。インフラストラクチャーとしてのインターネットは,こうした情報化のあり方を具体的な形で体現した代表的存在といってよいだろう。インターネットは,従来存在した,地理的障壁を含む様々な障壁を乗り越えて,情報を流通させることを可能にし,さらに,ネット上に蓄積された情報に対する自由度が高い検索を可能にした。もちろん,この新たなインフラストラクチャーが,それ自体の発展のごく初期段階に位置づけられる原始的なものに過ぎないとしても,その出現と定着は,社会を構成する個人や小集団のレベルに大きな影響を及ぼしつつある。
 例えば,地域行政の末端において,情報機器の普及とともに,組織内における業務のあり方や,権力構造が,静かにではあるが確実に変化しようとしていることは,地域社会の内部構造に生じる変動の一例といえよう5)。他方では,現実の地域社会と並行して,その構成員を中心としたネット上のバーチャル・コミュニティが,例えば頻繁にやりとりのあるメーリングリストや,電子掲示板,ウェブページ等々を活用しながら成立し,そこにはリアル・コミュニティとしての地域社会から見れば外部に位置する者も参画する,といった状況が,判りやすい形でこれからの地域のあり方を先取りして体現している6)
 当然のことではあるが,生身をもった人間として現実の地理的空間のどこかに位置する限り,我々は具体的な地域での生活から逃れることはできない。言い換えれば,地域社会におけるコミュニケーションに完全に背を向けることはできない7)。特に,農村的色彩をもった地域社会においては,各種の寄り合いなど直接接触によるコミュニケーションの積み重ねが,地域社会の様々な意志決定において重要な位置を占めており,そこへの関与を拒んで生活してゆくことは難しい。
 一方,バーチャル・コミュニティは,様々なインターネットの機能や,それ以外のコミュニケーション回路を併せて利用しながら,共通の関心事項などを軸として人々を束ねてゆくものである。リアルな地域社会とは対照的に,バーチャル・コミュニティへの参入はまったく個々人の意志に基づくものであり,参入も退出も極めて容易である。コミュニケーションのほとんどが,インターネットをはじめ何らかの情報ネットワークを介しているため,地理的障壁を含め,参入障壁は少なくなっている8)。実際,こうした特性を活かして,文字どおり世界中に散在する人々を束ねながら機能しているバーチャル・コミュニティも存在する。しかし,全てのバーチャル・コミュニティがそのような指向性をもっているわけではないし,地域性とまったく無縁なわけでもない。
 多くのメーリングリストにおいて日常的に経験されるように,バーチャル・コミュニティに強いコミットメントを持ち,そこでの意志決定に影響力がある者の多くは,例えばオフ会への参加といった形で,ネットワーク上のコミュニケーションと並行して,直接接触の機会を確保しているのが普通である。当然ながらそこには地理的障壁が再び立ち現れることとなる。また,そもそもバーチャル・コミュニティを成立させる共通の関心事項として,地域性のある事柄や,具体的な地域そのものが位置づけられるという場合も多い。
 ここで重要なのは,バーチャル・コミュニティが,地域社会というリアル・コミュニティと絡み合うことで,そこに新たな変化を引き起こす可能性を秘めているという点である。具体的な地域そのものを共通の関心事項とするようなバーチャル・コミュニティが成立している場合,その構成員には,リアル・コミュニティである地域社会の構成員でもある人々も,その地域社会の外部に位置する人々も,含まれているのが普通である。リアルな地域社会の構成員でもある地域住民にとって,このようなバーチャル・コミュニティは,新たに開かれた追加的なコミュニケーション回路であり,地域について,よりよく情報を集めることを可能にする。例えば,メーリングリストや電子掲示板などによって意見交換の場が確保されることで,地域の中で散在し,それぞれに孤立傾向があった意見が,相互の存在を認知し,意見交換を通じて集約されていく可能性は大いに注目される9)。また,バーチャル・コミュニティへの外部からの参加は,参加者自身にも,またリアルな地域社会の側にも,それぞれの意義をもっている。定住者ではなくても,しばしばその地域に通い,限定的にではあれ地域社会に関わりを持つ者は,バーチャル・コミュニティを介して,地域社会への新たな参画者/ステイク・ホルダーとなることが可能になる10)。さらに,積極的な参画者とはいえない人々であっても,外部の観察者が存在し,それが地域社会の側にも意識されるようになれば,バーチャル・コミュニティにおける動きは,リアル・コミュニティにも徐々に反映されて行くことになるだろう11)
