私的ページ:山田晴通

エストニア〜フィンランド日記:2007年7月8日〜7月13日


 今回の旅行は、国際地理学連合の情報社会研究グループの活動の一環として隔年で開催されている研究集会「Digital Communities」への参加が主な目的でした。
 文中にある料金のうち、宿泊費は一人の金額です。1エストニア・クローニ(EEK)は12円くらい、1ユーロは170円くらいです。
(2007.07.14. 仮公開:今後、テキストの加筆、画像の追加を予定しています)
■ 2007/07/08 (Sun)
はじめてのエストニア

AY74便〜AY3115便 機中 / Tallinn, Estonia
Tallinn:
Oldhouse Apartment - Uus 14

ヘルシンキまでの搭乗機@成田
 前夜からほぼ徹夜状態で、発表用のパワーポイントを組む作業に没頭していたが、5時少し前から小一時間だけ布団で熟睡する。6時頃、研究室に立ち寄ってから国分寺駅へ行き、東京駅まで快速の車中でまた寝る。東京からの N'EX は、指定席がなかったので、立ちっぱなしだった。フィンエアーのフライトなので第二ターミナルで9時前にチェックインを済ませ、早めに搭乗口まで行ったのだが、結局11時の定刻よりも少し遅れてエアバスA340に乗り込んだ。
 座席(29A)は窓側だったが翼の真上で眺望は悪い。席について直ぐ、離陸前に座席を倒しもしないまま寝てしまい、目がさめると既に飛行中だった。1回目の食事のあと、椅子を倒してまた少し寝る。隣席の女性は、新人の添乗員らしく、搭乗後は配布資料を整理したり、いろいろ作業をしていたが、こちらが寝ているうちに、彼女も仕事に区切りをつけ、『タイタニック』を観ながら寝ていたようだ。こちらが目覚めたときには、ちょうど(授業でも使っている)最後のシーンあたりになっていたので、見るとはなしにそのまま最後まで(隣席の画面を)観る。内容を考えてみれば、飛行機の中で見せる映画ではないような気もする。エンドロールが出てから、自分の席のエンターテイメント端末を引っ張り出し、バックギャモンを見つけてやり始める。そのまま到着までゲームし続ける。

ヘルシンキ→タリンの搭乗機
 定刻より遅れてヘルシンキに到着した。着陸時には小雨がぱらついていたようだ。初めて降り立つヘルシンキ空港は、所々で基盤岩が露出しているのが印象的だった。この空港はヴァンターという場所にあり、ヘルシンキ市内からは結構離れているようだ。タリンへの乗り継ぎ便にも改めての手荷物検査が必要なのだが、検査場が長蛇の列となっていたので、指定された時間に遅れるようなペースになり、少々慌てた。しかし、いざ搭乗口31a(バスの乗り口)に着いてみると、まだ30分近く余裕があった。バスは、ターミナルをぐるっと半周して一番端の貨物ターミナル近くにまで行き、そこに駐機していたプロペラつきのターボプロップ機 ATR-72に乗り込んだ。(その際に、中国系の女性から飛行機を背景に写真を撮ってほしいと頼まれたのだが、後で分ったのだが、この女性は同じ学会への参加者L先生だった。)  今度の席は、前方左窓際の席4Aで、隣の通路側は米国人?と思しきビジネスマン風の男性だったが、彼は空席が残っているのをめざとく見つけ、スチュワーデスに話を付けてそちらへ移っていった。飛行時間は20分ちょっと。バルト海上空へ出ると、快晴の眺望が開けた。機中では飲み物も何も出ないが、飴が配られたので何も考えずに一つ取ってみたら、何やらハーブの強烈な味で、結局少し舐めただけで口から出してしまった。バルト海を越え、タリン空港に近づくと、郊外の住宅地開発のようすが見てとれる。また、空港の周辺にはクラインガルテン風の家庭菜園と思しきものが帯状に広がっているのがよく見えた。
 到着後、深く考えずに入国手続より手前の両替所で二万円分をエストニア・クローニに換えたのだが、これがとてつもなく悪いレートだったことが直後に分り、結構落ち込む。両替は入国してからロビーの窓口ですべきであった。
 市内までの交通手段がよく分らなかったのだが、1時間に2本程度の便がある市内行きバスの停留所を見つけ、しばらく待ってからやって来たバス(15-EEK)に乗ったのだが、料金支払いの方法がよく分らない。地元の人たちは何も支払う様子もなく後部ドアからバスに乗っていくのでそのまま乗ったのだが、旅行者然とした生年たちが前の乗車口に並び、一人ひとり運転手に金を払っている。いったん乗ったのを降り、また乗り直した。降りるべき場所が分かっていないことをバスの運転手に告げておき、降りるべきところで指示してもらったのだが、その指示を勘違いして降車する場所を間違いかけたりもしながら、何とか6時過ぎに学会会場のラディソンSASホテルにたどり着いた。

