私的ページ:山田晴通

チュニジア日記

 
- Jours en Tunisie -

2008年  
8月11日
 〜15日


 今回の旅行は、チュニスで開催された第31回の国際地理学会議に参加して発表することが主な目的でした。学会出張扱いになった最初の5日間の後、私費で滞在を延長し、パリなどに1週間あまり滞在しました。ここでは、出張扱いとなったチュニス滞在期間の日記を公開します。
 今回の同行者は、4年前のグラスゴーの国際地理学会議の旅にも同行した娘でした。宿の料金は二人分です。
 今回は、1ユーロは170円くらい、1ディナールは100円弱くらいでした。

 見出しに示した地名のうち、青字はその日に訪れた主な場所緑字は宿泊地です。
■ 2008/08/11 (Mon)
9年ぶりのエール・フランス

AF279便 機中 / Paris
Paris (near CDG):
ibis Paris Roissy Charles de Gaulle
 前夜は京成成田駅裏のコンフォート・ホテルに前泊し、7時13分の京成線で成田空港(第一ターミナル)へ向かう。少し遅れてJR/NEXでやってくる娘と、駅改札/荷物検査を出たところで合流した。お盆の最中だが、社会情勢の影響か、施設整備が進んだおかげか、空港はそれほど混んでいない。エールフランスのカウンターで、荷物がチュニスまで回送されることを知り、最低限の着替えだけを引き出して荷物を詰め直した以外は、全体にスムーズにチェックインし、両替(TC購入)なども済ませた。出国手続をして搭乗口に着いたのは搭乗開始の一時間半ほど前だった。しばし、椅子に座ってまどろむ。
 座ったまま熟睡していたら、旧知のH先生に声をかけられて目が覚めた。全く偶然だが、同じ便に乗るというのだ。さらにA先生ご夫妻もご一緒であるという。同じ学会へ行くのだからありがちなこととはいえ、先生方とはご縁があるということだ。
 機中では、娘を窓側に座らせたので、もっぱら「上海」をして過ごす。娘はすぐに眠ってしまうので、食事が来る度に起こすことになった。こちらも離陸直後と、食事の後にそれぞれ短く熟睡する。機内食は、1回目(昼食?)がビーフの煮込み、2回目(夕食?)がハムやテリーヌとチーズの盛り合わせで、それぞれ希望すればワインとコニャックがつく(当然どちらももらわなかった)。こういうところは、お国柄ということだろうか。
 到着後は、自動小銃を抱えた迷彩服姿の兵士があちこちで警戒しているのに少々緊張しながら、第三ターミナルの近くに他のお三方が泊まるNovotelがあるというので、いったん一緒に行くことにする。地図で見るとわれわれが泊まるibisもすぐ近くにあるので、一緒に空港内の新交通システムCDGVAL(今回初めて乗った)で第三ターミナルまで行き、他のお三方と分かれてibisへ入る。ところが、レセプションで予約が入っていないと言われてしまう。よく調べてもらうと、予約したのは送迎バスで10分ほどのところにある同じチェーンの別のホテルだとわかった。指定されたNovotel脇の乗降場に行くと、次々にそれらしい送迎バスが入ってくるが、どれも色が違う。待っているのは「赤」だったのだが、まず最初にピンクが来て、オレンジ、ブルー、白、と少しずつ間をおいて次々やってきたが、赤はなかなかこない。お三方とNovotelで再合流の待ち合わせをしていたので、これからホテルに行ったのでは間に合わないと判断し、とりあえずNovotelまで行き、娘をロビーで待たせることにした。一人で乗降場へ戻ってしばらく待っていると、ようやく「赤」がやってきたので、運転手に声をかけ、このバスで間違いないことと終バスの時間を確認した。
 H先生のご好意で、先生の部屋に手荷物を置き、身軽になって5人一緒に市内へ向かうことにする。第三ターミナル駅からは鉄道でパリ市内へ行くこともできるのだが、エールフランスのバスで市内まで行こうということになり、CDGVALで第一ターミナルへ移動し、そこからエールフランスのバスで凱旋門まで向かった。チケットは往復で22ユーロ。途中の高速道路で、携帯電話を握る手をかたどったサムスンの大きな屋外広告や、相撲取りがコンテナを持ち上げているというよく訳がわからない立体造形を見かける。30分あまりで市街地に入り、凱旋門をひとまわりして下車する。
 
