コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1997

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

1997/03/11 ある冷たい朝に.
1997/06/11 疾走するバス.
1997/07/02 街のスケーター.
1997/09/09 君は「渋さ」を見たか.
1997/09/25 「町営メディア」は誰のものか.
1997/10/30 変わりゆく「同志」.
1997/12/05 学校図書館のために(上).
1997/12/06 学校図書館のために(下).


1997/03/11 

ある冷たい朝に

 一週間とちょっと家を空け、穂高の家に帰ってくると、水抜きをしそびれていた風呂場の水回りは凍結していた。東京と二重生活をしていると、ずっと穂高町で冬を越していた頃以上に、信州の冬の厳しさを痛感させられる。夜半に帰宅したものの、風呂はあきらめて、とにかく翌日には気温が上がることを願って床についた。
 翌朝、数日前の雪の残る庭を掃除しようとしたところ、ふだん物干し場にしている日溜まりに、猫が横たわっている。わが家に庭では、一番日当たりのよい一角である。脅かしてもかわいそうだと思い、庭の掃除は後回しにした。ところが、数時間後また庭に出てみると、猫はまだそこで横たわっている。猫は既に事切れていたのである。
 よく見ると、首輪をつけており、どこかの飼い猫のようだ。灰色味がかった毛並みは、生気を失いながらもなかなか美しい。体の左側を下に、四本の脚を伸ばし、眠るような姿である。口元からは、わずかに体液の流れた跡があったが、表情は安らかだった。おそらく、弱ってわが家の庭に入り込み、日当たりのよい場所で横になったまま、零下十度を下回る冷気に運ばれて召されたのであろう。
 小さいわが家の庭でも、小動物の遺骸を見つけることは珍しくない。野鼠や小鳥なら、庭でゴミを焼くときに一緒に処理してしまうが、猫となればそういうわけにもいかない。しかも、よその飼い猫である。わが家はペットは飼わないので、こうしたときの処理に明るい者はいない。衛生上の必要があるかもしれないと思い、町役場に電話を入れた。すると、場所が公道なら処理するが、私有地内なら庭にでも埋めてくれないか、という。うちの庭にはそんな余裕はないし、他人様の飼い猫を勝手に処理する気にはなれない、と答えると、ともかく担当者が来てくれるということになった。
 程なく、役場から軽トラックで担当者が一人でやってきた。トラックには野犬用とおぼしい檻も載っている。担当者は、紙のゴミ袋をもって物干し場に回ると、猫の遺骸を持ち上げた。わたしも袋の口を広げ持ち、一緒にゴミ袋に入れた。死後硬直か、あるいは零下の気温で凍結しているのか、猫の体は思いのほか固い。袋から飛び出てしまう尻尾を、何とか押し込み、袋の口を紐で縛る。袋にしまい、姿の見えなくなった猫は、ただの生ゴミになってしまった。
 犬は人に、猫は家につくという。あるいはその猫は、私が不在の時にも、わが家の回りを闊歩し、わが家を護っていてくれたのかもしれない。何か、何かしてやれることはなかったのか。走り去る軽トラックを見送りながら、私は小さな自責の念を感じていた。
1997/06/11 