Radisson から旧市街を望む

初日の宿 Old House Apartment
中央の2階入口から入り、
その左上の3階の窓から左側の区画
 このホテルの最上階24階の小さな宴会場へ行くと、レセプションはまだ始まったばかりだった。日本から参加する3名の先生方もそこにいた。既に二日前にヘルシンキに入り、昨日タリンへ到着したとのことだった。眺望のよさに、嬉々として写真を撮りまくる。犬吠埼から見る水平線ではないが、地平線が丸く見える感じを実感する。おそらくアリス・スプリングスあたりで経験して以来、久々のことだ。
 レセプションは6時から8時の予定なので、7時過ぎにいったんその場を離れ、Uus という通りの名を頼りに、その22番地にある Old House という宿へ向かった。事前の話では、ラディソンから歩いて15分くらいということだったが、10分ほどですぐに見つけられた。宿は旧市街地区のはずれで、近くにリトアニア大使館があったりする。ここで3泊するのだが、事前に知らされていたように今夜はリーズナブルなゲストハウスのシングルに空きがなく、本来なら3人で泊まれるアパートメント(一泊 1500-EEK)しかないということで、宿から通りを少し戻った14番地の、中庭を抱えた邸宅の一角へ連れてゆかれた。部屋に上がるドアと階段は倉庫へ行く感じだが、部屋に入るとなるほど値段に見合っている。早速荷物を置き、ラディソンへとって返した。
 8時少し前にレセプション会場へ戻り、改めて日本からの参加者4名で食事をし直しに出かけようということになった。旧市街の入口に戻りそのまま少し進んだところにある Olde Hansa という店で(というより店の前の路上に出された席で)サラダ類とスープ、それに飲み物をもらって歓談する。支払いは全部で、チップを載せて 700-EEK ちょっとになった。まだまだ夕方という感じくらいは明るい10時くらいに、お三方と分かれて宿へ戻る。
 テレビを付けると、エストニア語と思しき放送の他、衛星放送なのかCNNVH1などの英語放送、その他いろいろな言語の局がある。とりあえず、あまり見たいと感じる番組がなく、テレビを消して明日の発表に備えてパワーポイントに手を加え始める。結局、床に着いたのはしっかり暗くなった12時頃になってからだった。
 日本と当地の時差は6時間(夏時間)なので、今日は一日30時間だったわけだが、前の日が徹夜状態だったので。違和感なく当地の時間に馴染んだ感じの日だった。
■ 2007/07/09 (Mon)
文字通り「何事も無く」学会発表を終える

