雑誌論文(その他):1996

カルチュラル・スタディーズをどうとらえるか

地理(古今書院),41-12,pp38〜45.
カルチュラル・スタディーズをどうとらえるか
  ■「CSとは何か」にどう答えるか
  ■CSの歴史的展開と空間的拡散
  ■地理学にとってのCS〜「敵か見方か」


本稿は雑誌『地理』41-12(1996.12.) の特集<文化研究の可能性>の冒頭に置かれた論文である。
この特集には、このほかに以下の諸稿が掲載された。
 掲出に際して、明らかな誤字は訂正し、その部分を青字とした。


カルチュラル・スタディーズをどうとらえるか

山田晴通

 本稿は、編集子の求めに応じて、「カルチュラル・スタディーズ」(以下、CSと略記)(1)について、予備知識のない、白紙状態の読者を想定し、CSとは何かを理解する筋道を示そうとするものである。あらかじめ誤解のないように断っておくが、本特集の諸論考がCSとイコールで結ばれる「文化研究」の実践例だと主張しているわけではない。各論考の執筆者たちは「文化研究」に取り組んでいるとは思っていても、必ずしも自分をCSの陣営の一員とは考えていないだろう(もちろん、考えていたとしても、また不思議はないのだが)。そういう筆者自身、自分をCSインサイダーだとは思っていない。
 では、なぜ「文化研究」特集の冒頭にCSの話題が置かれるのだろうか。それは、文化地理学や、その周辺で進行しつつある変化のうねり(2)が、基本的には地理学内部の議論の蓄積から内発的に出現したものであるにせよ、見方を変えれば、さまざまな局面でCSのインパクトを受けていると考えられるからである。幕末の日本に例えるならば、明治維新に対する黒船−西洋文明の位置を占めるのが、CSなのである。(3)
 本稿は、さしあたりCSをどうとらえればよいかを考えるための一連のイメージ提示と、文献の紹介が、内容的には大きな比重を占めている。「CSとは何かの説明」と言わずに、「CSをどうとらえればよいかを考えるための一連のイメージ提示」などともってまわった言い方をしているが、これにも理由がある。本稿が読者に伝えようとしているのは、CSの定義や解説よりも、CSをとりまく雰囲気、ノリである。本稿は、言葉を多少不正確に用いることが許されるならば、フーコー的な意味での「アルケオロジー(考古学)」に近い試み、すなわち、CSそのものについてではなく、CSがどう語られるかについての検討と、そこで生み出されるイメージの変奏からなっている。ある意味では、『地理』にはふさわしくない構成・内容であり、また別の意味ではヨタ話同然という面もあるのだが、致し方ない。それでも何とか最後には、地理学とCSがどのような形で交差しているのかを、多少なりとも論じられるところまで漕ぎ着けたいと思う。

