コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2009

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2009/01/12 薪ストーブに貼り付いて.
2009/02/20 「常識」は変わるものだが.
2009/03/24 「トゥクトゥク」で行きますか?
2009/06/03 「時効」はなぜあるのか.
2009/07/17 「海の日」あれこれ.
2009/09/28 地方から提言すべき高速道路の社会実験.
2009/10/15 垣間見た企業体質.
2009/12/03 「いかがでしょうか」考.


2009/01/12 

薪ストーブに貼り付いて


 新年を迎え、寒さもひとしおだ。これから二月にかけて、東京にいる時は、信州の留守宅の水回りが気にかかる。さりとて、その寒さを思うと戻るのが憂鬱にもなる。以前、家を三日空けただけで水道が凍結したことがあった。電熱も入れていたが、台所の室内気温が氷点下に達するほど寒く、屋内配管の一部が凍結したようで、帰宅して水を出すまでが一苦労だった。
 自宅では、暖房器具をいろいろ使うが、省エネを意識して、できるだけ使いすぎないよう心がけてもいる。この時期には屋内でも、厚手のシャツや、薄めのウィンドブレーカーなど、ちょうど春や秋に外出するくらいの防寒着を着ていることが多い。
 わが家の一番奥にある寝室は、北向きの大きな窓があって暖房効率は悪い。寝る少し前から電気カーペットで布団を温めるが、冬場はこの部屋には長居しない。石油ファンヒーターも置いてあるが、時折使う程度だ。一番広い南向きの居間には、大型の石油ストーブも用意しているが、ほとんど使わず、熱源は薪ストーブに頼っている。この居間は、およそ十五坪分と広すぎ、天井はなく、しかも屋根の裏板までが高いので、暖房効率はすこぶる悪い。建物の居住部分全体の半分以上がこの大きな居間なのだが、ここでも部屋全体を暖めることは断念し、薪ストーブの近くに貼り付くようにして、暖をとっている。
 ちなみに、寝室と居間をつなぐ書斎には、暖房器具はなく、冬場は単なる通路兼書庫となっている。夏場なら、書斎でインターネットやテレビを楽しむが、冬場にはすべて居間の薪ストーブの前に移動する。ストーブ上では、湯を沸かすのはもちろん、スープ類や鍋物も調理し、時にはそのまま食べる。広い居間を、ずいぶんと狭く使うものである。
 薪ストーブで焚く薪は、いろいろなものを使ってきた。中でも特に印象に残っているのは、数年前、知り合いを介して農家から頂いた矮化リンゴの古木である。植え替えで切り倒した古木、といっても矮化なので直径十センチメートル程度のものを、まとめて頂戴したのだが、これを焚くと、ほのかなリンゴの香りがしたものだ。
 今シーズンは、隣家の新築時に頂いた建築廃材(端材の類)を薪にしている。建築用材はよく乾燥しているので燃やしやすく、小ぶりに切りやすいという利点がある。長めの角材も合板の切れ端も、鋸で切って惜しみなく焚いている。薪ストーブは、化石燃料を使わないので二酸化炭素の排出量を実質的に増やさない。薪はほとんどが頂き物で、燃料代も気にならない。わが家の暖房器具の中で、薪ストーブは一番の働き者である。


2009/02/20 

「常識」は変わるものだが


 ほとんどの大学は、一月下旬から二月初めで期末試験が終わる。学生はそこで羽根を伸ばせるが、教員はそこから採点に追われ、さらに入試業務が続く。学生には休みでも、教員も休みとは限らないのが大学の長期休みだ。
 東京経済大学の場合、教員からの成績報告の締切は二月初めだ。今年はレポート提出の締切に少しだけ遅れた者への対応などがあり、成績報告も少々遅れた。いろいろあったが、それでも何とか無事に成績報告を終えた。
 ところが、成績報告を終え、入試業務も一区切りとなった二月中旬のある日、ある科目の最終レポートがメールで送られてきた。メールでの送信は指示通りだが、このレポートの締切は一月下旬だった。
 既に、成績は報告済み。仕方がないので、レポートは大幅に締切を過ぎており、成績に反映できない、と説明する返信を送った。教員の成績報告の締切が二月初めであることは授業中にも説明していた。しかし、こうしたメールが来るという事は、この学生はまだ間に合うかもしれないと思ったのだろう。
 最近、関西のある短大でこんな事があった。メールで質問を送ってきた学生に、教員が返信し、電話で質問し直すように指示した。メールを見た学生は、深夜〇時過ぎに電話をかけた。教員は「こんな時間にかけるとは何だ」と激しく叱責し、その二日後に学生が謝罪しようとかけた電話にも応答しなかった。学生が当局に事情を訴えたことから、教員は、アカデミック・ハラスメント、つまり、教員としての地位を利用して学生に嫌がらせをした、として譴責処分になった。
 処分に先だって、この教員は、電話で質問するよう指示した際に、時間などを指定していなかったことが「不用意なメールで、不注意だった」と認めたそうである。正直なところ、この教員には同情を禁じえない。自分の経験に当てはめれば、アカデミック・ハラスメントと指弾されないためには、「締切を一週間以上過ぎたレポートは成績に反映しません」などと、屋上屋を成す告知をしなければいけないことになる。
 おそらくその学生は、深夜〇時過ぎの電話について、この教員や私の世代とは異なる「常識」があるのだろう。「常識」は世代によって異なり、時代によって変化していくものだ。しかし、既に年輩者の側になっている身としては、その速度があまり速くあってほしくはないというのが、正直なところである。


