私的ページ:山田晴通

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 シンシナティ&ボストン日記:

 2011年3月8日〜17日 

   
            
      
______
      
      
      
      
      
      
      
   

 今回は、学会出張旅費の支給を受け、シンシナティで開催された国際ポピュラー音楽学会合衆国支部の大会に参加するのが主な目的でした。その後、私費で滞在を延ばし、科研費プロジェクトの関連での研究連絡のためボストンに足を延ばしました。どちらも初めて訪れる都市でした。
 米国滞在中に、東北地方太平洋沖大地震が起き、津波、原発事故と未曾有の大惨事になりました。その意味では、普通の旅とは異なる経験もいろいろありました。

 今回の旅は、久しぶりに同行者のいない旅でした。文中にある料金のうち、宿泊費は1人で泊まる場合の金額です。この旅行では、1米ドルは85円くらいでした。

 見出しに示した地名のうち、青字はその日に訪れた(宿泊地以外の)主な場所緑字は宿泊地です。
■ 2011/03/08 (Tue)
久々にひとりで出発

DL 620便 機中
DL 4017便 機中

Cincinnati, Ohio:
Travelodge Newport/Cincinnati Riverfront
(その1)
 ぎりぎりまで学会発表準備の作業がはかどらず、前日は事実上徹夜だった。朝6時半ころに研究室からアパートに戻り、シャワーを浴び、朝食をとってから、8時半ころアパートを出る。海外旅行に単身で出かけるのは、実に久しぶりである。バスで武蔵小金井に出て、薬局に立ち寄り、まだまだ通勤時間帯の中央線に乗って立ったままうとうとする。新宿で座れたのだが、すぐに眠りに落ち、御茶ノ水で停車しているのに気づいて慌てて下車し、乗り換えて座った総武線では千葉まで熟睡する。千葉でも待たずに空港行きの快速エアポートに乗り継げた。乗り込んだエアポートの車内でも座れたので、終点に停まって他の乗客が降りた状態の成田空港駅で目が覚めた。当初予定のとおり11時45分になっていた。これだけ寝ていて、乗り過ごしたり、乗り継ぎを逃したりしなかったのは奇跡的だ。
 今回も 一番安いチケットだったデルタ航空での渡米である。チェック・インはいろいろまごつき、職員に助けてもらいながら機械を操作して済ませた。時間はたっぷりあるので、前日までに終えられず、旅にもって行くつもりで抱えてきた仕事を仕上げ、郵便局の窓口から発送する。これで随分と気が楽になった。三菱東京UFJ銀行の窓口で日本円を両替してから出国ゲートに向かった。保安検査のところでは大行列ができていたが、後は順調で、余裕をもって21番搭乗口に到着する。しばらく無料のWiFiはないのかと思っていたら、少し離れた所に無料WiFiのデスクがあったので,ここで充電しながらネットをいじる。やがて2時20分ころから搭乗が始まり、2時30分ころに搭乗口に戻ったが、まだ行列は長く続いている。結局40分を回った頃に搭乗した。
 デルタなので仕方がないのだが機材は質素で、エンターテイメントはない。映画のプロジェクターのかなりボロボロのようで、スクリーンごとに色調整もばらばらだし、全体に画像が粗い。座席は、B37で、3人掛けの真ん中だ。行って見ると既に両側に白人男性が座っている。しかも通路側のやや若い男性は、私以上に恰幅がよい。ただし、直ぐ後ろの座席は空席だったので、リクライニングは気兼ねなくできそうだ。ともかく寝てしまった方がよいと思ったので。直ぐに眠る、とまではゆかなかったが、まどろんでいるうちに離陸が済んでいた。ふと気づくと、右隣の席の男性が別の場所に移ったようで右側の座席が空いている。これ幸いと右側の席にコートと荷物を上げて、眠りやすい体勢をつくる。やがて食事が来て、これを平らげ、今度はしっかり熟睡する。目が覚めたのは日本時間で8時15分ころだった。間もなく朝食にあたるらしい軽食(ブルーベリー・ヨーグルト、アップパイに似たデニッシュ、フルーツ)がもってこられた。しばらく起きていることにして、2時間ほどパソコンをいじる。照明は減光され、映画はハリー・ポッターをやっている。確かにこの画質には合っているかもしれない。少し眠気が来た所で、再度、仮眠する。

(その2)
 日本時間で深夜12時になる少し前に目が覚める。乗り継ぎを含めた総移動時間の半分を過ぎ、シンシナティの時間帯では朝の9時にあたる。2つ後ろの席の窓が開いているのだが、雪を被った山々が見えているので、ロッキー山脈辺りなのだろうか。そんなことを考えていると少しだけ明かりが点き、朝食がサーブされる。卵か麺と言われたので、麺にしたら、学園祭で食べるようなソース焼きそばが出てきた。コーヒーか茶と言われ、茶が緑茶のことなのを確認してコーヒーを頼む。砂糖とミルクも頼むと、スティックシュガー2本が来たので、砂糖とミルク1本ずつかと思ったら、その後、タカナシ乳業の500ml紙パックで牛乳を渡される。さすがはデルタ航空である。そのまま眠らずに、パソコンで日記を書き始める。そうこうするうちに、あと25分で着陸態勢に入るというアナウンスがあり、トイレに行っておく。ちなみに、窓側に座った男性は、こちらが都合3回程トイレに行ったのに、1度もトイレに立たなかった。消灯中も読書灯を点けて黙々と村上春樹(英語)を読んでいた。着陸態勢に入るとアナウンスがあって、映画の切り換りとなったので、てっきりミネアポリスの紹介映像でも流れるのかと思ったら、何と特攻野郎Aチームが始まった。もう着陸だというのに、流しっぱなしのままということか。しばらく画面を見ているうちに着陸し、ビデオもあっさり打ち切られた。
 事前のアナウンスでは、外の気温は0度という話だったが、空港内のあちこちには除雪された雪が堤のような形で消え残っている。入国審査では、けっこう時間のかかる人が多く、かなり待たされたが、自分の番にはさほど手間はかからず、あっさりと指紋と写真をとっておしまいだった。すぐ先の回転台で荷物を受け取り、そのまたすぐ先の乗り継ぎ用の荷物預け所で再度荷物を預ける。再度の保安検査を受けて搭乗口のあるコンコースに出る。当地の時間では、まだ正午にもなっていない。前回、ミネアポリスが目的地だったときはサンフランシスコ経由だったが、今回はミネアポリスで、シンシナティ行きに接続するまでの3時間以上を潰さなければならない。とはいえ、空港から出るのはためらわれるので、少しだけターミナル内を探検し、店を冷やかした後は、電源のある席に座っておやつ代わりのコーンフロストをつまみながら、パソコンをいじって過ごす。残念ながら無料WiFiはないので、もっぱらオフラインでの作業をする。

Bombardier CRJ200 / Delta Air Lines

Cincinnati at night from the Central Bridge
 やがて、午後2時30分ころに、搭乗機らしき小型機(ボンバルディアCRJ200)がC18番搭乗口の先に到着した。ところがアナウンスがあって、発券しすぎたので次の便に移ってもらえる人はいないか、というアナウンスがある。急ぐ旅でもないので念のため聞いてみると、次の便は7時過ぎになり、シンシナティの到着は10時を回るという。公共交通機関の接続があるなら協力してもよいがというと、確認してみると言われたっきり1人しかいない搭乗口の女性係員は別の事に忙殺されているようで、何も声をかけられなかった。結局、何とかなったらしく、予定通り3時過ぎのフライトに乗れる事になり、13Aの席、つまり最後部左側の窓側の席に就く。ミネアポリスから離陸する際には、粉砂糖をふりかけたような雪の残る光景を楽しんだが、離陸体制から写真が撮れる水平飛行に移る頃には、厚い雲の中か、上になってしまい、カメラは使えなかった。2時間ほどのフライトだが、途中で1回だけ飲み物が振る舞われ、斜め前の席の男性がトマトジュースを頼んでいたのを見てこちらも頼んだ所「スパイシーなのだがいいか?」と問われたので「イエス」というと、昨年の夏に連れが大いに気に入ったMr&Mrs.Tのブラディ・マリー・ミックスが出てきた。これはちょっと嬉しい驚きだった。
 シンシナティ空港到着は午後6時を過ぎたころ(東部時間になるので、ミネアポリスとは1時間の時差がある)だった。タラップを降りてから、階段を上ってロビーに入る。かなり広い建物の中を標識をたよりに歩き、途中でシャトルに乗ったりして移動し、ようやく6時半頃に手荷物のカルーセルまでたどりついた。しかし、まだ荷物はまったく出てきていない。パソコンを取り出すと何と無料WiFiがある。さっそくメールをチェックし、送るべきメールを出す。やがて荷物が出てきたが、そのまま7時頃までしばらくネットに繋いで作業をした。
 午後7時ころ、建物の外に出て、「公共交通」と書かれた乗り場に向かう。しかし、路線の説明も、タイムテーブルも何も表示されていない。若干不安に思いながら、待っている人が数人(最初はみな黒人だった)いたのをたよりにしばらく待っているとX2番がやってきた。市内への直行便らしい。均一料金らしいが、1.75ドルで20キロ以上先まで行けるのはありがたい。途中で、オハイオ側の右岸にあるTANK(北ケンタッキー交通局)のターミナルに寄ってから、川を渡りシンシナティの中心部で降りる(というより、降りないとまた空港へ行ってしまう)。ここから先が問題なのだが、予めネットで見ていた地図を印刷していなかったので、記憶をたよりに見当をつけ歩き始める。中心部のバス停が並んでいる一角を過ぎ、坂を下ってレッズの本拠地の球場の前に出て、そこから左折して球場に沿って坂を下って上り、オハイオ川を渡る橋へと右折する。ここまではよかったのだが、オハイオ川にかかるセントラル橋の歩道は、高所恐怖症気味の身には結構辛かった。時おり立ち止まって後ろを振り返り、夜景の美しさに元気づけられながら何とか無事渡りきると、今回の宿となるモーテル風のトラベロッジが見えて来た。
 白人女性の係員一人だけがいるフロントでは、数人のアラブ系?という感じの青年たちが何かトラブルがあったらしくいろいろ話をして手間取っているようだった。その次に並んでいた中年の白人女性に、「あなた1ドルを25セント4枚に両替できる?」と尋ねられたので、できると思うと答え両替したところ、「助かったわ!(You're a life saver !)」と言いながら出て行ってしまった。何だったのだろう?
 自分の番になり、パソコンに入っている予約のデータを示してチェックインしようとしたのだが、なぜか画面をいろいろ見ながら難しい顔をしている。どうやら、何らかの理由で予約番号が食い違っていたらしい。結局、他のデータは完全にOKだということで、138号室に入る。部屋には、正方形に近いキングサイズのベッド、大画面テレビ、冷蔵庫に電子レンジまであって、モーテルの部屋としては決して広くはないが、ひとりで使うには十分すぎる広さである。バスタブはないが清潔感のあるバスルームだ。ただしトイレの水の流れ方は今ひとつであった。無料WiFiはロビーでは信号が強いが、部屋ではやや弱い。それでも十分に使えるレベルだ。
 簡単にシャワーを使い、今日着ていたものを洗面台で洗濯して、デカフェのコーヒーを淹れてしばらくベッドでパソコンをいじり、また、テレビを点けたまま、眠気が来たところでそのまま眠った。
■ 2011/03/09 (Wed)
シンシナティの中心市街地をあちこち探検