凱旋門下から眺めるシャンゼリゼ
 久々とはいえ(1974年、1995年、1999年に続いて)4回目のパリだが、やはり凱旋門はお約束ということだろう。地下通路で凱旋門下の広場へ行く。すると、やはり同じ学会に参加するOK先生ご夫妻とこれまた偶然に出合った。
 その後、凱旋門からシャンゼリゼをルーヴル方向に少し下り、フーケッツを冷やかして、その先のカフェに(カフェ前のテントの下に)入った。ここで、飲み物とハムやチーズの盛り合わせをとり、夜食?にする。フーケッツの前に、アラビア語のナンバープレートの派手なポルシェが二台(黄色とオレンジ色)とまっていたり、車道に近い席についたカフェのテントの目と鼻の先で白人ホームレスが文字通り道路を這いつくばっていたり、目の前で駐車禁止をとられたベンツがレッカーで持ち上げられ宙づりになったところでドライバーが戻ってきたものの警官が首を縦に振らずドライバーもレッカー車に乗って立ち去るまでの一部始終を見たりと、短い時間でいろいろなことを目にした。
 10時近くになり、凱旋門近くのバス停へ戻って、30分あまりで第一ターミナルへ戻った。CDGVALで第三ターミナル駅へ行き、NovotelのH先生の部屋から荷物を回収してバス乗降場へ行くと、何とちょうど赤バスが来たところだった。早速乗り込み、10分ほどでホテルに到着。娘が眠たがっていたのですぐに寝かせ、こちらはゆっくり風呂に入る。空港の真っただ中で、滑走路にも近いホテルなので窓を開けるとかなり音が大きい。風呂から上がってしばらく窓を開けて冷気を入れていたが、寝る時には窓を閉めた。
■ 2008/08/12 (Tue)
地中海を渡る

Paris (near CDG) / Tunis
Tunis:
El Omrane Hotel
 朝6時頃に起床、6時30分からの朝食に降りてゆく。主体はパン、ハム、チーズがあるだけのコンチネンタル・スタイルではあるが、ヨーグルトや果実類、飲み物のバラエティもなかなか充実している。
 今日は、昨日一緒だった先生方とは便が違い、先方より1時間ほどおくれてチュニスに到着する便に乗ることになっている。10時30分のフライトで、9時50分までにゲートに来るように記されていたので、7時過ぎには、部屋から送迎バスが来ているのを確認して、下へ降りてゆき、チェックアウトし、バスに乗り込む。結局、8時前にターミナル2Eに到着し、8時半前には26番の搭乗ゲートについてしまった。
 乗り込む直前になって、出発が「5分」遅れて10時35分になるというアナウンスがあった。それくらいなら誤差範囲であろうと思ったのだが、これが大間違い。搭乗受付が始まったのは10時20分近くになってから、さらにバスで駐機中の搭乗機の目の前まで行きながら、そこで10分ほど停車した状態でバスから降ろしてもらえなかった。さらに、ようやく乗り込んで着席したのだが、なかなか動き出す気配がない。ようやく動き出したかと思ったら、牽引されて位置を滑走路に面したところにもっていっただけで、またまた停ってしまった。結局、離陸したのは正午頃になった。
 機中では、何もエンターテイメントもないので、山口文憲『団塊ひとりぼっち』などを読み進む。ときどき眠っている娘越しに窓の外を眺めるが、雲が見えるばかりである。機中で昼食が出たが、クスクス?と思しき少し酸味のある穀類、豆類を混ぜ合わせたものが主食だった。
 途中で既に海の上を飛んでいることに気づく。初めて見る地中海である。そうこうしているうちに、陸地が見てきた。アフリカだ、と思ってカメラを構えるが、どうも様子が違う。あれあれ、陸地の先にまた海が見えてきた。どうやらサルジニア島だったようだ。