 もちろん,実際にここで想定しているようなバーチャル・コミュニティが機能してる場合でも,その規模は,リアルな地域社会の規模に比べればはるかに小さいものでしかない12)。しかし,そこに情報リテラシーと社会意識の高い人々が参加してくることを考えれば,バーチャル・コミュニティが,リアルな地域社会にとっても意義をもつ,ある種の公共空間,あるいは現象の先取りが現れる空間として機能する可能性は大きい13)
 リアルな地域自体が,情報流動とともにヒトやモノの移動性(モビリティ)の向上によって,具体的にはモータリゼーションの浸透による行動圏の拡大や,いわゆる「交流人口」の拡大によって,流動化傾向を帯びつつあることは,地域なり,地域社会なりを把握しようとする際に,無視できない要素となっている。小さな領域,小さな規模での情報化が,より大きな範囲の変化をもたらす,というバーチャル・コミュニティとリアルな地域社会の間に見られる図式は,物流システムや金融システムをはじめ,ヒト・モノ・カネの流動に密接に関わる分野で,様々な形で立ち現れるモチーフでもある。インターネットに代表されるネットワーク型の情報通信システムは,単に情報の流動化を支えるだけでなく,ヒト・モノ・カネの流動化を促進させる新しいインフラストラクチャーとして,地域に大きな影響をもたらすことになる。あらゆる要素の流動化傾向を強めてゆく中で,地域は不断に再構成,再定義され続けてゆく。


情報発信から情報公開へ,そして開かれた地域へ

 インターネットというインフラストラクチャーが普及する以前と,現在とでは,メディアを介したコミュニケーションをめぐる社会的環境は,大きく異なっている。インターネットには,従来のコミュニケーション手段にはない様々な画期的機能があるが,インターネットの登場によって情報発信と情報検索がきわめて容易に行えるようになったことは,地域における社会的関係の再構成に直結する重要な変化である。
 インターネットの最も重要な本質の一つは,このシステムが,すべての受け手に,送り手となる機会を容易に提供できるという点にある。例えば,インターネットのウェブページは,受け手側から見たインターフェイスに注目すれば,かつて1980年代初頭のニューメディア・ブームのときに注目を集めたキャプテン・システム(ビデオテックス)に使い勝手が似ている。しかし,ビデオテックスとウェブページの決定的な違いは,前者が情報の送り手と受け手を非対称的な存在として位置付けるシステムであるのに対し,後者においては受け手が容易に送り手側に回ることができるという点にある14)。もちろん,インターネットにおいても企業や官公庁の情報発信力は,個人とは比較にならないほど大きい。しかし,インターネット上でしばしば生じる企業と個人の間のトラブルなどを想起すれば,個人の情報発信力がインターネットによって格段と増幅され得ることが理解されよう。
 インターネットのもう一つの重要な特性は,その突出した情報検索機能にある15)。様々な設計思想に基づく多様なサーチエンジンの出現によって,インターネットは,単に無数の情報が置かれている空間ではなく,しかるべき目的に添って必要な情報を検索できるメディアとなった16)。特に,テキスト情報の蓄積と検索に関わるメディアとしての全文検索型のサーチエンジンの発達は,インターネット上のウェブページ総体に,アーカイブ資源としての価値を生じさせたものと評価できる。
 ウェブページにテキスト・データとして掲出された情報は,それを必要とする誰かがサーチエンジンなどを介して発見し,アクセスしてくるのを常時待っている。デジタル・データである以上,保存性もよく,複製も容易である。ウェブページと比較すると,放送メディアには保存性が欠けており,新聞でも紙媒体を前提とする限り事後的な検索には手間がかかる17)。情報を,検索可能な形で蓄積しておいて,リクエストに応じてオン・デマンドで提供するというウェブページの仕組みは,例えば,書店における本の取り寄せや,図書館の仕組みなどにも似ているが,情報検索の簡便さと,反応の即時性において,インターネットはまったく画期的なシステムである18)