Cincinnati, Ohio

Cincinnati, Ohio:
Travelodge Newport/Cincinnati Riverfront
 未明の4時半頃、一度トイレに立つ。外はしっかりとした雨になっている。けっこう寒い。またベッドに入り直す。
 午前8時半頃に目が覚めたので、そのまま起きる。朝食はコンチネンタルと称するパンやコーンフレークだけのものがフロントで供されるようだが、とりに行くのがおっくうに感じられたので、手持ちのコーンフレークなどで済ませた事にする。10時過ぎに一度フロントへ行って、バス停の場所や治安状況などを確認し、部屋に戻る。すると間もなくルームサービスの東南アジア系の男性が来て、タオルやコーヒーを補充して行った。ベッドメイクはする様子がなかったので、5泊するのだが、いつシーツを交換してもらえるのかと尋ねると、「金曜日に」と答えが返ってきた。
 正午近くになって、小雨の中を外に出る。最初は、水族館(かなり大規模で、有名らしい)前のバス停に行ったのだが、その先に「ニューポート」と、地区名を掲げたショッピング・センター(Newport on the Levee)があったので入ってみる。ここはシネコンが中心のようで、飲食店は充実しているが物販は貧弱だった。平日昼というのも手伝ってか、閑散とした雰囲気だ。靴屋があったので、後で買いにきてもよいかと思う。
 ひとまわりしてからバス停に行くと、すぐにシャトルがやって来た。1日パスを4ドルで買う。シャトルの外見は路面電車をモチーフにしたものだが、座席も木製のベンチで昔風である。セントラル橋を渡り、市街地中心部で下車する。ここから適当に見当をつけて中心部の3ブロック分ほどを歩き回り、出発点に戻ってきた。会場のヒルトン・ネーザーランド・プラザ(歴史的建築物である Carew Tower の一部を占めている)へ行き、登録デスクが設けてあるところへ行くと、午後2時からということだった。まだ1時間あるので、少し歩いて、アービーズに入り、フィッシュ・コンボを昼食にする。飲み物はMUGのルートビアを選んだ。

Contemporary Arts Center

Southbank Shuttle @ Fountain Square
 食後、ひとブロックほど先にあるコンテンポラリー・アーツ・センターに行く。先ほど一度前を通って、キース・へリング展を開催中であることがわかったからだ。ここでは、まず1階で荷物を預けてから、6階に上がり、少しずつ降りて来ることにする。6階には「UNMUSEUM」と名付けられており、触ったり、作品の中に入ったりして鑑賞するというか、楽しむ作品が置かれており、子どもの教育なども意識されている常設展示となっている。例えば、指揮台の上に上がるとオーケストラがチューニングを始め枠の中で手を振るとオーケストラが演奏し、止めると拍手が起きるという作品や、複雑に波打つような平面に、机と椅子が、いろいろな方法で置かれている、といった作品が並んでいる。幸い他に観覧者がいなかったので、童心に帰ってとまでは言わないが、結構自由に作品を楽しんだ。
 キース・へリングの展示は初期作品を中心としてもので、彼が子どもの頃から形に対する鋭敏な感性を持っていたことが、ノート類の展示から読み取れた。また、A Cicle Play(部屋一杯に広げられた紙の中心に朗読者が座って詩を読んでいる間に、朗読者が座るスツールの周りに墨で絵を書き込んでいくというパフォーマンス)のビデオは強く印象に残った。キュレーターとしてのキース・ヘリングというコーナーでは、当時のニューヨークのアンダーグラウンド・シーンの断片がうかがえて、これまた興味深かった(クラウス・ノミのビデオは久々に見た気がする)。
 その下の回では、オートバイをモチーフにした作家の作品とドレスアップされたハーレーなどが展示され、さらにその先のフロアでは、騙し絵というか、ダリの手法を現代的にしたような手法の作家の展示がなされており、そちらもゆっくり鑑賞した。ミュージアム・ショップでは、ヘリング関係のDVDを1枚購入した。結局、午後2時半過ぎまでこの美術館にいたことになる。
 雨が続く中、いったん宿に戻ることにして、噴水広場前からシャトルに乗車する。車中で運転手に聞くと、ショッピングセンターへ行くなら25番に乗り換えるように言われ、宿の近くのバス停で降りたところ、丁度近くに25番バスが来ていたので、とりあえず乗り継いた。やがて街外れになって家並みが途切れる辺りで、パワーセンターが見えた。ここがショッピングセンターということだった。雨の中を下車し、道を渡ってパワーセンターへ行くが、食品を扱っていそうなスーパーが見当たらない。とりあえず靴屋に入り、既に壊れてしまい水が靴の中に入ってきているスニーカーの代わりになりそうな靴を探し、結局2足の靴を買った。その後、スーパーではないが、ある程度食品も扱っているドラッグストアのウォルグリーンズ(Walgreens)に入り、牛乳やコーンフレーク、クラッカー、チーズ、ルートビアなどを買う。結構多くなってしまった荷物に手こずりながらバス停にたどり着く。雨は降り続けているが、小さなバス停では巨体の白人女性がベンチを占領していて雨宿りに入るのもちょっとためらわれたので、雨脚が弱まったのを幸い、バス停の前で雨の中でしばらく25番が来るのを待ち続けた。ようやくやってきた25番バスに乗り、昼にシャトルに乗ったバス停で降りて、宿に戻る。途中で、バスの車窓から「ギャンブル博物館」という看板の建物が見えたのだが、これは本当に博物館なのか、賭け屋か何かなのか、大いに気になった。既に午後4時を回っているが、夕方の学会のレセプションは午後8時からなので、いったん濡れた服を脱いで着替え、一息入れる。
 6時半頃、再び宿を出て、シャトルに乗り、7時前に再びヒルトンに戻った受付の近くにいたIASPM-USのメンバーに挨拶して、しばしば話をする。初対面の人ばかりだが、これまでのIASPMの同じ大会に参加していた人もいたので、どこかで縁はあったかもしれない。8時から始まったレセプションの場所は、天井の高い大きなボールルームで、ピアノ・トリオのジャズの演奏があり、カクテルなどの飲み物は有料で、おつまみにチーズ類とクラッカー類、それにフルーツが並べてある。見知った人がいる訳でもないので、たまたまテーブルが一緒になったドイツ人とベルギー人の女性たちと少し話したのと、さきほど受付近くで立ち話したアメリカ人男性と少し話をしたくらいで、もっぱら食事をしていたら、思いのほかお腹がいっぱいになってきた。
 レセプションは10時までやっているが、シャトルは10時までだし、他のバスは運転間隔が空いてしまうので、9時15分頃にヒルトンを出て、スカイウォークを伝ってウェスティン・ホテルへ行き、シャトル乗り場へ向かった。少し待って30分ころにシャトルに乗って宿に戻った。
 部屋に帰って下着などを洗濯をして、少し日記をつけたり、ネットを見たりし始める。寝たのは深夜12時頃だった。
■ 2011/03/10 (Thu)
充実した学会行事