■「CSとは何か」にどう答えるか

 見慣れない新語を目にしたとき、その言葉を定義したり、わかりやすく解説した記述を、読んでみたいと思うのは当然の欲求だ。ところが、CSについて、その定義なり、解説らしきものを読んでみると、「CSはひとつではないし、ひとつであったためしはない」(4)というステュアート・ホールの言葉や、それと同趣旨の文章が、しばしば引用されている。また同様に、CSはディシプリン(確立された学問体系)であることを拒絶する、といった趣旨の文章も頻出する。CSは「しばしば積極的かつ攻撃的な意味で反・ディシプリン的」(5)であり、「ディシプリン化した段階で、それはもうカルチュラル・スタディーズとは言えないのではないか」(6)とさえ述べられている。こうした言説は、アカデミズムにおける新しい(実はさして新しくない)動きとして扱われつつあるCSの定義・解説に特徴的な、一種のはぐらかし、神秘化の戦略に沿ったものである。一つの定義でとらえられた瞬間にその定義をすり抜けていく存在、ちょうど、映画『ターミネーター2』に登場する「新型」ターミネーター(T-1000)のような存在として、CSの自己言及の言説は、自己を神秘化する。したがって、CSに通じている(ふりをする)者が素人を煙に巻こうとするならば、CSとは何かを説明してみようという行為自体が、無意味な、というより無粋な作業である、という視点から発言していれば、もっともらしく響くようになっているのである。
 しかし、ここで野暮を承知で、そして、「図式的に過ぎる」とか、「思想の諸潮流に対する理解が浅薄だ」といった批判を覚悟して、CSを簡略に説明してみるとどうなるのであろうか。議論の出発点として、大学院にCSの博士課程を設け、ある意味ではCSをディシプリンとしてしまった米国ジョージ・メイソン大学(GMU)が、CSプログラムをどのように説明しているかを、まず検討してみよう(7)。GMUが設けたCSの博士課程は、「文化的なモノの生産・流通・消費を社会的な文脈の中で検討するために、解釈と説明の手法を接合しつつ、社会科学と人文諸学を結びつける」ものだという。プログラムは、社会科学と人文諸学を結びつける「理論や方法に特に焦点を当てながら」、「国民性、階級、人種、ジェンダーといった今日的問題」をはじめ「過去、現在のあらゆる形態の文化」を取り扱う、と説明されている。さらに続く解説では、CSが、思想的には、批判理論、解釈学、現象学、ポスト構造主義、その他諸々の潮流の影響を受けていることが説明され、さらに、CSが、グローバリゼーションによる社会の流動化や、産業社会から情報社会への移行に伴う文化的な意味での財の生産・消費の拡張、といった事態を受けて出現したことが説かれている。
 GMUの宣伝文からは、CSが社会科学と人文諸学の双方と関わること、ポストモダンな思想潮流に乗っていること、情報社会−メディア指向を抱えていることなどが直観的に読みとれる。確かに、ここで説明されている内容は、間違ってはいない。しかし、こうした整理自体は、CSが強力な知の体系であることを印象づけはしても、何となくメカニカルで、重々しいフットワークを感じさせる。いわば「旧型」ターミネーターのようなものだ(8)。もっとも、立場から見れば当然のこととはいえ、CSの反・ディシプリン性は、巧妙に隠蔽、ないし回避されている。同じ「旧型」でも、オリジナルの『ターミネーター』の方ではなく、『ターミネーター2』に登場する、馴致されたターミネーターのようなものだ。
 CSには、正義の味方になってしまったシュワルツェネッガーの野暮ったさは似合わない。「旧型」ターミネーターのイメージは、この文脈では、むしろ伝統的なマルクス主義にこそふさわしいだろう。予め用意された概念を問い直し、体系を問い直し、硬直した秩序性を解体することによって隠蔽された次元を提示してみせる、そんな手法を常套手段としているCSにとって、定義づけを積み上げて構築された体系などは、確かにおよそ似つかわしくないものである。「ディシプリン化した段階でCSではない」という議論を全面的に支持することはできないとしても、CSが、本質的にアナーキーな性格を帯びていること、いわばアカデミックなダダイズムであることは、CSについて考える出発点として押さえておかなければならない。

■CSの歴史的展開と空間的拡散

 CSは、英国のニュー・レフトや、フランスのアルチュセールに代表される世代以降の様々な非正統的(非政党的?)マルクス解釈を踏まえ、現代社会における諸問題を批判的に取り上げるラディカルな思想潮流である。この基本的性格を押さえた上で、CSの歴史的な展開を整理してみよう。時間軸に沿って、いわば発生論的にCSの広がりを整理することは、現在のCSの茫漠たる広がりを理解する上で、有効な方法といえるだろう。
 CSの源流を遡ると、一九六〇年代の英国のニュー・レフトに行き着く。しかし、CSが大きく注目されるようになったのは一九七〇年代に、ホールが当時バーミンガム大学にあった現代文化研究センター(CCCS)の所長として活躍した時期以降であり、さらにCCCS出身者やその同世代の研究者によって業績が量産されるようになった一九八〇年代のことである。
 CSは、文化を経済に従属するものととらえる正統マルクス主義の反映論・経済還元論的な文化理解に異議を唱え、文化の自律性を尊重する文化主義(カルチュラリズム)(9)や、逆に決定的要素を重視する構造主義(的諸潮流)を接合し、さらにはグラムシのヘゲモニー論などを取り込んで、その原型を形成していった。そしてCSは、問題設定の枠組みそのものを問い直しながら、社会科学の立場から文化現象を検討していったのである。具体的には、受け手側の解釈からみたメディアの研究や、若者集団などのサブカルチャー研究が、早い時期から重要な課題として取り組まれることになった(10)。人が世界を認識していく過程は、提示されたテクストを解釈していく過程に他ならない。世界認識を形成するテクストが、メディアによってどのように生産されているのか、人々はテクストをどのように自由に、あるいは不自由に解釈しているのか、解釈のコード体系はどうなっているのかなど、それまで批判的検討の対象にならなかった文化の諸相を問い直していくことで、CSは当然視、ないし等閑視されていた論点に、次々と火をつけていった。
 英国を中心に、メディアや大衆文化を論じた一九八〇年代のCSは、米国にも波及することで、新たな展開、というよりも、関心の拡散と論点のシフトによる新たな変容を遂げた。そこでは、ジェンダーやエスニシティの問い直しをひとつの突破口として、ポスト・コロニアル状況の諸問題など、英国CSでは目立たなかった新たな問題意識が前面に出てくることになった。一九九〇年には、国際シンポジウム「CSの現在と未来」がイリノイ大学で開催され、二年後には、そこでの報告を踏まえた四十本の論文を集めた大部の論集(11)が刊行されたが、その内容は、あたかも玩具箱をぶちまけたような、ポストモダン言説の百家争鳴となっている。
 米国で注目を集めるようになったCSは、特に国民性、エスニシティ、植民地、ネイティヴといったテーマを介して、第三世界へと波及し、やがて各地で独自の展開をみせるようになる。その伝播を担ったのは、第三世界から米国や英国に留学した研究者たちであった。かつてホール自身がそうであったように、(比喩的な意味も含め)植民地から本国へと留学した人々、すなわち、植民地からも本国からも遊離し、疎外され、女性、労働者、エスニック・マイノリティ、同性愛者などとともに、社会の周縁部に位置づけられた人々によって、CSは継承され、変奏されるようになった。「CSはひとつではないし、ひとつであったためしはない」という言葉が、まさにグローバルに展開し始めたのである。
 一九八〇年代以来、CSはメディア研究の文脈を中心に、断片的には日本に紹介されていた。しかし、一九九六年はじめに、ホールが来日したのを機に、日本ではCSが、ファッショナブルな流行思想になったような感もある。CSを特集した『思想』一九九六年一月号と『現代思想』同三月号は、CSを理解する上ではこれまでになく便利な日本語のテクストを提供している(12)。日本にとってのCSは、一九八〇年代における「紹介(輸入)される海外の研究潮流」という位置から、現代日本社会におけるCS的実践が問われる段階まで、定着してきたのだと見ることもできる。こうしてみると、CSの歴史的展開は、あたかも三段跳びのような、地理的な移動でもあったことがわかる。しかし、この展開は、一面では空間的拡散であり、CSという言葉の無意味化−雲散霧消であるのかもしれない。
 とくに最近の日本では、たとえ系譜的にCSと無関係、ないし希薄な関係しか認められないものであっても、(CSと同じように)当然視されている文化的諸制度を問い直す言説であれば、これをCSに引き寄せてしまう議論がよくある。この背景には、英米圏を経由せずに、フランスの思想潮流が直接流れ込んでくる日本の知的サークルの環境が大きく作用している。例えば、一九七〇年代までの日本の「進歩的」知識人の多くが(少なくとも建前の上で)共有していた「反米」的な雰囲気のなかで、サルトルに代表されるフランスの進歩派知識人は、日本の知識人が自己を投影する恰好の対象となった。要するに、フランス関係の素材は「かっこよかった」のである。その後も、日本においては、人文諸学のみならず、社会科学においても、思想潮流も含めたフランス関係の諸要素は、差異の記号として有効に機能し続けた。一九八〇年代の「ニュー・アカデミズム」ブームも、そうした日本の知的サークルにおけるフランスへの傾斜という文脈で、理解することができる。つまり、米国的なるものへの対抗パラダイムとして、フランス的なるものに親しんでいる日本においては、英米のCSを迂回した形で、アルチュセール、フーコー、バルト、ボードリヤールらの言説を踏まえ、また日本における議論の蓄積をもとりこんだ、英米のCSとは系譜的に疎遠な、あるいは切断された日本CSの存在が主張され得る空間が用意されているのである。
 しかし、そのような、ある意味ではとんでもなく乱暴な傾向さえもが、きわめてCS的なのだ。何しろCSは、普遍的と考えられてきた近代的諸概念を、人権、民主主義、学問、といったものまで含めて、欧州的偏見、白人性に基づく特殊なものにすぎない、と論じる地平にまで到達しているのである。英語圏を中心とするCSは、折衷的ラディカル言説に無差別に貼り付けられるレッテルにすぎず、英語帝国主義を背景としてグローバル化した知的ファッション以上のものではない、といった自己言及の結論さえ、CSの射程には入ってくる。普遍主義(カトリシズム)に対する異議申し立て(プロテスタンティズム)が、CSには本質的に組み込まれている。その必然的な帰結が、「CSはひとつではないし、ひとつであったためしはない」という言葉のグローバルな貫徹であるとしても、何の不思議もない。

■地理学にとってのCS〜「敵か見方か」(13)

 CSは地理学と等価で併置されるようなディシプリンではない。CSは、衝動、煽動、運動であって、制度ではない。もちろん、何らかの意味でCS的な方法を用いた地理学の解体−再構成は当然可能であるが、そのような営みがなされるとしたら、それは地理学という枠組みからはみ出し、すり抜け、あるいは乗り越えて行くだろう。対する地理学は、ディシプリンたらんとする近代地理学の指向性に加え、より古い基層として、世界を網羅的な知識の秩序体系としてまとめあげる欲望、つまり地図の作成や地誌の編纂によって、あるいは普遍的モデルの構築によって、世界を擬似的に支配したいという強固な指向性をもっている。(すべてとはいわないが)多くの場合、地理学は、鳥の視点、神の視点、支配者の視点を共有している。地理学に浸透してきたCSは、それ以外のあらゆる視点の可能性について、問題を提起することになる。
 近代地理学がフンボルトからヴィダルまでかかって構築した客観的、普遍的な地誌への指向性は、すでに人文主義地理学によって否定された。しかし、今や人文主義地理学さえもが、その視点の特権性(エリート主義)ゆえに、CS(的なるもの)の批判を免れ得なくなっている。固定化された視点、強制された視点を離れ、自らの視点で議論することが、有効な第一歩であることは間違いない。しかし、その先には「自らの視点」自体が批判的問い直しの対象となってくるはずである。CSは、いわば視線の永続革命を主張するのである。
 確立されたディシプリンとしての地理学にとって、CSは手強い、またとらえどころのない批判者である。しかし、CSが国民性、階級、人種、ジェンダー、等々の地理学と関心を共有するテーマを、実践を強調する形で論じていること、CS的言説においてしばしば地理的概念(地図、地勢、位置、移動)が比喩的に動員されることは、地理学的関心と本質的なところで重なっている。地理学にとってのCSは、本質的に立場を異にする論敵であると同時に、地理学自体に新たな見方を導入する実践の契機なのである。
 特に日本の場合、古いマルクス主義パラダイムが支配的であった時期には、「文化」をもっぱら論じること自体が「反動」とみなされたし、「文化」の側に身を置いた研究者も、そうした経済至上主義に対する反発から経済的・社会的側面の分析を軽視する風潮が強かった。地理学においても、経済地理学の隆盛の背後で文化地理学は劣勢を余儀なくされ、またその視線はもっぱら過去に向けられた。この不幸な事態は、今やCSという黒船のもたらす異化効果によって、撹拌されようとしている。「新しい文化地理学」などというものが、確立されるかどうかは問題ではない。同時代の、生身の文化について論じる契機が到来し、模索が始まったという点が重要なのである。

[注]
(1)これまで筆者は、Cultural Studies をもっぱら「文化研究」と記してきた。これは、CSの日本語表記が現在以上に流動的であった一九八〇年代半ばにCS文献と出会った際に、冗長な(一三文字分の長さになる)カタカナ表記を嫌い、簡潔な漢語への置き換えを選んだためである。現在でも日本語表記の流動性は残っているが、大勢は一三文字分派に傾いている。ここでは、ネルソンほか(一九九六)に準じて略記法を採るが、大橋(一九九六)のようにカタカナ表記と漢語とを巧みに使い分けながら論が進められる場合もあることに留意しておきたい。
(2)八木(一九九五)は、一九九四年の人文地理学における「民族・文化」分野の研究動向を展望する際に、「従来のコンヴェンショナルな領域、すなわち生態から象徴論・記号論的分野にまたがる領域に加え、文化が政治や社会から独立した存在ではなく、それゆえ現代や都市との関連においてたち現れるものであるという理解の深化を背景に、新しい文化地理学の動きも見られた」と述べている。単に象徴・記号を論じるだけでは、「新しい文化地理学」とはいえないのだ、という理解に注意をしておきたい。
(3)英国においては、CSの直接的影響を受けた社会地理学者たちが、文化地理学への積極的介入をおこなった。バージェス・ゴールド編(一九九二)は、その一例である。日本では、CSと文化地理学の新しい動きとの結びつきは、より間接的である。
(4)ネルソンほか(一九九六、九四頁)の引用による。もとは、ホールの一九九〇年の論文中の言葉。
(5)ネルソンほか(一九九六、九二頁)。
(6)鼎談における吉見俊哉の発言。姜ほか(一九九六、八七頁)。
(7)http://www.gmu.edu/departments/cultural/program.html による(一九九六年一〇月末現在)。
(8)『ターミネーター』シリーズの産業的イメージの含意は、実に興味深いテーマであるが、誰かが本格的に論じていないのだろうか?
(9)レイモンド・ウィリアムズ、リチャード・ホガートなど、ホールたちに直接の影響を与えた、英国らしい経験主義的色彩の強い立場。ちなみに、一九八五年に原著の出たバージェスとゴールド(一九九二、一〜二頁)は、文化主義者たちの名を列挙して「地理学者になじみのあるもの」とする一方、ホールらCSについては(地理学の世界では)「それほど知られていない」と述べている。
(10)一九八〇年代の英国CSについては、主としてメディア論の立場から佐藤毅、藤田真文、阿部潔らによって『新聞学評論』に検討・発表された諸稿が、文献渉猟の入口として役立つ。(書誌は省略)
(11)Routledge 社から刊行された Cultural Studies のこと。収録された論文は、あたかも意味づけられた秩序性を嫌うかのように、内容と無関係に、執筆者名のアルファベット順で配列されている。ネルソンほか(一九九六)は、この序文を訳出したもの。
(12)とりわけ、ホール(一九九六)と、ネルソンほか(一九九六)は、CSの全体像を理解する上で大いに役立つ。
(13)日本ポピュラー音楽学会におけるイアン・コンドリーの発表「ヒップ・ホップ−敵か見方か?」に示唆を受けた。日本のラップ・グループ King Giddra の詞に見られる語句。

[参考文献]
(邦文文献に限った。訳稿では原著書誌を省略した) ------------------------------------------------
やまだはるみち・東京経済大学コミュニケーション学部助教授 一九五八年福岡県生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程学位取得。社会経済地理学が専門。
http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/  

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