 自らが身を置く社会についての個人の情報収集能力は,インターネットの出現によって飛躍的に高まったと考えてよかろう。もっぱら企業などによって担われている,経済活動の場合には,インターネットやその他諸々のネットワーク・システムの発達によって情報の不完全性/市場の不透明性が次第に克服されると,経済活動の具体的なプロセスからは冗長性が省かれ,事業から投機的性格が後退して生産性が向上してゆく19)。個人の生活行動においても,情報検索が的確に行われることで情報収集能力が向上すれば,社会的行動から冗長性が省かれ,ある種の社会的生産性とでも呼ぶべきものが向上してゆくことが予想される20)。例えば,地域社会において,ある程度まで積極的なコミットメントへの指向性をもちながら,既存のコミュニケーション手段では結び付けられることがなかったような人々が,個人の情報発信と情報検索を可能とするインターネットを梃子として効率よく結びつき,バーチャル・コミュニティを構成できるようになる,という現象も,社会的生産性の向上が生み出したものと考えられる。そして,バーチャル・コミュニティの活性化は,個人ではリテラシー(機器操作能力)の限界などから困難だったレベルでの情報発信を可能にし,更なる情報発信を拡大してゆくことになる21)
 かつての地域情報化の議論の中では,中央と地方の情報格差を克服するために「地域からの情報発信」の必要が力説された。知って欲しい情報を売り込む(プッシュする)情報発信という形態は,一見すると情報化への前向きな取り組みだと思われるかもしれない。しかし,そうした文脈で語られていたのは,自治体や地域の諸団体,企業などが発信する,外向きに用意された,もっと知ってもらいたい情報を,いかにメディアに載せるかという議論であったり,そうした情報が流れる回路をメディアごと新たに作ってしまおうという議論であった。確かにインターネット以前の段階では,既存のメディアに情報を流そうとすれば,メディアのフォーマットに合わせる形で情報を仕立て上げなければならなかったし,新たにメディアごと作っても,その普及や運営は容易ではないという事情があった。しかし,今日の視点から見れば,情報を,原則として送り手側の機構内に抱え込み,必要に応じて取捨選択した上で,外向きに発信,公開するという姿勢は,実はかなり後ろ向きの姿勢であるように感じられる。
 もちろん,プライバシー権をはじめ人権への考慮や,その他の正当な理由から,無差別な情報公開にそぐわない「公開すべきでない情報」は存在しよう。しかし,地域社会を構成する,行政を含めた公的団体が,その社会的な責任(特に説明責任)を果たすために,例えば広報活動や情報公開制度を踏まえた情報開示に取り組むべきことは,当然である。最近では,情報公開制度との関係もあって,公文書館を整備する自治体が増えつつあるが,公共性のある団体には「公開すべきでない情報」はあっても,「公開に値しない情報」などは存在しない22)。また「公開すべきでない情報」についても,その「公開しない理由」は当然「公開」されるべきである。
 現実の様々な社会的システムは,その性格によって開放の程度は多様であるし,システムの安定性もダイナミズムもそれぞれに異なっている。しかし,情報化の全般的な進展とともに,開放系への移行が,地域社会というスケールにおいても,地域の行政組織というスケールにおいても,より一層強く求められることは間違いない。単に組織に都合の良い情報を発信するというだけでなく,社会的存在として説明責任を果たし,公開性のある情報を外部からのアクセスが容易な形で公開することが,社会的信用を確保する上で大切になりつつある。もちろん,狭義の情報公開の問題は,もっぱら行政を中心とした公的団体に関わるものである。しかし,私的企業であっても,社会的責任を負う存在である以上,程度の差こそあれ社会的要請に応じた情報公開に取り組まなければならない23)
 本来,情報公開は,その組織の業務執行の適正化を担保する一つの手段である。特に公的団体の場合は,組織内に既に存在する公開可能な情報(特にテキスト化された情報)は,取捨選択されることなく,すべてアーカイブとしてウェブ上に置かれることが原則化されてもよいはずだ。公開して問題のない文書は,請求に応じて探してからその都度公開するのではなく,最初からネット上に出してしまえばよいのである。組織内の文書による情報のやり取りが,ワープロ等の使用によってデジタル化されたデータとして存在していれば,技術的な困難はほとんどない。
 既に中央省庁などでは,プレス・リリースの全面公開からはじめて,公開性のある文書を積極的にウェブ上に掲出する動きが出始めているが,自治体レベルでは,取り組みの積極性にばらつきがあり,総体としてはまだまだ動きがにぶい。比較的小規模な取り組みで立ち上げることが可能な自治体等の方が,大規模な中央省庁よりインターネットを活用した取り組みを有意義に展開できると思われる部分も多いのだが,現状では(例外もあるとはいえ)ここにも中央/地方の格差が生じているようである。