Cincinnati, Ohio

Cincinnati, Ohio:
Travelodge Newport/Cincinnati Riverfront
 朝5時前に目がさめ、しばらくパソコンをいじる。そのまま起きて、7時半ころに朝食の部屋へ行ってみた。コーンフレークとパンやベーグル、リンゴ、飲みもの各種が置いてあるのを勝手にとって食べるという形式だ。コーンフレークとリンゴをとって、テーブルにあった「USAトゥデイ」を拾い読みしながら食べる。パンチョ・ビラの襲撃百周年をニューメキシコの街が祝っているという話が奇妙で面白かった。何でも、米国本土への外国からの人的被害を出す攻撃としてパンチョ・ビラによる百年前の攻撃被害を超える事件は、9.11同時多発テロまでなかったのだという。現在、ニューメキシコが、観光の目玉としてパンチョ・ビラがらみの名をいろいろな施設につけているのは、21世紀末のニューヨークにビンラディンの名を冠した店が林立し、グラウンド・ゼロにビンラディンがいかにテロを慎重に計画したかの説明が記されているのと同じようなものだ、という記事の書き方が、印象に残った。
 部屋に戻り、シャワーを浴びて午前8時を少し回った頃に部屋を出た。結構雨が強めだが、何とか傘なしでも歩く気になる範囲内だった。幸い、すぐにバスが来て、8時半からのセッション開始に、何とか間に合った。
 今回の学会はSAMIASPM-US合同大会なのだが、午前中はSAMのセッションが平行して4つほど進行している。午前中の発表が行なわれる4階に上がり、最初の時間帯(8時30分〜10時)に見たのは、SAMセッション1dで、テーマは19世紀のシンシナティとボストンの音楽というもの。最初の発表は、シンシナティで19世紀に出版されたシェープノートの聖歌楽譜集の分析で、東部(ボストンなど)で先行して出版されたものの影響と、西部(ここではアパラチア以西という意味であろう)の伝統のせめぎ合い、あるいは北部と南部の接点というシンシナティの立地が意識されたプレゼンテーションだった。この発表については、とにかく、パワーポイントも配布資料も何もない状態で、いきなり高速の英語で読み上げられる発表に面食らい、何とか流れを掴むのがやっとという状況だった。たまたまシェープノートや聖歌集について昨夏の訪米のときに予備知識を得ていたので、何とかついて行けた気がしたが、そうでなければトンチンカンだったかもしれない。
 2つ目の発表は、シンシナティに恒久的な交響楽団が成立する19世紀末以前に、どのようなオーケストラの活動があったのかを、新聞記事の分析を中心に洗い出すという作業で、米国の中でもドイツ系の移民が多かったとされる当地での、19世紀の人々が何とか文化活動を守り立てようと苦闘したようすが伝わってくる発表だった。こちらも、分かりやすい一覧表になった配布資料が1枚ついたものの、プロジェクターは使わない読み上げ型だった。
 3つ目の発表は、ジャーマニアンズという演奏集団が、現代の「ボーイ・バンド」のように各地を巡業しつつ、あちこちで女性をコンサートに動員する機会を作り、また、女性を舞台に上げる媒体としても機能したという話だった。プロジェクターでいろいろ絵を見せてもらうと、やはりイメージが掴みやすい。基本的には、ジェンダー論的観点から既存の歴史を読み直すというもので、なかなか面白く聞けたし、フロアからも活発な議論があった。
 10時を回ってからの休憩時間には、書籍展示のある部屋に行く。本はいちおう割り引きされてはいるが、かなり値の張るものが多い。結局、奮発して2冊ほど高い本を買い、無料でもらえた研究誌の見本を一通りもらってくる。
 次の時間帯(午前10時30分〜12時)は、「モータウンの音楽と神話」と題されたSAMセッション2cに行った。これは、いろいろな意味で大変興味深いセッションだった。開始ギリギリに会場に入ったのだが、既に立ち見の状態になっている。このセッションの2人目の報告者でもある座長から最初に説明があり、それにまず驚かされた。1人目の発表者は、仕事でスウェーデンにいるのだという。今回は、予め録画された報告を流した上で、スカイプでスウェーデンと結び、質疑応答をするというのだ。なるほどそういう方法があるのかと、まず驚いた。内容は、モータウンのロサンゼルスへの移動以降について語られていない現状から説き起こされ、この時期のモータウンについて客観的な観点からの検討が必要だと主張した上で、マーヴィン・ゲイがサウンドトラックを担当した映画『トラブル・マン』(後で調べたら、邦題は『野獣戦争』というそうだ)のマスターをプロツールで解析したりしながら、ロサンゼルスへの移転がゲイの音楽性にもたらした積極的な側面を強調された。スカイプを使っての質疑では、マスター音源が入手できた経緯などが紹介された。
 このセッション2つ目の発表は、What went on と題した座長自らのもので、一般的に政治色が脱色されていたモータウンがゲイの What's goin on から社会的問題を取り上げるようになったとする通説に対して、それ以前から社会的問題への観点があったことを、マイナーな白人グループなどの例や、一見ラブソングに見える曲がほんの僅かな補助線を引くことでベトナム戦争への抵抗と読める Jimmy Mac、十代の妊娠を歌っているシュープリームの Love Child、などの例、ゴーディのキング牧師への傾斜(Gordyレーベルでのデトロイト演説のレコード化など)を積み重ね、ゴーディーはビジネス・チャンスがあれば社会問題への取り組みもやってきており、ゲイの What's goin on もその延長線上にあったと論じるものだった。
 2つの発表と受けて、コメントをしたのが、モータウンで50年代末から広報担当だったアル・アブラハムズ氏であった。ユダヤ人であるアブラハム青年が、黒人経営者ゴーディのモータウンに雇われるに至った経緯から、広報担当として、地元新聞のテレビ・ガイドの表紙にジュープリームスを載せるために苦労した話など、時代を感じさせる興味深い話がいろいろ聞けた。「もし、50年前に、私がゴーディに話しかけて、今から50年度に学会で沢山の人を相手にモータウンの話をしている夢を見たんだ、と言ったら、君は疲れてるようだから休みを取りたまえ、と言われたことだろう。ねえ、ゴーディ、その時ホワイトハウスには黒人の大統領がいるんだ、と言ったら、すぐに救急車が来ただろう」というくすぐりは、朝読んだばかりのパンチョ・ビラの話を思わせた。
 12時過ぎにセッションが終わってからは、地下階にある自分の発表会場を確認しに行く。まだ誰も来ていないし、プロジェクタもまだ置かれていないが、発表者席に着いて少し準備をする。昼食を取る間もなく、再び4階に上がり、12時45分から始まっている Alexander Ragtime Band 作曲百年を記念したレクチャー・コンサートに、少し遅れて1時少し前に入場した。レコード音源、映画の一部の紹介、さらに、ピアノと歌唱の実演と、盛りだくさんの内容で、大いに楽しめた。「ARBのすべて」というCDが(日本の)キングレコードから出せそうだ(こちらも入れて)、などと思う。終了予定は12時45分だったが、実際に終わったのは50分を回っていた。終了後急いでエレベータで地下(LL)へ降り、自分のセッションに戻る。
 このセッションはIASPM-US1dで、発表者3人と座長1人に対し、聴衆は10名あまりで始まった。最初の報告は、1920年代から1940年代のインドにおけるジャズ文化の話で、クレーンの時代と重なることもあり、興味深く聞いた。ホテルや社交クラブのボールルームが専属の楽団を抱えていた状況や、各地を回るトラベリング・バンドの存在、アメリカから流れてきた黒人プレイヤーを中心としつつ、フランス系の白人や、印英の血を引く人々もバンドに関わっていたという状況が興味深かった。
 2番目に自分の番が来たが、正直なところ英語が思うように出てこず、苦戦しながらしゃべり、用意したスライドの9割程を見せたところで、無理矢理ながら結論にもっていくことになった。
 自分の発表が終わって、次の3番目のインドのロック事情についての若いインド系アメリカ人青年の発表は、ほとんど頭に入ってこなかった。これはフロアからも質問が出たが、彼の発表がもっぱら英語で歌われるロック中心にしており、ベンガリ語などによる現地化したロックにあまり踏み込んでいないのは少々意外な感じがした。
 次のセッションまでしばらく4階の書籍展示にもどり、大会期間中展開されている古書のサイレント・オークションを眺めに行く。自分の発表が終わってほっとしたのか、ちょっと体調が悪いように感じたので、ここで宿に戻ることも考えたが、次の4時半からのセッションIASPM-US2cが面白そうだったので、また地下に戻る。期待通り、このセッションの1つ目の、「パンクの歴史」という授業の実践報告は極めて面白く聞けた。発表者が、昨夏に訪問したミドル・テネシー大学の教員ということも大学の環境を少し知っているだけに、生々しさが増した気もする。
 セッション2つ目の発表は、アメリカのロックにおける労働者階級という枠組みの再考という趣旨のもので、プレスリーからスプリングスティーンへと議論が展開された。大きな構図の話だが、細部では違和感も感じたので、質問もしてみた(カントリー音楽の場合とどう違うのか?、ビリー・ジョエルはどうなのか?)。他の質問も含め、発表者は言葉を選びながら、考えながら応答していたので、まだまだ議論を寝る余地があるような印象を得た。
 午後6時からIASPM-USのレセプションがあるはずなのだが、会場が指定された場所からまた変更されているようで、定刻にいっても部屋の中は掃除をしていて、前で人が溜まって話しているだけだった。結局、昨夜と同じ場所ということがわかり、移動すると、昨日と同じメニューでチーズ各種とクラッカー類が置かれている。昨日よりは多くの人と話ができたが、先ほど「パンクの歴史」の授業実践報告をしたD氏と話せたのは面白かったし、昨夏にお世話になった同僚のF氏が明日から参加することを知らされた。
 今日はこの後、バスで移動し場所を移してコンサートがあるのだが、体調のことを考え自重し、7時過ぎに会場を出てスカイウォーク伝いにウェスティン・ホテルへ行き、その前にある噴水広場前の乗り場からシャトルに乗る。外は雨から雪になっている。積もる雪ではないし、冷え込みも真冬ではないが、やはりそこそこ寒い。
 宿に戻ったのは7時半を少し回ったくらいだったが、疲労感が強く、8時過ぎにはテレビを点けたまま眠ってしまった。
■ 2011/03/11(Fri)
未明のニュース

Cincinnati, Ohio

Cincinnati, Ohio:
Travelodge Newport/Cincinnati Riverfront
 夜中の1時ころに目が覚め、トイレに立とうとすると、点けっぱなしにしていたテレビから日本人の英語が聞こえて来て、おやっと思う。目を凝らすとCNNが日本の地震被害を伝えている。NHKインターナショナルの垂れ流しで、リアルタイムに伝えられる仙台方面?の津波の空撮映像に圧倒されながら、食い入るように見る(後で確認したところ仙台市若林区の映像だった)。東京でも火災などかなり被害が生じているようだ(市原の製油所の火災とお台場の火災の様子が映される)。心配なので身内にメールを送っておく。そのまま、CNNの映像を見ているが、まだ仙台空港周辺や、名取川?北上川?付近の空撮しか流れない。これだと三陸方面は、とんでもない状況になっている可能性がある。今回の津波の被災地域は、修士論文を書いたときに歩いた地域であり、ひょっとすると例年5月に仙台で開催されている東北地理学会も中止になるかもしれない、などと考える。3時頃になって、少しだけだが八戸の映像なども映る(コメントはなし)。千葉・市原の製油所火災の映像も繰り返し流されている。東京でも、電車も地下鉄も停まっているとも言っている。
 未明の3時15分を過ぎたころから、大洗など他の地域の画像も流れ始めた。ネットを見ると、2chもツイッターもミクロスケールの状況を報告する書き込みが続々と入ってくる。とりあえず、女川原発は自動停止したらしい。発生時のNHKの仙台や東京の報道部内の映像が流れる。また、3時40分ころから太平洋各地への津波警報に重点が切り替わり、ホノルルからのレポートなどが入る。既にガソリンスタンドに車が殺到しているという。3時45分ころになって、NHKの垂れ流しではなく、CNN独自の映像(東京のオフィス内の状況)が流れた。茨城空港の天井が落下するシーンなど、関東地方の地震被害の映像も生々しい。漁船が橋脚に衝突しながら陸側に流れて行く釜石の映像も衝撃的だ。
 午前5時半頃には、それまで電話で繋がっていた東京在住の米国人翻訳家と、スカイプで繋げてのインタビューがCNNに出てきた。改めて、こういう手段が一般化していることを認識する。こんな感じで思わずずっとテレビを見ているというのは、阪神大震災、福知山線事故の時以来かと思う(9.11同時多発テロのときは、発生直後にはまったく気づいていなかった)。6時近くなって、大船渡の被災状況の映像が流れる(コメントなし)。地上からの映像だけに悲惨さが細かいところで伝わってくる。  そのまま、テレビを点けっぱなしにして、身支度を始める。7時頃に朝食に行き、ベーグルとシリアルだけで簡単に朝食を済ませ、すぐに部屋に戻る。とにかく、繰り返しながれる津波の映像に圧倒される。(この段階では、三陸方面の情報はまったく入らず、それが不安を掻き立て、特に女川が気になったのだが、原発についてはいずれも自動停止したと報じられていた。)
 このままテレビにかじりついていたいところだが、学会出張で当地まで来ているので、そういう訳にも行かない。午前8時半ころ部屋を出てバス停に向かう。駐車場の車のボンネットの上には、うっすらと雪が残っていた。どうやら小雨が、未明に小雪になっていたようだ。朝のセッションは午前8時半から始まっているので、一番最初の発表は逃したが、会場についてすぐに向かったIASPM-USのセッション3aでは、このセッションで2番目の発表が始まったばかりだった。チェコにおけるデジタル・メディアと音楽という話なのだが、いろいろ前提を共有していないので、何が論じられているのか正直よく分からないままに終わってしまった。話の中に出て来た海賊党の具体的な内容は、不勉強で知らなかったが、ヨーロッパの文脈では単なる紙の上、ネットの上だけの話ではないようだ。続くこのセッション3番目の発表は、イギリスの大学で教えているアメリカ人教員S氏の話で、著作権に対して保守的な立場から音楽録音物の文化財としての保全をめぐる問題を考えるという話であった。質疑に入ると、報告者そっちのけでフロア同士の激論が生じてしまい、エキサイティングではあったものの、これまた途中から半分も分からない感じになってしまい、かなり戸惑うことになった。結局、15分以上定刻を過ぎて解散となった後、隣の書籍展示会場を見て回り、サイレント・オークションに値付けをする。ちょうどこの休憩の時間に、ポスター・セッションが行なわれているので、ポスター会場へ行く。モード・ジャズをどう理解するか(させるか)というポスターが、グラフィックな工夫があって面白かった。
 既に、2つめの11時15分からのセッションが始まっているので、IASPM-USのセッション4cへ行く。既にラジオ放送のアーカイブ化という最初の発表が終盤になろうとしている。続いて2つめのキャンパス・ラジオについての発表が始まったのだが、急に眠気に襲われ、内容が頭に全く入ってこない。これはマズいと思い、発表が終わったところで、会場から出て、コーヒーをもらいに書籍展示会場へ行った。少し落ち着いたところで、体調が思わしくない感じになっていると認識し、いったん宿に戻ることにする。今日の午後は、平行してエクスカーションがいくつか組まれており、どれにも申し込んでいなかったので、その時間帯に宿で休むことにしたのである。午後1時ころに会場を出て、噴水広場からシャトルに乗って午後1時半ころ部屋に戻って来た。
 部屋では、眠った方がよいかもしれないと思い、ひとまずベッドに入ったのだが、そのまま眠れる感じではなかった。CNNは日本の地震と津波で一色だ。その陰で、リビア情勢はカダフィ側に有利になろうとしているようだ。改めてプログラムを確認すると、午後4時から6時にIASPM-USのセッションがあり、その後にまたレセプションが続くようになっている。それまでの時間、宿に近いニューポート地区を散策しようという気を起こし、気が変わらないうちに出かけてしまおうと午後2時ころには部屋を出て、適当に見当をつけて南へ少し歩く。
 とりあえず、目的地にしたのは、一昨日バスから見かけて気になり、その後、ネットで情報を確認した「北部ケンタッキーギャンブル博物館」なる施設である。バスからちらっと見た限りでは、かなり怪しげな、飲み屋か何かにも見えそうな場所だったのだが、ネット情報で、これが個人のコレクションを展示している私設博物館であることがわかり、興味が湧いたのである。抜けるような雲ひとつない青空の下、裁判所や、大きな鐘や、閑散とした街並を進み、15分ほどで「博物館」の前にたどり着いた。

