雑誌論文(その他):1999:

globe:小室哲哉の歌詞が描き出す世界.

音樂研究/大学院研究年報(国立音楽大学),11,pp113-128.


 URLの変更など、論文発表後に加筆した情報は(青字)で表記しています。
globe:小室哲哉の歌詞が描き出す世界.

■小室哲哉によるglobeの歌詞を論じる意義
■モチーフの引用、モチーフの共有
■了解困難な歌詞の「物語」
■聴取姿勢の多様性と創作者の戦略
■globeのコンセプトに包摂された対抗関係
■ヒロインを見つめる視線




globe:小室哲哉の歌詞が描き出す世界.

山田 晴通

■小室哲哉によるglobeの歌詞を論じる意義

 小室哲哉は、1990年代の日本の音楽産業界において最も成功した音楽家である。小室は作曲家であり、キーボード奏者であり、プロデューサーであり、その他多彩な活動を展開している。小室が作曲した数多くのヒット曲は、「コムロサウンド」と総称されるように署名性が顕著で、その作曲手法は小室自身もしばしば言及しているし、まとまった形で紹介されていることもある(1)。しかし、小室が作曲とともに作詞をした曲が相当数にのぼることを考えると、小室の歌詞についての言及は、あまり目立つものではない(2)
 小室の音楽活動はTMネットワークからはじまっている(3)。小室は、1984年のTMネットワークとしてのデビュー以来、TMNのシングル24曲すべてを作曲し、うち8曲では作詞も担当した(4)。小室はまた、1985年以降、他のアーティストに楽曲を提供し、1986年に渡辺美里の「My Revolution」が大ヒットすると、作曲者として注目されるようになった。もともと小室は、ソロ・プロジェクトなども数多く手がけていたが、1990年にTMネットワークをTMNと改称した頃から、作曲家としての活動に比重を移し、ユーロビート〜レイブ系のサウンドを取り込みながらアイドル歌手に多数の楽曲を提供し始めた(5)
 TMNとしてのツアーは1992年で途絶し、代わって小室はtrfのプロデュースにとりかかり、全ての作詞と作曲を担当して1993年から1994年にかけてtrfをブレイクさせた(6)。1994年5月にTMNが正式に解散すると、篠原涼子with t.komuro名義で「恋しさとせつなさと心強さと」を大ヒットさせ、翌1995年には、ダウンタウンの浜田雅功とH Jungle With t名義で「WOW WAR TONIGHT〜時には起こせよムーヴメント」などをヒットさせた。いずれも小室の作詞・作曲による曲である。この間、並行して安室奈美恵、華原朋美らに詞と曲を提供し、ヒットを連発させたことは改めて述べるまでもない(7)
 globeは、こうした経緯を経て、小室がTMN後はじめて自らが参加した恒常的な形のユニットである。globeは、1995年8月に最初のシングル「Feel Like dance 」をリリースし、1998年10月現在で16枚のシングルと3枚のアルバムを発表している。Marcにクレジットされている英語ラップと、やはりMarcが作詞したアルバム収録曲1曲を除けば、globeの全ての曲は小室の作詞・作曲となっている(8)
 本稿がglobeの歌詞を検討するのは、ソングライター小室哲哉を論じるためには、歌詞の分析は避けて通れないと考えるからであり、特にglobeの曲に注目するのは、小室が自らユニットの一メンバーとして全面的にコミットし、セールス的にも広範な支持を獲得したglobeの事例が、小室の歌詞の資質をもっともよく表していると思われるからである。TMNにおいて、作曲者・小室は決定的な存在であったが、作詞者・小室は必ずしもそうではなかった(9)。trfは、小室の全面的なプロデュースで成立したユニットであったが、小室自身はメンバーではなかった。小室は、内発的な衝動を楽曲に結晶させていくようなタイプのアーティストではなく、これまで様々な歌手たちに詞や曲を提供してきた経験をもつ自覚的な職業音楽家であり、相手のイメージや注文に合うような楽曲を提供してきた敏腕のヒット・メーカーである。その小室が、自分のユニットのために作詞・作曲して創り出した曲は、制約の少ない状況で自在に書き上げることの出来た作品であるはずだ(10)
 以下、本稿では、globeのシングル曲を中心に、その歌詞の特徴を分析する。ただし、1998年秋に連続して発表された「 wanna Be A Dreammaker 」以下の4枚は、対象としない。本稿で考察するのは、「Feel Like dance 」から「Love Again」までの12枚のシングルの範囲であり、これらの楽曲はバージョンは違っていても3枚のアルバムのいずれかに収録されている(11)。また、必要に応じてアルバム収録曲に言及する場合がある。

■モチーフの引用、モチーフの共有

 小室哲哉の作詞・作曲によるglobeの楽曲を聴いていくと、いくつかの表現上の特徴が直観的に感じとられる。例えば、明らかに判る形で過去の作品から表現を引用している例があること、複数の曲に共通するモチーフが存在すること、全体を通したストーリーが了解困難な歌詞があることなどは、容易に気づかれることであろう。また、歌詞の表現者である歌手=Keikoとイメージを重ねることになる歌詞中のヒロインに、はっきりした性格が与えられていることも、容易に理解される。これはまた、繰り返される共通のモチーフとも関係してくるかもしれない。具体的な事例で、こうした特徴を確認してみよう。
 globeの3枚目のシングルは「SWEET PAIN」と題されている。ある種の心の痛みを意味するsweet painという英語の表現は、詩的表現ないし隠喩として了解されるものの、英語の言い回しとして決して日常的なものではない(12)。小室は、このあまり一般的ではない表現を、明らかに渡辺美里の「My Revolution」(1986)から引用している。「My Revolution」は、小室が楽曲を提供して大ヒットとなった最初の曲で、作詞は小室ではなく川村真澄である(13)。「sweet pain」という言葉はこの曲の冒頭部分で使われており、「revolution」以前の状態を指し示すキーワードとなっている。
 globeの「SWEET PAIN」は、歌詞にもある通り「恋の痛み」であり、「やり直しがきく今なら 昨日が気まずいだけ」という行から暗示されるように、過去をもった男女が互いに感じる「恋の痛み」を指している。このモチーフは、思春期の少女をヒロインとした「My Revolution」と設定は違うが「恋」を自覚しつつ抑圧されている、あるいは、膠着状態にあるという意味では、同様の状況が「sweet pain」という表現に託されている。
 同様の顕著な表現の引用の例は、globeの9枚目のシングル「FACES PLACES」にもある。「FACES PLACES」では歌詞中の5箇所で「since 1970 (etc)」という表現で導かれたリフレインが繰り返される。言及される年号は、1970、1981、1984、1994、1997であるが、それが何を指すのかは歌詞からは判然としない(14)。おそらくこの元になったのは、TMネットワークの2枚目のシングル「1974」(1984)にある「since 1974」というフレーズであろう。「1974」は、星空を見上げながら1974年に16歳だった自分を振り返る、という設定の歌で、1、2番ともリフレイン直前に「since 1974」という言葉で歌詞が締めくくられている。この曲はTMネットワークがデビュー以前にコンテストで受賞した作品であり、作詞者はKari Saimonとクレジットされている(15)
 こうした事例は、小室が自ら作曲者として関わった過去のヒット曲から、表現なり、モチーフを巧みに切り出していることを示している。こうした引用は、剽窃ではなく、むしろ引用であることをさりげなく示しながら、印象的な表現のパターンを、アレンジしつつ取り込むものであり、小室の作曲の手法にも通じる特徴といえるかもしれない(16)
 他方、共有されるモチーフの例としては、孤独と場所(あるいは移動)を結びつけたモチーフが挙げられる。globeの最初のシングル「Feel Like dance」では、夜の公園で感じる閉塞感を「もうどこへも行けない」と表現し、それが「もう今更逃げない...FEEL LIKE DANCE」と開き直りに至る過程が描かれている。4枚目の「DEPARTURES」では、ヒロインは「あなた」と結ばれてはいるが、二人の置かれた状況は厳しく、「雪と遊ぶ」冬のリゾートに繋がる無邪気な空間を「あこがれ」として語る「行ったことがないね 雪と遊びたいね」という表現が現れる。5枚目の「FREEDOM」は、空間によって隔てられた恋人たちの苛立ちをストレートに表現した歌詞になっている。6枚目の「Is this love」では、ゆったりしたラップで、ヒロインの孤独感が描かれた後、これは恋かと自問するヒロインの状況を「行き着く場所が 誰も知らない 続くほどつらい物語」と表現している(17)。7枚目の「Can't Stop Fallin' In Love」は、人目を忍ぶ恋(片想い?)をしているヒロインの閉塞した状況の中での心情が「人には話せない 誰かに話したい どこかへ行きたい あなたと行きたい」と表現されている(18)。8枚目の「FACE」のリフレインでは、人生にもがきながら無力感を感じているヒロインが、鏡の中の自分に「顔と顔寄せ合い なぐさめあったらそれぞれ 玄関のドアを1人で開けよう」と語りかける(19)。ただし、この場合、「玄関のドア」の向こうにあるのは個人的感傷に浸る余裕すら与えない現実社会であり、他の事例のように到達できない安らぎの場ではないので、一概には論じにくいところもある。タイトルにキーワードの「place」が含まれた9枚目の「FACES PLACES」は、「ずっと探し続けているFACE=顔=人/PLACE=場所」というリフレインのコンセプトが繰り返され、それが今でも到達不能であることが強調される。さらに「どこかに泊まるのと 街をさまようのと どっちが悪いなんて 誰が決めるの?」、「One more day そばにいさせて そういう場所は 数少ない」といった歌詞によって、帰属すべき場所をもたないまま漂泊感が畳み掛けられている(20)

■了解困難な歌詞の「物語」

 globeの曲の中には、歌詞がきわめて具体的な状況を描写し、何らかの「物語」を紡ごうとしていることが示唆されているにも関わらず、その「物語」の全体像が鮮明な像を結ばず、メッセージの了解が困難な曲がある。例えば、何らかの形の三角関係が描かれているらしい「Can't Stop Fallin' In Love」の歌詞を検討してみよう。冒頭で「いつもは 指輪をはずしていたのに」とあるのは、結婚(婚約?)指輪をしている人物が、(デートのときは?)いつもその指輪を外して、特定のステディな相手がいないように装っていたことを意味している。にもかかわらず「どうして 昨日は腕も組んでいたの?」と続くように、なぜ「昨日」に限ってそのような装いをぶち壊しにするように「腕も組んでいた」(「腕を」ではない点にも注意)のかと、ヒロインは問いかける。この問いかけは問いつめというよりは、嘆きに近いものであるようだ。「あなた」は自分の都合で待ち合わせの場所を決めながら、仕事を理由に遅れるという。こんなことは、しばらく無かったのに。ここまでを素直に読み解けば、ステディの(自分より優先順位の高い)相手がいる男性とつきあっているヒロインが、いつもはステディの存在を感じさせないように指輪を外すような気遣いをしてくれている彼に、昨日、おそらくは偶然に(あるいは彼の悪意から?)彼とそのステディの彼女(妻?)が親しく「腕も組んで」いる状態で出会ってしまった、ということを歌っているのだとさし当たり理解できる。
 続く一節には、「人には話せない 誰かに話したい どこかへ行きたい あなたと行きたい」とあり、ヒロインの心は「あなた」に向いている。ところが、その次の一節は「物語」を了解するという点からは難題となってしまう。この部分は、リフレインにあたるメロディにのっており、同じ歌詞でも曲の最後に再び繰り返される印象的な一節なのだが、「踊る君を見て恋がはじまって あなたの髪にふれ 私ができること 何だかわかった」と短い文の中に「君」「あなた」「私」と代名詞が詰め込まれていて、(少なくとも瞬時には)人間関係がまったく了解できない。多少なりとも歌詞に耳を傾け、歌詞カードを手に「物語」を追っていこうとした聴き手は、ここで戸惑いを余儀なくされるはずである。
 あまり意味のない頭のスポーツになるが、この部分の人間関係の解釈にはいくつもの答え方がある。「私」と「あなた」を、ヒロインと(他にステディのいる)男性(<彼>と表記する)と考えれば、「君」は、ヒロインか、<彼>か、それ以外の人物のいずれかである。「君」がヒロインのことならば、「踊る君を見て恋がはじまって」は<彼>がヒロインにかけた言葉の直接話法での引用となり、踊っているヒロインを<彼>が見初めたことになる。この解釈に対しては、なぜここだけ唐突に直接話法が用いられるのかが、疑問として残る(21)。「君」が<彼>ならば、踊っている<彼>をヒロインが見初めたことになるが、この場合は、なぜ「君」と「あなた」を連続する行で同じ人物を指すために用いるのか、という疑問が生じる(22)。この疑問については、聴かせどころのもっとも高い音を「イ」の長音でまとめたいという理由で説明することが可能かも知れないが、充分説得的とはいえないようにも思われる(23)。「君」がヒロイン=「私」でも、<彼>=「あなた」でもないとすれば、「君」は誰であり得るだろう。「君」を含む部分が直接話法ではないことを前提とすると、答は一つしかない。ヒロインにとって<彼>=「あなた」以外に「恋がはじまって」しまった男性がいることが示唆されているのである。
 仕事で待ち合わせに遅れそうな「あなた」と、踊る「君」の対称性は、社会的に安定した頼るべき(おそらくは年上の)男性像と、情熱的・官能的な恋人としての(もしかすると年下の)男性像に収斂する。そして、ヒロインの側から見た<彼>=「あなた」と、「君」という二人の男性の存在を前提に「物語」を考え直すと、遡って最初の一節の解釈が動揺することになる。「指輪をはずしていた」のは、二人の男性の間を揺れ動くヒロイン自身だった可能性が出てくるのである。一人の男の前では指輪をつけ、別の男の前では指輪を外すヒロイン、それが一方と(おそらくは「君」と)「腕も組んでいた」ところでもう一人に出くわしたのだ。「あなた」はあからさまに怒りはしないが、仕事にかこつけて待ち合わせに遅れてみせる。そんなもう一つの「物語」の可能性が開けてくるのである。「あなた」からもらった指輪を外して「大切な 思い出にして」しまうこともヒロインは躊躇する。彼女が「どこかへ行きたい あなたと行きたい」と思うのが真情の吐露だとしても、同時に彼女は「君」にも間違いなく「恋」をしているのだ。Marcのラップが「道徳もない 規則もない...」と低く囁くように挑発するとき、ヒロインは官能の側に引き寄せられるが、その直後の「ずっとあたためて 声にならなくて いつも笑顔だけ 見ていて 満たされる」というKeikoの歌声は、ヒロインが、ある一線の手前に踏みとどまったことを示唆する。
 しかし、こうした解釈は一つの可能性に過ぎない。あるいは、<彼>=「あなた」にはやはりステディがいて、その上でヒロインは「君」に惹かれているのかもしれない。そうだとすれば、互いに別の相手のいる者同士の恋愛という、かなり深刻な状況が歌われていることになる。もっとも、「ずっとあたためて 声にならなくて いつも笑顔だけ 見ていて 満たされる」というヒロインの心情が暗示するように、あるいは、すべては彼女の心の中だけのプラトニックな状況なのかも知れない。彼女は誰とつき合っているわけでもなく、ただ「あなた」や「君」に淡い片想いをしているだけかもしれない。
 いずれにせよ、解釈の可能性は多様に拡散していくばかりで、収斂することはない。受け手が「物語」を追いかけて歌詞カードを手に耳を傾けても、「物語」は明瞭な像を結ぶことなく緊張した恋愛関係を暗示した雰囲気だけを残して曲は終わってしまうのである。
 紙幅の制約もあるので、詳述はしないが、「Anytime smokin' cigarette」の冒頭のヒロインが回想する男の言葉と、その前後の部分も、解釈不能とはいわないまでも、すぐには了解が困難なほど、複雑に解釈の手がかりが組み込まれている(24)

■聴取姿勢の多様性と創作者の戦略

 様々な留保はついてもメッセージは基本的に伝達可能である、という認識を前提とした旧来のコミュニケーション観は、ここ二十年ほどの間に、記号論的な視点に基づく「コミュニケーション」観によってその基盤を大きく掘り崩されてきた。メッセージの伝達などは幻想に過ぎず、ただテキストと解釈の連鎖が存在するだけだ、とする見方が広がるにつれ、<メッセージ>の<送り手>と<受け手>といった関係は、<テキスト>と<読み手>、<読み・解釈>といった関係に置き換えられることが多くなった。そして、「送り手の意図・メッセージを大衆が受け手として支持する」という図式を前提に展開される、「時代の心情の記号としての流行歌」(見田,1967=1978)といった議論は、少なくともナイーフな形では持ち出せなくなった。歌詞の聴取と理解という問題について、周到な実験を踏まえた議論を展開した稲増(1984)が示したように、聴き手が歌詞の意味を理解するというのは幻想に過ぎない(25)
 しかし、<受け手>が<送り手>の<意図>や<メッセージ>などには構わず、それとは無関係に作品を消費する、という事態も、ポピュラー音楽の創作に携わる職業音楽家にとっては大した問題ではない。彼らにとって、自分のメッセージが伝わるかどうかは、自分の作品が商品として成功するか(あるいはより抽象的に、大衆の支持を得られるか)という大問題に比べれば、どうでもよいことであろう。1970年代のフォーク歌手たち以来、オルタナティブな、それ故にマイナーな<送り手>が(しばしば、ポーズとして)「メッセージ性」を持ち出したのは、メジャーな<送り手>がメッセージを理解しようと、誤解しようと、無視しようとに関係なく、作品を消費してくれる<受け手>の拡大にこそ関心を寄せ、「うける」ことを狙い、「売れ線」を狙っていることへのアンチテーゼに過ぎなかった。ポピュラー音楽の主流を形成する<送り手>=ポピュラー音楽作品の創作者たち(作曲者、作詞者、演奏者、制作者等々)は、基本的にはメッセージの伝達より先に、作品の普及戦略を考える。この戦略を練る過程で、個々の<送り手>が選択した戦略は、あるいは「わかりやすいメッセージを伝える」ことかもしれないし、「ノリの良い音をつなげて(意味はない)歌詞を綴る」ことかもしれない。同時代の普通の人々の心情をすくい上げて共感を得ようとする戦略もあれば、誰も知らないような新しい音の経験で引き寄せようという戦略もあるだろう。個々の<送り手>自らの選択によって、戦略を選んでいくだけのことである。
 そこで、<受け手>が<メッセージ>の理解において、あるいは聴取の姿勢において多様であること、つまり歌詞を理解する(しようとする)<受け手>もいれば、歌詞に無関心な<受け手>もいる、さらには、勝手に想像を拡げて<送り手>の思惑も超えた「誤解」を引き出す<受け手>もいることを踏まえれば、問われなければならないのは、<送り手>がどのように、<受け手>の聴取姿勢の多様性=市場のセグメンテーション=に対応しているかという点であろう。市場がセグメント化されているときは、例えば特定のセグメントだけを対象に商品を用意し、そのセグメントの支持だけで商品を成立させるニッチ戦略も可能性がある。しかし、広範に商品を普及させようと思えば、個々のセグメントごとに異なるマーケティング戦略を用意しなければならない(26)
 こうした観点から見ると、globeの曲が、歌詞に対する聴取姿勢が異なる<受け手>に、それぞれ異なるレベルで働きかけていることが了解されるだろう。まず歌詞にほとんど関心を寄せない<受け手>には、歌もまた楽器の一つ、音の一つとして効果的に響くよう、主として語尾表現の工夫による、脚韻を整えたり、言葉としてはやや不自然な表現になってもメロディやリズムを優先したり、といった配慮が、歌詞の随所に施されている。
 「誤解」を含めて比較的自由な解釈なり想像を引き出す<受け手>には、様々な手がかりが与えられている。まず、稲増(1984)からも明らかなように曲名は重要な手がかりである。globeの曲名は、本稿で対象外とした最近のシングル「Sa Yo Na Ra」を唯一の例外として、すべて英語の曲名がつけられているが、いずれも容易に了解できる簡単な表現になっている。また、曲の中で繰り返されるリフレインの歌詞、特に印象的なメロディ(いわゆるサビなど)にのせられた歌詞は、歌詞総体の意味が曖昧になるほど、逆説的に重要になってくるが、リフレインで繰り返されるのは曲名の英語のフレーズそのままであることも多いし、それ以外の英語であることも多い(例えば「Anytime smokin' cigarette」)(27)。つまり、キーワードが英語で与えられている分、聴く側は、一定のモチーフは共有しながらも、より漠然と自由な解釈を展開できるのである。しかも、それぞれの楽曲では、サビの部分を中心に、印象的な歌詞が、コンテキストを離れても何らかの含意を持ち得るような形で埋め込まれている。
 サウンド先行で、歌詞にはさして深い意味はないだろうという先入観を与える「コムロサウンド」の楽曲は、歌詞の「深さ」を演出する。コメディアンとして評価された役者のシリアスな演技が過大評価されがちなのと同じように、そこでは強い異化効果が働くことになる。サウンド先行でglobeを聴き始めた<受け手>も、やがて曲名や断片的なリフレインのフレーズのイメージに惹かれて特定の曲を気に入り、場合によってはカラオケに挑戦する気になるかもしれない。そして、テキストとしての歌詞に対し「こんな(深い、気の利いた)ことをいっていたのか」と発見し、より深く歌詞を聴き込もうとする。そんな筋道も作詞者の側では想定されているのであろう。
 歌詞を聴き込んでいこうとする<受け手>には、無意味ではない歌詞、<受け手>の琴線に触れるような歌詞、あるいは、歌詞の断片、フレーズが用意されている、ということができるだろう。しかも、globeの歌詞には、テキストを見ながら聴き込むに値すると感じさせるような仕掛けがほどこしてある。まず、globeの歌詞が、書かれた歌詞のテキストなしでは、了解しづらいようにできている点に注意しておかなければならない。高音で明瞭に発せられるKeikoのボーカルは、概して聴き取りやすいが、歌詞の中に唐突に英語の表現が投じられたりすると、テキストなしでは了解できない空白があちこちにできてしまう(28)。また、Marcのラップは、相当に英語が達者でも、テキストなしには了解し得ないことだろう。さらに、音響上の効果を狙ってヴォーカルにディストーション的な加工が施されている場合(例えば「FACE」)にも、歌詞は瞬時には了解しにくくなる。しかも、既に指摘したように、歌詞の中には相当複雑な設定が施されているものや、抽象的で隠喩に満ちたものもある。わざわざ歌詞のテキストを手に取り、曲を聴きながら文字を追う<受け手>は、歌詞の表現上の工夫(例えば「Feel Like dance」で「ヒト」に「男女」という文字を当てているような遊び)に気づき、見落としていたメッセージを発見するというように、その労力に相応しい報酬を得るように仕掛けられているのである。

■globeのコンセプトに包摂された対抗関係

 それでは、自由な解釈を引き出す<受け手>も含め、歌詞から何らかの意味を受け取ろうとする<受け手>に提供されるglobeの詞は、どのようなテーマを描き出すのであろうか。その点について論及する前に、globeというユニットのコンセプト、ないしパブリック・イメージについて、少々論じておかなければならない。
 小室哲哉は、globeの最初のアルバム「globe」がリリースされた直後に発表された記事で、globeという名称について「僕が今まで関わってきたユニットの中でも、これほどまでにメッセージを発信しているユニット名はなかった」とした上で、次のような発言をしている(beat freak, 1996)(29)
 「僕は、ここ数年、ダンス・ミュージックというカテゴリーの中で考え、さまざまなアプローチをしてきましたが、このアルバムはちがいます。ダンス・ミュージックという枠にこだわらず、詞の内容も、身近なことから地球的なことまで、幅広いことが対象です。あえて言うならば、"globe music"でしょうか、しかし、僕らの音に日本というナショナリティを感じるかもしれません。それは、あらゆる線引きをしないで、今ありうることすべてをやった結果、日本人としての血が出てしまった気もするからです。
 globeは結成当初、世界に向けて発信する印象が強かったと思います。しかし、今では軌道修正もありかな、と思っています。それは「DEPARTURES」のヒットなど、今までの活動の中でKEIKOのヴォーカルが高く評価され、子供からお年寄りまで、さまざまな年齢層で受け入れられているのを実感するからです。事実、KEIKOの声がみなさんに与えた影響力に、僕も心が動いています。今後、日本人的なマーケット、つまり、"20世紀の日本人の音楽"を想定した曲を提供することも考えています。」
 つまり、globeという名称自体が、ダンス音楽にとどまらない普遍的な音楽を目指し、海外市場も意識した、ユニットの性格を表しているが、実際に始まってみると予想外に大きな支持を国内市場で得たので、多少の軌道修正も考えている、というのである。同じ記事で小室は、メンバー3人の役割について次のように述べている。
 「結成するとき、僕自身でKEIKOの声、才能を認めて起用しましたが、シングルをリリースするたびにまわりからの評価が高まり、本人、そして僕もこれにどう応えようか考えました。ですから、KEIKOに関しては、このアルバムで今までの評価に値する彼女の実力を引き出すこと、その実力を証明することが僕の仕事だと思いました。」
 「マークには、日本人としてのメンタリティがあります。また、英語、フランス語など、海外とやりとりする武器もあります。(...中略...)globeでは、英語で歌う洋楽ということではなく、マークが歌うことで外国語が生活の中に普通にある、ということを感じてほしいんです。」
 「アーティストとしての僕、小室哲哉に関して言えば、なるべく彼らの後ろに回ろうとしています。それは、音づくりやプロデュースもそうですが、自分はサポートする側となり、2人がプロのアーティストとして成立することはすべて任せようと思っているからです。」
 この小室の説明は、globeというユニットのコンセプトとその中での3人の役割を的確に示しているが、3人の役割分担にはこれとは別の側面もある。試みに3人のうち1人に注目して他の2人と対比してみよう。すると必ず明瞭なカテゴリーの二項対立が立ち現れる。小室は1958年生まれの40歳だが、他の2人は1970年代に生まれた20代後半の「若い大人」である(30)。Marcは国籍は日本だが、マルセイユ生まれで白人の血を引き、他の2人が普通の日本人であるのとは対称的な存在である。Keikoは言うまでもなく女性であり、他の2人は男性である。このようにglobeは、わずか3人のメンバーの中に世代、性別、エスニシティの対抗関係を取り込んでおり、それ自体が小さいながら一種の普遍性をもった「世界」を表象しているのである。
 しかし、Keikoと他の2人の対抗関係は、単なる性差にとどまらない。Marcは子供の頃からモデルや子役として活躍し、Men's non-noの人気モデルとして、あるいは、MTV JapanのメインVJとして、globe参加以前に既にある程度の有名人であり、CDも出している。もちろん小室は超有名人である。スターダムに既に位置していた2人に対し、Keikoは無名の素人がオーディションで見いだされ、抜てきされたという、夢の体現者であり、それだけ<受け手>側に近い。さらに、小室は東京郊外で育った人物であり、Marcはマルセイユ生まれで、少年期以降は東京で育ったのに対し、Keikoの出身地は大分県である。ここでは、日本の中での中心と周縁という対抗関係を読みとることができる。
 globeのコンセプトが、役割分担と対抗関係を包摂し、一つの「世界」を構成しているのだとすれば、そこには明瞭な権力関係が存在することになる。もちろん、すべてを支配するのは小室であり、MarcとKeikoはその支配下で現場を担っている存在に過ぎない。しかし、小室とMarcの関係は、対等な関係により近く、部分的な権限の委譲(歌詞のクレジットなど)も見られるが、小室とKeikoの関係は、より決定的な「師弟」関係に近いものであるように印象づけられている。Keikoは「小室によって見いだされた才能」と位置づけられることで、小室に従属する存在となっており、この図式の中で、Keikoに対する肯定的評価は、そのまま小室に対する(より大きな)肯定的評価へと転化する(31)

■ヒロインを見つめる視線

 Keikoによって表現され、彼女のイメージと重ね合わせられるglobeの歌詞のヒロインは、一貫して「強い」女性である(32)。しかし、この「強い」女性は、閉塞した状況を運命として甘受し、男性への依存から脱することができない。「Is this love」の「やさしさだけじゃ 生きてゆけない でも やさしい人が好きなの」というフレーズは、そうした立場を端的に表現している。シングル曲ではないが「GONNA BE ALRIGHT」も、コンセプトが明瞭に表れた曲である。Keikoは、甘えるばかりで弱気な男に対して「恋に恋して 愛に免じて 情にほだされ ここまできた」ヒロインの焦燥感を激しくラップし、リフレインでは「IT'S GONNA BE ALRIGHT」と何度も繰り返す間に、「声をかけあって 傷をなめあって 生きてる」とか「とても結局あなたに惚れてる」といった印象的なフレーズをシャウトする。この曲に限らず、ヒロインの苛立ちや怒りは、はっきりと社会や状況や男に向けられることはない。怒りの矛先はもっぱら自分自身に向けられる。  globeの世界では、女性は疎外され、閉塞状況に追い込まれながら、日常と格闘する。あるいは、日常から逃避し、刹那的な享楽に身を委ねる選択肢が歌われている場合には、その先にある虚無感が併せて暗示されている(例えば、「a picture on my mind」)。冒頭の歌詞が世紀末感を明示する「Because I LOVE the NIGHT」のリフレインには「でもこうやって生きてて みんな許してくれるの?」というフレーズが挟み込まれている。日常と格闘する(悪戦苦闘する)ヒロインの姿は、例えば、先に言及した「FACE」のリフレインに最も端的に示されている。女性はすべてを運命として受け入れるばかりで、自らのおかれた状況へ主体的にかかわる道は用意されていない。女性は恋愛という形をとる男性への依存から自立することはない。恋愛(そしてその破綻)は、主体的に選択していく行為としてではなく、迷いや躊躇を見せながらも受け入れるしかない抗い難い運命として認識される(例えば「Watching everything」や「Wanderin' Destiny」など)。
 globeの歌詞世界のヒロインは、閉塞状況の中で救われないまま自閉するか(例えば、「Anytime smokin' cigarette」)、それを乗り越えて日常に対峙するか(例えば、「FACE」)、さもなければ「愛」が全ての矛盾を無化する=救うという恋愛イデオロギーとでも呼ぶべきものに身を委ねる。しかも「愛」の姿は、歌詞によって多様に語られるだけでなく、同じ歌詞においてすら多様な解釈が可能な、振幅のある形で提示されており、誰もが「この歌は私のことを歌っている」と錯覚できるように歌詞は巧妙に綴られている。女性の<受け手>は、歌詞の構築する世界のヒロインをKeikoと重ね合わせ、そして自らの個人的経験と重ね合わせることでカタルシス(解放)を得、困難な状況に対峙するモラール(士気)を支える。さらには、恋愛イデオロギーに従うことによって、多くの矛盾を自ら巧妙に隠蔽することもできるようになっている(33)
 しかし、globeの歌詞世界のヒロインの姿、Keikoが歌い上げる「女性」の言葉は、実際には小室によって綴られたものである。ヒロインを男性の視点から見れば、彼女は強い頑固な女だが、同時に情が深い、男につくす健気で可愛い女、自分から身を引く引き際を心得た都合のよい女である。彼女の強さは、彼女が他の女性にはない魅力をもち、容易に男になびくような女ではないことを示している。その彼女が、「あなた」と呼ぶ男にだけは弱い部分を見せ、女として男に依存するとしたら、(前節末で触れたKeikoと小室の関係図式と同じように)、女の強さや才能や価値が強調されるほど、その彼女が屈服する運命=恋愛関係の相手=「あなた」は絶対的存在として称揚されることになる。小室は、そして大方の男性の<受け手>は、このある意味では古風なヒロインにとっての「あなた」の位置に視点を置いて彼女を見つめているのである。
 以上の分析を踏まえ、小室の歌詞の「家父長主義」や「フェミニズム以前ぶり」を批判するのは容易である。だが、真に問題とされるべきなのは、そのような小室の歌詞を男女を問わず支持する市場の、即ち我々の社会の現象であろう。本稿は、ソングライターとしての小室哲哉を論じ、彼の作品群を支持する現在の我々の社会を理解しようとする試みの、ほんの入口に過ぎない。そのことを確認して、この小論を閉じることとしよう。


(1) 例えば、小室哲哉の公式サイトにあるページ「Composer's Viewpoint」を参照。http://www.komuro.com/ptk3/atcl/htm/cmpsr.htm(このページはなくなりました。)
(2) 逆に、例えば中島みゆきの作品については、その楽曲はほとんど論じられることはなく、もっぱら歌詞についてのみ様々な議論が提起されている。
(3) 小室の経歴については、公式サイトのページ「Bio file」を参照。http://www.komuro.com/ptk3/bio/index-j.htm(このページはなくなりました。1999.08.14.現在、公式バイオはhttp://www.komuro.com/tk56/bio/index-j.htmにあります。)
(4) TMNのシングルを集成した「TMN/TIME CAPSULE all the singles」(1996)には29曲が収録されているが、同一曲の別バージョンが4組、シングル未発売曲が1曲あるため、TMNのシングルは楽曲としては24曲となる。このうち、メンバー3人の連名で作曲がクレジットされている1曲があるほかは、他は全て小室の作曲となっている。
 なお、TMNの活動経過については、次のページを参照。http://www02d.so-net.or.jp/~kisa/folder_k/tmn4001.htm(URLが変わりました。http://www02d.so-net.ne.jp/~kisa/folder_k/tmn4001.htm
(5) 1980年代後半から、ユーロビートを歌謡曲に翻案する作業は行われていた。単純化すれば、小室はそこにレイブ、あるいはテクノの要素を持ち込んだのである。
(6) 当時、小室には、Epic/Sonyとの契約があり、avexに所属したtrfには参加していない。しかし、trfは、その名称からしてtetsuya komuro rave factoryの略とされ(C&C Music Factory を連想させる)、小室が深く関わったプロジェクトであった。
 trf〜TRFについては、公式サイトを参照。http://www.avexnet.or.jp/trf/index.htm
(7) ある個人ページによると、テレビ番組「ミュージックステーション」にglobeが出演した際、これまでその番組に出た小室作品をダイジェストで紹介したらしい。TMN解散後の作品だけで64曲(?)あったという。数字に多少のぶれはあるかもしれないが、小室の精力的な量産ぶりがわかるエピソードである。http://www.dtinet.or.jp/~katsumi/mono/komuro.html(URLが変わりました。http://www.mars.dti.ne.jp/~katsumi/mono/komuro.html
(8) globeの歌詞のクレジットは小室哲哉とマーク・パンサーの分業体制を様々な表現で表している。アルバム「globe」では、全曲をまとめて「WORDS: TETSUYA KOMURO RAP WORDS: MARC」と記載されているが、2枚目のアルバム「FACES PLACES」では、「So far away from home」だけが「words: MARC」とあり、残りは「words: TETSUYA KOMURO & MARC」となっている。3枚目の「Love again」では、全曲をまとめて「WRITTEN by Tetsuya Komuro & Marc」と記している。さらに、最近のシングルでは「Written by TK & MARC」といった記載が採られるいる。
 作詞・作曲のクレジットが、実際の作詞・作曲者を表示していない可能性については、本稿では検討しない。小室が作編曲の作業に、久保こーじをはじめ、複数の協力者を得ていることは明らかであるが、詞について同様の協力者がいるかどうかは、管見する範囲でははっきりした言及はない。本稿の関心は、小室作と信じられている作品群にどのような共通した性格が認められるか、という点にある。
(9) また、TMNの歌詞については、次のページを参照。http://www.infobears.or.jp/athome/stone/TMN/TMN_Top.html(URLが変わりました。http://www.infobears.ne.jp/athome/stone/TMN/index.html
 TMネットワークがブレイクしたきっかけは、1987年に彼らにとっての最初のチャート1位曲となった「Get Wild」(テレビアニメ『シティハンターII』のエンディングテーマ)も含め、小室みつ子が作詞した一連の曲であった。
(10) もちろん、globeのフロントに立つのはKeikoであり、小室のソロ作品でない以上、Keikoのイメージの構築に意が注がれるのは当然である。その意味では、globeにおいても、小室は全くのフリーハンドではなく、歌い手=Keikoのイメージに合わせる曲作りをしている、と考えることも可能である。しかし、その場合には、なぜ小室はわざわざglobeというユニットに自ら名を連ねる形を選んだのかを考えなければいけない。小室にとって、globeの世界を構築する作業と、安室奈美恵や他の歌い手たちの世界を構築する作業は、同質のものではないはずだ。
 ただし、小室と華原朋美の演出された男女関係を考慮すれば、華原朋美に関しては、一定の保留が必要かも知れない。作詞者・小室が歌手・華原の口から引き出す言葉は、女=華原の声であると同時に、女にそのように言わせたい男=小室の声として、聴く者に提示される。受け手は、小室と華原という人物像を介して、作詞作曲者と歌手という関係と男女関係を重ね合わせ、そこに多重的な意味を読みとっていくことになる。華原朋美については、また個別の議論が必要であろう。
(11) globeのディスコグラフィー等については、avex Data Baseのページを参照。http://www.avexnet.or.jp/avexdb/globe/disco.htm
 また、個人による次のページも参照した。http://bono-www.ss.titech.ac.jp/~nii/globe/index.html(URLが変わりました。http://www.aurora.dti.ne.jp/~nii/globe/index.html
(12) ネイティブ英語話者が多い翻訳関係のメーリングリストでこの表現について尋ねたところ、「詩的表現ないし隠喩として了解されるが、日常的ではない」という意見が多かった。より普通の表現としては「bittersweet」というのが自然らしい。また、SM関係の表現として使われる場合もあるということだった。KISSに「SWEET PAIN」という同名異曲があるが、この曲のニュアンスもそちらに近いようだ。
(13) 「My Revolution」は小室個人にとっても重要な曲のようであり、最近でも小室が関わるオーディションの課題曲に選ばれたりしている。