疾走するバス

 五月の末、ある国際学術会議に招待され、韓国の釜山へ出かけた。日程は強行軍で、移動日・会議当日・移動日の二泊三日。ゆっくりおみやげ物を買う余裕さえない。
 会議の会場は、市街地の東のはずれに位置する海雲台(ヘウンデ)の一流ホテルだった。海雲台は、海水浴場として有名な観光地で、東京近郊でいうなら江ノ島か、距離の近さを考慮して浦安の東京ディズニーランドあたりにも見立てられそうな場所である。高級ホテルがいくつもあるので、釜山の主要空港である金海(キムヘ)空港からも直行のリムジンバス便がある。空港は市街地の北西のはずれ、洛東江(ナクトンガン)の河口デルタに位置しているので、バスは釜山の市街地を東西に横切っていくことになる。リムジンバスは空港から海雲台までを1時間ほどで結んでいるのだが、たまたま空港で、海雲台まで行く路線バスを見かけたので、思わずこちらに乗ってしまった。路線バスは八百ウォンだが、リムジンバスは四千五百ウォンもする。日本円ならたかだか五百円の差だが、ついつい安い方に足が向いたのである。
 私が乗った三〇七番のバスは、金海空港から、市街地の北部を縫うように走り、韓国では庶民の足となっている高速バスのターミナルを経由して海雲台へ向かい、さらにその先のニュータウンをぐるっと回って海雲台へ帰ってくる路線を走るバスだった。空港でバスに乗ったのは、午後七時少し前。韓国の標準時は日本と同じだが、国土は全体に西寄りだから、日没は遅く、辺りはまだまだ明るい。「これは時間を食いそうだ」と覚悟しつつ、「水田地帯から、旧市街地、商業地、新興住宅地、観光地をくまなく走ってくれるのだから勉強にもなろう」と思い直して、車窓から景色を眺めることにした。
 私が初めて韓国を訪れたのは、もう十四年も前のことだ。その時、強烈な印象に残ったのは、何といっても市場の活気であり、そして、自動車の運転のすさまじさであった。当時は、自家用車は少なく、走っているのはトラック、バス、タクシーの類ばかりだった。要するにプロの運転手しか走っていないわけで、素人目には危なっかしいほど車間を詰め、幅寄せ、割り込みが日常茶飯事、その上、タクシーのスピードメーターは百八十キロまで切ってあるという調子で、ともかく度肝を抜かれたものである。十四年経った今も、自家用車が少し増えたとはいえ、韓国のドライバーの辣腕は変わらない。バスの運転手は、七時のニュースから野球中継とラジオを車内に流しながら、クラクションも高らかにぐいぐいと車線を変更し、信号待ちで停車するときは、追突寸前まで車間を詰める。
 郊外から市街地内へ入ってくると、乗客が多くなり、車内のあちこちはおしゃべりの花が咲く。夜九時というのに街の商店はにぎやかだ。靴屋、薬屋、家具屋など個人商店が目立つのは、以前と変わらない。オフィスビルの数フロアを使った学習塾が、あちこちに目立つのは、韓国の厳しい受験競争を反映しているのだろう。
 やがて、バスは旧市街地の渋滞を抜け、海雲台に入った。目指すホテルが見えてきたが、既に二時間が経っている。「毒くらわば皿まで」の心境で、その先のニュータウンまで行ってみることにした。この先のバス停は、たいていが「○○アパート」といい、「○○」には財閥企業の名前が入る。計画的に各社に建設が割り当てられているわけだ。十数階から二十階以上に及ぼうかという高層住宅が緩やかな斜面に林立する様子は、地震があり建築基準の制約が大きい日本では考えられない光景だ。まだ建設中だったり、完成はしているようだが未入居の建物も多いし、道路面もあちこちが工事中である。ここでは街全体が「普請中」なのである。
 やがて、元々あった村の名残とおぼしき一角のバス停で、我々乗客は別のバスに乗り継ぐことになった。要するに私は、このバスの始点から終点までつきあったのである。乗り継いだバスは、あっという間に海雲台にもどり、私は鉄道駅前で降りた。既に時計は十時に近く、金海空港でバスに乗ってから二時間半が経っていた。
1997/07/02 