空からみたチュニス近郊の集落
 午後2時近くになってようやくアフリカの北端が見えてきた。このあたりは砂漠からはまだ離れているはずだが、やはり乾燥した大地という印象だ。海岸は洲が発達しているのか、遠浅になっていて岸に近い辺りは文字通りの「水色」に見える。やがてカルタージュ・チュニス空港に到着。着陸直前は、ガタンと落ちる感じの振動などが結構あってパイロットの腕を疑いかけたが、着陸自体はとても上手で、着地の衝撃をほとんど感じなかった。
 入国審査場はかなり人が並んでいて、一人ひとりの処理速度も遅く、結構時間がかかった。建物の内装が空から見た水辺の「水色」に似ている。入国手続きを終え、ようやく手荷物受け取りにたどり着いたが、どんどん荷物は出てくるが、しばらく待っても自分たちのは見あたらない。東京で預けたきりなので、万一乗り継ぎでトラブっていたら...などと危惧したが、娘が目敏く、既にレーンから下ろされている荷物の中にあるのを見つけた。
 出口へ向かうと、IGC 2008 の看板が出ていて、立ち寄るように促されていた。空港からの送迎サービスは事前の予約が必要だと聞いていたのだが、とりあえず立ち寄ると、ホテルまで車で回ってもらえるという。ところが、こちらで手配した安宿 El Omrane は、推薦されたホテルのリストに入っていないので、その場所の確認などで結構手間取る。とりあえず、娘の小遣いも含め、2万円分のTCを200ディナールほどに換える。
 しばらくして、ようやく送迎のバンに案内され他の3名の先生方と一緒に市街地の中心部へ向かった。公共施設はじめ、市内のあちこちで、大統領?の肖像とスローガンを書いた看板が目立っている。「ビッグ・ブラザー」のいる国なのだろう。他の先生方を大きなホテルの前で降ろしたあと、車は大きな通りの先の幅が狭くなった通りに進み、かなり強引に方向転換をして、路面電車の軌道を走り、その他諸々の無理をしてホテルの前までたどり着いた。ホテル探しは一苦労を覚悟していたので、これはありがたかった。
 El Omrane は、半世紀以上は昔の建物をだましだまし使っているという感じの宿で、シドニーのボンダイ・ホテルを思わせるところがある。部屋は4階(日本でいえば5階)の411で、日陰になっている中庭側に面しており、ちょっとしたバルコニーがある。ただし、ベッドはダブルベッドで、床に寝ることを覚悟した。料金は1泊 80ディナール。
 時間は既に4時を大きく回っている。市街地から離れている会場へこれから向かうのもしんどいし、今日これからの時間のプログラムはレセプションなど社交的なものが多いはずなので、登録は明日に回すことにする。娘もかなり疲れているので、部屋で休ませ、どこかで食料を調達しようと思い、ホテルを出る。周辺の地図があるかとフロントに尋ねたところ。ツーリスト・インフォメーションへ行くことを勧められ、ホテルのパンフレットの裏の略図にその位置を書き込んでくれた。
 外へ出ると、日差しは強烈で、ハワイや宮古島での経験を思い出した。街頭にはゴミなども結構散らかっているが、臭気は意外に感じない。空気が乾燥し、風もそこそこ流れているためだろうか。日陰伝いに歩いていたら、自動小銃をもった警官に日向へ出るよう仕草をされた。どうやら警察署か何かの壁伝いに歩く形になっていたらしい。
 ホテルで指示された通りの場所に間違いなく来たのだが、それらしい角にはツーリスト・インフォメーションらしき看板は出ていない。また別の自動小銃をもった警官に尋ねると、何とロータリーの反対側だという。確かに「TOURIST」と看板が出ている建物があった。ようやくたどり着いたところ、ここは観光関係の役所の建物で、インフォメーションらしいところは小さな一部屋だけ、それもほとんど資料はない。女性職員が二人いて、市街地の地図はもらえたが、他に収穫はなかった。とりあえず、市場と、スーパーマーケットと、安くて美味しいレストランが集まっている場所を尋ね、地図に書き込んでもらう。
 ツーリストの建物を出て、フランス通り(Avenue de France)を西へ進む。途中で、安いレストランがあると教えられたマルセイユ通りを右折して一ブロック北へ上がり、左折、左折で El Hana International ホテルの角に戻り、再びフランス通りを西へ向かう。旧市街地メジナの入口に当たる門のところで、その手前のスーパーマーケットに入る。品揃えがなかなか不思議な感じで、化粧品やトイレタリーの先に、菓子類や缶詰があり、その先へ進むといきなりパソコンが並んでいて、その先がコーラなどの飲み物、そのさらに先に食料品がいろいろあり、別の通りに面した出口になっている。とりあえず、水とレモン味のサイダーらしきものを買ってみる。それを持って宿へ戻る。フランス通り辺りの市街地は格子状になっているので、その感覚と、車で送ってもらった時の道路の印象を頼りに路面電車の軌道沿いに歩いて、無事宿にたどり着いた。部屋に戻ると、娘はすっかりベッドで休んでいたので、もう少し休ませてから、様子を見て一緒に街へ出ることにして、こちらもしばらく休む。