 情報化は,従来存在した技術的困難を克服し,特に公的部門における情報公開への流れを加速させる。地域社会において,諸団体の情報公開が進み,これと並行して個人レベルの情報化が進行して情報発信が盛んになれば,開放系としての地域,という観点からのインフラストラクチャー整備や,ソフト面での地域イメージ戦略などが「地域づくり」の上でいよいよ重要性を増すことになろう。もちろん,こうした変化は,分野によって進行の速度が異なるし,短期間のうちに大きな成果があるとは限らない。地域に存在するすべての公開データがウェブ上に置かれる,などという想定は,目指すべき理想ではあっても,達成可能な現実的目標とは言い難い。また,もっぱらインターネット上での情報公開に意を払うばかりでなく,こうした展開の陰で生じるデジタルデバイドの問題にも,十分な配慮が必要になる。しかし,情報公開を進め「開かれた地域」を目指す地域の再構成への取り組みが,すべての地域のすべての分野で,それぞれの異なる姿をとりながら,大きな課題として浮上してくることは間違いない24)




1) 山田(1995a,pp55-58)では,「コミュニケーション」について同趣旨の議論をしている。本稿での関心に引き寄せて,そこでの「コミュニケーション」を「情報化」に置き換えても,議論はほぼ成り立つものと思われる。
2) 1980年代以降の地域情報化政策についての筆者の基本的な見解は,山田(1995b)を参照されたい。
3) 改めて述べるまでもなく,補助事業である以上,途中での規格などの変更は難しいし,制度的に定められた償却年数に達していない既設設備を撤去する場合には補助金の返還が必要になる。例えば,補助金を得て整備された狭い帯域のMPIS施設がある場合,それが未償却ならば,既存施設の撤去を前提とした広い帯域の新設を補助事業で行うことは,大変難しい。
4) 見方によっては,分離され,変化が生じるのはコミュニケーションと直接接触,つまり情報とヒトの組み合わせばかりではない。中元や歳暮などの贈答品は,本来は持参する手みやげであったが,現在ではモノだけが配送され,ヒトの直接接触は回避されることが普通になっている。もちろん,この場合も,モノは情報メディアと化していると解釈すれば,情報とヒトの分離という枠組みで理解できるが,情報の流れを検討する際に,それを基礎づけるモノの流れ,すなわち物的流通についても十分に考慮していく必要があることは強調しておきたい。
5) 多くの町村役場では,ワープロ専用機の普及が先行し,パソコンへの置き換えが民間企業などよりも遅かった。また,田代(1989)が指摘するように,一般に自治体では民間企業に比べて,管理職クラスへのOA化教育への意識が遅れていた。インターネットの普及とともに,自治体ホームページの立ち上げなどが求められるようになったとき,多くの,特に小規模の自治体では,組織的に職員を研修に出すと行った形ではなく,たまたま趣味などで私的にパソコンを扱っていた経験のある職員を見つけ出して,パソコンやインターネットを導入する部局に配置するといった対応をとった。その過程や,その後の展開においては,慣例的な手続きとは異なる形で意志決定が下されることがしばしば起こったようである。
 また,インターネットとの関連ではないが,例えば,近隣集落のいわゆる「常会」規模の寄り合いにおいて,文書が手書きからワープロ印字となり,会計管理に表計算ソフトが用いられるようになると,世代間の権限の委譲が促進される。その際に,集団内で新たに権限の担い手に参入するのは,地域への関与が大きい人々の中で比較的コンピュータ・リテラシーのある者,具体的には,比較的若く(多くの集落では50歳代は十分「若い」),事務的職業経験があり,地域内で就労している者であることが多い。
6) 「バーチャル・コミュニティ」を厳密に定義することは難しい。ここでは,例えばメーリングリスト,メールマガジン,ニューズグループといったメール系のものや,掲示板(BBS)を含むウェブページ系のメディアなど,オンラインのコミュニケーション手段によって生じる社会関係の束としての「オンライン・コミュニティ」を軸としつつ,オフ会などのイベントによる直接接触の機会も併せて社会関係が取り結ばれる場を,かなり緩やかに指す用語として「バーチャル・コミュニティ」を用いている。したがって,コミュニティとしての成熟の程度は問題としていない。
 山田(2001)では,中野収の議論を踏まえて,<幻のコミューン>という表現を用いているが,これは本稿における「バーチャル・コミュニティ」とほぼ重なる語句と見なしてよい。