Northern Kentucky Gambling Museum

Sliders @ White Castle
 角の隅きりの位置に設けられた小さなドアを開けると、がらんとして広い空間に、雑然とものが「展示」してあり、中央部の陳列ケースに囲まれたカウンター内に、ご老人がふたりいる。男性は70代後半?、ロッキング・チェアーに座った女性はさらに年長だろう。男性の方に声をかけ、「入場料は?」と訊くと、「5ドル」と言うので、5ドル札を渡す。もちろん、客はほかに誰もいない。「自分で見るか?説明しようか?」というので、説明してもらうことにする。ここにあるのは、かつてニューポート一帯に集まっていた多数のもぐり賭博場で使われていた様々な品々である。こういうものを熱心に集めている収集家もいるようで、この「博物館」でも一部のコーナーではガジェットを結構な値段で販売している。ゲーム・チップ、コースター、マッチ、グラス、サイコロ、食事のメニュー、名刺、写真類、衣類、等々を説明しながら、この店はいつ頃どんな人物が経営していて、その後どうなった、といった話が語り部であるご老人から止めどなく流れてくる。ご老人は、飄々とした風情で「この建物では少なくとも2人が殺されてるが、そのうちひとりはそこのバッテンがついているところで後ろから撃たれたんだよ」などと、物騒なことをゆったりとして口調でさらりとこぼす。もちろん固有名詞は分からないものばかりだし、話も荒唐無稽な感じが混じっているのだが、かつて、シンシナティからみてオハイオ川対岸でケンタッキー州になるこの地域が、一種の「悪場所」であったこと、潜り賭博場や、売春宿などが栄えた頃には、警察も市当局もギャングと繋がっているのが当たり前という時代があったこと、等々の1920年代くらいから1960年代までのこの地域の民俗誌/史的な状況がイメージされて大変興味深かった。「博物館」といいつつ、骨董店としての面もあり、オークションでもいろいろ商売をしているらしい。日本宛にかなりの商品を発送したこともあったという。もともと、ニューポートの「悪場所」時代にはナイトクラブで、その後メキシコ料理店になっていたという建物を、かなり自助努力で博物館に改装したという話、行政の許認可関係についての愚痴もいろいろ聴かされて面白かった。何やかやと話をして、展示品をひと回りして、博物館を出たのは午後3時半を回っていた。1時間以上、中にいたことになる。
 さらに辺りを行ったり来たりしてから、来たときとは経路を少し変えて宿に向かう。先ほどの「博物館」で教えてもらった、かつてのナイトクラブ=もぐり賭博場なども、建物だけは文化財扱いなのか、けっこう残されている。近くに裁判所があるせいか、法律事務所がけっこうあるのだが、日本の感覚ではちょっと考えられない広告の横断幕を出していたりする事務所もあり、文化の違いを垣間見た気がする。そんなことを考えながら歩いているうちに、「ホワイト・キャッスル」の店舗をまったく偶然に見つけた。後で調べ直すまで、「昔あったハンバーガー・チェーン」だと思い込んでいたので、まず、現存していることに一種の感激を覚えて入店し、シグネチャーになっている小型のハンバーガー「スライダー」のセットを注文した。結局、20分ほどで店を出たが、この店があること自体が、ニューポートがふた昔以上前に栄えた町であることの証左であるようにも感じた。
 「ホワイト・キャッスル」を出たのは午後4時過ぎだった。宿には寄らずに、このまま会場に戻ることにして、水族館前のバス停からシャトルに乗る。途中で、もう入館は締め切られているが、「地下鉄道博物館」の建物だけでも見に行こうと思い立ち、噴水広場で下車してだらだらと坂を降りて行く。「地下鉄道」というのは、文字通りの地下鉄ではなく、南部から黒人奴隷を北部へと逃がすための組織のことである。結局、入館はもう締め切られていたので中には入れなかったが、建物を写真に収め、コヴィントンから戻って来たシャトルに乗って、再び噴水広場に降り立った。既に5時を回っている。会場に戻ったが、既に今日最後の午後4時からのセッションは、半分以上進行しており、結局、どこのセッションにも入る気がせず、書籍展示、サイレント・オークションの会場で、出品されている本などをじっくり時間をかけて眺める。
 午後6時を回り、レセプションの会場へ向かうと、既に早めにセッションを切り上げた会場から流れた人たちや、エクスカーションだけでこれ目当てに戻って来た人たちで既に大勢が集まっていた。ここで、昨夏お世話になったF氏と、半年ぶりに再会できた。レセプションの後、F氏や、昨日も話をしたMTSUの同僚のD氏、昼に発表を聴いたS氏と、4人で夕食を食べに行くことになった。店を探して噴水広場周辺を歩いているうちに、F氏らの知り合いの女性2人が合流し、6人で「ロック・ボトム・ブリューワリー」に入った。ここでは、フィッシュ・アンド・チップスをとった。いろいろな話が出て、日本の地震も話題になったが、個人的には、イギリス在住のアメリカ人であるS氏の英米比較論的な話がなかなか面白かった。午後8時半頃に店を出て、他のメンバーと別れ、9時前には宿に戻った。
 CNNの報道にも、少し自前の映像が入るようになっており、CNN東京の女性キャスター(韓国系米国人?)や、スカイプ経由の東京在住米国人が、いろいろ情報を流している。三陸の情報も徐々に入り、また、入ってくるほどに、事態は深刻化していく。テレビを付けっぱなしにしながら、ネットでも情報を見て、改めて大事変であることを認識する。こんなときに、東京もそこそこに被害を受けているときに、米国にいて歯がゆい思いをしているのが、幸いだったのかと、しても仕方がない自問自答を繰り返す。今回の地震は、神戸のときとは比べ物にならない広域に被災地が広がっている。仮に東京にいたとしても、神戸のときのように知人宅に物資を持って車で急行し、すぐに帰って来る、などという芸当はできないし、しても意味はない。それどころか、そんなことをすれば救援の支障になる可能性も大きい。東京にいれば、何とか出かけなければという思いと、それはエゴに過ぎないという思いで、身が削られる状態になっていただろう。米国にいて、安いチケットで日程変更もできないというも、そういう巡り合わせだったということだ。メールをいろいろ書き、ネットも沢山見て、眠気が来たところでベッドに潜り込む。眠ったのは深夜12時頃だったか。
■ 2011/03/12 (Sat)
事実上の学会最終日