旧市街の食料品店街(旧市街南部)
 午後6時頃になって、太陽が傾いて日陰が広くなり、日差しが少しは弱くなってきたところで、娘と一緒に外へ出る。まず、先ほどのスーパーで水とバナナ、菓子類を買い、衣料品や靴の店などが並ぶ通りを南下してから右折し、不整形な街路が交錯する旧市街地(メディナ)に入った。強烈な匂いがする香辛料の店などが並ぶ一角に出て左折し、そのまま真っすぐに衣料品店などが並ぶ狭い街路を、だいたい南の方角に抜けていく。あたりには観光客もあまりいない、チュニジア人ばかりがごった返す場所のように見えたが、こちらが東洋人なのを目敏く認めて「ニーハオ」「コニチワ」などと声をかけてくる物売りも多い。やがて、魚屋が並ぶ一角を抜け、牛の頭を吊るした肉屋が並ぶところで広場に出た。どうやら近郊へ向かうバスのターミナルになっているようだ。娘が、路上でバスケットを置いて売っているパン屋のパンが欲しいというので、試しに一つ買わせてみる。値段の見当がつかないので、5ディナール貨を出すと、困ったようなそぶりをされたので、手元にあった半端なコインを全て見せると、200ミルディナールだけをとってくれた。およそ20円である。コーラの500mlが1ディナールなのを考えると、庶民が食べるものは安いということだろう。娘は、美味しいといいながら、歩きながらパンを齧り続け、ふと気づくとあっという間に食べてしまった。
 いったん部屋に戻って、買い物を置き、8時近くに今度は夕食を食べに出る。マルセイユ通りまで行ったが、娘にあまり食欲がなかったこともあって、フランス通り側の入口からひとブロック入った左手角にあるカフェで、飲み物とケバブサンド(バーガーに近い)をとり、二人で分けて夕食にした。途中で、警官が二人組で店にやってきた。自動小銃はもっていなかったが、地域のパトロールも二人組で行う必要があるということだろう。
 部屋に戻ったのは11時頃だったが、ホテル1階のラウンジがかなりの人出で騒がしかった。このホテルの予約をネットでしたときに、1階がうるさいと書いてあるコメントがあったのを思い出した。幸い、4階まで上がって部屋に戻ると、ここは静かだった。空調はあまり利いていない感じで、外から帰ってきても汗はかき続けているのだが、それでも十分快適に休めそうだ。風呂に入って洗濯をし、ベランダに椅子を出して物干代わりにする。この宿は、無線インターネットがあり、部屋でもウェブの閲覧ができた。ところが、メールは読み出せない。何とか会場への行き方を調べようとしたのだが、それも覚束ないので、あきらめて朝7時に会場への連絡バスが出るエル・ハナ・ホテルへ行くことにして、1時頃には就寝する。娘とは頭と足を逆方向にし、こちらはベッドの端でベッドカバーの上に横たわって、タオルを腹にかけて眠る。
■ 2008/08/13 (Wed)
大会会場へ

Tunis
Tunis:
El Omrane Hotel
 朝は6時前に起きて、少しネットをやってみる。どういうわけか、昨夜はできなかったメールの読み出しも出来た。自分の発表はまだ明日がだ、パワーポイントが完成していないので、少しだけ作業を始めた。7時に間に合うように娘を起こし、食欲がない娘には飲み物を飲ませ、こちらはバナナを朝食代わりにする。
 7時ちょうどくらいにエル・ハナ・ホテル前に行くと、バスが2台あった。指示された方のバスに乗り込むと、知り合いのK先生、ON先生が後から乗ってきた。7時過ぎに発車したバスは30分ほどで、大会会場であるエル・クラム展示場に到着した。バスから降りて会場へ入ろうとしたら、参加証のタグをぶら下げていないと言われて足止めされる。先に参加証のあるメンバーを通した後、これから登録手続きをするわれわれが通された。さらに建物の入口には金属探知機があって、なかなか物々しい。会場に入って登録カウンターへ行くと、こちらの登録番号を確認して、会議資料や領収書などを出してくれたのだが、こうした会議につきもののコンファレンスバッグは、昨日の段階で既に品切れになってないと言われる。おやおや。ほかにもいくつか手続きがあったのだが、9時過ぎにならないとコンピュータの操作を伴う手続きはできないと言われ、しばらく日本委員会の展示ブースへ出かけて待つことにする。この登録カウンターのところには、会場内に住み着いているのか、猫が一匹床に寝そべっていた。それが何ともいえず馴染んでいる感じで、お国柄なのだろうかとふと思った。
 日本委員会のブースへ行くと、旧知のAB先生や、初対面のT君などがいて、展示の準備をしている。この日本委員会のブースは、関連諸学会から代表として責任者が出て、大会期間中の運営をする建前になっているが、最終日=15日の午前中の担当者であるF先生に用事ができて責任者が空欄になってしまうという話だった。AB先生にその事情を説明され、その時間帯が空いているかを訊かれたので、少しでも役に立つならばと思い、当番を引き受けることにした。いわば「現地採用」である。会場内は無線インターネットがかなりよく入り、ブースでも十分な環境があった。娘は、ブースの奥に居座って、ずっとネットをしている。
 自分の発表があるコミッションは、すべての発表が明日に集中して置かれているので、今日は特定の会場へ行く必要はない。午前中は、プログラム(こちらへ来て初めて全体像がわかった)を眺めながら、あちこちの会場をはしごして回る。全部で二十近くある発表会場は、いくつかの例外を別にすれば、だだっ広い展示場に、展示パネルのような仕切り板をめぐらして区切っただけのもので、マイクなどはなく、天井が抜けているために声が聞こえにくい(隣の声が騒音として聞こえてくる)。結局、ちゃんと話を聞こうとすると発表者の近くに集まる感じになる。しかも、予告されているのにキャンセルされる発表が多かったり、発表時間が変更になっている例も多く、お目当ての発表が見られないことも何回かあった。それでも、ウラジオストックのロシア人研究者による南千島の海岸浸食の報告、日本人と日本在住の外国人研究者による日本の観光に関連する報告を集めたセッション、サモアにおける貧困と教会の関係についての報告、南アフリカの非都市化地域における小都市の人口停滞と事業所数の減少についての報告などを聞いて回った。
 午前11時を過ぎて、午前中のセッションがひと通り終わり、コヒーブレイク、会議時間、昼食として、午後2時まで丸々休みになる。その後の午後のセッションは、、プログラムを見てもあまり食指が動かなかったので、どうしようかと思っていると、ON先生が午後3時頃からタクシーでカルタゴの遺跡へ行くという話を聞き、それに便乗させてもらうことにする。昼休みは昼食の時間でもあるのだが、無料のコーヒーブレイクで提供されるパン類は量が少なく、すぐになくなるという話だったので、発表の合間の11時少し前にこれを少しもらい、娘と食べる。飲み物は、シトロネードと称する甘酸っぱいというかベタ甘い感じの飲み物と、コーヒーが提供されている。
 日本のブースでは、大会運営の不手際への愚痴がいろいろ聞かれた。日本からの参加者だけでも、プログラムとアブストラクト集で別の氏名表記になっていたり、姓のアルファベット順が原則のはずのアブストラクト集で、姓ではなく名の方で並べられている人がいたり、発表要旨がアブストラクト集にあるのにプログラムに載っていなかったり、逆にプログラムの2ヶ所に載っていたりして、これが「インシャアッラー」らしいのかと、嘆く先生もいた。日本委員会のプースは、各学会の英文チラシの類を配布するほか、日本の地理関係の学会誌や大学紀要と、中等教育の地理教科書を展示紹介している。一方では、日本からの参加者の荷物置場兼サロンのような機能も結果的に果たしており、ここにいるといろいろな先生方が入れ替わり現れる。日本からの参加者は40名ほどいるはずだ。娘はここに居座る時間が長かったので、だいぶいろいろな先生方にご迷惑をおかけしたようだが、誰もいなくなってしまい事実上留守番をしていた時間帯もあったそうなので、少しはお役に立ったということかもしれない。
 こちらは日本ブースに貼り付いてばかりいても仕方ないので、他の展示スペースを冷やかして回る、韓国は、「独島は韓国領」とか「東海」いうポスタ−を掲げ、パンフレットを配布するなど、領土問題、地名問題の宣伝に務めている。中国は2016年の北京大会のポスターを掲げ、今回選ばれる副会長候補(副会長は複数選ばれるので、実態は「理事」という感じ)の宣伝をしている。ヨーロッパの各国は、自国の地理研究者の最近の業績リストやディレクトリなどを配布している。特に、次回2012年のケルン大会を開催するドイツは、大会関連情報の宣伝の他、出版社と組んで定期刊行物の宣伝なども積極的に行っていた。