Tallinn, Estonia
Tallinn:
Oldhouse Guest House - Uus 22
 朝、6時前に眼が覚めると、雨であった。居間に移り、テレビをCNNにしてボーイング社の新しい機種787ドリームライナーについてのリポートなどを見る。何でも、機体の素材には東レの特殊繊維が多用され、さらに翼は富士重工が作っているらしい。小一時間してベッドに戻ったが、すぐまたちゃんと起きて、シャワーを浴び、少しまたパワーポイントをいじる。開会は9時からだが、最初の30分は儀礼的なスピーチなので、9時半到着を目標に出かける準備をする。9時少し前に部屋を出て、22番地へ戻り、今夜から2泊するゲストハウスの5号室に荷物を置いて、チェックインし直す。昨日はクレジットカードで支払ったのだが、今夜からの部屋は現金でなければならないというので、慌ててポケットを探り、何とか現金で、2泊分 900-EEK を払う
 予定どおり9時半頃に、ラディソンの2階にある発表会場へ着くと、ちょうどエストニアについてのレクチャーが始まったところだった。これが非常に面白かった。エストニア人は歴史的に他者の支配に慣れているので誰も信じないし、支配者のものを盗むことを悪いとも思わない云々、ほとんどブラック・ジョークすれすれの話題を挟みながら狭い国土ながら気候の多様性があり、それが国内少数者としてのロシア系の居住分布とも関わること、局地的にも大局的にも、地政学的東西対立の最前線にあることなど、また、1991年の再独立以降の急速な社会の変化のこと、その中でICT技術の実験場としての機能を持ってきたこと、さらにはロシアとの間で実際にサイバー戦争状態が経験されていることなどの話が印象に残った。何より驚いたのは、インターネット/WiFi への接続を、基本的人権の一つとして位置づける云々といった話だった。つまり、都市のみならず農村部でも、どこにいても無線LAN が使えるようにすることを政策に掲げているというのである。
 ラディソンでは無線LANが自由に使えるということだったので、コーヒーブレイクの際にパソコンを使ってみると確かにその通りだった、ちょっと手間取る局面もあったが、かなりサクサクと使える。その際確かに、信号は少し弱いが、いくつかの接続自由の無線信号が認識された。感心していると、次のレクチャーで説明に立った政府の情報政策担当のお役人(といっても、私と同じような体型で、Tシャツにジャケットという、他人のような感じがしない人物)の話でも、国民のプライバシーへの意識がさほど強くないこともあってあらゆるデータベースが縦横に編み上げられているということに驚かされた。
 エストニア人報告者による二つのレクチャーで、エストニアにおける独立以降の変化が、敗戦直後の日本にも通じるような激しいものであり、また、どさくさまぎれの外資の導入に伴った、(特に不動産の)バブルの危うい状態にあることが、よく分った。
 この後の一般発表は、一応発表会場にはいたのだが、直後の自分の発表の最後の仕上げをしていたので耳に入って来なかった。昼食はロビーでの立食だったが、かなり豪華で、肉、魚の揚げ物、パスタ、野菜からフルーツやケーキまで、実に水準が高い。朝食をとっていなかったこともあり、結構満腹になるまで食べてしまった。
 午後のセッションは2時半から4時で、プログラムでは3名の報告が予定されていた。自分の順番はその2番目だった。そこで、当然20〜25分で話すつもりで準備をしていたのだが、翌日のはずだった報告の一つを急遽そこに入れることになったということで、話が違ってきた。15分で話し終えて、簡単な質疑以外は最後の時間にまとめて議論するというように、とイタリア人女性の座長に言われ、非常に慌てた。トップバッターの若いイタリア人の男性はトスカーナの仮想現実コミュニティの話だったが、発表後に事実関係について確認する質問をかなり浴びせられていた。座長が(少しでも時間を節約するためであろうが)質疑の途中でプロジェクタの差し替えをしろとこちらに目配せしたので、その質疑の最中にパソコンをつなぎ直し、すぐに自分の発表となった。大急ぎで話し、話を端折って、何とか15分ほどに収めた。質問も特になく(こういう場合にお約束になっている座長からの質問もなく)席に戻った。次がスペインのガリシアでの取り組みについての共同研究の報告で、最後に、後から追加されたイタリア人のやや年輩の女性のピエモンテにおける取り組みについての発表があった。実は、この最後の発表がゆっくりと30分以上に及び、彼女への単純な質問だけで定刻となり、そのまま最後に回されたはずの質疑も流れてしまったので、結局、こちらの発表へは、誰も何も言わなかった形となった。「トホホ」という感じではあったが、やはりオーディエンスが共有する文脈を把握することの難しさを痛感した。ただし、その場で聴いていた日本人のH先生から後で伺った話では、私の発表を聴いていたある高名なフランス人研究者が、最初はろくに聞いていないでラップトップをいじっていたが、途中でその手が止まり、最後は蓋を閉めて笑顔で話を聞いていたということなので、全くインパクトがない発表をした訳ではなかったようだ(単にH先生のフォローが上手いというだけのことかもしれないが)。確かに、途中で笑ってほしいと思って仕掛けた所では反応があったから、それを慰めにしておくことにする。
 セッション終了後、夕方の徒歩による旧市街の見学まで1時間あったので、そのまま会場に残って無線LANでメールへの返事を送ったりと細かな仕事をこなす。途中で、誰もいないはずと思って入ってきたらしいホテルのボーイを、結果的にはちょっと驚かしてしまったようだった。