2009/03/24 

「トゥクトゥク」で行きますか?


 三月半ば、初めてタイのバンコクを訪れた。「交通渋滞はバンコク名物」とガイドさんが言っていたが、道路の喧噪は、騒音や臭気だけでなく、視覚的にも印象的だった。
 まず目に入ったのは、空港からの高規格道路を疾走し、市内の渋滞を埋める、赤やピンクのモノトーン、緑と黄色のツートンカラーなど、色鮮やかなタクシーだ。「タクシー・メーター」と記したランプを屋根に載せ、初乗りは三十五バーツ、つまり日本円で百円くらい。他の公共交通機関の運賃に比べてもさほど高価ではなく、気楽に乗れる。
 バンコクにはもう一つ「タクシー」と記したランプを載せている名物がある。「トゥクトゥク」という、昔のオート三輪のような、自転車で人力車を曵く形から発達した乗り物だ。もちろん現代の「トゥクトゥク」は、バイクを改造したもので、車体の後部には「タイランド」と誇らし気に記されていることが多い。
 「トゥクトゥク」は「タクシー」の一種だが、料金メーターはない。行き先を告げ、値段を交渉し、納得すれば乗り込む。ガイドブック類には、「トゥクトゥク」は観光客には料金を吹っかけることが多いので、「タクシー・メーター」に乗って適正料金を知ってから乗るべし、と書いてある。
 とはいえ、せっかくバンコクまで来たのだから、この名物に乗ってみたいと思うのは人情だ。そこで、観光名所のカオサン通りから、宿の近くまで「トゥクトゥク」に挑戦してみることにした。近くにいた一台に行き先を告げると、「百バーツ」という。とりあえず「五十バーツ?」と言ってみると、結局八十バーツになった。
 「トゥクトゥク」には天蓋はあるが、扉はなく、窓もフロントだけで、あとは天蓋を支える鉄枠だけの吹きさらしだ。連れと二人で後部座席に乗り込むと、低い天井に頭が当たりそうだ。自然に体を寝かせ気味にし、頭を車体の外に出して、鉄枠をしっかり握る格好になる。もちろん安全ベルトはない。エンジンの騒音と振動、剥き出しの体に感じる生暖かい風、排気臭などが、直接五感に伝わってくる。車の隙間を縫いながら進むときの加速度にも驚かされた。走行中は、運転手と話すのも難しい。
 市内観光の初日、いきなりの「トゥクトゥク」体験に、かなり興奮し、また体を硬直させて緊張したまま、何とか宿までたどり着いて下車したときには、正直ほっとした。乗る前には、昔懐かしいオート三輪で、のんびり市街地見物などとイメージしていたが、そんな思いは微塵に打ち砕かれた。確かに面白かったし、バンコクに行くなら、話の種に乗ってみるべきだろうが、安全性を気にすれば、生きた心地がしない乗り物でもある。
 結局、滞在中の移動は「タクシー・メーター」に頼った。冷房が効いていて、運転手と話もできる。後日、同じルートを「タクシー・メーター」に乗ったら、料金はメーター表示が六十五バーツ、チップ込みで七十バーツであった。