ビュルサの丘から眺める市街地中心部

カルタージュ・ハンニバル駅

電車の扉を押さえる少年たち
 午後3時を回って、ON先生がブースの留守番の仕事から解放されてから、3人でタクシーを使ってカルタゴの遺跡が集まっている「カルタージュ」地区へ向かった。ちょうど会場前に来たタクシーを拾い、まずビュルサの丘の上にあるカルタゴ博物館へ行く。入口の前にはバスが駐車し、土産物屋のテントが並ぶ、絵に描いたような観光地の風情だ。ここまでタクシーはメーター通り2ディナールだったので小銭をチップで載せる。博物館はじめ一帯の遺跡全体の入場料と写真撮影許可料をここで支払う。博物館自体は、出土品の展示で、大したことはないが、何より遺跡のロケーションにそのままあるところが価値がある。丘の上なので眺望も素晴らしい。アフリカというよりは、地中海世界という感じが強い。時間も時間なので日差しは強烈だったが、最初はここへ来るつもりがなかったので帽子も何も用意していない。長時間屋外の日向にいはいられないので、日陰に入ってぼんやりしている局面が多くなる。
 博物館を出て、娘が門前の土産物屋でアイスを食べている間に停まっていたタクシーにアントニヌスの大浴場跡まで行ってくれと伝えようとする。ところが、ON先生が地図を示しても、なかなか意図が伝わらない。別のタクシーが来るまで待とうかとあきらめかけた頃、通りがかった他の団体旅行のガイドが助けてくれて、アラビア語で行き先を説明してくれ、事なきを得た。大浴場までは1ディナールで、やはり小銭を載せて渡す。
 大浴場跡の地区は実際はかなり広い公園のようになっていて、植栽のある部分は比較的涼し気な風があった。古代人の暑気払いもこんな方法だったのだろうかなどと思う。ON先生もわれわれも暑さに参っていた感じなので、無理はしないで一番の目玉である大浴場跡だけを見に行くことにして、海岸側に少し下ってゆく。ようやくたどり着いた大浴場跡では、娘が日陰から動きたくないと言い出し、ON先生には先へ行ってもらい、娘と一緒に遺跡に入ってすぐの日陰で休んでいた。しばらくすると、K先生たち4人連れが向こうからやってきた。こちらは元気よく遺跡のある地区をいろいろ見てきたらしい。何の気なしに雑談をしていて、実はちょっとしたトラブルが生じていることがわかり、先方はそれに対処するということもあって、先に帰っていった。再びON先生と3人になり、土産物屋を冷やかした後、古いコインを売りつけられそうになっていた娘を店から引っ張り出し(その途中で、最初80ディナールと言っていた売値は20ディナールになったが)再びタクシーにのろうとする。行き先を聞かれて近くの駅までだと答えると「5ディナール」という。そんな馬鹿な。行き先は、さっきメーターが1ディナールだったところよりも、さらに近い距離だ。タクシーをやめて、住宅地の中を歩いて郊外電車の駅まで行くことにする。
 結局、見当をつけて歩いてたどり着いたカルタージュ・ハンニバル駅は、駅員?というか切符売りがいて、複線ではあるものの、かなり簡素な駅だった。チュニスまでと切符を求めると3枚で4.950ディナールだった。これは2等車の料金でひとり1.650ディナールになる。強烈な日差しも少し傾きかけてはきたが、ホームの庇の下でベンチに座り、しばしほっとする。ところが、程なくしてやってきた電車はなかなか強烈だった。車内は、海水浴帰りと思しき少年たち(半裸の者もいる)や、その他の客でごった返している。われわ3人の他に観光客はいない。最初はドアが壊れているのかと思ったのだが、そうではなく、少年たちがドアが閉まらないように抑えているとわかった。つまり、乗降口のドアが閉まってしまうととても暑いので、数人の少年たちがドアが閉まらないようにわざと身体を入れてドアが閉まらないようにしているのである。日本なら発車しないところだが、電車はそのまま発車し、車内には何とか風が入ってくる。やがて少年たちは、途中で電車の壁などを叩いてリズムをとり、大声で歌を歌い出した。車内の他の客は、特に注意するでもなく、黙っている。その状態のまま30分近くの電車の旅がつづき、途中で娘は座らせたが、ON先生と一緒にずっと立っていたので、チュニス海岸駅に着いたときには、かなり疲れていた。