上の街の案内図

ソーセージの盛り合わせ 二人前
 5時からのウォーキング・ツアーでは、若い女性ガイドの丁寧な案内で、2時間あまりをかけて旧市街を一回り歩いた。ルートを地図で辿ると、Ravala Pst - 大学の角で右折 - オペラハウス(女性が設計した20世紀初頭の建物とのこと)- Vaike Karja - ポーランド大使館の角 - Kuninga - Niguliste - かつての大聖堂(ソ連時代に軍の施設となり、現在は博物館/演奏会場)の横 - Luhike Jalg (「短い坂」の意らしい)- 最初の展望スペース(ここで俄に雨が降り出した)- 下の街(庶民の街)と上の街(領主/上流層の街)の境 - 20世紀初頭建設のロシア正教会(この辺りでかなり激しい雨脚となり、正教会の正面=国会/Loss Plats側=入口に逃げ込む)- 雨がやんだところで再度歩き始め Toom Kouli - Kiriku Plats と上の街の中心(といっても土産物屋以外に店は無い)へたどり着き、そこからピストンで Kohtu を往復して展望スペースで眺望を楽しむ - Kiriku Plats へ戻り - 先ほど来た Toom Kouli より一本東側の道でロシア正教会の裏へ出て - Pikk Jalg (「長い坂」の意らしい:かつては馬車で上がれる唯一のルートだったそうだ)-、Nunne - Lai - Borsi Kaik - Pikk - 教会 - Saiakang - 市役所前広場 Raekoja Plats となる。もう少し北側にある、灯台がわりの役割もあって150メートルの高さがあり、当時の欧州で最も高い建物だったという教会 Oleviste Kirik 周辺を除けば、旧市街をほぼくまなく歩いたことになる。
 第二次世界大戦中、タリンは市街地全体の5割を失ったが、旧市街の損傷は1割程度だったということで、旧市街は街そのものが観光に対象となっている。エストニアの主要な外貨獲得手段が観光産業ということもあって、観光資源の保全、開発には、かなり手がかかっているようだ。案内プレートの類もよく整備されているし、土産物店やレストランでは、従業員が中世(ハンザ都市としてタリンが栄えた時代)を思わせるコスチュームを見にまとっていることが多い。
 市役所前広場で解散になった後、一緒に歩いた日本人参加者のA先生、N女史と食事をしようということになり、少し体調を崩して宿で休んでいたH先生にも電話を入れて、ガイドの女性に教えてもらった「エストニア田舎料理」の店 Kuldse Notsu Korts へ向かう。路上の席での食事になった。私以外の3人には、雨が降った後という事もあり、少し昨日より寒いようだった(中の席は予約でいっぱいだと断られた=そうは見えなかったが)。魚の揚げ物、キノコのグラタン風に、二人前というソーセージの盛り合わせをとったが、昨日の店とは段違いにボリュームがあり全部を食べきれなかった。お値段は870-EEK。ちなみに、この店の看板は豚なのだが、これまた他人のような気がせず、帰りにマグカップを150-EEKでお土産に買った。ついでにレシピの本もと思ったのだが、英語版が248-EEK、エストニア語版が99-EEKというので、読めもしないのにエストニア語版を買う事にした。店員に「エストニア語、読めるの?」と訊かれたので、「もちろん読めないよ!」と笑顔で応えておいた。
 宿へ戻る途中、旧市街の門のところで他の先生方と別れるものだと思っていたら、こちらの宿に近い位置にあるスーパー Rimi へ立ち寄るというので、一緒についていく。当地は水が悪いそうなので、飲み物を買っておかなければならない。朝のレクチャーでも、ヘルシンキよりもタリンの方が、人口1人あたりのミネラルウォーターの消費量は多いと言っていた(もちろんこれには観光客の消費分も入っているのだろうから人口に比して観光客が多そうなタリンの方が多くても大して不思議では無いが)。何だか分らないがソフトドリンクのところにあった「Linnase-Kali」なるものを買ってみた。見かけはコーラ(というより醤油)で、エストニア第二の都市タルトゥに本社があるエストニアの企業 A.LeCoq の製品である。
 宿に戻ったのは10時すぎだった。部屋(5号室)の鍵を受け取り、インターネットの使い方を聞く。部屋には冷蔵庫が無いので、買ってきた飲み物を常温で少し飲む。味は、飲んだ瞬間にキャラメル風の感じがするが、その後の飲み心地はコーラに近い。少し作業しようとしたのだが、眠たいのと、インターネットにつながらないのとで(詳しく聞きに行き直すのが面倒に感じた)、まだ少し明るい外の光を遮るためにすだれを降ろし、就寝する。
■ 2007/07/10 (Tue)
若い人たちと話す

Tallinn, Estonia
Tallinn:
Oldhouse Guest House - Uus 22
 昨日あまりに大食したせいか、寝苦しい。夜中の3時半頃、一度目が覚めてトイレに立ち、その後また。5時半頃に目が覚め再度トイレへ行く。そのまま起きて、ベッド上でパソコンを開け、日記を詳しく書く。そうこうしているうちに、気づくと昨夜買った飲み物はほぼ空になっている。このゲストハウスでは8時から10時までの間、簡単な朝食があるという事なので、廊下を行き交う足音が結構聞こえるようになった8時半頃に、朝食の部屋へ行ってみる。簡素ながらけっこうバラエティがある。パンにハムやチーズを載せ、ミルクコーヒーと一緒に食べながら、インターネットにつないでメールチェックをする。昨夜つながらなかったのは、単に建物の中の場所が悪かっただけらしい。受信したメールの中に急いで対応しなければ行けない(あまりよくない知らせの)メールがあったので、会場へ向かうのは少し遅らせて、さっそく返信を書いた。ところが、いざ送信しようとして、送信できない。学会の会場では送受信が可能なので、すぐに会場へ向かう事にした。
 9時の開始時刻に20分近く遅れて会場に到着し、フランスでの調査の話(交通量が減っているがこれは情報化の帰結かもしれない?)、情報化の進度についての欧州主要都市の比較の話などをきく。面白かったのは午前中の休憩後のセッションだった。最初のイスラエルのK先生の話は、自動者の世帯普及状況と電話の世帯普及状況というシンプルな指標の20世紀を通した国際比較で、類型化を試みるという力技だった。後で尋ねたら、日本の電話普及データは入手していないという事だったので、帰国後に探して送ると約束した。つづくエストニアのA先生の話は、携帯電話の位置データからいろんな事ができる事を具体的に示したもので、表現のエレガントさを含め、非常に魅力的なプレゼンテーションだった。最後のフィンランドのI先生の報告はジェンダーとインターネットや携帯電話利用の関係を、結構大規模な質問紙調査で検討した報告だったが、質問してみたら、実はジェンダーよりも職の有無や年齢(ただし40代以下では無関係)の方が説明変数としては強いというオチもあった。
 昼食は、昨日とはまた少し違った品々が並んでいたが、贅沢である事に変わりはない。昨日食べ過ぎたのを反省して、少しだけセーブする。食後、まだ決めていない明日のヘルシンキの宿を探して、ネット経由で予約をとる。  午後のセッションは、いずれも博士課程クラスの若手の発表で、携帯電話を使って市街地での交通量を自動的に調整できるかも、というエストニアの話、時間地理学的な発想で複数の人間の会合がどう制約されるのかをシミュレーションする試み、またエストニアの携帯電話の位置情報を利用した交通流動の把握(事例がメタリカのコンサートがあった日!)、中国の辺境(事例はチベット)で携帯電話が普及している/させていくという話、などを聴く。セッション終了後もそれなりに議論になり、面白かった。
 慣例となっている参加者全員でのディナーの集合時間である7時まで、まだ2時間近くあったので、本屋に行こうと思い、日本人参加者4名で、ホテルの目の前にあるショッピングセンターの中の書店に入った。999-EEK の英語-エストニア語の机上辞典をはじめ、ロードマップ、軍歌集(冊子とCD)などを買い、だいぶ散財する。この店で他の日本人参加者と別れ、宿へ向かい、途中の旧市街の門近くにある書店で、さっきの店にはなかったエストニア語の学習書(英語で書かれたもの)を手に入れる。宿について一息入れると、当地の午後6時(日本時間深夜0時)が近づいて来た。レポートの締切時刻に指定してあったので、ぎりぎりに送られて来た宿題メールに対して、受信確認の返信を書いていく。6時を少し回ってから、再度ラディソンへ向かったのだが、カメラの電池がなくなっている事に気づき、昨夜立ち寄ったスーパーRimi で電池と飲み物(リトアニア産のコーラ)を買った。ラディソンのロビーで先ほど書き溜めたメールを送信して、一息ついていると、ロビーに関係者が集まって来た。

Tallinna Eesti Maja 入口
 7時になり、ホテルを出て西へ一ブロック行って角を左折したところにあるエストニア料理の店 Tallinna Eesti Maja に入る。何も考えずに座ると、いつも日本人が固まってしまうので、あえて一人だけ別のテーブルへ行き、同じセッションで発表した若手のイタリア人男性、NETCOM の編集作業を担っている中堅というよりは未だ若い印象のフランス人男性、最後のセッションで中国の発表をしたフランス在住の中国人女性に囲まれて座り、雑談する。ちなみに、注文したのは、豆のスープ、ニシンのサワークリームがけ、ヴィシー水で 125-EEKの勘定だった。
 ディナーは10時近くに解散となったが、若い人たちはまだどこかへ遊びにいくらしい。もうそういう年齢でもないので、宿へ向かう。思ったよりも疲れているようで、11時頃にはベッドサイドの電気スタンドを点けたまま眠ってしまった。
■ 2007/07/11 (Wed)
バルト海を渡る

Tallinn, Estonia 〜 Helsinki, Finland
Helsinki:
Fenno Hotel
 前夜に早く休んだためか、3時半頃にトイレに立ち、再度眠ったものの5時半には目が覚めてしまった。すっきり目覚めた訳ではないが、また眠るよりはいいと思い、散歩に出て、まだ歩いていなかった旧市街地の北部を歩いた。しかし、途中で、雨模様になり、30分もしないで宿に戻った。雨はそのまま降り続け、こちらに来てから一番しっかりと雨らしい降り方になった。それでも、傘なしで歩く気になる範囲内である。
 本が増えてかなり重くなった荷物をまとめ、朝食を8時に取りにゆく。ヨーグルトに、きな粉のようなものを入れて食べるのが当地の伝統食らしく、それに挑戦する。食後すぐ、8時半頃に宿を出て、ショボショボと降る雨の中をラディソンに向かう。ラディソンのロビーでメールの送受信をしているうちに集合時間となり、数人ずつでタクシーに乗り込んで港へ行くというので、日本人参加者4名で港へ向かう。ヘルシンキへ向かう高速船の埠頭は、旧市街地の北側に位置しており、今朝方散歩したあたりも通過して、乗り場まで到着した。ある意味では当たり前だが、タクシーは(もちろんメルセデスではないが)ベンツ製だった。ベンツ製のタクシーには初めて乗った気がする。