(14) これらの年号は、テキスト外的に小室の個人史に引き寄せて説明、了解されているようだ。1984年はTMネットワークのデビューの年であり、1994年は同じくTMNの解散の年、1997年はこの曲の発表された年である。1970年と1981年については、よくわからない。公式サイトのページ「Bio file」は、1970年に、当時小学生だった小室が大阪万博で、冨田勲指揮のシンセサイザーのパフォーマンスに感動したことを記載している。1981年については、いっさい記載はないが、22歳になった小室が音楽で身を立てることを決意した時期なのではないかと推測される。
(15) 1970年代に活躍した女性シンガーソングライターCarly Simonをもじった名のようである。素直に考えれば、作詞者は女性の可能性が大きいが、確認していない。
(このテキストの掲出後、Stoneさんから、Kari Saimon=西門加里は小室みつ子のペンネームであると御教示頂きました。ありがとうございます。)
(16) 小室は、DTMを利用する中で、キープしておいたメロディの並べ替えや、移調などの操作を日常的に試みていることを、様々な機会に述べている。
(17) この歌詞は意味がやや曖昧である。ここでは「どこに行き着くのか誰も知らない、続くほどつらい物語」という意味にとったが、「やがて行き着くのは、誰も知らないほどつらい物語なのだ」という意味にとることも可能である。
(18) ここでは直前に「人には話せない 誰かに話したい」が先行することで、「どこかに行きたい」の前提として「どこへも行けない」というニュアンスが感じとられる。
(19) この歌詞も意味がやや曖昧である。ここでは「あなた」を「鏡に映った自分」という意味にとったが、「あなた=男性=と私のふたりで、鏡に自分たちの姿を映している」という状況を想定することも可能である。
(20) このほか、例えば10枚目の「Anytime smokin' cigarette」の「ずうーっと走り続けてるうちに 疲れがたまってあっという間に 病院送りになる前に」や、11枚目の「Wandering Destiny」の「二人で歩いて どこまでも歩いて」といった歌詞にも、閉塞、焦燥、孤独を空間的な移動のモチーフの結びつきが感じられる。12枚目の「Love again」の「そのまま 服脱がせて 天国につれていって 一緒につれていって」も、より直接には性的接触への言及であるにしても、この類型に追加してよいかもしれない。
(21) はっきりした直接話法の例としては、「Anytime smokin' cigarette」の冒頭の「いつも思い出す あなたの言葉」を挟んだ前後の部分がある。ただし、この部分も、どこからどこまでが「あなたの言葉」なのかは明示されていない。
 「Can't Stop Fallin' In Love」と同様に「君」と「あなた」と「わたし」が数行の内に現れる「Wanderin' Destiny」では、直接話法ととる解釈に比較的説得力があるが、この歌詞も「Can't Stop Fallin' In Love」と同様に解釈が収斂しない。
(22) 強いていえば、「君」だった<彼>の存在が、急速により近しい「あなた」になったことを表しているのかもしれないが、無理のある解釈のように思われる。
(23) このリフレインの部分の最も高い音は、「踊る君を見て」の「君」の「ミ」、「みんな泣いている」の「泣いて」の「イ」、「ずっとあたためて」の前の「タ」、そして同じ詞で反復される「君」の「ミ」が宛てられており、いずれも長音で歌われる。
 仮に「君」の位置に「あなた」を入れれば、この音は「ナタ」の二音を宛てることになり、韻としては座りが悪くなる。
(24) まず、「いつも思い出すあなたの言葉」がどの部分を指すのかがはっきりしない。「余計なもの」とは何か、「すべてを なくして」とは何をなくしたのか、もはっきりしない。1〜2行目が男のせりふで、5〜6行目が女のせりふであり、曲のモチーフが部屋の鍵を男に返した女の後悔だと瞬時に了解する聴き手はほとんどいないだろう。
(25) 稲増(1984)は、中島みゆきの「悪女」などを使って実験を行い、聴き手の半数以上が、歌詞を誤解するか、無視することを示した。
(26) 歌詞を理解するか(しようとするか)否かというカテゴリー分けでは、分類は相当に流動的で、本来のセグメンテーションとは性格が異なってくるので注意が必要である。
(27) この点については、山田(1990,p92)でも触れている。
 また、こうした形で持ち出される英語(と思われる)表現が、しばしば英語として奇異であったり不適切であることは、よく指摘される。また、歌詞としては適切な英語表現でも、実際の歌唱において全く英語とは異なる発声がなされることもよくある。
(28) これは英語のフレーズに限ったことではない。「Anytime smokin' cigarette」の「私だけのRULEじゃ 生きれない」という歌詞の後半は、テキストを見るまで筆者の耳には「そう言い切れない」あるいは「しょいきれない」と響いていた(これは一つには「ら抜き」表現にひっかかったということもあるのだろう)。この例に限らず、日本語の歌詞でも、素直に頭に入ってこない音は多いように思う。
(29) この無代情報誌「beat freak」には、小室の記事(インタビューから書き起こし再構成したもの)のほか、今津甲によるKeikoとMarcのインタビューが載っている。
(30) globeのプロフィール等については、「avex Data Base」のページを参照。http://www.avexnet.or.jp/avexdb/globe/index.htm#profile
(31) デビュー当初のKeikoが、ストレートな髪と自然な印象のメークで「芸能人らしくない」存在であったことも、「素材」であることを示す演出であったろう。Keikoが現在のように髪を染め、派手な髪型でメディアに露出するようになったのは、1996年末の「紅白歌合戦」からであった。
(32) globeの歌詞には、女性歌手が男性の心情を歌うといった、いわゆる「クロス・ジェンダー」なものはない。歌詞の中のヒロインと、歌い手であるKeikoは、ほとんど不可分の存在としてイメージされる。
 しかし、マークの歌ないしラップが中心の曲では、ジェンダー性が希薄で、性差にほとんど関係なく感情移入しやすく作られている例が目立つ(例えば、「So far away from home (Beautiful Journey)」)。Marcの役割については、別に論じる必要があろう。
(33) もちろん男性の中にも、歌詞の断片から引き出せるイメージに従って、これと同じような構図でglobeの歌詞世界を受け入れる<受け手>はいるだろう。

稲増龍夫(1984):社会的コミュニケーションとしての音楽.水原素介・辻村明・編『コミュニケーションの社会心理学』東京大学出版会,pp147-168.
beat freak(1996):On My Best / globe.beat freak,99,pp4-7.
見田宗介(1967=1978):『近代日本の心情の歴史』講談社学術文庫.
山田晴通(1990):ビデオ・クリップが描く盛り場の若者たち.松商短大論叢(松商学園短期大学),38,pp69-98.



このページのはじめにもどる
テキスト公開にもどる
山田晴通・業績一覧にもどる   

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく