書評:1997a:

中村靖彦『日記が語る日本の農村』.

地理学評論(日本地理学会),70(A),pp123〜124.


テキスト公開に際して誤字等を訂正した箇所は青字で示してあります。
中村靖彦:日記が語る日本の農村 中央公論社(中公新書),1996年11月,新書判,248p.,740円.

 個人の日記を一次史料として用いた研究は、歴史のみならず、地理学においてもさまざまな形で行われている。日記を史料とする場合、まず批判的に問題とされなければならないのは、記述の一貫性や継続性であろう。記述者が記録を残した目的や形態が、時期によって不安定に変化したのでは、史料としての利用は難しい。また、記述が途切れがちであったり、期間が短ければ、史料としての価値は限られたものとなる。このような視点から見れば、一人の人間が、少年期から老年に至るまで書き続けた日記があれば、それはきわめて価値の高い史料ということになる。さらに、その人物が、その間ずっと同じ場所で生活し、同じ生業に従っていたならば、その記録は単なる個人の記録という以上に、その地域、その生業の歴史的な展開の記録として、大きな意味を持ってくるはずである。
 本書は、NHKの解説委員であり、農業問題専門のジャーナリストである著者が、「農村の現場の移り変わりを記録しているもの」を求め、「どこかに長い期間日記をつけている農家はいないだろうか」と探した結果として出会った、ある篤農家の「六六冊の日記」のエッセンスをまとめた読み物である。素材となった日記の主である唐沢正三氏は、15歳だった1930(昭和5)年の元旦から、途切れることなく日記を綴り続けていた。
 唐沢氏の住む長野県東筑摩郡山形村は、現在では、多品目の複合的な生産を特徴とする野菜産地になっている。しかし、大規模な潅漑施設の導入によって水の便を得られるまでは、けっして豊かとはいえない畑作中心の村であった。当然、戦前はもちろん、戦後になっても、桑を植え、養蚕に取り組んでいた。戦後の農政の動向を微妙に反映させながら、山形村の農業は変化を重ねて現在の姿に至った。その変化の過程には、個々の農家の経営上の損得勘定や、中央における農政の転換だけでなく、農村社会の人の絆や、その変質が大きく影を落としている。唐沢日記の淡々とした記述から、著者は、戦争前後の日本の農村の原風景と、戦後におけるその変貌を、的確な形で引き出している。
 序章と終章を除いた9章のうち、第1章「戦争と病気と」と第2章「敗戦・混乱の家と村」は、戦争前後の村の生活の様子を伝えている。病身だった唐沢青年は、戦時中も出征することなく村にとどまっていた。続く3章、第3章「人生は蚕に始まる」、第4章「改革を解せぬ地主は困る」、第5章「長芋とねぎとの格闘」では、養蚕に始まり野菜に至る、村の農業の時代ごとの変化が、ほぼ時間軸に沿う形で追いかけられている。残りの各章では、第6章「農村社会と家・家族」で農家の家族関係、第7章「村の政治の渦中で」で農村の社会関係、第8章「水・しきたり・道祖神」で文化・風習について、それぞれ論じられており、第9章「激動の農政と正三」では、古い農村像の風化と新しい農村への動きが語られている。章の構成からもわかるように、著者は、篤農家としての唐沢氏の記述から村の農業変遷を追いかけつつ、家長として、名望家としての唐沢氏を通して村の人間関係を描き出していく。それぞれの観点は、相互に関連し、結果的に村での生活が、立体的に浮かび上がってくることになる。
 本書は学術的な研究書ではなく、行論を傍証するために膨大な統計が引用されるようなことはない。たまたま山形村は、評者のフィールドでもあり、評者も文中に名の見える数人に聞き取りをしたことがある。そうした立場から見ると、読み進むうちに統計の引用や、事例の示など、ところどことで、「もう一歩踏み込んでくれれば」と思う箇所があった。しかし、丁寧な周辺取材によって日記の内容の背景を描き出していく手法や、常識的な農村像・農民像にひきずられない問題提起の視点は、本書が良質なジャーナリズムの成果であることを、十二分に示している。著者は、唐沢日記の記述、山形村の具体的状況を踏まえつつ、そこから、より普遍的な日本の農村の移ろいゆく姿を、一つの理念型としてすくい上げている。著者自身、「これが典型的な日本の農村と農家であるとは必ずしもいえない形でおわってしまったかもしれないことを心配する」としながら、「唐沢日記には、全国のどの農家にも共通する喜怒哀楽がこめられているように思われる」と述べている。
 「喜怒哀楽」という、いかにもジャーナリスティックな表現でとらえられた、現代日本における農村社会の現実のエッセンスこそは、間違いなく本書の最大の魅力である。その意味では、上述の評者の「もう一歩」を求める感覚は、具体的な対象としての山形村に関心を引き寄せた立場からの、いわば無い物ねだりにすぎない。
 現代日本の「常民」は、農民ではなく、都市のサラリーマンである。地理学を志す学生の間でも、第二種兼業農家の出身者さえ希少な存在になっている。農業や農村のことを、ほとんど(あるいは、まったく)知らない学生を相手に農業地理学・農村地理学を講じる場合、リアリティが感じられる授業の構成は、難しい課題となってくる。もちろん何よりも、じっくり時間をかけた巡検を組み入れることが効果的なのだが、それ以前に、多様な視座を基本的な形で提供してくれる入門書に触れることの効用は大きい。具体的な農村の現実に立脚しつつ平明に綴られた本書は、農業や農村を知らない者にとって、今日の農村を学ぶための恰好の入門書といえるだろう。



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