霧に沈むタリン
 乗り場では、かなり混雑した状態で待たされたが、ここでもネットが通じており時間をつぶした。今回のエストニア滞在では、それらしいTシャツをお土産に買う機会がなかったのだが、朝9時前の市内では土産物屋はまだ開いていない。残ったクローニは港の土産物屋ででも使おうかと漠然と考えていたのだが、最後のクローニで買い物をしようにも、埠頭には土産物屋も何もない。けっこう待たされ、出発の定刻を過ぎてから乗船になった。座席数と乗客数の辻褄は合っているのだろうが、4人がけの対面席に3人だけで座るような例も多く、乗り込む順番が遅かったので、ちょっと座れない感じだった。他の日本人参加者と一緒に、船室の二階に上がり、荷物を床に下ろす。二階船室から出る事ができる後部デッキに行き、霧に沈むタリンの写真を撮る。
 船中の売店でクローニが使えるので、ここで残額を使うことにして、この高速船の名称である「Linda Line」と名の入ったTシャツと帽子、あわせて180-EEK を買う。これで大方は使い果たした。買い物の後、さっそくTシャツを重ね着にする。ときどき、他の日本人参加者が買い物をしている間に席についたりもしながら、船中の時間を過ごし、最後の方は船室の1階にいた、今回の集会のオルガナイザーであるフィンランド人のI先生に、ヘルシンキの情報を聞く。船中で、他の日本人参加者からユーロで船の運賃を預かる。これは明日までに精算する事になっている。
 上陸後は流れ解散状態になったので、日本人4人でとりあえず中央駅近くのスカンディック・シモンケンタ・ホテルまで、タクシーで行く。ボルボのタクシーというのも初めての経験だった。このホテルは今回の学会参加者の大部分が宿泊しているホテルで、他の3人はここに泊まっている。ホテルの前で、3人と別れて、トラムの停留所へ行き、先ほど預かったユーロを流用して、一日券(正確には24時間券)を自動券売機で買い、トラムに乗ろうとしたのだが、路線番号から見て地図を読み間違えているらしいという事に気づき、少し歩いて隣の停留所まで行ってみた。結局、よくわからないのでそこでやって来た7B番のトラムに乗ったところ、とりあえず大回りはするが目的地のホテル近くまで行くことがわかり、地図を眺めながら中心部から客船埠頭のある港を経て、南部の高級住宅地区から労働者住宅地区までぐるっと見て回った。

フェンノ・ホテル
 目的地の停留所はすぐに分ったので、通りの番地を頼りにフェンノ・ホテルを探すと少し戻ったところにある、反対方向のトラムの停留所の真ん前だった。チェック・インし、部屋(626号室)に行くと、簡素だが自分の好みの部屋だった。ベッドと机、冷蔵庫とラジオだけしか備品はないが、洗面台ではしっかり湯が使える。荷解きし、インターネット接続を探すが、ここではつながらない。市内へまたすぐ出かける事にして、フロントで両替についてアドバイスを少しもらい、トラム停留所へ向かう。
 やって来た7T番に乗って中央駅まで行き、フォレックスで2万円をユーロに換える。今は本当に円が弱いのだと実感する。これで自分の分も含め、船の運賃を精算できる。駅の一帯を歩き、明日乗車する空港への急行バスの乗り場を確認し、中央郵便局へ入る。絵葉書と切手セット(ムーミンの図柄の切手とハガキが入っている)を買う。今回の旅では本当に余裕がなく、一枚も絵葉書を出していない事に気づき、ため息をつく。夕方には、学会行事として、小さなフェリーでスオメンリンナ要塞(世界遺産)という、東京湾でいえば猿島のようなところへ渡るイベントが組まれているのだが、ホテルに集合して歩くより、先にフェリー乗り場へ行ってそこでの集合時間まで港の市場でも冷やかそうという気になり、トラムに乗ったのだが、どうやら乗り間違えたらしく気がつくと宿に近いハカニエミ広場まで戻ってしまった。慌てて1番に乗り直して、港へ向かった。集合時間の3時45分より10分早く到着したのだが、誰もいない。市場をちょっと見て、定刻に戻ってみたが、やはり誰もいない。心配になっていると、高名なフランス人のB教授ご夫妻が現れた。やがて予定していた便の出発ぎりぎりになって、ホテルから徒歩で来た一行が到着し、バタバタと船に乗り込んだ。船中で、日本人4人のタリンからの船の運賃100ユーロを、幹事役のW教授に渡してほっとする。