7) コミュニティの変質なり崩壊といった議論は,近代化,都市化の所産として広く生じた傾向である。そこに様々なメディアの普及と発達が加わることで,直接接触に基盤を置いたコミュニケーションが後退していくという傾向は,特に大都市について普遍的に語られる。メディアを介したコミュニケーションに没入していれば,地理的制約は希薄にしか存在しない。しかし,ヒトが物理的実体として地理的空間のどこかに身を置いて生きている以上,生活行動の基盤としての地域から完全に逃れることはできない。個人の生活のなかで,地域社会の他の構成員との情報交換の比重が激減したとしても,それはゼロにはできない。例えば「ゴミ出しのルール」が,そのギリギリの所に立ち現れる。(山田,2000)
8) メンバーシップを不特定の人々に公開していないバーチャル・コミュニティが,コミュニティ側の意志として一定の条件に該当する人々を排除するようなケースは,ここで障壁と考えているものには入らない。ここで問題としているのは,潜在的なメンバーシップがオープンになっているにもかかわらず,そこへのアクセスができない者が出てくる状況のことである。なお残された参入障壁として,重要なものとしては,一つには使用言語があり,もう一つには機器操作能力という意味での情報(コンピュータ)リテラシーがある。後者は,機器調達能力などを考え合わせて,いわゆるデジタルデバイドの問題と捉えても良いだろう。
9) 単一の自治体,例えば一つの村の中でも,当然,複数の集落が存在する。個々の集落内のコミュニケーションは直接接触によって展開されるとしても,自治体全体としてのコミュニケーションはメディアに依存することになる。インターネット系のコミュニケーション手段がそこに普及してゆくと,開かれた形での議論を異なる集落に散在する人々の間で展開することが可能になる。そうして成立したバーチャル・コミュニティの参加者は,情報リテラシーが比較的高く,個々の集落内においては少数者であるとしても,非参加者以上に緊密なコミュニケーションを村内の他の集落にいる人々との間に確保することによって,村内の意志決定におけるヘゲモニーを追求できる。
10) このような位置づけに置かれる者には,その地域の出身で,一時的ないし恒久的に他地域(特に大都市)に移った転出者もいれば,本来はその地域と縁がなかったにもかかわらず,何らかのきっかけで当該地域に関与したり,関心を持つようになった「交流者」とでも称すべき人々もいる。
11) 外部の視線を意識することが重要だという論点は,ミシェル・フーコーを持ち出すまでもなく,地域情報化の現場担当者への聞き取りの中でしばしば耳にする。「何だかよく判らないが,村のことを外の人々が見るようになった」「この村も注目されるようになった」といった意識が地域住民に共有されることは,モラール(士気)の強化につながり,地域活性化に向かう大きな力となる。
 山田(1998)では,ケーブルテレビで自主制作ドラマ作りに取り組んだ長野県山形村の事例について,同様の状況があることを報告している。
12) 例えば,1996年にパソコンの全戸配布を行った富山県山田村では,村民の間の情報交換を主な目的としている「山田村メーリングリスト:mlyamada」と,村外の参加者も含めた交流が目的となっている「電脳村ふれあい祭:yamadamura-net」という,二つのメーリングリストがバーチャル・コミュニティの核となっている。神谷ほか(2001)の調査に対する世帯単位の回答を見ると,有効に回答した257世帯のうち,「山田村メーリングリスト」に参加していると回答したのは42世帯,「電脳村ふれあい祭」は29世帯に過ぎなかった。各リストへの実際の参加状況は,こうした数字よりやや多いものと思われるが,それでも参加世帯は数軒に一軒という状況であることには間違いない(p47)。
山田村メーリングリスト
http://www.vill.yamada.toyama.jp/risuto.html
電脳村ふれあい祭
http://www.yamadamura.net/
13) もちろんここでは,バーチャル・コミュニティが「公共空間」であると断じているわけではない。サイバースペースの「公共性」をめぐる議論は,パソコン通信のフォーラムの分析以来,様々な形で展開している。