Cincinnati, Ohio

Cincinnati, Ohio:
Travelodge Newport/Cincinnati Riverfront
 未明の5時少し前に目が覚め、トイレに行き、そのまま起きる。CNNで福島第一原発のメルトダウンの話を盛んにしている。一大事だ。関連情報を求めてネットを見てみるが、こういうときに限って、電波が時々弱くなるのか繋がらないときがあり、少々いらいらする。そのままパソコンをいじり続け、午前7時ころに朝食をとりに行く。コーンフレークにクリームチーズを挟んだベーグル(今朝はトーストした)、それに紅茶をとる。
 午前8時半からのセッションで、F氏の発表があるので8時15分ころにバス停へ行く。今日はデイパスにせず往復だけにようと思い、やってきた12番バスをパスしてシャトルが来るのをまっていたのだが、15分おきで来るはずのシャトルがまったく来ない。反対方向へ走って行くものもない。改めて停留所に書かれている説明を読むと、土曜日は10時台からの運行となっているではないか。既に8時20分を回っている。普通のバスはさっき行ったばかりなのでしばらく来ないかもしれない。意を決して歩いて行くことにし、橋を渡り、スタジアムの構内を抜けて、坂を上りようやくヒルトンに着いたのは9時頃だった。IASPM-USのセッション6dの会場へ行くと、ちょうどF氏の発表が始まったところだった。米ビクター社の初期に貢献した人々の歴史を掘り起こすという内容だった。後で聞いたところ、既にネット上で全文が読めるということだったので、後で読み直しておかなければならない。
 休憩時間を挟んで午前10時30分から始まったIASPM-USのセッション7bは、英国リバプール大学からの報告2本と、フランスからの1本で、ポピュラー音楽と博物館での展示という、このところ自分も興味を持っているテーマについて英仏の観点からの報告だった。残念ながら、1本目の報告はテキストの代読だけで、これはかなり辛かった。2本目のフランス人報告者は英語がかなり苦手のようだったが(途中で読み上げを放棄して、「スライドを読んでくれ」と放り出してしまったくらい)、スライドが多用されていて、どのような取り組みをしているのかは理解できた。3本目のリバプールの若い研究者の報告は、本当はいろいろ議論したいことがあったのだが、セッションが長引き(2番目の報告で結構時間がかかった)、次のマチネ・コンサートへ行くバスの時間になってしまいそうだったので、止むなく質疑の時間に入るところで会場を後にした。
 急いでホテルの玄関前へ降りて行くと、既に迎えのバス2台が来ている。これに乗り込んで、中心市街地の北の外れ、丘の上にあるシンシナティ大学ヘと向かう。大学構内に入ると、いきなり大規模かつ、お金がかかっている感じの、運動競技施設が次々と現れる。エアドーム式の体育施設に、サッカー場、陸上トラック、さらに、プロ並みの野球場やフットボール場もある。スポーツに相当の力が入れられている印象だが、その先の音楽ホールまで行き、バスを降りると、こちらもこちらで、なかなか壮麗な印象である。聞けば、シンシナティ大学はもともと音楽学部があったが、別個の組織だった音楽院(コンサーバトリー)を統合して、College and Conservatory of Music を名乗っているそうだ。今日のマチネ・コンサートは、スーザの曲を集めたウィンド・オーケストラ+αという感じの演奏を聴くものだ。これは、在野の研究者としてスーザの研究をして第一人者になった Paul E. Bierley 氏への業績顕彰記念イベントでもあり、アラン・ローマックスとの議会図書館でのエピソードを紹介したスピーチも素晴らしかった。80歳を超えてこんなスピーチができると言うこと自体が、あやかりたい事だと想った。スーザは、もちろんマーチ以外の組曲や舞曲なども作曲しているが、実際に演奏で聞いたのは初めてであった。舞台上の46-7人のメンバーはシンシナティ大学の音楽学部の学生だが、それにしてもまったく危ういと事のない鍛えられた演奏を聴かせてもらった。メンバーのうち、黒人は男女1人ずつ、アジア系は女性ばかり5-6人という感じである。特に最前列のフルート/ピッコロは韓国人女性3人と中国系女性1人という編成で目立っていた。演目の最後にピッコロ2本で「星条旗」のソロパートを完璧なユニゾンで演奏しきったところでは自然に拍手が湧き、さらに最後のコーラスではスタンディングになっての手拍子であった。
 乗ってきたバスにもどってヒルトンに戻る。行きにも見た街並だが、大学キャンパスがある丘と市街地を結ぶ坂道はかつての注の上の住宅だったところが、貧しい人々(例外もあるが、ほぼ黒人と同義)の住居になっているという感じだ。坂を下りても、しばらくは、そこそこ荒んだ感じの街並になる。その先は、ほぼ平坦麺に中心市街地が広がっている。
 コンサートから戻って、オークションを少し冷やかしてから、2時55分ころ、今日最後のIASPM-USのセッション9dに行く。既に最初の発表が終わるところになっていた。続く発表はスカについてのもので、少々難解な解釈とは別にスカタライツやツートーン系の音源などが聞けてそれだけで少し楽しかった。3番目は P-Funk の話だったが、「Chocolate City」というキーワードについては知らなかったので、勉強になった。4番目は、ベルーの大衆音楽の話で、昨年12月にJASPMのシンポジウムで予備知識を得ていたので、興味深く聴くことができた。セッション終了後に、発表者(白人女性)と話ができたのだが、彼女の職場はロックの殿堂博物館の教育部門なのだそうだ。「研究部門はありそうだと思っていたけど、教育部門もあるなんてしらなかった」と正直に言うと、「アメリカ人の研究者でも知らない人の方が多いわ」と返事が返って来た。
 続く時間帯は、今回の学会を共同開催している2つの学会が、それぞれ総会などを開いている。その間に、まず所持金を確認し、3階の宴会場前に場所を移しているオークションに最後の根付けをする。その後、ネット環境がよい、すぐ上のロビーに上がって、まだ予約を入れていなかったボストンの宿の手配をしてから、少し日記を書く。しばらくすると、3階でレセプションが始まり、やがて、午後6時半を過ぎてから、SAMの参加者有志によるブラスバンドの演奏が米国国歌(星条旗よ永遠なれ)の演奏で始まった。レセプションは例によって飲み物は有料なのだが、途中でシェリーグラスに入ったシャンペンが無料で配られたので、薦められるままに受け取り、久々にアルコールを舐める。バンドは十数曲を、間を置きながら断続的に演奏するのだが、これまた素晴らしい演奏であった。後半からは曲に合わせて、男女で組んで踊る人がいたりして、大いに盛り上がる。最後から2曲目は議会図書館行進曲で、SAMとは所縁の深い連邦議会図書館に敬意を表した選曲であろう。一番最後は消防士ポルカという曲で、プログラムの裏面に簡単な楽譜があって合唱が促される。初めて聴く曲を何とか一緒に歌ったのだが、歌詞を読んでいて不覚にも涙腺が少し緩んだ。最後にスピーチなどがあり、午後8時から晩餐会になるが、これは事前にチケットを買っておかないと入れないので、少し早めに会場を離れて外へ出た。
 オークションの落札品の生産を晩餐会の後にしなければいけないので、こちらも食事を済ませておこうと思い、まず噴水前広場でシャトルが深夜まで運航していることを確認してから、ひとブロック北へ上がり、数日前に入ったアービーズへ入った。前回とまったく同じように、フィッシュ・サンドのコンボをとってゆっくり食べる。食後は、少し歩いてウォルグリーンズの店を見つけたので、安いTシャツと靴下などを買う。ここはヒルトンから1ブロックしか離れていないが、店の前の路上にはホームレスらしきおばさんがいる。
 午後9時半ころ会場に戻ると、まだ晩餐会は続いていたが、オークションの落札品の整理はついていた。結局、そこそこの値段をつけたものはひとつも落とせず、1ドル、2ドルという他の人たちが見向きもしなかったものばかりが10点ほどが全部で13ドルで手に入った。これで荷物が結構重くなるだろう。学会は明日午前にもセッションがあるが、飛行機の時間を考えると立ち寄れないので、これで行事への参加は終わりである。楽しい学会だったが、大地震や津波のニュースが入っていなければ、もっと楽しめたのにとも思った。11日以降、会場では、最初のレセプションでちょっと立ち話をした人とか、同じセッションに出ていてこちらが質問するのを聞いていた人とか、ちょっとしたことで縁があった人たちが、お前の家族は大丈夫だったか、と気遣って声をかけてくれたのは、アメリカ人の心根に触れた気がして、嬉しかった。
 シャトルはすぐに来たので、午後10時少し過ぎには宿に戻った。明日の出発の準備をする、今日までが標準時で、明日からはもう夏時間(まだ「夏」ではないし、Daylight Saving なので「日照有効活用時間」とでも訳すべきか)になるので、時間には十分注意しておかなければならない。今夜の11時59分の次が1時になるらしい。やはり荷物が重くなってしまったが、ともかくおおよその荷造りをして、早めにベッドに潜り込んだ。
■ 2011/03/13 (Sun)
ボストンへ移動

Cincinnati, Ohio

Minneapolisk, Minnesota

Boston, Massachusettes

Boston, Massachusettes:
40 Berkeley
 今朝も5時前目が覚めたので、そのまま起きて、シャワーを浴び、荷造りの続きをする。かなり重くなってしまったし、食べ物はほとんど消費していない。テレビは日本の原発事故の教訓を米国はどう学び取るべきか、とか話をしている。7時ころ、朝食の場所へ行き、ベーグル、ドーナツ、リンゴをとってその場で食べずに、すぐに部屋に持ち帰る。まだ半分近く残っている牛乳の容器に、コーヒーメーカーに残ったコーヒーを入れて。ともかくも7時45分頃に宿をチェックアウトした。
 今日もシャトルはまだ来ない時間だが、幸い、さほど待たずに25番バスが来た。コヴィントンのバス・ターミナルまで行ってから下車し、ここで空港行きのX2番バスを待った。こちらはタイミングが悪く30分ほど待たなければならなかったので、ベンチでベーグルやクリームチーズを取り出して朝食にし、先ほど作ったコーヒー牛乳を飲んでしまう。やがてやって来たX2番バスの運転手は、黒人女性だった。乗り込んでホッとしたら、不覚にも眠気に教われ、15分か20分ほどだったが熟睡してしまい、ふと気づくとバスが空港に近づいて行くところだった。
 空港に到着してデルタのカウンターへ行くと、セルフ・チェックインばかりになっている。手荷物係の女性係員が近くにいたので、やり方を教えてもらおうと思ったら、代わりにチェックインをやってもらえた。今日のフライトは、いったんミネアポリスへ飛んでから、乗り継いでボストンへ向かうのだが、直行便にも席があり変更したければ50ドルの追加で可能だがどうするかと尋ねられる。なかなか商売がうまいなと思いつつ、急いでいないから元のままで、と言って、手荷物を預ける。重さは48ポンドでセーフだったが、国内線なので1個25ドルを払ってください、ということになった。実はそういうルールになっているというのは知らなかったのである。そういうことなら仕方がないので、カードで料金を支払う。道理で、どこでも乗客の機内持ち込み荷物が大きいはずだと合点がいった。
 保安検査場は、ほとんど人が並んでいない。最初に身分証明書(パスポート)をチケットを確認されるのだが、そこの検査官が小声で、お前は英語はできるのか?と訊くので、少し、と答えると、お前の家族は大丈夫か?と、他の人に聞こえないような声で尋ねてきた。あまりに意外で、ちょっと面食らったが、自分の近い家族は無事が確認できたこと、被災地の友人とはまだ連絡が取れていないことを伝え、礼を言った。
 保管検査を通過して、指定された16番搭乗口に行くと出発が午後1時過ぎだと表示されている。確か午前11時台だったはずだがと思ってよく見ると、発券されたチケットでは午後の便だが、旅行会社からもらった最初の旅程では午前中の便だったことが確認できた。もし最初から午後の便だったら、学会最終日のセッションにちょっと顔を出せたはずだ。搭乗口のカウンターで、今から変更できないかとかけあってみたところ、幸い、当初予定通り、午前11時10分発の便に乗れることになった。実は、そちらで行ってもミネアポリスで乗り継ぐボストン行きの便は同じなのだが(おそらくそのために、同じ便に乗り継ぐフライトの中で遅い便が割り当てられたようなのだが)、ミネアポリスでちょっと用事がある、と説明して、何とか手続きをしてもらった。ここで発券し直されたチケットを持って、10番搭乗口へ行く。
 70人乗りのエンブラエル機E175(CP)に乗り込む。座席はふたりがけの通路側だったが、幸い隣は空席だったので、窓際に移って斜めに足を伸ばして休む。2時間弱のフライトだったが、時差があるのでミネアポリス現地時間ではようやく正午になるところだ。預けた荷物はそのままボストンへ行くので、身軽な状態で空港を出て、ライトレールの乗り場へ向かう。オフピークの乗車券1.75を購入し、これで都心へ向かう。機上からも眺めてはいたが、地上に降りて見ると空き地はすっかり雪に覆われていてまだ冬である。昨夏とはおもむきが違う光景を眺めながら、終点のひとつ手前、ウェアハウス・アンド・ヘンネピン停留所で下車し、ハード・ロック・カフェに向かった。時間の余裕はあまりないので、3本ピンを買っただけで店を出て、すぐに停留所に戻り、空港へ取って返した。
 昼を回ったミネアポリス空港は、早朝のシンシナティ空港とは大違いで、保安検査場には長蛇の列ができている。それでも順調に進んで自分の番になったのだが、コートのボケットにクリームチーズが突っ込んであったのを指摘され(自分でも忘れていたし、シンシナティでは問題なく通っていたのだが)、その場で放棄する羽目になった。
 エアバスA320SR

Blue Line train @ Airport Station
 ボストンに到着したのは、現地時間午後7時、とはいえ天文学的には6時なので、まだ少し明るさがあった。荷物を受け取り、無料のシャトルバスに乗り込んで、ブルー線のエアポート(空港)駅で地下鉄に乗り込んだ。ホッとしたのもつかの間、2駅先で何かアナウンスがあってほぼ全員が降りてしまった。車内に残っているのは、もうひとりインド系と思しき旅行者だけだった。集中してアナウンスを聴くと、どうやら「ここで運行を打ち切るので代替バスに乗れ」ということらしい。幸いホームから地上へ向かう人の列はまだエスカレータに引っかかっていて少し残っていたので、その最後尾につき、当初の乗り換え予定だったガバメント・センター駅へとバスで向かう。代替バスを降り、重い荷物を引き摺りながらグリーン線のホームに向かうと、ホームには人がごった返している。やたらに低いホームだと思っていたら、やって来たのは路面電車然とした車両だった。ところがこれが超満員である。大きな荷物を抱えているのでこれは無理だと思い、やり過ごすことにする。西へ向かうグリーン線は、行き先が途中でどんどん分岐し4つくらいの行き先があるので、ある程度以上長く乗って行く乗客は、自分が待っている行き先が来るまでホームに滞留する。それにつられて2本目も乗りそびれ、結局3本目の列車に乗り込んだが、車内は東京のラッシュ時並みの混雑だ。乗ってみて気づいたのだが、どうやらバスケットボール(ボストン・セルティックス)の試合があったらしい。ファンと思しき格好の人たちで車内はいっぱいになっている。そのまましばらく車内で揉まれながら、アーリントン駅で「降ります!」と叫びながら何とか出口にたどり着き、下車することができた。
 予め調べておいたルートでは、駅から宿まで十分以上歩かなければならない。既に夜9時近くになっている。通りには、車は走っているものの、開いている商店も見当たらず、ほとんど人影はない。とりあえず、駅から南へ東へ1ブロックずつ進み、目指すバークレー通りに出たが、ここは200番地あたりで、目指す40番地までは結構距離がありそうだ。バークレー通りを南下し始めたが、途中でハイウェイと鉄道をまたぎ、跨線橋の上から西の方に駅が見えた(後で確認したら、これがオレンジ線などのバック・ベイ駅だった)。これを過ぎた辺りからやや通りが暗くなるので緊張したが、2ブロックほど進んでようやく宿のある40番地に到着した。到着したときには、9時を回っていた。
 宿の検索をしたときには「40 Berkeley」と通りの名と番地だけの表示でどんなところか分からなかったのだが、やって来てみて、ここがYWCAの寮(residence)であることがわかった。つまり、ここに住んでいる人もいるということだ。フロントで予約していたことを告げると3階の316号室の鍵を渡される。エレベータで上がって見ると、エレベータのすぐ隣、共用のバスルーム(トイレ)の向いにあたる部屋だった。室内には、テレビも洗面台もない。随分高さが高いベッドと、簡素な机があるばかりだ。1泊100ドル以下で泊まれるところを探すのが難しいボストンで、3泊100ドル弱で泊まるのだから、もちろん文句はない。全館無線LANがあるということだったが、部屋では電波状態が悪く、なかなか接続が安定しない。フロントで訊くと、ロビーでは状態が良いはずだというので、部屋に荷物を置いた後、ロビーに降りてしばらくネットに繋ぐ。明日、合流するT氏も、既にボストンについているはずなので、メールを送り、ホテルに出向くことを伝える。そのまま、電源が落ちそうになった深夜1時頃までロビーでネットを続け、部屋に戻ってからはパソコンとカメラの電池の充電をセットして、すぐに寝てしまった。
■ 2011/03/14 (Mon)
ボストンあちらこちら

Boston, Massachusettes

Boston, Massachusettes:
40 Berkeley
 朝8時45分ころに目覚める。朝食は9時までのはずだが、とりあえずロビーでネットに繋ぐつもりで1階へ降りる。受付で、朝食はもう間に合わないかと思うが場所はどこなのかと訊くと、まだ5分あるから地下へ行けと言われる。階段で地下へ行くと、まだ列ができていて並ぶことができた。部屋番号を言って、スクランブルエッグ、ベーコン、パンケーキなどを皿に盛ってもらい、セルフサービスでココアとルートビアをとり、席についてゆっくり食べる。食堂にいるのはほとんどが若い学生風だが、奥の隅では、私より年長と思しき白人女性がひとりで食事をとっていた。思った以上にお腹いっぱいになり、9時半ころに部屋に戻ってから、部屋の向かいにある共用のバスルーム(トイレも同じ場所)でシャワーを浴びる。さっぱりしたところで一度ロビーにおりて、今日合流するT氏の宿への行き方や、MITのC氏との待ち合わせ場所を地図で確認する。
 午前10時45分ころに、宿を出て、まず、午後の待ち合わせ場所になるケンドール駅を目指す。昨日使ったグリーン線ではなく、オレンジ線のバック・ベイ駅へ行き、料金の調べ方が分からなかったのでとりあえず昨日と同じ2ドル分の切符を買って入場し、ダウンタウン・クロッシング駅でレッド線に乗り換え、やって来た電車に乗ったのだが、実はこれはハーバード行きの急行でケンドール駅には停まらないということが車内アナウンスで分かり、パーク・ストリート駅でいったん下車し、少し待って次の電車に乗り直した。地下鉄は、いったん地上に出て、橋を渡って対岸のケンブリッジ側に進み、再度地下に潜ってケンドール駅に着く。途中の橋の上から、T氏のホテルが目視できたので、地図通りにイメージが固められてほっとする。11時半ころケンドール駅を降りて、待ち合わせの場所を確認し、見当をつけてT氏の泊まっているロイヤル・ソネスタ・ホテルへ歩いて行く。
 正午少し前にロイヤル・ソネスタ・ホテルに到着した。けっこう高級感のあるホテルだ。レセプションへ行き、T氏の名を告げて部屋に電話を繋いでもらう。しばらくしてT氏が現れる。今日は、MITのC氏と午後2時にケンドール駅で待ち合わせをしている。しばらくロビーで簡単に打ち合わせをして、早めにケンドール駅まで行って、その辺りで昼食をとろうということになる。先ほど歩いた道を逆に進んで、駅近くのカフェに入り、マッシュルームのキッシュと紅茶で昼食にする。T氏とはもちろん日本国内でも時々会う機会があるのだが、国外で他にノイズも入らないということもあり、1時間あまり、かなりの密度でいろいろな情報交換をする。
 そうこうしているうちに、約束の時間が近づいてきたので、2時少し前に店を出て、待ち合わせ場所である、ケンドール駅出口からすぐのMITの生協店舗入口に行く。程なくして、C氏がやって来た。12月に日本で会って以来ということになる。C氏の運転するトヨタ車に乗り込み、とりあえず観光ということで、C氏の母校でもあるハーバード大学へ連れて行かれる(C氏は、学部がハーバードで、大学院がイェールという強者である)。古き良きアメリカの大学という感じがよく分かる。今でも1年生は多くが大学構内の寮生活なのだという。思わず、今はなき駒場寮のことを少し考えた。大学構内を少し散策してから、ハーバード・スクエアに出て、車に戻り、いよいよC氏の職場であるMITへ行く。工科大学だけあって、構内には原子炉もあるし、鉄道の引き込み線も通っている。人文系はごく一部しかない、といいつつ確かに比率は低いが、しっかりした印象の建物に入っている。いずれにせよ、広く展開され、街と連続したキャンパスは、ハーバードとは対称的なところがいろいろあって興味深い。
 午後3時15分ころにC氏の研究室に行き、T氏の新年度のプロジェクトに関して、打ち合わせをする。ドアを開けて話をしていたのだが、途中で著名なD教授が通りかかり、C氏に紹介された。思いがけず、ほんの著者としてしか知らない高名な研究者を間近に見たというわけである。C氏に別件のアポイントメントがあったので、打ち合わせ自体は1時間もしない短時間で済ませたのだが、T氏は新年度に向けてかなりの手応えを感じていたようだった。
 午後4時少し過ぎにケンドール駅でC氏と別れ、T氏とともに、すっかりただの観光客になってMIT生協の店舗でグッズ類をお土産に選ぶ。ここでは、Tシャツとぬいぐるみ、建築鑑賞の本を買った。実はケンドール辺りには、あまり食指の動くレストランやカフェはない。そこで、レッド線で2駅北上し、ハーバード・スクエア駅に移動することにした。予めC氏から、ハーバード・スクエアでお薦めの店を教えてもらっていたのだが、とりあえずは勝手に歩き回り、途中で見つけた韓国系の店と思しきDadoというカフェに入る。ちょうどT氏がややお疲れ気味だったのと、ネット環境と電源があったので、ここでは長居をする。ここでは、自分のお土産にマグを買った。
 午後6時を回って、店を出たころには日が暮れはじめていた。ハーバード大学生協の衣料品を中心としたお土産物を扱っている店舗へ行き、シャツを買ったのだが、T氏はここで、いろいろ時間をかけて品物を選びたいというので、しばらく店内で粘ってもらい、いったんハーバード・スクエア駅まで戻って、C氏のお薦めの店の場所を探す。店名だけで、所在地を確認していなかったので、角の土産物屋で安いTシャツを買って、探している店の場所を尋ねて見ると、何とさっきいた生協のすぐ目の前らしい。戻ってよく見ると、確かに探していた Passim という店の看板が、生協の出入口の筋向かいに出ている。一緒に出されていたベジタリアン・レストランの看板の方に気を取られて、すっかり見落としていたのだ。
 生協店舗内で、まだ商品を選んでいたT氏に声をかけ、8時からライブ演奏が始まるようなので、それまでに入店した方がよいだろうと伝える。結局、生協を出て、Passim に入ったのは午後7時40分ころだった。ここは、地下のフロアが半分に分かれていて、ライブ会場のPassimに入るには入場料(一般13ドル)が要る。入って何もとらなくてもよいし、テーブル席につくなら、もう半分を占めている Veggie Planet というレストランのメニューから食事を持って来てもらうこともできる。テーブル席を選び、中へ入る。相席になった白人女性ふたりは、既に飲み物を飲んでいて、食事も注文済みのようだった。8時のライブ開始直前ということもあってか、ウェイトレスはなかなかこちらの注文を取りに来てくれない。とりあえず、飲み物だけは注文し、ほっとする。
 この Passim という店は、フォーク系の音楽のライブの拠点らしい。今日は聖パトリックの日間近ということもあるのだろうが、ボストン・ケルト音楽祭の一環ということで、アイルランド系の音楽の特集ということらしい。第一部で登場したのは、女性3人(フルート、フィドル、アイリッシュ・ハープ)のグループ。ガチガチの伝統音楽ではなく、現代の新作、アバンギャルドなものも取り入れられており、演奏にもなかなか華がある。事前に、「この曲はヘビーメタルみたいな曲なので、踊ろうとしないでね」と断ってから演奏された、変拍子の曲もあった。演奏の途中で、相席の女性たちに食事が出て来た。程なくして、第一部のステージが終わったので、彼女たちに、「あなた方の頼んだものは何ですか?」と話しかけ、この店(というか、隣の店か?)の注文の方法を教えてもらう。そのアドバイスに従って、玄米にチーズや豆などのソースをかけた Portobello Redhead なるものを注文する。要は、一種のぶっかけ飯である。注文し、皿が来て、あまり食べ進まないうちに、第二部が始まった。今度は男性3人(ギター、ボタン・アコーディオン、木製フルート)のグループで、先ほどの女性陣よりも、ずっと伝統的な感じの演奏である。中央に座った、いかにもシャイな好青年という感じのアコーディオンは、MCもチャーミングで盛んに拍手を浴びていた。
 まだ演奏が続いていたが、午後10時になったので、店を出ることにする。レストランとしてのTシャツと、ライブハウスとしてのトレーナーをお土産に買う。店を出て、近くにあるというジャズのライブをやっている場所を少し探したのだが、すぐには分からなかったので引き返し、ハーバード・スクエア駅からレッド線に乗る。ケンドール駅で、T氏が先に下車し、こちらはそのまま先へ進んで、ダウンタウン・クロッシング駅でオレンジ線に乗り換え、バック・ベイ駅から宿を目指して戻る。昨夜より遅く宿に戻るので、人通りの少ない住宅地の道を歩くのはやはり緊張したが、途中で、若い女性がひとりでゆっくり歩いているのを見て、少し安心できた。宿に戻ったのは、11時近くだったかと思う。最初は共用のバスルームでシャワーを浴びることも考えたのだが、結構疲れが出ているのですぐに寝てしまった。

