雑誌論文(その他):1988:

ヤヌスの都市−日英のビデオ・クリップにみる《香港》のイメージ−.

こすもす(東京大学教養学部イギリス科),10,横組pp41〜46.


 この論文は、大学の同窓誌に発表したものです。
 手書き原稿からタイプ印刷で版が作られ、執筆者校正もなかったという当時の事情もあり、発表時のテキストには重大な誤字・脱字が少なくありません。掲出に際して、明らかなものは訂正し、その部分を青字としました。
ヤヌスの都市
−日英のビデオ・クリップにみる《香港》のイメージ−


 1985年、日英の代表的な人気バンド2組が相次いで香港にロケしたプロモーション用ビデオ・クリップを制作した。日本のいわゆるニュー・ミュージック・グループである安全地帯の『熱視線』と、当時英国で第一級の人気を博し、1980年代の British Invasion の一翼を担って米国でも人気の高かったスパンダー・バレー(Spandau Ballet)の“Highly Strung”である。どちらのビデオ・クリップもプロモーション・ビデオとしては洗練された佳作であった。しかし、ほぼ同じ時期に、同じ香港で、同じような素材を取り上げた作品であるにもかかわらず、両者が見せるメディア表現としての<香港>、あるいはトポスとしての<香港>は、明らかに互いに異なる視点から捉えられた、異なったものになっているのである。
 ただし、以下で論じる両者の違いが特殊な事例間の違いなのか、文化の差異に根差すものなのかは、即断すべきことではない。ここでは、映像という論じられることの少ない表現方法、それもビデオ・クリップという不断に消費され、忘却されていくメディアに敢えて例をとり、事例の比較を紹介することだけを目的とする。

*      *      *

 “Highly Strung”は、「昔よく知っていたあの娘は、今では神経がまいってしまって別人のようだ」と嘆き、同情する歌である。ビデオは冒頭、ジャンクの映像で始まり、京劇の練習風景などのフラッシュ・バックに続いて、海峡を挟んで九竜を望む庭園で記者会見をしているバンドの面々の様子で始まる。東洋的な容貌のヒロインは、そこに白いドレスで現われる。
 ビデオの前半は、バンドの面々と写真モデルであるヒロインが香港のあちこちで撮影するエピソードが続く。夜の市場で、海上のジャンクで、そして高層ビルの壁に京劇の扮装をしたヒロインを吊して、撮影は進行する。エピソードの合間には、バンドのメンバーが街頭で、学生にサインを求められるシーンなどが入る。前半を通じて、いろいろなストレスから徐々に“Highly Strung”になっていくヒロインに、メンバーの一人マーティン(Martin Kemp)が同情をよせるようになっていく。
 後半では、中国的な赤い装飾の目立つ、香を焚きこめたライブハウス風の場所で演奏するシーンと、ヒロインとマーティンが夜の街頭や昼の市場〜路面電車でデートするシーンとが交互に描かれる。カメラに神経質になっているヒロインはマーティンがポケット・カメラを構えても払い除けるほど気が立っているが、路面電車の中でマーティンとキスしたところをカメラマンに「フォーカス」されて逆上し、カメラを奪ってフィルムを抜き取ると、群衆の中を走り去っていく。追いかけるマーティンを残して、ヒロインを乗せた天星小輪(Star Ferry)は出てしまう。ヒロインは部屋に戻ると、自分の写った化粧品のポスターを引き裂き、自分の出たCMの映ったテレビ画面をはたき、部屋中をひっくり返す。マーティンが着いた時には、部屋はもぬけの空である。次のシーン、黒い中国服(ドレスではなく上衣とズボン)に身を包んだヒロインは、自転車を押しながら、遠く高層ビル群を望む新界の丘に上がる。その背後にマーティンらバンドのメンバーが乗り込んだヘリコプターが舞い上がり、頭上を飛び去るのをヒロインは見上げる。そして最後に、ヒロインはフェンス(国境を暗示する?)に向かって自転車に乗って去っていくのである。
 思いきって単純化すれば、最先端の都市文明生活に疲れたヒロインが東洋的伝統・家郷へと回帰していくというのがこの作品のストーリーであると言えるだろう。
 なお、バンドのメンバー以外で作品の中に登場する白人は、冒頭の記者会見のシーンで一瞬アップになる女性記者だけである。一方、画面に登場する華人たちは、いかにもそれらしい普通の人々である。ヒロインは最後のシーンで黒い中国服(功夫服)で登場するほか、前半でも京劇の扮装で登場する点に注意したい。