14) キャプテン(CAPTAIN: Character And Pattern Telephone Access Information Network)システムにおいては,情報提供者は情報を提供するものの,最終的に提供される画面を実際に作成するのはキャプテンサービス株式会社に一元化されていた。情報提供者は登録料と画面作成料などをキャプテンサービスに,装置や回線などの使用量をNTTに支払った上で,提供する画面に対して利用者が支払う情報料を,NTT経由で受け取ることができた。利用者は通常の電話回線を経由して画像を受け取り,情報料を通信料と一緒にNTTに支払うようになっていた(前田,1989,pp147-151)。電話回線を利用しているシステムであり,リクエストによって画面を提供したり,チケットの予約ができるといった意味では,間違いなく双方向メディアであったが,送り手である情報提供者と,受け手である利用者の非対称性はこのシステムの本質であり,サーバ上に領域をもつ者の間でファイルのやり取りをするウェブページとは似て非なるシステムである。
15) 情報検索機能の発達が,従来とはまったく異なる社会環境を生み出しているのは,開放系のネットワークであるインターネットに限ったことではない。例えば,「Nシステム」と通称されている,自動車のナンバーを自動的に読み取り,その情報を蓄積して検索可能にするシステムは,当然ながら警察独自の閉鎖系のシステムである。このシステムの設置目的は,盗難車やその他の手配車両の発見や,移動記録の裏づけにあるとされている。車両の移動状況が,警察によって常時監視されているという状況の出現は,社会環境に大きな変化を生じさせていると考えられえる。
Nシステムに反対しプライバシーを守る会
http://www.npkai-ngo.com/
16) サーチエンジンのうち,いわゆるディレクトリ型については,カテゴリの立て方からページやサイトの採否まで,一定の立場性,政治性が伴うことが容易に想像される。また,既にウェブ上では,全文検索型(ロボット型)のサーチエンジンについても,政治性をめぐる議論が展開されている。サーチエンジンについても何らかの多様性が担保されなければ,インターネットにおける情報交流には何らかのゆがみが生じることになろう。
17) もちろん新聞は,紙媒体のままでも,データを蓄積して検索可能な状態にし,事後的に提供することに向いた性格があり,各種索引つきの縮刷版やクリッピング・サービスといった付加的な情報サービスが早くから存在していた。また,1980年代以降,新聞紙面の編集工程におけるコンピュータ化が進んだ結果,記事のデジタル化が進み,さらにオンライン検索サービスや,CD-ROMによる記事(見出し)検索などが,インターネットの普及に先んじて取り組まれていた。こうしたアーカイブ・サービスの蓄積は,新聞とインターネットとの親和性を支える大きな要素となっている。
18) 書籍に比べれば,モノとして提供される必然性が少ない音楽ソフトの分野で,いち早くネット配信が始まったことは,ネットの即時性を踏まえた現象と見ることができる。もちろん,音楽ソフトの場合,パッケージへのフェティシズムはマーケティングの上でも尊重される側面であり,CDその他のレコード(録音物)が無くなることは考えにくいが,現状においてレンタル・レコード店の果たしている役割は,ネット配信と競合関係になる。
 もちろん,音楽ソフトの先には,動画(映画作品など)が同様のサービスの対象となる可能性が開けている。
19) 情報ネットワークの活用による投機性の排除が,経済活動の形態に大きな影響を与えることについては,流通産業を対象とした検討を行っている箸本(2001)に多くの示唆を受けた。
20) 社会的生産性は,貨幣尺度で量ることにはなじまないが,例えば携帯電話の普及によって待ち合わせの方法が大きく変化し,待ちぼうけが回避されるようになったことは,個人の時間の使い方を効率のよいものにしているという意味で,社会的生産性の向上につながっていると考えてよいだろう。
 もちろん,ここでは社会的生産性という概念を無前提に肯定しているわけではない。労働生産性の向上が,しばしば労働強化に結びつくように,社会的生産性の向上が,日常生活における余裕を排除し,いわゆる時間飢饉(time famine)の状況を生み出すおそれも大きい。
21) メールをやり取りしたり,掲示板に書き込むという形での情報発信は比較的容易であり,機器操作能力という意味での情報リテラシーをさほど必要としない。しかし,見栄えの良いウェブページを作成したりするためには,それなりに,より高いリテラシーが要求される。このように個人では技術力の不足などで難しい情報発信も,技術力のある他の個人や組織に協力を求め,リテラシーを外部化することで実現に漕ぎ着けることができる。