オムレツとスープ
 駅から少し歩いた店で飲み物を買い、気を取り直して市街地中心部へ歩いてゆくと、途中で韓国のH先生に声をかけられた。何でも韓国人参加者のパーティーへ行くのに電車に乗りに行くのだと言う。しばし立ち話をして、明日またと約して別れる。その先の広場でON先生とも別れて、フランス通りを西へ進み、いったんホテルに戻った。
 汗だくになった服を着替えるため、シャワーを浴び、最少限の身繕いをして、午後7時にI先生の泊まっているパラス・ホテルに向かう。途中で飲み物だけを買って僅かに遅れて待ち合わせのホテルに着き、ここから再びON先生や、I先生、T君と合流し、食事を兼ねて旧市街のメディナに行く。ところが、ガイドブックで先生方が目を付けていたレストランは軒並み8月は休業だったので、再び市場の中を歩いてフランス門近くのカフェに入る。ここは、冷房が扇風機しかない。娘と二人で、チュニジア風のオムレツ、サラダ、スープなどと飲み物をとり10ディナールちょっとだった。その後、さらにマルセイユ通りの入口のカフェに行き、菓子類と飲み物でさらに話し続ける。(このとき、一緒に食事をした5人のうち、私以外の4人は翌日から翌々日にかけて腹痛があったそうだ。)
 結局、11時過ぎに宿に戻り、まず少し寝てから明日の準備(パワーポイントの仕上げ)をする。
■ 2008/08/14 (Thu)
いよいよ発表

Tunis
Tunis:
El Omrane Hotel
 朝方まで作業をしていて5時頃から2時間弱だけ眠り、7時少し前に起きて、遅れ気味でハナ・ホテルへ向かう。幸い、まだバスが残っていて、15分ほどの遅れで出発した。セッションは朝8時から始まるが、開始直前に情報社会コミッションの発表会場へ行き、旧知の先生方と簡単に挨拶した後、少し抜け出して日本ブースで娘や他の先生と話をしてから、会場に戻った。既に発表が始まっていたが、やはりなかなか聞き取れない。午前中のセッションではもう一回抜け出し、別の発表を聞きにいったのだが、そちらも時間が上手く合わず、聞きそびれてしまった。結局また情報社会の会場に戻り、昼の運営会議に参加する。このコミッションは本来の設置年限8年に達したが、僅かな名称の変更でさらに新設(事実上の存続)する事が認められたという。この大会までの責任者だったイスラエルのK先生はIGUの副会長にも選出されたという事なので、コミッションとしては大変結構なことになった。また、このグループとしての集会を来年ソウルで開く見込みという事も発表された。
 昼休みは、娘があまり食欲がないので、昨日と同様にパンと飲み物で済ませ、カフェテリアでA先生、H先生とコミッションのことや、大会後のスペイン行きのことをいろいろ雑談する。当初予定では私費旅行の部分でスペイン行きは考えていなかったのだが、せっかくなら、少し足を伸ばそうかという気になる。

