コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2017

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2017/04/12 読めるが、書けない言葉.
2017/05/28 「愛書家」のため息.
2017/08/23 「警報」への違和感(上).
2017/08/24 「警報」への違和感(下).
2017/09/19 校庭の芝生化.
2017/10/25 下条氏と務台氏.


2017/04/12 

読めるが、書けない言葉


 大阪の森友学園の話題が世間を騒がせ始めて随分と経った。一連の報道の中では、「そんたく」とか「しんしゃく」とか、日常的にはあまり使わない、小難しい言葉が頻繁に使われている。
 もっともらしく響く難しい漢語を使いたがる人は、官僚や政治家だけでなく、学者の中にもいる。私も、学生から言葉遣いが難しいと文句を言われることがあるので、他人様のことが言えた義理ではないのだが、正直、こうした<なんとか読めるが、自信をもって漢字が書けない言葉>が話し言葉の中で多用されると、聞いていて少々「いらだ」ちを覚える。
 <読めるが、書けない言葉>は、漢字自体が難しい場合もある。「ゆううつ」とか、花の「ばら」とか、誰でも知っているのに難しい漢字をすらすら書けると、少しばかり周りの尊敬や「せんぼう」を集められそうだ。十代の頃は、そんな不純な動機でこうした言葉を書く練習したこともあった。大人になってからは、様々な場面で小難しい言葉に触れる機会が増えたが、しばしば書面で見ていても、「りんぎしょ」などは、「とっさ」に書けと言われるとまごつくしかない。「しそうのうろう」や「ちみもうりょう」も読むのは簡単だが、画数が多い漢字ばかりで、正しい字形で手書きできるかは心もとない。画数が少なくても「いっきかせい」は一気には書けず、途中で「ちゅうちょ」してしまう。
 他方では、使われている漢字自体はさして難しいわけでもないのに、なかなか漢字が思い出せない、思い付かないという言葉もある。例えば、「はれんち」、「ひょうきん」、「すっとんきょう」などは、平仮名や片仮名で頭に入っているという人が多いのではないだろうか。
 そんな言葉でも、今ではパソコンや携帯電話で簡単に漢字に変換できる。忘れていても、すぐ確認できるから、漢字を手書きする時も、大した問題にはならないはずだ。それでも、同音異義語の取り違えや、ちょっとした入力ミスの「けねん」は残る。
 やはり、最後は漢字へのきちんとした理解が必要になる。教員である以上、板書や原稿でつまらない漢字の間違いをして、信用を損なう訳にはいかない。言葉に「ほんろう」されながら、「じくじ」たる思いを抱え、「あくせく」この仕事を続ける 我が身を思うと、つくづく「せちがら」いものだ。
*鍵括弧の言葉が20あります。漢字の書き取りに挑戦してみてください。


2017/05/28 

「愛書家」のため息


 久々に丸一日、蔵書の大半を置いている安曇野の家で、ずっと本の整理をしていた。大きな書棚の上に小さな書箱を積み上げ、かつて継続的に購入して活用していた年鑑類などを、手の届かない高い位置に移した。
 インターネットの時代になって、こうした年鑑類を参照する機会はめっきり少なくなった。やっと空けた一等地の棚には、未整理の本がすぐに積み上がった。
 大学教員という職業柄、本を読む機会は人並み以上に多い。もちろん、図書館などで借りて済ませる本もあれば、手元に置きたい本もある。
 研究や教育に直接関係する本や、その周辺の事情を学ぶための本もあれば、気晴らしに読んできた本も相当な量になる。書架で背表紙を見るだけで、それを読んだ頃の思いが呼び起こされる本も少なくない。
 しかし、「読書家」を自称するのは少々気が引ける。実は、蔵書の大部分は、まだ読んでいない本なのだ。
 自腹で買って、いつかは読もうと思いながら、機会を失したままの本もある。また、著者から贈られた本だけでもかなりの数があり、未だに単著がない身としてはただただ肩身が狭い。その上、知人がまとまった蔵書を処分すると聞くと、本が可哀想になって丸ごと引き取るという悪い癖もある。これはもう病的なホーディング(溜め込み症候群)の域である。
 先輩の先生方から頂戴した読めるはずもない外国語の本や難解な専門書、亡くなった身内の形見にもらった趣味や信仰の古い本も、今後自分が読むとはとても思えない。それでも本を抱え、並べ、弄っている。
 自分では、「読書家」ではなく、本を眺め、ページをめくるだけで楽しい「愛書家」なのだと諦めているが、結果的に大量の本が棚から溢れ、床に積み上がり、時折雪崩を起こす。家人の評判も、すこぶる悪い。
 ほとんど手にとらないまま十数年経っているような本でも、処分する決断はなかなかできない。どこの図書館でも借りられる本、もはやインターネットで自由に閲覧できる文献さえ手放せない自分の不合理さに、深いため息をつく。
 そして、作業の合間に時折ページをめくって拾い読みをし、ひとしきり時間を忘れる。きちんと通読しなければ、まともな読書とは言えないことは重々承知しているが、これも「愛書家」にとっては、本が与えてくれる至福の悦びなのである。