 山田ほか(1993,pp124-130)では,地域住民からなるケーブルテレビ番組制作集団の中で,情報発信(この場合は番組制作)に必要なリテラシーの不足が,集団への参加者間の協力によって克服され得ることを指摘した。インターネット上での情報発信にも同様の図式が当てはまるものと思われる。
22) 一方,私的企業の場合であれば,少なくとも理論上は,ある情報を公開することに投じられる経営資源と,公開によって獲得される企業の社会的信用とを天秤にかけて,その情報を非公開と判断することも許されるだろう。
23) 佐藤(2001,p12)は,企業を念頭に置きながら,広報を「社会にとっての組織の効用を極大化するための,社会と組織との取引費用と機会費用の極小化,および組織内外に存在する多様な情報の編集による新しい社会的価値の創造を目指した情報活動」と定義し,情報活動の一環として情報発信を位置づけている。広報は,「企業にとっての業績都合からのコストダウン」ではなく「社会全体の省エネ省資源」を目指す活動として,情報発信を含めて情報活動を行っていくことにほかならない。
24) ここでいう「地域の再構成」は,市町村合併などを意識した表現ではない。しかし,市町村合併が目指されているような状況において,世論への浸透を図る方策として,合併後の範域を対象としたバーチャル・コミュニティを立ち上げる,といった演出は,今後いよいよ重要性を増してゆくものと思われる。


文献

神谷浩夫・山田晴通・金 木斗 哲・許 宇亘(2001):富山県山田村のコンピュータ利用状況調査(速報資料).地理学報告(愛知教育大学),92,pp44-49.
佐藤 修(2001):広報学確立に向けての一試論.広報研究(日本広報学会),5,pp5-15.
田代益啓(1989):情報システムの推進行動.島田達巳・編著『自治体の情報システム』白桃書房,pp83-99.
箸本健二(2001):『日本の流通システムと情報化』古今書院,229ps.[書評]
前田隆正(1989):地域メディアの技術体系.竹内郁郎・田村紀雄・編著『新版 地域メディア』日本評論社,pp135-163.
山田晴通(1995a):地域のコミュニケーションという視点.コミュニケーション科学(東京経済大学),3,pp53-64.
山田晴通(1995b):検証 日本の地域振興・地域情報化.地理(古今書院),40-10/11/12(3回連載),pp75-79/pp84-89/pp94-97.
山田晴通(1998):ドラマ作りの村−長野県山形村.児島和人・宮崎寿子・編著『表現する市民たち』日本放送出版協会,pp43-65.[抜粋]
山田晴通(2000):地域メディア論からみた「地域」の再構成.2000年度人文地理学会大会研究発表要旨,pp16-19.
山田晴通(2001):<幻のコミューン>が形成される−「デジタル時代」の地域社会.新聞研究(日本新聞協会),595,pp63-66.
山田晴通,阿部 潔,是永 論(1993):長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動.松商短大論叢(松商学園短期大学),41,pp95-178.


謝辞/献辞

 本稿は,2001年6月24日に岡山大学で開催された地域地理科学会シンポジウム「地方から情報化を考える」における報告のために用意されたメモを下敷きにしている。このシンポジウムにお招きいただいた主催者の地域地理科学会と,シンポジウムに参加されたすべての方々に,まず感謝を申し上げたい。また,本稿には,2000年を中心に取り組んだ富山県婦負郡山田村における共同調査の知見から多くの示唆を得た。調査にご協力を頂いた山田村の方々,共同調査に参加した共同研究者・研究協力者諸氏,資金的支援を頂いた財団法人電気通信普及財団に,厚く御礼を申し上げる。

 筆者が大学院の学生だった頃から,様々な形でお導きいただいた田崎篤郎先生(元・東京経済大学コミュニケーション学部長)は,定年まで数年を残した2001年3月をもって,本学の専任教員職を退職された。先生が万全とはいえない体調を抱えられ,定年前にお引きになる決断をされたことは,これまでご迷惑を掛けてきた筆者としては,まことに残念であり,申し訳なさで身の縮む思いである。田崎先生には,引き続き非常勤講師として本学でご指導を頂いているが,専任を退かれたこの機会を一つの区切りとして,これまでの御厚情に感謝し,また,多々あった筆者の至らぬ所をお詫び申し上げたい。田崎先生が永く関心を寄せてこられた地域と情報化の問題を論じた本稿を先生に献じ,今後ともご指導を頂けるようお願い申し上げる次第である。



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