街のスケーター

 六月中旬、ケルン市とボン市を中心に、ドイツのライン地方を訪れる機会があった。ドイツへ渡るのは実に二十三年ぶりだが、前回訪れたのはフランクフルト市周辺だけだったから、ケルン市とボン市を訪れるのは初めてである。
 ドイツの都市は、伝統的な建築物を巧みに保存しながら町並みを作っているところが多い。ケルン市は、第二次世界大戦末期に、徹底的な空爆によって市街が壊滅した。有名な大聖堂だけは空爆の標的から外されていたものの、市街は全くの廃墟同然となった。戦後は、かつての建築物の名残を残しながら再建される街区と、まったくモダンな建物の街区を組み合わせながら新たな建設が進められ、ドイツ都市の戦後復興の好例となった。
 一方、戦後西ドイツの首府となったボン市では、旧市街の南部に連邦政府関連の建物が集まる地域が設定され、建設が進んだ。作曲家ベートーベンの生家が残る旧市街の古い町並みと、住宅地と一体となりながら、連邦機構のオフィスが散在する郊外町並みは、好対照を見せながらそれぞれに強い印象を与える。
 ところで、今回の訪問で、どちらの町でも、特に市街地の中心部で目についたのが、車輪が一直線に並んだ、いわゆる「インライン」のローラースケートを履いた人々である。もちろん、スケートを履いて公園で遊んでいる若者も多い。しかし、驚かされたのは、普通の街路で、歩行者の間をすり抜けながら、スイスイと駆けていくスケーターたちであった。
 インラインスケートを履いているのは、もちろん若者が圧倒的に多い。しかし、全てが若者というわけでもなく、退職者然とした白髪の紳士が悠々と駅の構内を滑っているのに出くわしたりもした。書店で隣の人がやけに背が高いとおもったら、実はスケーターだったということもあったし、何軒かの店に、わざわざ「ローラースケート履き禁止」の表示があったのは、逆にそれだけスケートが定着している証であろう。
 もともとドイツでは、環境問題への意識が高く、移動手段としての自転車が重要視され、自転車で移動しやすい交通環境が整えられてきた。ちょっとした街路の歩道には、自転車専用のレーンが確保されているし、子ども料金相当額を払えば、自転車を自由に列車に乗せることができる。自転車を持ち込んで列車に乗るのは当たり前で、駅の通路からプラットホームへ上がる階段には、自転車用のスロープがついているし、ほぼ自転車専用といってよい、座席がなく、自転車などを吊り下げることのできるフック付きの車両が列車に連結されていることも多い。
 インライン・スケートも、遊びやファッションというだけでなく、自転車に準じたエコロジー指向の移動手段として積極的に評価しようという底流があって、普及が進行したという側面がある。リュックサックにスニーカーを入れたスケーターたちは、適当に靴をはきかえながら、街を縦横に駆け抜け、また、歩き回る。普通の靴よりも十センチ近く高い、スケートを履いた視点で、歩行者よりも少々素早く移動していくとき、若者たちはほんの少しだけ先取りをした未来を眺めているのかもしれない。

1997/09/09 

君は「渋さ」を見たか

 先月のある日、「渋さ知らズ」という、知る人ぞ知るビッグ・バンド(?)のライブに出かけた。生で見るのは初めてだが、ライブCDから察するにかなり風変わりなパフォーマンスが展開されるらしい。場所は、上土の駐車場、つまり開明座の跡地だ。ここにやや小ぶりのテント芝居風のテントが立ち、会場になっていた。
 開演時間の直前に会場前に着いたが、まだ開場していない。会場の前では、既に何かが始まっているのか、ただの即席の座興か、曖昧なまま、異様な姿のダンサーたちが歌い、踊っている。このバンドのライブに、踊りや演劇的な演出が組み込まれていることは知っていたが、実物に接してみると本当に奇妙な雰囲気である。
 やがて開演時刻がきた。不意にテントの上に全身白塗りの半裸のダンサーたちが現れ、雄叫びを上げ、爆竹を鳴らし始めた。そのうちの一人が朗々と口上を語る。すると、これまた奇妙な衣装に身を包んだバンドのメンバーが、ゆったりした曲を演奏しながらテントの脇から現れ、会場前の歩道にあふれんばかりの客の間を一列になって練り歩き、ひとしきり演奏して、再びテントの裏へ消えていった。開演時間まで開場しなかったのは、この場外パフォーマンスのためだったらしい。
 会場に入ると、大道具でステージを隠した状態で、笑いを誘う歌が一曲披露された後、ステージが露にされ、彼らの本領であるインストゥルメンタルの演奏が始まった。ジャズを聴く読者なら、「フリージャズを通過し、ノイズをかすめて、ラテンやスカのリズムに行き着いた音」とでも説明すればイメージが湧くかもしれない。
 ステージ上には二十数名のミュージシャンがひしめいている。こんなに混んだステージは、小学校の学芸会でもめったにない。十人ほどのホーンセクション、四人がかりのパーカッションと、迫力は十二分である。
 この夜のライブがどんなに素晴らしかったか、ここでは言葉を費やさない。音だけでも刺激的な演奏が繰り広げられるステージの前では、ダンサーたちによる踊りや、寸劇風のパフォーマンスが、これまた挑発的に展開される。ステージと客席の境はなく、駐車場のアスファルトに干し草を敷き詰めた会場に座っていた観衆は、ダンサーに踏まれ、蹴飛ばされながら、音の洪水に身を任せていた。
 途中には、ほどよくフォーク調の歌が挟まれていたり、後半にはバンドリーダーが儀式のグル然とした仕草でテント内を一回りしたりと、全体の内容は、おもちゃ箱をひっくり返したように楽しく、雑然としているようでいて、巧みに構成されていた。最後には、テント全体が踊りの渦となり、三時間ほどのライブは終わった。
 「渋さ知らズ」のライブは、単なるジャズの演奏でもなく、難解な前衛演劇・舞踏でもなく、驚きと笑いのうちに何かを感じさせてくれた。このパフォーマンスが、邦画の映画館であり、大衆演劇の芝居小屋でもあった開明座の跡地で行われたことも、何か縁のようなものを感じさせた。
 終演後、テントでは出演者と居残った観客とで夜半まで宴が続いたらしい。翌日の昼、上土を通りかかると、テントは骨組だけとなり、撤収作業が進んでいた。そのまた翌日には、駐車場が平常通りに営業していた。

1997/09/25 

「町営メディア」は誰のものか

 ほとんど報道されていないが、先月、兵庫県淡路島の五色町で、ある意味では私たちにとっても身近な、気になる事件が起こった。
 五色町には、淡路五色ケーブルテレビ(ACT)という町営CATVがある。いわゆる農村型の施設で、朝日村や山形村の村営CATVと同じようなものである。ACTは町内の九割以上、三千世帯余りを結び、再送信のほか、自主放送やCS放送を行っている。
 ACTでは、料金を支払えば文字放送で広告が出せる。CATVの自主放送は地域に密着しており、同一内容が繰り返し放送されるので、町民の接触率は高い。町民に何かを知らせるには、この広告は絶好の方法となる。
 さて、五色町は自然に恵まれた町だが、他方では島外からの建設残土の受け入れもしている。ところが、最近こうした建設残土から有害物質が検出され、地域で「黒い土」問題がにわかに関心を集めはじめた。そうした状況の中で、町民で大学教授のY氏を中心に、この問題を取り上げたフォーラムが、専門家や町長も参加して開催されることになった。
 このフォーラムの広告が、先月下旬、ACTに申し込まれた。担当者はこの広告を受け付け、その日の午後五時ころから文字放送で流しはじめた。ところが、その直後に、町長が広告の放送中止を命じたのである。ACTの担当者はYさんに連絡した上で、午後六時ころにはこの広告の放送を中止した。
 報道によると、町長は「黒い土の問題はマスコミが勝手に騒いでいるだけ。『残土が悪い』とする、一方だけの立場の催しを町のテレビで流すことは町長として出来ない」とのべ、ACTの広告取扱要綱にある「品位を損なわないよう一般社会常識にのっとり、町民サイドに立って放送の可否を決定する」という広告基準に照らし、このフォーラムの広告が「不適当と町長が認めるもの」に該当するとしているという。
 こういうのは「公官混同」とでも言うのだろうか。町営CATVは、単なる行政広報の手段ではない。「官」である町役場が管理はしても、その内容は住民一般のためにあるはずだ。意見が分かれる問題、多くの住民に関わりのある問題こそ、「公」の場で意見が交わされ、正しい道が模索されるべきである。「官」が批判される可能性があるからといって、情報の流れを遮断するという発想は、余りに短絡的だ。言論の封じ、臭いものに蓋をする姿勢は、行政の驕りの現れである。
 本来「官」は「公」の僕(しもべ)のはずだが、実際には独自の行動原理で行政を進める面がある。「私」の利害を調整し、社会全体の進路を探る場である「公」の空間は、世論であれ議会制度であれ、古い「官」中心の考え方が根強い場所では、どんどん形骸化が進む。誰もが共有できる「公」であるはずの場所や組織が、形骸化して「官」の原理の下に置かれている例は、私たちの回りにも残念ながら少なくない。
 朝日村・山形村のほか、町営CATVチャンネルは波田町にもある。また、テレビ松本やあづみ野テレビも、行政と関わりが深い。「官」による「公」的メディアへの干渉の危険は、決して他人事ではない。私たちは、地域の身近なメディアをしっかりと見つめ、関わり方を真剣に考えているだろうか。五色町の事件は、行政やメディアに身を置く者はもちろん、情報を受け取る私たち一人一人に、そんな反省を突きつけてくる。

1997/10/30 

変わりゆく「同志」

 学園祭のシーズンである。私の勤める大学でも学園祭がある。少し前から、キャンパスには、イベントを宣伝する大きな立看板や前売りチケット販売のテントが目立つようになった。
 そうした立看板の一つに、イベントに出演する若手のお笑い芸人たちの写真と名前をたくさん並べたものがあった。こうした人たちの芸名は、奇をてらったものが多く、言葉遊びとして見ていても楽しいものだが、その中に「男同志」という名のコンビがいて思わず立ち止まった。この二人組はテレビで見かけたこともあり、名前には聞き覚えがあったのだが、それまでは字面を意識していなかったので、ちょっと意外な発見をした気になったのである。
 本来「同士」と書くべきところで「同志」と書いてしまうのは、明らかに誤りだが、学生のレポートなどでもしばしば出くわす定番の誤字でもある。「同士」と「同志」は、発音が同じで、文法的にも共通性があり、ワープロでも誤変換のまま残されことがよくある。私はレポートや答案の誤字脱字にはうるさいので、以前からこの誤用の「同志」を見るたびに減点の赤ペンをふるってきた。
 ところが、最近、テレビ・ドラマのタイトルなどで、同じような「同志」が堂々と用いられているのを目にするようになってきたのである。もちろん、作品のタイトルなどでは言葉遊びが普通に行われているから、これで誤用だった「同志」が正しい表記になるわけではない。しかし、言葉は生き物であり、時代とともに刻々と変化するものである。少なくとも若者の間では、この「同志」は単なる誤用ではなく、「志」という漢字の意味を活かした、新しい用法となっているのかもしれない。
 学生運動が華やかだった三十年ほど前までは、「同志」には左翼的な響きがまとわりついていた。社会主義圏からの国際放送や、左翼運動の活動家の発言の中で、人名につける敬称として用いられていた「同志」は、まだ子供だった私には、異様とも、新鮮とも感じられた。九十年代はじめの社会主義圏の崩壊までは、そうした色合いが残っていたように思う。かつての、「志を同じくする仲間」という意味での「同志」は、その「志」が政治的なものであることを前提としていた。その意味では、明治維新の「志士」の語感とも通じていたのである。
 しかし、政治的な意味での「志」が人々の間で希薄になっていくにつれて「同志」は本来の意味ではあまり使われなくなった。学生運動や高度経済成長はもちろん、第二次石油危機さえ知らない「子どもたち」である現在の大学生が、従来の語感にとらわれず、「同じ意志」なり「同じ気持ち」の共有し、共感する関係を捉えた言葉として「同志」を再発見したのだとすれば、これを誤用として単純に排除するわけにもいかないだろう。
 もちろん、「大国同志の対立」や「当事者同志の話し合い」は依然として誤用である。しかし、「二人は恋人同志」には、訂正の赤ペンをふるうことがためらわれる気もするのである。

1997/12/05 

学校図書館のために(上)

 先日(十六日付)の本紙で、「学校図書費大幅増額へ」という記事が大きく取り上げられていた。松本市の教育委員会が五カ年をかけて市内小中学校の図書費を増額し、学校図書の充実を図ろうと検討している、というのである。直接のきっかけは、市内各校の蔵書数が、文部省の示す基準を大きく下回っているという、学校図書室の現状にあるようだ。
 たいていの人は、図書室にまつわる思い出を一つや二つはもっている。私にとって小学校の図書室は、本を見つける喜びを覚えた懐かしい空間である。今の子どもにとっても、図書室は、本に親しみ読書する習慣を作る大切な場所である。これを教師の側から言い直せば、図書室は、重要な教育の現場だ、ということになる。
 初等教育における読書指導は、作文指導とも結びついて国語教育の中で大切な位置を占めている。自分の判断で本を選んで、読み通し、自分の感想を、自分の言葉で作文に表現するという一連の作業は、生徒一人一人の主体性や感性を育て、個性を引き出す契機となる。好きな本、何度も読み返す本との出会いは、子どもにとって一生の宝となる。
 図書館が大切なのは国語ばかりではない。新顔の科目である小学校の生活科をはじめ、最近の各教科は、先生が知識を一方的に教えるばかりでなく、生徒が自分で調べる面が少しづつ強くなってきている。調べものをするために図書室に求められる機能も、徐々に多様化してきている。
 ところが、残念なことに、大方の学校図書館は、こうした教育上の要請に充分応えられる体制にはなっていない。この文を綴るに当たって、松本市の小中学校を見回ったわけではないし、松本市の具体的な統計を確認してもいないので、これはあくまでも一般論であるが、一部のモデル校などは別として、公立小中学校の図書室の大半は、きわめて貧弱な状態にあると言わざるを得ないのである。
 この背景には、過去に遡る様々な問題がある。例えば、小中学校の図書室には、本来ならば、司書や司書教諭といった本の専門家としての資格のある教職員が配置されるべきであるのに、現実にそうした担当者がきちんと配置された学校は、ごく少数しかない。過去のいきさつには踏み込まないが、日本の公教育の中で、学校図書館が長年にわたって優先順位の低い位置に放置されてきたことは、もっと広く認識されるべきであろう。
 図書関係の予算が冷遇されるのも、一般教員と図書室の連携が不充分な例がしばしば見受けられるのも、長年の矛盾の蓄積の結果なのである。その結果、学校図書室は、往々にして、おとなしい生徒のたまり場、古い本の置き場、という以上の機能を発揮できなくなっているのである。
  [この項つづく]

1997/12/06 

学校図書館のために(下)

 [前回からつづく]  学校図書室の活性化のためには、図書の購入予算だけを積み増しても効果はない。出版動向を熟知し、様々な分野で良書を選書できる人がいなければ、予算は活用されない。
 しかるべく本が選択され、予算を使って本が購入できても、それだけでは、図書室の本として使えるわけではない。カードを作り、カバーを整え、ラベルを貼り、手作業できちんと受入処理をして整理しなければ、本は管理はおろか、配架(書棚に並べること)さえできない。極端な話、いくら図書購入費を増やしても、それを処理する人手と人件費が応分になければ、現場には過剰な負担がかかるだけである。
 図書室に生徒たちを引きつけるためには、蔵書の充実以外にも整備すべき側面が多々ある。落ちつける雰囲気の調度や内装といったハードの面でも、生徒たちに理解しやすい配架方法の工夫といったソフトの面でも、改善すべき点は多い。漫画や、ビデオ・ソフト等の扱い、情報検索のためのコンピュータ端末の整備なども、きちんとした方針を立てて取り組むことが必要になってくるだろう。
 学校の図書室の設備を充実することももちろん大切だが、それと同時に、もっと視野を広げて、近隣の学校の図書室や、他の公共図書館などとの連携も考えられてよいだろう。松本市は、充実した公共図書館のシステムをもっている。単に中央図書館が立派だということではなく、市内の分館・公民館や、周辺町村との連携を含めたシステムという点で、松本市は同規模の他都市に比べて優れた図書館のシステムを作ってきたのである。その経験を活かして、学校の図書室と公共図書館の情報のやりとり、図書のやりとりを、活性化させていく方策が積極的に考えられてよいはずである。
 しかし、何にも増して大切なことは、現場の教職員一人一人の意識である。先生が、図書室の活用を視野に入れた形で指導を展開すれば、生徒たちは図書館に足を運び、主体的に本に接するすべを身につけていく。また、教師が図書室に関心を寄せてリクエストやアドバイスをすれば、図書室の中身は段々と磨かれていく。
 情報化がこれだけ進展している現代においては、情報を検索し、取捨選択を判断する力がいよいよ重要になってくる。小中学校の図書室は、そうした力を身につけるトレーニングを始められる大切な空間として、その意義が再評価されなければならない。
 先日の記事も、「蔵書数だけ増やしてつじつま合わせをするのではなく、子どもたちに本の楽しさを知ってもらえるような図書室にしたい」という市教委のコメントで締めくくられていた。そのためには多面的な視点から学校図書室のあり方を再検討していくことが必要だろう。関係者には、一層の努力と工夫をお願いしたい。

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