こんな話をしています
 再開された午後のセッションでは。まずA先生の発表を含むブロックがあり、次いで、A先生が座長をして、HS先生、山田、H先生の順で日本人の発表が3本ならぶブロックがあった。自分が喋る時間はあっという間に経ち、用意したスライドの「おまけ」の部分は結局見せずに終わった。その後、再びコーヒーブレイクを挟んで、なお夕方に一つセッションがあったのだが、日本からの参加者は、この段階で全員帰ることになり、会場前で他の先生方とは別れてタクシーを拾い、市内へ向かった。
 タクシーの運転手は英語を話さないので、片言のフランス語で市の中心へ行ってくれと言い、道中、片言のフランス語で珍妙な会話をした。例えば、(おそらく)「お前はアラビア語は知らないのか?」と問われたので、「<アッラーアクバル>と<インシャアッラー>しか知らない」と答えると、「お前はムスリムか?」というので、「不可知論者だ」とか「神道だ」などと答えられるわけもなく、とりあえず、「ブディストだ」と答えると、時速100キロ近く?で運転中なのに(確かに直線だったが)両手を合わせてこちらを見て「ブディスト?」と確認された。市内に入り、そこを「左に」と言いたいのだが、「右=ドロワ droit」は思い出したのだが(これは語義は違うが英国王室の紋章のモットーに入っているので、英単語として知っていた)、「左」が出て来ない。急遽、娘の持っている旅行会話の入った電子辞書で「左=ゴーシュ gauche」を引かせ、何とか最短距離でホテル前に到着した。料金は5ディナールだったが、さらに1ディナールをチップで渡す。フランス語のレッスン?代も込みというつもりだ。
 今日は娘の体調がかなり悪いので、休んでから街中へ出ようと思っていたのだが、結局、そのまま夕食も外へは出ずに、こちらが一人で買い物には出て、旧市街の南から鉄道駅にかけての、観光客がほとんどいない辺りを探訪したものの、娘は部屋で休み続けた。9時過ぎには部屋に戻り、汗だくになった衣類の洗濯や、明日のチェックアウトに向けて荷造りなどを少しして、早めに就寝する。
■ 2008/08/15 (Fri)
学会最終日
Tunis, Paris (near CDG)
Paris (near CDG):
B&B Hotel Roissy Charles De Gaulle
 今日は、学会最終日である。朝の4時前に目が覚めてから、少しずつ荷造りなどの作業をする。娘も体調が悪く、早く就寝したこともあって、5時半頃には起きてしまったので、荷物の整理をさせる。その後また眠気が来たので、6時少し前から小一時間熟睡する。
7時少し前に荷物を持ってチェックアウトし、フロントに荷物を預けて、エル・ハナ・インターナショナル・ホテルの前に行き、バスに乗り込む。A先生、ON先生、K先生や、韓国のHW先生が乗り合わせた。日本委員会の展示ブースの責任者として午前9時から12時半までここにいなければならないので、発表は聞きに行かず、断続的にやってくる各国からの参加者の応対をしたり、これまた入れ替わりやってくる日本人参加者の先生方と雑談したり(この中には、HS先生との原稿の打ち合わせなど、仕事絡みもあった)、パソコンをいじって日記を書いたりしているうちに時間が経っていく。最終日ということで展示していた教科書類を譲り受けにくる来訪者などもいて、そこそこいろいろやっているうちに時間が経った。この間、カメラの充電用にアダプターをON先生に借りていたのだが、ON先生が明日には、帰国の途に着くということだったので、図々しく頼み込んでアダプターを譲ってもらう。
 結局、そのまま1時半過ぎまでブースにいて、2時のバスでエル・ハナ・インターナショナル・ホテルの前に戻った。
 そのまま旧市街の商店に出かけ、娘は民族衣裳風のワンピースを、こちらは(実在しない)ハードロックカフェ・チュニスのTシャルを買う。娘が小遣いで買ったワンピースは、最初は35と言っていたのが、30になった。別の店で買ったTシャツも、言い値は35ディナールだと言われたので、「一昨日通りかかった時は25と言っていたろう」と言うと25でいいとなり、さらに値切ると22ディナールになった。もちろん、もっとゆっくりやれば、まだまだ値切れるのだろうが、「小商いものは値切るな」である。
 4時頃に宿に戻り、預けていた手荷物を受け取って、駅に近い一角へ行きタクシーを拾った。今回乗った中では、一番ぼろぼろの車で、やや年輩の運転手はシートベルトもしていない。タクシーは快調に空港へ向かいあっという間に到着した。メーターが3ディナールちょっとだったので、4ディナールを渡す。降りたところで、頼みもしないのにポーターがやってきてトランクから荷物を台車に載せ出した。ちょっと嫌な感じもしたが、やりとりをするのが面倒でそのままエールフランスの窓口まで台車を推してもらう。別れ際に当然料金を要求されるのだが、いくらと言っているのか分らない。1ディナールちょっとを出してみたがもっとよこせとう感じの仕草をする。これはマズいと思い、わざとニコニコしながら、英語で「料金はいくらなんだっけ? さっきはなんて言ったの?」などとまくしたててみたら、先方は仏語しか解さなかったようで、そのまま諦めて戻っていった。