スオメンリンナ要塞にて
 スオメンリンナ要塞に上陸した後は、一応自由行動という事だったが過半数はメインの散策路を島の(厳密には橋で連結された4つの島のうち大きな二つの島の)南端あたりまで散歩することになった。途中で、19世紀製の大砲が多数遺棄されている砲台など、日本ではまず見られない光景もいろいろ見た。島には子ども連れもけっこう来ていて、出かける前の予想通り、やはり猿島なのだなと思った。
 夕食は島の船着き場近くでとるか、市内に戻ってとるか、迷っていたのだが、早めに島を離れて市内へ戻るというフランス在住の中国人Hさんに誘われてフェリーに乗り込んだ。ところが、気づくとこのフェリーに乗っていた私以外の4人の学会参加メンバーは仏語話者ばかり。船中では、もっぱらフェリーを追ってくるカモメやアジサシの類の写真をとっていた。このままディナーに行くと、みんながこちらに気を使って英語を使うことになるだろうと思い、到着したところで、適当に言い訳して、グループから離れた。



juuri 外観/店内/サパス
 夕食をどうしようかと考えたのだが、タリンからの船中でフィンランド人のI先生に教えてもらったフィンランド料理のレストラン「ユーリ」を探しに行くことにした。実は漠然と場所を教えてもらっただけで、通りの名も、店の名の綴りも確認していなかったのだが、幸い全く迷うことなくたどり着くことができた。いわゆる「呼ばれている感じ」がした。まだ7時ちょっと前で、この店としては時間が早いのだろう。客は全くいない。初めて来たというと、サパス(小皿料理=スペイン語の「タパス」に相当)をとることを勧められたので、アドバイスに従う。ヘルシンキは水道水が問題なく飲める(タリンの方がミネラル・ウォーターの消費量が多い理由がさらに見つかった)。最初から飲み水が用意されているので、飲み物はとらなかった。試しにパソコンを開けて無線LANを探すと、一つ見つかったので、メールを読み落としたりしながら、ゆっくり料理をつついていた。気楽で贅沢な時間である。
 ところが、何とそこに、日本人参加者のお三方が連れ立って現れたのである。何でも『地球の歩き方』最新版を頼りにたどり着いたのだとか。席を移って、4人でテーブルを囲み、さらに魚料理を中心にサパスをとった。4人になったテーブルにサパスを注文した頃から普通のお客さんたちが少しずつ入って来た。やはりなかなか人気のある店のようだ、と思っていると、今度は何と、例のこの店を教えてくれたI先生に率いられて、スオメンリンナ要塞で別行動になったメンバー数人が連れ立って店に入って来た。向こうも驚いていたが、こちらも大いに驚き、「何でここに来たんだ」「(船中で)教えてくれたじゃない」「そうだった」と、間の抜けた会話を交わした。彼らは店の奥の別室へ入っていった。
 食事を終え、奥の部屋にも一声かけてから店を出て、ひとブロック先の停留所から日本人4人で10番トラムに乗った。中央駅前で自分だけ下車し、3B番に乗り換えて、ホテルへ向かった。ホテルに近い停留所で、ふと熊の絵柄の王冠が落ちているのが目に入り、思わず拾う。
 部屋に入り、明日の出発に備えて荷造りをし直す。明日は、午前中だけ学会の現地見学に参加し、途中でホテルに戻って荷物を取ってから中央駅へ行って、空港に3時頃までに行かなければならない。ひと通り段取りを考え、作業してから、まだ少し早いかなと思いつつ、11時頃にベッドに入った。
■ 2007/07/12 (Thu)