*      *      *

 『熱視線』の冒頭は、ホテルのプールらしい薄暗い青一色の光景で始まる。遠い雑踏の音とコンクリートの杭打ちにも似た機械音を背景に、プールサイドにヒロインが立っている。東洋系ではあるがバタ臭い感じの憂いを帯びた表情がアップになるとエレベータの駆動音がして、上昇するエレベータから見下ろした夜の街頭風景となり、前奏が始まる。続いてヒロインが手にした薔薇がプールの水面に落ちる瞬間がフラッシュ・バックされて、ギターがメロディを奏で出す。
 『熱視線』は、恋にためらいを見せる女性に「燃える恋に身を投げて」と説得する歌であり、ストーリー性は乏しいが、ビデオの方も同様で、並行するいくつかのイメージがそれぞれに進行していく様子が目まぐるしいカット割りによって矢継早に提示されていく。ストーリーではなく、断片的な歌詞と映像の同調などの方が強く印象に残る作品といえるだろう。
 並行するイメージの流れとしては次の6つが指摘できる。
[1.プール]ホテルのプール〜水面の薔薇〜水面に浮かぶ男〜水面の薔薇
[2.夜の疾走]走行する車から撮影した夜の街頭〜夜のハイウェイ
[3.グラス]落下するグラス〜砕け散るグラス
[4.船上のヒロイン]昼:船に乗ったヒロイン〜桟橋で電話をするヒロイン〜夜:船で珍寶(Jumbo restaurant)へ向かうヒロイン
[5.自室のヒロイン]朝:ホテル(あるいはペントハウス)の部屋にいるヒロイン〜夜:窓ガラスにもたれかかるヒロイン〜夜:ヒロインは男(後姿しか見せない)と抱擁する。
[6.歩くヒロイン]昼の街頭や市場を歩くヒロイン〜夜の街頭を歩くヒロイン〜昼の市場を歩くヒロイン
 これらのイメージの流れは、それぞれほぼ全曲に渡って進行していく。さらにこれらとは別に、バンドの面々がコンサート会場とおぼしき無人のホールでリハーサル(?)をしているシーンが曲の中盤に集中して挿入される。ヒロインはこのリハーサル会場に現われ2階席の通路からバンドを見下ろす。
 『熱視線』には、パーソナリティーを与えられて描かれている物はほとんど登場しない。わずかにヒロインは、登場する機会が最も多いこともあってその心情が描写されているように思われるが、それも非常に「寡黙」な印象を与える。実際、ヒロインが言葉を発する(ように口を動かす)シーンは全くない。電話をするシーンにおいてさえ、ヒロインはただ首を横に振る仕種を見せるだけである。その他の印象に残る人物をヒロイン以外で強いて挙げるとしても、バンドのボーカルである玉置浩二と、ラスト・シーンに後ろ姿で登場する(おそらくは途中のシーンでプールに浮いている)ヒロインの恋人ぐらいしかいないが、どちらもパーソナリティーを与えられているとは言いがたい。
 この作品の映像世界は、「恋」へのとまどいを語るヒロインの無言の独白とも言うべきものである。
 なお、“Highly Strung”との対比から付け加えるならば、この作品には白人は登場しない。しかし、登場する東洋人たち(特にヒロインやその恋人)の印象は極めて「バタ臭い」。あるいは、より正確に述べれば「無国籍的」である。ヒロインは昼間の屋外のシーンでは必ずサングラスをかけており、(ある意味ではファッション・モデル的な)無国籍性は一層強調されている。