■ 2011/03/15 (Tue)
ボストンで観光気分の一日

Boston, Massachusettes

Boston, Massachusettes:
40 Berkeley
 朝7時台に目が覚めたはずだが、やはり部屋ではネットが繋がらないので、下のロビーに降りて少しネットをいじってから、8時過ぎに地下の食堂へ降りて行く。マッシュポテトのように見えた、コーンの食べ物を中心に、ベーコンなど塩味のあるものを合わせてもらい、ココアとルートビアで朝食にする。いったん部屋に戻り、帰国を考えて、荷造りを少し始める。その後、今度はコード持参でロビーに下り、しばらくネットに繋ぐ。
 午前10時15分に宿を出て、バック・ベイ駅へ歩いて行く。今日は一日乗り放題のデイパスを9ドルで購入した。オレンジ線からグリーン線へ、ヘイマーケット駅で乗り換え、10時45分ころにレッチミア駅に到着した。グリーン線は「地下鉄」扱いなのだが、基本的には路面電車の生き残りで、現在の北の終点となっているレッチミア駅には小規模ながらループ線や引き込み線もある。おそからかつては、ここから先の郊外へも路面電車網が広がっていたのだろうと思わせる周囲の状況だった。現在は、ここから先へ行く路線バスの乗り場が駅出口に隣接して置かれていた。ここから、比較的新しい大きなコンドミニアム(高級な印象)やショッピング・センターのある一帯を横切り、T氏の宿泊するホテルに向かった。ショッピング・センターの中には、フード・コートに日本食のコーナーがあったり、正面出入り口(裏口から入って正面に出る形になった)のところに有名なチーズケーキ・ファクトリーのレストランがあったりしたのが、目についた。

Hard Rock Cafe Boston (2階以上は駐車場)
 午前11時ころ、ロイヤル・ソネスタ・ホテルに到着し、T氏の部屋に電話を入れる。しばらくロビーでT氏を待ちながら、日記をつけたりする。やがて下りてきたT氏と、今日の行動の予定を立てる。午前11時45分ころにホテルを出て、レッチミア駅まで歩いて行く。ここからグリーン線でヘイマーケット駅まで行き、ハードロックカフェに着いたのは、午後0時20分ころだった。ここは駐車場の建物の1階部分を広く使っている店で、馬蹄形状に店が広がっているが、団体客が正面入口から見て左翼に、個人客が右翼にと振り分けられていた。ランチのセットで、T氏がスライダー、こちらがパスタをとり、小皿をもらって少し交換する。T氏とは、新年度の研究関係の話などいろいろな話題を話し込んだ。今回は連れを同伴していないので、連れへの土産を少し多めに買い込む。ハードロックカフェを3時頃に出て、市役所の脇を通って、ガバメント・センター駅へ行く。市役所の前には、トレーラー式のサーカスのチケット売り場が、まだ営業はしていなかったが設置されていた。今日の夜は、ジャズを聴きに行くため、夜10時にロイヤル・ソネスタ・ホテルのロビーにC氏が迎えにくることになっている。最初はここで、T氏と分かれて、まだ時差ボケがあるというT氏はホテルで休むというつもりだったのだが、こちらがフェンウェイ・パークを見に行くというと、T氏も一緒に行く事になった。
 午後3時半頃、ケンモア駅で下車して、地上に上がる。北向きの出口に出たのだが、ブロックの南側に回り込むと、ハイウェイ越しにフェンウェイ・パークが見えた。ハイウェイをまたぐ陸橋の方へ行くと、銃規制を訴える横断幕が目に入る。事前に何の予習もしていないので、本当に目にしたものを見るだけの状態だったが、結局、まったくの観光で、ゆっくりフェンウェイ・パークの周りを一周する。途中で、ほんの僅かながら、中の芝が見えるところもあった。午後4時になったころ、駅近くに戻り、ここでダンキン・ドーナツに入って一息入れる。T氏はドーナツ、こちらはラップをとり、飲み物を飲む。ここでは30分ほど休んで、隣のセブンイレブンで買い物をするT氏を外で待ち、それから駅に一緒に下りた。T氏の宿があるレッチミアまで行くE系統は、ここでは乗れず、途中で乗り継ぎしなければならないので、こちらの下車駅であるアーリントンまで一緒に行き、そこでEが来るのを待とうということになる。アーリントン駅では、4本ほどを見送った後、ようやくEがやって来た。後でホテルに行くことを約束し、T氏が乗り込んだE系統を見送る。
 アーリントン駅から地上に上がり、歩いて宿に向かう。宿に着いたのは午後5時20分ころだった。最初は少し横になることも考えたのだが、部屋で有り合わせのものを少し食べてから、ロビーに下りて、ふかふかのソファでネットをしながら、少しウトウトしたりもして、リラックスする。ニュースばかりでなく、身近な大学の業務関連でも、地震の影響に関わる連絡がメールで様々に入って来ていて、被害の深刻さを改めて認識する。今回、日本から持って来た資料を、ニューヨークに郵送したいのだが、昼間のうちには郵便局に出くわさなかったので、まだ発送できていない。改めてネットで調べ、深夜11時58分まで(何で半端な時刻なのだろう?)開いている郵便局がサウス駅の近くにあることを確認する。
 すっかり暗くなった午後7時45分ころに宿を出て、サウス駅近くの郵便局を目指してオレンジ線からダウンタウン・クロッシング駅でレッド線に乗り換え、サウス駅で下車した。ちゃんと地図を用意しておかなかったので、ちょっとだけ迷ったが、8時20分に、無事、郵便局へたどりついた。ちょうど深夜の新宿中央郵便局のような雰囲気がある。ここで日本のゆうパックのようなものの使い方を教えてもらい、ニューヨーク宛の発送を済ませた。

Old State House
 郵便局を出たのは、午後8時半を少し過ぎたころだった。ここから歩いてサウス駅へ行き、レッド線からダウンタウン・クロッシング駅でオレンジ線に乗り換え、ステイト駅で、明日使う見込みのオレンジ線からブルー線への乗り換え経路を確認する。そのまま、ステイト駅で地上に出たのだが、出口が歴史的建造物(旧マサチューセッツ州会議事堂、現在は博物館)そのものだったのには驚かされた。つまり、歴史的建造物の地下がそのまま地下鉄駅で、歴史的建造物の土台部分に、地下鉄の出入り口が設けられているのだ。ここから、昼間近くを通った市役所脇の道を歩き、。9時15分ころにヘイマーケット駅へ達した。グリーン線のホームに下り、しばらく待つのだがレッチミアまで行くEがなかなか来ない。実際に待ったのは10分ほどだったのだが、この待つ時間は、結構長く感じられた。ようやくやって来たグリーン線でレッチミアまで行く。駅で写真を撮っていたら、中年の女性が話しかけて来て、日本人かというので、そうだと答えると、また地震の話になる。たまたま同じ方向にしばらく歩いたので、話が続いた。
 ロイヤル・ソネスタ・ホテルのロビーに辿り着いたのは、午後9時40分ころだった。T氏の部屋に電話を入れ、しばらくロビーで待っているとT氏が下りてきた。程なくしてC氏が迎えに来て、今夜の目的地であるウォーリーズ・カフェというジャズ・クラブに向かう。ここはボストンでも有名なジャズ・クラブで、毎晩ライブがあるそうだ。T氏がまだ食事を済ませていないということで、角のピザ屋(ボストンなのに「ニューヨーク・ピザ」という屋号で、働いているのはヒスパニック)でピザと飲み物を買ってから(何でも食べ物は持ち込めるということだったので)すぐ先のウォーリーズ・カフェに向かうが、既に超満員で、到底テーブルにもカウンターにも就けない状態だった。とりあえず、ピザ屋に戻り、カウンターで腹ごしらえを済ませることになった。
 ピザ屋を出てから、再度の挑戦でウォーリーズ・カフェに入る。細長い店内には長いカウンターにひとりだけ店員がいて、このほかに入口のところに少しドレッドがかった髪型のバウンサー、というよりドアマンがいる。客はざっと80名以上、もしかすると100名近くは入っているだろうか。ステージの辺りも立っている客が溢れていて、そもそもフロアと同じ高さなのか、多少段差のあるステージが存在するのかも分からないような状態だ。しばらくカウンター席とテーブル席の間の、本来なら通路のはずのスペースに詰め込まれた状態で、フュージョン系の演奏に身を委ねる。しばらくして、ようやくこちらにも注文が訊かれたので、C氏が飲み物をまとめて注文する。自分はトマト・ジューズを頼んだ。そうこうしているうちにカウンターに座れたので少しホッとしてバーで働く店員の様子などを観察する。
 演奏しているのは、サックスとドラムが白人男性、キーボードが白人女性、ベースが黒人男性で、ギターが途中で少なくとも2人が交代するという編成のバンドである。音としては80年代フュージョンを、ちょっとファンク寄りにエッジを立たせた感じ、とでも説明するべきものか。もちろん演奏の技量は極めて高いし、とにかく客は大いに盛り上がっている。客は白人が結構多いが、黒人や東洋系も(われわれを別にしても)いて、年齢もばらついている感じがする。結局3人がそれぞれ2杯の飲み物を飲んだが、アルコールが5ドル、ノンアルコールが4ドルという金額で、その他のチャージは何もなかった。このレベルのジャズの生演奏が、気軽な出費で聴けるというのは、日本ではあり得ない贅沢であろう。
 結局、1時間半ほどウォーリーズ・カフェにいて、深夜0時を回る頃に店を出た。C氏の話では、演奏自体は深夜1時頃まで続くそうだ。
■ 2011/03/16 (Wed)
徹夜明けで帰国の途に

Boston, Massachusettes

DL 2725便 機中
DL 619便 機中

 そのままC氏に車で送ってもらい、ホテルに戻ったのは深夜0時20分ころだったと思う。朝は早く起きなければならないと分かっているのだが、まだ眠気が来ない。部屋には電話もないのでモーニング・コールもできないだろうと思いつつ、ひょっとして目覚まし時計でも貸してくれないかと考えて受付に尋ねると、何と、受付からモーニング・コールならぬ、モーニング・ベルを鳴らせるようになっているという。午前7時に鳴らしてもらうようお願いして、部屋に戻る。一通り荷造りをしてから、パソコンを持ってロビーに降りる。ところが、ロビーでネットをいじっているうちに深夜2時を大きく回ってきた。寝るか起きているか迷ったが、そのままベッドにはいらずにロビーに電源コードを持ってきてつなぎ直し、ソファに沈みながらウトウトし、夢うつつに過ごしているうちに5時台となり、早朝便で出発するのか、チェックアウトして行く客を見かけたりする時間になってきた。
 朝食は朝7時からだが、6時40分ころに様子を見に食堂へ降りて行くと、まだラインは開いていないが、既に飲み物とコーンフレークなどで、朝食をとっている年配の女性がいた。既にワッフルグリルにも火が入っていたので、ワッフルを作って食べる。このワッフル製造機セットは家にも欲しいかもしれない。いったん受け付けに行って、ベルをキャンセルしてから部屋に戻り、捨てるものをゴミ箱に入れ荷物を完全にまとめ直してから、再度、食堂に降りて行く。目玉焼きを挟んだ小さなバーガーのバンズと、カリカリに焼かれたベーコンをもらい、クリームチーズを付け、ルートビアをとる。こういう寮食堂的な食事は、また、しばらくは経験しないだろう。
 食事後、すぐに部屋に戻って荷物をとり、受付に鍵を返却してチェックアウトする。宿を出たのは7時10分を少し回ったくらいだった。重くなった荷物を引っ張りながら進むのだが、歩道の凸凹があるところでは振動が嫌な感じの手応えで伝わって来るので、車が来ないところでは車道を引き摺って行く。オレンジ線のバックベイ駅へ辿りついたときには、正直なところほっとした。2ドルの乗車券を買い、前日に下見しておいたように、ステート駅でブルー線に乗り換え、すぐにやって来た列車に乗り込んだ。空いていたので座れたのにもホッとした。

無惨に車輪を失った安物スーツケース
 とここで、あまりにもありがちなのだが、気持ちよく寝入ってしまい、空港駅で下車するのを乗り過ごしてしまった。目が覚めるとドアが閉まるという感じは、久々の経験だった。ひとつ先のウッド・アイランド駅で下車したのだが、何とその時、鈍い音がして、ふと気づくとトロリーの車輪部分がすっぽり無くなっているではないか。固いプラスチックでできている部分がきれいに割れてなくなっている。何と言うことか。さすがはバーミンガムの市場で買った安物である。ただの重い鞄に成り果てた荷物を手に提げ、インバウンドのプラットホームに移動し、やってきた次の電車でようやく空港駅に戻った。ここからは接続よく、無料シャトルバスに乗り、デルタ航空の拠点であるターミナルAにたどり着く。午前8時20分ころになっていた。
 今回は、日本語解説に従いながらセルフチェックインを何とか済ませ、荷物を預ける。ぎりぎり49ポンドで一発でセーフだった。まだ手荷物に、ルートビアの残りをコーラのボトルに詰め替えたのが1本残っているので、すぐには保安検査場へ進まず、しばらくロビーでルートビアの残りを飲んで落ち着く。保安検査では、二重にはいているズボンの下の方(ジーンズ)のポケットに小銭が残っているのを指摘されて引っかかったが、それ以外は問題なく通過し、A15番ゲートへと向かう。外はいつの間にか雨になっている。宿から駅まで、雨に降られなかっただけでも、ありがたく思うべきなのだろう。このゲートからは、自分が搭乗するミネアポリス行きの前に、9時台に別の便が出発する。電源が使える席に座って、しばらく無料WiFiに繋ぐ。テレビでは、成田空港に日本からの出国を待つ人が殺到して大混雑しているというニュ−スを流している。そのうち強い眠気を感じ、そのまま熟睡する。
 目が覚めると、既に自分の乗る便の時間が近づいて、ちょうど搭乗機であるエアバスA319がゲートに着こうとしているところだった。どうやら、スケジュールより遅れるような雲行きだ。やがて出発予定時刻のころからようやく搭乗が始まった。31Fは、後ろから2番目の右の窓側である。機内は満席で、隣はビジネスクラスにいそうな感じの青年ビジネスマン風の白人男性だった。乗ってしばらくの間は、「ウォールストリート・ジャーナル」の1面を(新聞を広げずに)折り畳んだ状態で丁寧に読んでいたが、新聞にしばらく目を通した後は、Boseのヘッドホンをして AmazonKindle の端末で読書していた。MBAホールダーのステレオタイプのような感じで、見ていて面白かった。フライトは3時間弱だが、おそらく途中でトイレには行けないと覚悟し、窓側にもたれてしばし寝入る。小一時間寝た後は、目が覚めたのと、時おり雲が切れて地上が見えたので着陸まで起きていた。満席の機内で周囲の乗客を見回すと、黒人がほとんどいないことに気づいた。客室乗務員も白人ばかりのようだ。ボストン=ミネアポリスという区間がそういう風になっているのだろうか?
 ミネアポリス到着は1時50分ころだったが、何しろ一番後ろの方の窓際なので、降りるに降りられない。ようやく出られるようになる頃には、既に機内清掃のヒスパニックの人たちが乗り込んできていた。足早に搭乗口を通過し、目の前にあるトイレで小用を足す。コンコースの搭乗案内では、乗り継ぐ東京行きは搭乗中と表示されている。走りこそしなかったが、そそくさとG5搭乗口へ向かうと、係員は何人もいるが、もう誰も列には並んでいない。ヤバいなと思って近づいて行くと、カウンターの10メートルくらい手前で、「山田様ですか?」と日本語でカウンターから声をかけられた。ボストンからの便が遅れたので、待っていたということらしい。それでもこの成田行きは、定刻通りで出発できた様子だった。
 帰国便の機材はB747-400SRで、58Gは中央の右通路側だが、幸い、隣は空席だったので、2席分を占領して余裕を持って座る。最初に飲み物が給仕されるので、白人男性の乗務員に、いったん「トマトジュース」と言った上で、「ひょっとしてブラディ・マリー・ミックスはありますか?」と訊くと、ニヤッとしてMr&MrsT'sの缶を出してくれた。少ししてから出された食事は「チキンかビーフ」だったので、ビーフを選ぶが、やはり少し塩味がきつく、美味しく感じない。たかが機内食と言えばそれまでのことだが。免税品を空港で買う機会がなかったので、機内でお土産用の免税品の購入をする。確か初めての経験ではないはずだが、普段はほとんどしないことである。その後、機内が暗くなったところで、また少し眠る。
■ 2011/03/17 (Thu)
帰国

DL 619便 機中

 一眠りして目が覚めると、軽食(固めのブラウンブレッドのサンドイッチとリンゴ)に水が配られる。機内はまだ暗くされているが、日本時間では朝の9時を過ぎているので、起きていることにして少し日記をつける。ただし、電源の残り時間があまりないので長くは作業しなかった。トイレに立ったついでに、後部ドアの窓からアラスカ辺りの流氷の様子を眺める。いったん座席に戻ってカメラを持ってきて何枚か撮ってみたが、うまく美しさを捕らえることはできなかった。
 前方のスクリーンでは、行きにも見たハリー・ポッターをまた流しているが、それを見る訳でもなく、ぼんやりウトウトしているうちに、映画が終わり、日本時間で午後3時頃に朝食にあたるものが出された。そろそろ日本上空に近づいているはずだが、雲が厚く覆っていて、地上はまったく見えないようだ。機長からのアナウンスで、地上では横風が強いことなどが報告され、シートベルトをしっかり締めているようにと告げられる。やがて、着陸体勢に入ると、確かにかなり複雑に揺れはじめた。正直なところ、吐き気が出そうな感じになったので、気を紛らわせようと、機内誌の数独に手を付ける。2問の数独を解き終える直前に、ようやく着陸。着陸時には、思わず拍手をした人がいた。時刻は午後4時半になっていた。
 入国審査、手荷物受け取り、税関はスムーズに進み、午後5時頃に駅まで降りて行ったのだが、ちょうどJRの快速エアポートが出ようとしている(もう間に合わない)タイミングだったので、次の便まで1時間待つか、京成で行くか少し迷い、結局、京成で上野に向かうことにする。ここまでくれば少々時間がかかっても同じなので、少し安い本線経由にして上野へ向かう。途中の駅で下車して行ったやはり海外帰りらしい女性客が、駅に着くなり「うわぁ暗い!」と言っている。なるほどよく見ると駅も町も普段より暗く、節電をしていることが分かる。もっとも、英米など諸外国の夜はこんなものだから、言われるまで気づかなかった。
 トロリーが壊れて手提げするしか無くなった重い荷物を抱えて四苦八苦しながら、上野でJRに乗り換え、山手線、中央線と乗り継いで、武蔵小金井駅で下車する。既に9時近くになっているが、まだ循環バスはあるので、しばらく待ってバスで東経大前のバス停で下車して研究室まで行く。研究室に置く荷物を一通り下ろしてから、メールのチェックなどの作業をしてから、少し軽くなった荷物を提げてアパートに戻った。時刻は既に11時近くになっていた。

(2011.04.02.掲出)

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