ヘルシンキの再開発地区を見る

Helsinki, Finland
AY77便 機中
 朝5時過ぎに眼が覚め、6時になるのを待って、7階のサウナへ行ってみる。誰もいないが、しっかり温めてあり、一汗かいてからシャワーを浴びた。サウナから戻って一息入れ、7時からの朝食をとりに、2階のカフェへ一番乗りする。温野菜を中心にしっかり朝食をとる。
 今日の集合は、9時45分にスカンディック・シモンケンタ・ホテルのロビーということになっている。朝食から部屋に戻って一息ついたが、まだ7時半過ぎ、時間は十二分にあるが、早めにチェックアウトし、荷物を預けた。フロントが預かるのではなく、フロントから遠隔操作するシャッターつきの棚に置くという、ちょっと変わった預け方だった。
 トラムの中でも、唯一「8の字」の循環路線になっている3番線が宿の前を通っているのだが、素直に市の中心部へ向かう方向となる3T番ではなく、逆方向の3B番に敢えて乗り込み、遊園地やヘルシンキ五輪関係の施設がある市街地北部を通ってゆっくり中央駅へ向かった。スカンディック・シモンケンタ・ホテルのロビーに着いたのは、まだ9時ころで、参加者は誰もロビーには出て来ていない。ロビーの一隅に置かれたインターネット端末のところに、無料の無線LANがあると書いてあったのでフロントで使えるかと尋ねると、1日だけ有効というパスワードを教えてくれた。早速メールチェックなどをする。送信も可能だったので仕事が進んだ。

クンプラ・キャンパスにて
 9時45分の定刻に頃には、ロビーにメンバーが集まり、やがてやって来たチャーター・バスに乗り込んだ。バスは、ほぼ6番トラムのルートに沿って、ヘルシンキ大学の自然科学系キャンパス(クンプラ・キャンパス)へ向かった。ヘルシンキ大学は分散キャンパスになっており、自然科学系キャンパスはまだピカピカの新しい建物が並んでいる。地理学は、人文地理学も含め、物理学系〜厳密科学系に位置づけられているそうで、院生は市内の他のキャンパスにある他の社会科学系の施設を利用するために、しばしば中心部と往還しなければならず大変だそうだ。
 地理学教室のある一隅を見学し、教室で、フィンランドのICT系研究開発投資の状況や、これから見学するアラビアンランタ地区の概要などの説明を受ける。さらにバスに乗り込み、アラビアンランタ地区を縦横にバスで走り抜け(大型バスの運転手の力量には驚かされた)、1950年代の戸建て公共住宅や集合住宅、商業施設に転換された工場跡、ヘルシンキ建設初期の古いマナー(荘園)の建物から、近代最初の発電所跡などを車窓から眺める。やがて、トラムの終点でバスを降り、近年開発が進められている、元々のゴミ埋め立て地跡のウォーターフロント住宅地の様子を歩いて見て回る。12時40分頃に、商業施設に入り昼食をとるという段になって、一足先に失礼することにして、トラム6番で、ハカニエミ広場まで戻って、3B番に乗り換え、ホテルで荷物を引き取り、3T番で中央駅前まで行く。
 中央駅について、フィンランド航空が運行している空港バスの乗り場を再度確認する。時間はまだ午後2時前で、スケジュールには余裕がある。目の前にあった中央郵便局に併設された郵便博物館に入り、カフェで昼食をとる。しっかり朝食をとったつもりだったが、ここでもサラダバーとスープとカフェラテで10ユーロ近い贅沢な昼食をとった。食後、この旅に出て初めて絵葉書を書き、目の前の郵便博物館のミュージアムショップでTシャツやコップなどを土産に買う。建物を出て、さっき書いた葉書を投函し、2時半頃にフィンエアーの急行バスに乗って空港へ向かう。疲れているのか、乗り込んですぐに寝てしまい、途中でちょっと目が覚めたものの、終点の国際線ターミナルまでほぼずっと眠っていた。
 早めの空港到着となり、余裕を持って搭乗口30Aへ向かったのだが、途中で免税店を冷やかしてみたくなりリキュールを買う。その売店のレジで、昨日拾った王冠を見せて、何の王冠かたずねてみたら、「カルフ」(熊)というフィンランドのビールだということがわかった。その店にはないがもう一つの方にはあるだろうとアドバイスされて、別の免税店に行くと、缶ビールでダース売りされていたので、思わず1ダース買ってしまう。買ってから、当然免税範囲を超えていることに気づく。関西空港行きのフライトはMD-11。機中ではエンターテイメントは音楽しかなく、新聞を読んだりしながら、断続的に眠る。
■ 2007/07/13 (Fri)
帰国
 日本時間で朝の5時頃からしっかり眼が覚め、機中で朝食をとる。時差調整は必要ない感じだと自分に言い聞かせながら、顔をマッサージなどして、しっかり目を覚ます。定刻より少し遅れて、9時過ぎに関西空港に到着。入国手続後、税関でビールの関税を支払い、ホールへ出る。ホールの一角に無料無線LANがあるのを見つけ、それを使って、メール・チェックなどをする。
 東京までは、伊丹経由の国内線か新幹線か迷ったが、結局「はるか」と新幹線を乗り継ぐことにした。東京駅と新宿駅で下車してそれぞれ用事を済ませ、荷物の重さにへこたれていたので武蔵小金井駅で下車して路線バスに乗り、午後6時頃に研究室に帰り着いた。


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