チョコクレープとチュニジア風サラダ
 エールフランスの窓口では、受付が5時半からだと告げられる。まだ1時間ほどあるので、インフォメーションで郵便局の場所を確認して、到着フロアに降り、切手(日本への葉書は600ミルディナール)を買って、となりのカフェに入る。ここでは飲み物に、サラダとクレープを注文し、絵葉書を書いたりしながら、ゆっくり休む。娘はチョコクレープを、こちらは「チュニジア風サラダ」をつつく。サラダは、見た目はキュウリに似た瓜の一種とトマト、それに少量の玉葱とセロリ?を細かいみじん切りにして混ぜ合わせ、ごくあっさりと軽い塩味?をつけた感じのものが、キャベツの葉の上に盛りつけられたものだった。なかなか美味しい。
 5時半近くになったので、カフェを出て、書いたばかりの絵葉書を投函し、エールフランスの窓口に戻る。既にチェックインが始まっていた。既に荷物は二人分で32キログラムになっている(先が思いやられる)。身軽になったものの、特に他にすることもないので、そのまま搭乗口55番へ向かう。出国手続きのときに、いったん順番が来たものの出国カードを書いていないとして並び直すはめになった。搭乗口に着いたのは出発時刻の1時間半前だが、機体は見あたらない。ぼんやりと離着陸する飛行機を眺めながら小一時間を過ごす。やがて6時半頃にようやくエールフランスのエアバスが到着し、定位置に停止した。これですぐ折り返すのだろうから、事実上国内線並みということだ。定刻を少し遅れて搭乗が始まる。新聞は「フィガロ」を取る。もちろん記事は読めないが、数独が毎日3題載っているので、少しは娘の暇つぶしになってくれる。
 機中では、さっきの「フィガロ」紙の紙面をもっともらしく構え、写真を眺め、ぽつりぽつりと解る単語を拾ったりしながら過ごす。離陸後しばらくして外は暗くなった。やがて、機内食が出た。わざわざ「豚肉は入っていないことを保証します」と書いた紙片が入っていた。黄色い飯、人参と大根のサラダ、白身の魚がメインで、これにサラダとマドレーヌのようなものがついている。娘は機内食は要らないというので、マドレーヌだけは持って行くことにして、残りの事実上二人前を平らげる。機内食の夕食をとったあとは、少し眠った。
 うとうと眠っているうちに、パリが近づき、着陸態勢に入る。到着は10時半頃。機内のアナウンスでは「定刻」ということだったから10時20分のはずだが、これはあくまでも着陸のことで、その後広い空港内を走行し、ターミナルにようやく着いて、入国や荷物受け取りを済ませたら、もう11時になっている。ホテルの無料送迎バスの発着所がすぐには分らず、ターミナルEとFの間で少し迷い、たまたま居合わせた迷彩服姿の兵士に尋ねたのだが、彼らもわかっていない。しかし、親切なことに、外のタクシー運転手に聞いてみてやろうということになって、一緒に建物の外に出たところで、それらしいバスが目に入り、すぐに場所が分かった。さほど待たずに、赤い車体の前回と同じバスが来たので、これに乗り込む。
 今夜の宿B&B(ベベ)ホテルへの到着は既に11時半近かった。数カ国語を流暢に操るフロントの女性がてきぱきと対応してくれたのはよかったし、ツインの部屋なのでしっかり普通にベッドで寝られる。暗証番号方式のドアロックなどもおもしろかった。しかし、「無料WiFi」を謳っている割には、フロントの前のコーナーでしか使うことはできないというのは不便だ。それでも、ともかく娘を部屋で寝かせてから、フロント前の「無料WiFi」コーナーへ行ったのだが、ここのインターネットの環境はかなり悪く、大いに失望した。そもそもフランス国内用の携帯電話を持っていないと、アクセスに必要なパスワードが来信しないというではないか。結局、居合わせたエールフランスの黒人職員や、フロントの女性が、それぞれ自分の個人名で繋げるように手助けをしてくれたが、これもすぐには上手く行かず。ようやく何とか接続できたと思ったら、ウェブは見に行けても、メールの読み落としが上手く行かない。結局、メールは何度試みてもタイムアウトになってしまったので、諦めて深夜1時近くに部屋に戻った。既にかなり眠たく、少し日記を書こうとしてすわったのだが、そのまま眠ってしまうほどで、これはいかんと思いすぐにベッドに入り直した。
その後、私費によって滞在を延長し、マドリード、バルセロナ、ブリュッセルを回って最後にパリから帰国便に乗り、25日に帰国しました。


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