2017/08/23 

「警報」への違和感(上)


 8月6日の夜、台風5号がそのまま進めば信州を直撃するかとも思われる中、東京へ移動するため車のハンドルを握った。このところ長距離運転の車中では、各地のコミュニティ放送を聞いている。自宅から東京へと向かう場合なら、あづみ野FM、FMまつもと、エルシーブイFM、FM八ヶ岳と順番に聞いていく。特に、高速道に乗らず、もっぱら一般道で進む場合、塩尻峠から、甲信国境を越えてしばらくするまでの結構長い区間でエルシーブイFMを聞くことになる。
 出発前、穂高の自宅付近では、断続的ながら激しい雨があった。出発時点のあづみ野FMは、「安曇野市に大雨警報」と臨時のアナウンスを入れていたが、FMまつもとを聞いていた間は特に告知もなく、塩尻峠にかかるころにはすっかり雨も上がり、峠道も全く路面が濡れていない状態だった。正直ホッとし、峠を登りきってエルシーブイFMに切り替えた。
 すると、時折、通常の放送に割り込んで、「塩尻市に大雨警報」、「岡谷市の大雨警報」とか、同様に「土砂災害警戒情報」が出ているという告知が流れるようになった。まさに塩尻から岡谷にかけて、雨が降った形跡もない道路を走って来ていたので、この告知には一瞬耳を疑った。しかし、その後も同様の告知が繰り返されたので、聞き違いではない。台風が接近中という情報はあれ、この「警報」には、率直に違和感を覚えた。そして、運転しながら、しばし思いを巡らせた。
 コミュニティ放送は、災害情報の提供を大きな使命の一つとしている。特に2010年の放送法大改正以降、その重要性がいよいよ強調されてきた。一般的に災害の予報情報は、予報情報を出さないまま災害が発生してしまうより、情報を出して外れる方が好ましいとされている。「大雨が来る」と言っていたのに来ないのは、何も言っていなかったところで大雨が来るよりはマシなのだ。しかし、だからといって「狼が来た」と言い続けてよい訳ではないだろう。
 私が違和感を覚えたのは、単に雨が降ってもいないの「大雨警報」なり「土砂災害警戒情報」が出たことに対してではない。訝しく思ったのは、コミュニティ放送局による警報の告知がありながら、それ以上のフォローがなかったことに対してである。


2017/08/24 

「警報」への違和感(下)


 6日の夜、塩尻峠から白州あたりまで、国道19号を走り続けた1時間ほどの間に、エルシーブイFMからは、警報の告知は何回もあったが、それ以上の詳しい情報はいっさい流れてこなかった。もちろん、たまたま私が聞いていたタイミングが悪かっただけのことかもしれないし、ここで特定の放送局を批判したいわけではない。ここで、すべてのコミュニティ放送局の関係者の方々に考えていただきたいのは、単純に役所が発表した情報を流すだけでは、その重要性なり、具体的な意味を、地域の聴取者に適切に伝えることは難しいという重い現実である。
 例えば、「○○市に△△警報が発令されました」とだけ放送しても、平成の大合併で広域化した市域のどこが具体的に危ういのか、市の全域で全面的に危ういのかは、全くわからない。確かに「警報」等の発令は市町村単位で行われるが、それを伝えるだけで一般市民がその意図するところを正確に汲みとれるとは到底思えない。
 また、放送を聞いて危うさを認識した市民が避難しようとしても、行政が既に避難所を開設しているのか否かも、放送からは解らない。避難したい人は、役所への電話なり、インターネットで開設状況を確認してくれとでも言いたいのだろうか。災害情報の告知について最も重い責任をもつNHKは、原則として県単位までしか情報を細分化できない。提供する情報は、長野県であれば全県で一緒である。市町村単位で地域的な情報を周知徹底できるのは、放送媒体ではケーブルテレビとコミュニティ放送である。
 今回、たまたまコミュニティ放送を聞いていて感じた違和感は、あるいは私の過剰な「無い物ねだり」なのかもしれない。しかし、単に「○○市に△△警報が発令されました」とだけ放送するよりも、それを踏まえてどう行動すべきなのか、簡単なフォローがあるだけでも、聞き手の印象なり、認識は大きく違ったものになっていたはずだ。
 防災は、平時からの取り組みが重要である。本当に厳しい激甚災害が発生する前に、放送関係者や、関係する行政等の担当者をはじめ、地域の一般の人々の努力で、具体的に改善できることは色々あるのではないか。


2017/09/19 

校庭の芝生化


 先日の紙面に、アルウィンの芝生を、松本市内の小学校などで再利用するという話題が紹介されていた。Jリーグの競技場では、ピッチの芝の状態を良好に保つため、天然芝はもちろん、人工芝であっても、頻繁な張替えが必要になる。アルウィンのように天然芝で施設を維持するとなれば、大量の傷んだ芝生が発生する。「傷んだ」とはいえ、まだまだ別の用途では使用できるものが大量の産業廃棄物となるわけで、その再利用は歓迎すべきことだ。
 一方、小学校などの校庭の芝生化は、実はここ十余年の間に徐々に広がっており、文部科学省も補助制度を設けるなど後押しをしている。私自身が小学生だった半世紀前はもちろん、今は成人している子どもたちが小学生だった四半世紀前にも、小学校には花壇や植え込みの芝生はあっても、校庭は土むき出しのグラウンドが当たり前だった。今でも状況は大して変わっていないが、それが近年変わり始めている。
 気候条件などの事情の違いもあるが、サッカーが生まれた英国では、広い公園の中で、芝生ではないような草っ原に草刈機を走らせてラインを引き、文字通りの草サッカーや草ラグビーをしているところがたくさんある。中には、朝日村のレタス畑のような、水平な平坦地とは言えそうもないところで平気で球技に興じている連中もいる。
 野球が生まれた米国でも、外野には当然のように芝がある。本来なら、芝なり、草を刈り込んだフィールドで競う競技を、日本では長らく土むき出しのグラウンドでやってきた。例外は、ゴルフくらいだろうか。日本では、維持の経費負担が軽い土むき出しのグラウンドで実施可能な競技が、学校教育の現場に浸透し、裾野を広げてきた歴史がある。英米とは条件が違う日本では、芝生化の取組は良いことづくめではなく、維持管理の負担は相当に重い。
 ネット上には、芝生化の効用を認めた上で、「教師、生徒、PTAに維持作業をやらせる様な発想なら導入すべきではない」とする声もあった。この際、松本市には、他の自治体の模範となるような維持管理の工夫を生み出してほしい。さもなければ、放置され、雑草の楽園と化した校庭を愛でる覚悟が必要になるかもしれない。


2017/10/25 

下条氏と務台氏


 総選挙が与党の大勝で終わった。これで、東京オリンピックまで安倍政権は安泰だろうし、首相の悲願である憲法改正も、現実味が一層高まることだろう。
 小選挙区と比例代表を併用し、重複立候補が認められている現行の制度では、各党の候補の得票が拮抗するほど、結果としてその選挙区から複数の議員を国会に送れる可能性が高まる。今回の総選挙の長野2区では、小選挙区で下条みつ氏に敗れた務台俊介氏が、比例北陸信越ブロックの代表として復活当選した。前回2014年の第47回総選挙では、務台氏に敗れた下条氏も、また、第46回総選挙では復活当選していた百瀬智之氏も、いずれも復活当選とはならず、2区から出た代議士は務台氏一人となっていた。3年ぶりに「地元の代議士」が2人という形が戻る。
 同年齢である下条氏と務台氏の対決は、2009年の第45回総選挙から始まり、今回が4回目だった。これで互いに小選挙区では2勝2敗とタイになったわけだが、実はこれまでの3回は敗れた方が比例復活しなかったので、両者が同時に代議士として活動するのは初めてのこととなる。
 下条氏の2区での勝利については、おんぶ、長靴の務台氏の敵失に助けられた側面もあるという見方がある。しかし、務台氏が前回から減らした票は8千票あまりに過ぎない。もし務台氏が失態以前と同水準の票を得ていたとしても、今回の下条氏には及んでいなかった。
 当時の民主党に風が吹いた2009年の総選挙では、16万近い票をとったこともある下条氏だが、ここ2回は6万票台の得票で務台氏に敗れていた。今回は8万票弱へと上積みし、辛勝ながら小選挙区当選を果たした。それも、民主党〜民進党の頃から支持層の一部となっていたリベラル票が、社民党の中川博司氏へ流れたり、政策的には立ち位置が近い日本維新の会の手塚大輔氏と競う中での勝利である。浪人中に、こまめに地域を回る取り組みを重ねた成果が票の上積みとなり、下条氏を押し上げたのだとすれば、これからは代議士として、これまで耳にしてきた地域の声をしっかりと国会に届けてほしいものだ。
 小選挙区で惜敗した務台氏も、今回は比例復活を遂げた。どんな形であれ、当選して代議士となれば、国会活動においては対等だ。今後は、両者の見解を並べて比較するような機会が、報道の中でも増えそうだ。地元の代議士の言葉が、国政を一層身近にしていくことを期待したい。



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