 今回の旅行の記憶を、日記に準じた体裁で、まとめたものを公開しています。バンコクの記憶 2009年3月15日-18日


2009/06/03 

「時効」はなぜあるのか


 このところ、殺人事件の時効の廃止を求める声が強くなっている。凶悪事件への処罰感情の高まりや、裁判員制度の導入などとも絡みながら、世論は盛り上がりつつある。
 人の命を奪った犯罪者であっても、一定の年月が経てばその責任が追及されない、というのは、確かに納得できないところがある。身内が殺された遺族の立場になれば、時効後に犯人が堂々と社会生活を送れるというのは、許し難い事であろう。
 しかし、そもそも「時効」は何のためにあるのだろう。法律の専門家なら、いろいろ理由を挙げて議論するのだろうが、とりあえず、二点ほど大きな理由があると思う。
 もし犯罪事件に「時効」がなければ、警察には、未解決の重大事件を継続捜査する義務が際限なく課されてしまうことになる。未解決事件に捜査人員を少しずつでも張り付ければ、次々に発生する事案に対処する人員が逼迫し、必然的に、捜査体制全体が脆弱化する。そこで、犯罪捜査に当たる人員を増強すれば、それに伴って今度は警察機構全体が肥大化してゆく。それを支えるのは税金だ。「時効」の撤廃は、一つ間違えれば、行政改革に逆行し、税負担の拡大に繋がる危険性を孕んでいる。
 それでも、人の命に、社会正義に関わる事柄なのだから、金銭で測るのはいかがなものかという向きもあろう。そうした意見もまた、もっともだ。正義が達成され、社会の安寧が担保されるための負担であれば、多くの市民もそれを受け入れることだろう。
 しかし、その先には、さらに厄介な問題がある。「時効」がなくなったり、大幅に延長されると、嫌疑をかけられた被疑者が無実の場合に、その立証が困難になるという点である。DNA鑑定などの発達により、警察の科学捜査力は著しく向上している。何十年も経ってから、科学的根拠から誰かに嫌疑がかかることはあり得る事だ。こうしたとき、被疑者にしっかりとしたアリバイがあれば警察の主張を崩す事は可能だ。
 しかし、数年前ならともかく、何十年も前の特定の日に、どこに、誰と一緒にいたかを事細かに立証し、必要な証言を揃える事は、被疑者にとっては極めて難しくなる。「時効」がなければ、ある日突然、何十年も前の身に覚えがない事で追求され、反証できないという悪夢のような事が起こるおそれがある。
 こうした冤罪への危惧は、時効問題をめぐる報道の中でもあまり説明されていない。自分が被疑者になるという想像力を欠いて議論が進んでいるのだとすれば、それは危ういものではないだろうか。


2009/07/17 

「海の日」あれこれ


 「信濃の国は十州に境連ぬる国にして」と歌われるように、長野県は他県に囲まれた、いわゆる「海なし県」である。「海こそなけれもの沢に万足らわぬ事ぞなき」などと強がってはみても、やはり海への憧れがあるのか、海に面した他県の市町村と姉妹都市になっている市町村が多い。
 その「海なし県」でも「海の日」は祝日である。祝日法によれば「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」のがこの祝日の趣旨であるが、大方の信州人にとっては、単なる休日かもしれない。現在の祝日法では、「海の日」は七月の第三月曜日だが、一九九五年に「海の日」が祝日になったときは七月二十日であった。今年はたまたま二十日が「海の日」になる。
 「海の日」として祝日となる前、七月二十日は「海の記念日」と呼ばれていた。これには明治初期に遡る由来がある。明治初期、若き青年君主であった明治天皇は、自ら積極的に地方に赴き、南の鹿児島から北は北海道まで、大規模な巡幸を繰り返していた。例えば、一八八〇年には、中央道を巡幸して甲府を経て長野県に入り、松本にも足跡を残した。松本市内にも、諏訪や木曽にも、明治天皇の逸話や記念物がいろいろな形で残っている。
 日本各地の中でも、とりわけ東北・北海道の巡幸には、戊辰戦争で新政府に抵抗した地域の人心を慰撫するという大きな意味があり、一八七六年と一八八一年の二回が行われている。七月二十日は、その一回目の一八七六年に、函館まで北上した明治天皇が、灯台巡視船「明治丸」に乗って海路で帰京し、横浜へ無事帰着した日である。
 しかし、この日付が「海の記念日」となったのは、六十五年後の一九四一年、時の逓信大臣兼鉄道大臣・村田省蔵の提唱によるものであった。大阪商船の社長から貴族院議員となった村田は、民間海運部門の戦時体制構築に尽力した人物であった。
 当時は、日露戦争の日本海海戦があった五月二十七日が「海軍記念日」として祝日であった。どうやら村田は、それに並ぶ民間海運の記念日を設けたかったようだ。それまで海路の旅には軍艦を使用していた明治天皇が、一般船舶の船旅を経験したという史実が「海の記念日」にふさわしかったのであろう。軍艦を使わなくても、一般船舶でできることはいろいろあるということだ。
 ちなみに「明治丸」は、その後、改装や修理を経て、現在は重要文化財として東京海洋大学に保存されている。たまたま今年度は、修理のため公開を中止しているようだが、平年は公開日に訪問すれば見学できる。


2009/09/28 

地方から提言すべき高速道路の社会実験


 高速道路無料化をマニフェストに盛り込んだ民主党が総選挙に大勝して、三党連立政権が成立し、高速道路をめぐる議論があちこちで聞かれる。各種の世論調査などでは、民主党のマニフェストに挙げられた公約の中でも、高速道路無料化は余り歓迎されていないようだが、民主党や国交省などは、高速道路の段階的無料化に向けて、社会実験などに取り組むべく動き始めている。
 高速道路の無料化への懸念は、多様な観点からのものがある。無料化は思わぬ渋滞を招くのではないか、炭素排出量が増えるのではないか、重大な交通事故が増えるのではないか、公共交通機関に経営を圧迫するのではないか、税負担の公平を損なうのではないか等々、議論の裾野は広い。
 いずれにせよ、国交省の内部では、何らかの社会実験を積み重ねながら段階的な無料化へ向かう道程をいろいろ具体的に立案している最中であろう。その検討の過程は簡単には公にならないかもしれないが、何らかの方針が公的に提示されるより前に、地方の立場から、県庁などの行政であれ、あるいは民間の立場からであれ、もっと積極的な政策提言がなされるべきではないだろうか。
 現在、実施されている休日のETC割引は、長距離を利用するほど割安になるものであり、車によるレジャーなどを、より長距離に誘導する性格を持っている。結果的には、より多くの燃料消費を促し、炭素排出量増につながるのではないかとも論じられる。一般道路の渋滞を緩和し、結果的に炭素排出量を押さえることにも繋がる可能性があるのは、むしろ短距離利用の促進であろう。
 長野県は、広い県域と山々によって隔てられた諸地域をもち、県庁所在地の位置は北に偏っている。県内の連絡のためには高速道路の役割は大きい。特に、東北信と中南信を連絡するためには、長野道の役割が大きい。岡谷から更埴に至る長野道の区間は、現状で特段の渋滞が頻発するような路線ではない。この区間の無料化は、積極的に社会実験を行う価値があるはずだ。その先には、長野県内の高速道路による移動を、無料化なり、大幅に割引くような方策が考えられてよいはずである。一方で、各地の出先機関等の整理が進み、機能の集中配置が進む傾向にある中で、高速道路網の活用は効果の高い補完策になろう。
 同様の状況を抱えた県は他にもあるだろうが、例えば長野県が、地域の事情を踏まえた具体的提案を、地方から大きな声として上げ、よりオープンな形で国政へ働きかけていくことが、今後は、従来以上に重要になっていくはずだ。


2009/10/15 

垣間見た企業体質


 日本航空グループの経営再建が、いろいろ議論されている。グループ傘下の日本エアコミューターが松本空港からの全面撤退を打ち出しているだけに、私たちの地域にとっても再建問題の行方は他人事ではない。
 一連の報道の中では、日本航空の企業体質への辛辣な批判も多い。そうした報道に接し、学生時代の個人的な経験が思い出された。
 私が大学生だった三十年ほど前、日本航空は学生の就職志望企業ランキングの上位に位置する人気企業だった。当時はまだ、完全民営化の前で、日本の航空会社の中では日本航空だけが国際線を持っていた時期であり、「半官半民」だった日本航空は待遇も良く、経営の将来も明るいと思われていた。
 当時の大学生の就職活動は、今よりのんびりしていた。協定によって、四年生の十月一日が「解禁日」とされ、それまでは企業の人事担当者が学生と接触することは規制されていた。四年生の前半は、業界セミナーに出かけたり、個人的な縁故を頼って志望企業に勤める出身校の先輩に会いに行く「先輩訪問」などが、就職活動のメインだった。
 就職するか、教職を目指して大学院に進むか、迷っていた私は、解禁日前の四年生の前半で、十社ほどの企業に「先輩訪問」をした。その内の一社が、日本航空であった。高校の同窓会名簿を頼りに先輩を見つけ、挨拶状を送って面談の機会を作っていただいた。どんなことを話したか、今となってはほとんど覚えていない。しかし、一通り業務内容の話などを聞いて、最後に質問したことはよく憶えている。
 当時、仲間うちでは、「○○社が志望なら、国会議員の推薦状があった方がいい」などという話が、まことしやかに流れていた。日本航空にも、そういう話があった。そこで、やり取りの最後に、「いろいろ噂を聞くのですが、国会議員の推薦状などは、もらっておいた方がいいのでしょうか?」と、恐る恐る質問してみた。
 先輩は、一呼吸おいてから、「もらえるならあった方がいいでしょう」と答え、実際、自分の職場にも有力者の縁者がいる、と言葉を継いだ。それを聞いて、こういう会社は自分には合わない、と悟った。結局、日本航空への就職活動はそれきりで、就職活動自体も、大学院に合格した九月で止めてしまった。
 今日、問題視されている日本航空の企業体質が、いつから受け継がれているのかは、単純には論じられない。三十年前に、ほんの一瞬垣間見た日本航空の雰囲気だけで、企業体質を云々するのが暴論であることも重々承知している。それでもなお、日本航空と、政治家や官僚との癒着の一端が、あのとき見えていたように、今となっては思えてしまうのである。

 用字用語の観点から整理段階で文章に手が入ったようで、実際に紙面に掲載されたものと、提出原稿では食い違いがあります。上記は提出原稿によるものです。
 掲載されたものでは「他人事」→「人ごと」と書き換えられ、漢数字は算用数字に置き換えられました。



2009/12/03 

「いかがでしょうか」考


 テレビやラジオで耳にするたびに、釈然としない思いが残る表現がある。「ぜひお出かけになってはいかがでしょうか」、「ぜひお試しになってはいかがでしょうか」といった「ぜひ」で始まり、「いかがでしょうか」で結ばれる文である。
 「ぜひ」は、「是非とも」、あるいは「是が非でも」に由来し、「何が正しいことかを曲げてでも」という含意がある。「ぜひ」で始る文は、相手に何かをする命令したり、強く懇請する場合に、それが良いことかどうかを問わずに、とにかく実行するよう強く促す表現である。
 上位者からの命令なら「ぜひ達成しろ」と言い切る命令文になるし、敬意表現なら「ぜひ完走なさってください」、「ぜひお召し上がりください」のようになる。敬語がついて丁寧ではあっても、聞き手に何らかの行為の実行を求める話し手の意思は明確である。
 一方、「〜はいかがでしょうか」は、「〜はどうだ」と同じく、本来は相手の意見を求める問いかけだ。今時の若者なら「〜ってどうよ」と言うところだ。これは疑問文で相手の意見を求める形をとりながら、実際には相手に同意を強いる修辞疑問文、つまり、本当の疑問文ではなく、相手の同意を求め、さらにそれに基づく行動を促す表現である。
 「教えて差し上げてはいかが」、「教えてあげたらどう」というのは、「教えたらどうなるか、その結果を考えてみれば、教えるべきであるという判断があなたにも出てくるはずだ」という意図で発せられる。要は「教えろ」という命令の婉曲表現だが、聞き手に判断を委ねることで、行為の責任は話し手ではなく聞き手に生じる。話し手から見れば、自分は行為の帰結を考えるよう促しただけで、聞き手が実際に行動するかどうかの判断は聞き手の意思次第だ、ということになる。
 「お出かけになってはいかがでしょうか」、「召し上がってみてはいかがでしょうか」といった表現は、「出かけたら(食べたら)どうなるかと考えてみれば、そうすべきだとあなたも思うでしょう」という意味であり、その上で、そうするか否かは、聞き手の自由ということになる。
 「ぜひ」で文を始め、相手に是が非でも何かをせよと強く求めながら、「いかがでしょうか」で責任を聞き手に押し付けるように文を結ぶのは、相手の意向も尊重しつつ強く勧めたいという話し手の意識の現れなのだろう。しかし、方向が矛盾した表現をつなげた、いかにも不格好な表現である。さらに、相手に何かを強要しながら、自分は責任を負わない姿勢にも見える。
 この文章も、次のように結んだのでは説得力はないだろう。「ぜひ、こうした言い回しはおやめになってはいかがでしょうか。」



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