*      *      *

 これら2本のビデオ・クリップは、確かに内容の違いが大きい。そして興味深いことに、両者がしばしば共通の場面・光景・状況などを取り上げているにもかかわらず、作品の中に描かれた都市<香港>は、非常に対称的な印象を与えるのである。同じモチーフが“Highly Strung”と『熱視線』でそのように違った形で取り上げられているのか、いくつか例を見ていくことにしよう。
 『熱視線』でヒロインが船(天幕のついた小船)に揺られるシーンは、停泊する船や遠くに見える高層ビル群を背景に、船縁にもたれるヒロインしか映さない。一方、“Highly Strung”では、ボーカルのトニー(Tony Hadley)が船上で歌う横に、船の舵を取る親子としゃがみこんで茶碗めしを食べている子どもがいたりする。前者が単なる香港の風物として船に象徴される水上の世界を取り上げているのに対し、後者には水上生活者の現実の断片を挿入しようという意図がわれる。
 イルミネーションも鮮やかに水上に浮かぶ高級中華料理店・珍寶の正面玄関は、“Highly Strung”ではバンドのメンバーがファンに取り囲まれる現実的な場面として描かれている。他方、『熱視線』の珍寶は、ヒロインの載った船がアプローチする幻想的な空間として(ほとんど人影も目立たない形で)描かれている。
 それぞれの作品で描かれる<香港>の街頭風景にも、微妙な違いが感じられる。例えば、市場のシーンに注目してみても、“Highly Strung”が夜の市場での写真撮影ロケに野次馬が集まってくる現実的な光景を捉えているのに対し、『熱視線』は昼間の市場をヒロインが足早に通り抜けていくシーンに象徴的なように、「図」であるヒロイン以外の要素は一切「地」としてしか扱われていない。カメラはひたすらヒロインを追い、他の人物は背景か前景として流されていく。“Highly Strung”の街頭風景は漢字の看板に溢れている<香港>らしい、あるいは西洋人にとっては東洋的なエキゾティックな趣がある。また、高層ビルのように近代的/無国籍的な光景には京劇の扮装のヒロインが配されて、エキゾティシズムが貫かれている。対的に、『熱視線』の「夜の疾走」のイメージでは、走行する車から撮った夜の街頭のネオン・サインがわざとボカされていて瞬時には漢字であることに気づきにくくなっていたり、高層ビル群の夜景をバックにしたハイウェイのシーンが極めて無国籍的であるなど<香港>にオリエンタリズムとしてのエキゾティシズムを求めようとする姿勢は見られない。
 どちらの作品もバンドの演奏風景が挿入されるが、“Highly Strung”でスパンダー・バレーが登場する東洋的な、香を焚き込めたライブハウスに対して、『熱視線』の安全地帯のリハーサル会場はごく普通のホール(彼等は実際にそのホールで公演を行なったかもしれない)である、ヒロインが入ってくる通路の一角に華語の掲示がなければ、日本のコンサート会場と変わったところは全くない。
 以上紹介した例に止どまらず、これら2本のビデオ・クリップには対称的な点が数多く認められる。こうした対称性は、“Highly Strung”が「西」から「東」を眺める眼で<香港>を捉えているのに対し、『熱視線』は「東」から「西」を眺めているのだ、と差し当たりは説明できる。しかし、厳密に見れば、ここで「東」を見る「西」の眼と「西」を見る「東」の眼は、明らかに異質なものである。
 香港は中国の港であると同時に英国の植民地であるというマージナルな性格を持った都市である。「西」から見た<香港>は、「西」の価値の及ぶ場所ではあるが、いわば「東」への入口として位置づけられる都市である。当然、そこには「東」の世界の諸要素、すなわちオリエンタリズムとしてのエキゾティシズムが満ち溢れていることが期待されている。そこに求められているのは「西」の文化とは異なった、それでいて「西」の文化と肩を並べるような「東」の文化の存在証明なのである。
 “Highly Strung”に限らず、この作品に先行し、影響を与えたとも推察されるデビット・ボウイ(David Bowie)の“China Girl”、ビデオ・クリップの魅力によって大ヒットを飛ばした先駆者であるデュラン・デュラン(Duran Duran)のスリランカを舞台とした作品“Hungry Like The Wolf”や“Save The Prayer”極めて奇妙な日本趣味が展開されるカルチャー・クラブ(Culture Club)の“Miss Me Blind”、さらに、北京公演ライブに中国ツアーの舞台裏スケッチを織り込んだワム!(Wham!)の“Freedom”など1985年前後に英国のポップ・スターたちが一種のブームとして制作したアジアを題材としたビデオ・クリップ群には、表現方法やアクセントの置かれ方の違いはあれ、異文化への接近という意識が共通しているように感じられる。
 これに対し(少なくとも『熱視線』のビデオに関する限り)、「東」から見た<香港>は、同じ<東>の文化を基層にしながら「西」の影響下にある都市である。ここで重要なのは。市場の雑踏をさっそうと通っていくヒロインの姿のように、純然たる「東」文化の海の中の孤島として、そして、「後進」の海の中の「最先端」の島として、<香港>が捉えられているという点である。少なくとも明治以降の日本という「東」にとって、「西」とは異文化である以上に、自らの進むべき「未来」のモデルであった。「東」からみた<香港>は、「東」と基層文化を共有しながら一歩「西」=「未来」に近い位置を占めている都市、我々の「近未来」の世界に他ならないのである。
 そこに描かれた<香港>は、例えば東京の中で<六本木>という記号に与えられるものと近い価値を帯びているのだ。「ガイジン」(すなわち新宿を中心とした「エスニック・トライアングル」のアジア人ではなく白人:ただし、スパイス程度にはアジア人や黒人も含まれる)の生活する地域としての港区、その中心的盛り場・六本木が、東京の中心にありながら「西」に近い空間=最先端/近未来的<六本木>と感じられるのと同じ構図が、ここでは展開されているのである。
 一言でまとめるならば、「東」を見る「西」の眼は、「他者」を見つめる眼差しであり、「西」をみる「東」の眼は「自己の未来」を幻視する眼差しであった。これらの眼差しは、香港に異なるものを求め、それぞれの<香港>を得たのである。

(リンク:ウェブ版のみのおまけ)



このページのはじめにもどる
テキスト公開にもどる
山田晴通・業績一覧にもどる   

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく