雑誌論文(その他):2015:

英国テルフォード・ニュータウン地域における「第二のボーンヴィル」,ライトムア・ヴィレッジ(Lightmoor Village)の建設.

人文自然科学論集(東京経済大学),136,pp.17-44.


 原論文は、図6枚を含んでいますが、さしあたり本文テキストと写真だけをこのページに掲載しました。(2015.03.29.)
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英国テルフォード・ニュータウン地域における「第二のボーンヴィル」,ライトムア・ヴィレッジ(Lightmoor Village)の建設.

Abstract
はじめに
I.前史:ライトムアの歴史的背景
  産業革命の影
  テルフォード・ニュータウン
II.ライトムア・ヴィレッジ着工までの経緯
  「第二のボーンヴィル」の着想と用地選定
  マスタープランの作成と開発許可の再申請
  デザイン・コード
III.住宅地建設の経緯
  建設の着手:ラウンド・ハウス・パーク街区
  ストッキング・パーク街区
  ヴィレッジ・センター街区とザ・クロッピングス街区
IV.住民コミュニティの形成と生活環境の課題
おわりに



論 文
バーミンガム郊外セリー・オーク(Selly Oak),ボーンブルック(Bournbrook)における住宅地形成

山田 晴通


Abstract:

The Construction of Lightmoor Village as a “second Bournville”

Harumichi YAMADA

Lightmoor Village is a recent housing development site within the former Telford New Town area in Shropshire. It was constructed and managed by The Bournville Village Trust, a housing association which plays the central role in the management and on-going development of the Bournville Estate, a model village in suburban Birmingham.
The village is located in a former coal mining area near the historical industrial complex of Ironbridge Gorge along the Severn river. After the Industrial Revolution, the area had been largely abandoned, but turned into farmland during the 20th century. In 1968, the area was included into the planning of the Telford New Town project. As the result of various twists in New Town policy-makin, the site remained undeveloped until the turn of the 21st century.
Meanwhile, the BVT, in celebration of its centennial, was planning to develop a “second Bournville” which would become another model village suitable for the new century. Ultimately, BVT applied its plan to the undeveloped site within Telford New Town.
The master plan for the site was redrawn several times after the first version was presented in 1997, and ultimately the development of some 800 housing units was authorized in 1999. Actual construction on the site started in 2005, and the first 40 housing units were provided in 2006. The housing recession of 2007 caused a substantial delay in progress, and some revisions in the development scheme, but almost 400 housing units had been completed by 2013.
Though Lightmoor Village was conceived as a “second Bournville”, it is clearly different from Bournville in character. Lightmoor Village is designed as a pure residential community, with no industrial establishments or railway station included in the scheme. This is understood as a reflection of the development of motorization in the 20th century.


はじめに

 1895年,イングランドの工業都市バーミンガムの郊外で,チョコレート製造業で成功していたジョージ・キャドバリー(George Cadbury, 1839 - 1922)の主導によって,模範村落(model village)ボーンヴィルの建設が始まった。その5年後の1900年には,ボーンヴィルの住環境を永続的に維持管理していく主体となる組織として,公益信託財団(charitable trust)の形態をとるボーンヴィル・ヴィレッジ・トラスト(the Bournville Village Trust, BVT)が設立された(山田,2012,pp.14-15)。以来百年以上にわたって,BVTはボーンヴィル・エステートを良好な住宅地として管理運営し続けてきた。しかし,英国の社会的文脈において,ハウジング・アソシエーション(housing association:非営利の民間住宅開発事業者)と位置づけられているBVTは,ボーンヴィル・エステートの領域外でも,様々な形で住宅地開発や,既存住宅の改良事業に関わってきた実績を持っている。ボーンヴィルがBVTにとって最重要の現場であることは間違いないとしても,BVTの活動をそこに限定して見ているだけでは,十分な理解は得られないだろう1)
 本稿で取り上げるライトムア・ヴィレッジは,BVTがボーンヴィル・エステート以外の場所で取り組んできた諸事業の中でも,最も大規模な事業である。BVTという組織の現代的意義を理解するには,この事業を避けて通ることはできない。幸い筆者は,2013年2月にライトムア・ヴィレッジの現地踏査を含め,テルフォード・ニュータウンや周辺地域を含む,テルフォード・アンド・リーキンの各地を訪れる機会を得た。本稿は,筆者の訪問の少し前に刊行されていた,この開発の沿革をまとめた小冊子『The Lightmoor Story so far…』2)の記述を軸とし,現地でBVT関係者から受けた説明や,その他の資料も踏まえて,ライトムア・ヴィレッジの開発の経緯を紹介するものである。なお,本稿において,おもに第II章以降で参照する『The Lightmoor Story so far…』の記述への言及の際には,括弧書きの中にページ数のみを表記する。
 現在ライトムア・ヴィレッジと呼ばれている区域は,歴史的にはシュロップシャー州の東部に位置し,現在は単一自治体(unitary authority)となっているシュロップシャーにおいて,(日本語では訳語の選択が難しい)下位の行政単位であるバラ(borough)としてのテルフォード・アンド・リーキン(Telford and Wrekin)に,そのまた下位区分である行政パリッシュ(civil parish)としてのホースヘイ・アンド・ライトムア(Horsehay and Lightmoor)に所属する位置にある3)
 英国の場合,かつての州が単一自治体に移行したシュロップシャーのようなケースでは,単一自治体を下位区分した自治行政区(district)を指すバラは,実態としては一定の地域的まとまりと歴史的独自性をもった地方都市を指していると理解すべきである。ちなみに,テルフォード・アンド・リーキンの人口は近年では17万人弱の水準にある。また,テルフォード・アンド・リーキンの場合,自治の形態は議会(council)で多数派が首長(leader)と執行部(cabinet)を選ぶという,議院内閣制を模した形態(cabinet-style council)が採られている。このような実態を踏まえ,以下の行論では,テルフォード・アンド・リーキン・カウンシルを指して「市議会」の訳語を宛てるが,二元代表性を採る日本の地方自治制度でイメージされる「市議会」ではなく,日本の「市役所」と「市議会」を合わせた「市当局」とでも訳すべき存在だということ,また,あくまでも単一自治体の下に置かれた,権限が限られた行政単位に過ぎないことを了解されたい。

I.前史:ライトムアの歴史的背景

産業革命の影
 本稿の主題となるライトムア・ヴィレッジは,谷筋が複雑に入り組んだ丘陵地帯の,南向きの斜面上にある。そこから丘ひとつ隔てた南方2kmあまりの谷筋には,セヴァーン川が東流しており,その川沿いの一帯は,産業革命の揺籃の地,アイアンブリッジ峡谷(Ironbridge Gorge)として,多くの施設が世界遺産に指定されている(並川,2004)。産業革命当時,現在のライトムア・ヴィレッジ の1kmあまり南方には,製鉄業の一大集積を形成したコールブルックデール(Coalbrookdale)があり,ライトムア周辺は,そこに最も近接した炭田地帯のひとつであった。一帯は,石炭,鉄鉱石,石灰石,あるいは陶土となる粘土などが得られ,採掘が古くから行なわれてきた歴史があった。特に産業革命の時期には,主として表層からの露天掘りによって,これら資源の採掘が盛んに行なわれ,地形は著しく改変された。19世紀を中心としたそうした様々な採掘活動によって生じた凹地や,廃棄物のボタ山などの人工改変地形の多くは,20世紀における諸産業の衰退の結果として自然に帰され,自然の中で,あるいは農地として,緑化された(Meech, 2000, pp.66-67)。
 現在のライトムア・ヴィレッジの場所には,もともと「村 (village)」と認識されるような,まとまった規模の集落は存在していなかった。そもそも,そのような集落が存在していれば,それはニュータウン開発には適さない場所となっていたはずであるし,ニュータウン建設のための土地買収に際して,集落を保存するような工夫が行なわれることになったことであろう4) II.市街地形成の経緯

a)前史
。[図1]
 現在のセリー・オーク一帯については,街道の交差点として古くから記録が残されていた。「セリー・オーク」という現在の地名は,18世紀はじめから1909年に伐採されるまで街道の交差点近くにあったオークの木に由来するものであり,この一帯が現在の地名で知られるようになったのは18世紀以降のことである(Leonard, 1933, p.1)。この辺りでは,ほぼ北東=南西方向に走るブリストル・ロード(Bristol Road)が,南北に走る南側のオーク・トゥリー・レーン(Oak Tree Lane)と北側のハーボーン・レーン(Harborne Lane)と交差し,交差点を中心に沿道に商店や住宅が建ち並んでいる。交差点の北東のブロックでは,かつての工場跡の一部には,駐車場を囲んで各種の中規模小売店鋪やレストランが並ぶパワーセンターが展開されている。[写真1・2]
 一方,この辺りで歴史的にウスターシャー州とウォリックシャー州の境を成していたボーン・ブルック/ボーン川(Bourn brook)に由来する名称をもつボーンブルックは,北側に隣接するエジバストン(Edgbaston)地区に所在するバーミンガム大学の本部キャンパス=エジバストン・キャンパスと,ブリストル・ロードや,並行するA38バイパスを挟んで隣接しており,また,地区内に近年整備されてきた同大学の学生寮が複数散在していることから,大学町,学生街という雰囲気が強い。また,かつての幹線道路であったブリストル・ロードに沿って,在来型の商店街が形成されており,この区間は近年のバイパスの開通によって通過交通が入って来にくくなっている。商店街といっても,複数の比較的小規模な食品スーパーのほかは,学生がおもな顧客と見受けられる飲食店や,文具店などが目立ち,鉄道を挟んだセリー・オーク側の在来商店街やパワーセンターとは,棲み分け,共存がなされている印象を与える。[写真3]
 いずれに地区においても,表通りを離れ,脇道に入ると,19世紀末から20世紀初頭に建設されたテラスハウス形式の住宅ストックが通りに並び,貸家であることを示す「To let」の看板が目立つ。また,特にボーンブルック側では,あちこちで,20世紀中葉以降に小規模な再開発が行なわれて,新しい,やはりテラスハウス形式の住宅ストックに更新されたものと思しき場所も目に入る。[写真4・5]
 上述のように,両地区の間では,市街地の連続,生活行動圏の一体化が進んでいるものと見受けられるが,他方では,隣接する周囲の他地区とは,景観的な不連続性が強く感じられる。両地区は,バーミンガム大学の施設のほかにも,大規模な病院用地,公園等の緑地,巨大な空白地として未利用のまま残されているかつての工場跡地などに取り囲まれており,隣接する地区との境界的断絶がしばしば可視化されている。ボーンブルックの南東側には,公園の名称であり,地区名でもあるセリー・パーク(Selly Park)があり,住宅地が連続しているように地図上は見受けられ,境界が曖昧だとする見解もあるが(Muller, 1985, pp.11-12),尾根線上から南東斜面にかけてのセリー・パークに対して,北東斜面上にボーンブルックは位置しており,明らかな地形上の不連続がある。さらに,大局的には,セリー・オーク駅に近いテラスハウス中心の密度が高い住宅地であるボーンブルックと,より空間的に恵まれたセリー・パークという対比がこれに重なっている。こうした差異の一因は,両者の開発時期の違いや,開発に際しておもなターゲットとされた層の違いなどに求められる。
 現在のセリー・オーク一帯は,隣接する(隣のエジバストン地区に属する)バーミンガム大学構内にローマ時代の駐屯地の遺跡が遺されているように,歴史時代の早い段階からある程度の定住者がいた地域であったと考えられている。文献記録に現在のセリー・オークにつながる地名が見出されるのも比較的古く,1085年のドゥームズデイ・ブックには,「エセリー(Escelie)」という名の言及があり,これ以降は概ね「セリー」という発音になる様々な綴り字による言及が残されている(Leonard, 1933, pp.2-3)。
 この一帯は,段階的な地方行政制度の変革を経て,最終的には1911年にバーミンガム市に編入された5),歴史的には,現在のセリー・オークやボーンブルックの領域を含むウスターシャー州ノースフィールド(Northfield)のパリッシュが,スタッフォードシャー州のハーボーン(Harborne)や,ウォリックシャー州のエジバストン(Edgbaston)のパリッシュそれぞれと隣接する,州境の境界地帯であった(Stephens, 1964, pp.21-22)。
 現在の町並みへとつながる近代的街区の形成の契機となったのは,もちろん産業革命であり,とりわけ産業革命とともに急速に発達したインフラストラクチャーとしての交通網の発達であった。その中でも,いち早く先行したのは,街道と運河の整備であった。
 歴史的な街道のひとつであるブリストル・ロードのセリー・オーク付近の区間は,1767年にターンパイク(有料道路)制度が導入された後,程なくしてターンパイクとして再整備され,現在のボーンブルックの商店街の北東の入口付近にも料金所が設けられた。しかし,ターンパイクは運河網の整備とともに競争に晒されて通行料の引き下げを余儀なくされ,衰退していった(Leonard, 1933, pp.13-14)。
 1791年に議会の認可を得て着工されたウスター=バーミンガム運河は1795年にセリー・オークまで到達し,1798年にはダドリー運河2番線(セリー・オーク支線)も開かれ,両運河の整備によって工場進出への基盤が整備され始めた(Hodges, 1986, pp.15-16; Holland, 1986, p.9)。両運河はその後も延伸し,1801年にはダドリー運河のセリー・オーク支線,1815年にはウスター=バーミンガム運河が全通して,両者の結節点としてセリー・オークの重要性は高まった(Stephens, 1964, p.22)。ウスター=バーミンガム運河沿いに最初の化学工場が設けられたのは,ヴィクトリア女王の即位(1837年)以前とされている(Skipp, 1983, p.64)。当時は,運河で運ばれた石炭と石灰石を用いた生石灰の生産が盛んに行なわれていたほか(Leonard, 1933, p.16),リン(燐)なども生産されていた(Stepehns, 1964, p.129)。鉄をはじめとする金属加工もセリー・オークで初期から成立した工業であり,例えば釘の製造は,1940年代からオルブライト・アンド・スタージ(Albright and Sturge)によって始められていた(Stephens, 1964, p.133)。
 Leonard(1933, p.6-13)は,その執筆時点でセリー・オークに居住していた古老への聞き取りなどにより(Leonard, 1933, preface; p.1),運河の開通によって工場の立地が始まって間もない時期である1850年ころのセリー・オーク(現在のボーンブルック地区を含む)の状況を詳しく再構成し,その内容を地図にまとめている(Leonard, 1933, p.8)。この時点では,まだターンパイクの料金所が複数存在しており(機能していたかどうかは記述からは読み取れない),顕著な住宅地区の形成は少なくとも地図には表現されていない。[図2]
 19世紀前半の国勢調査においてセリー・オーク一帯を含んでいたノースフィールドのパリッシュは,1801年の2807人から1851年の7750人まで人口を増加させていたが(Leonard, 1933, p.8)6),1850年当時の村落としてのセリー・オーク(現在のボーンブルック地区を含む)の人口について Leonard(1933, p.16)は,800人以下と推定している。地元のセリー・オーク図書館に郷土資料として所蔵されているタイプ打ちの原稿であるSaunders(n.d., p.5)は,国勢調査の地区別集計にもとづく数字として1851年の時点で618人という数字を挙げている7)

b)工場の集積,鉄道の整備と19世紀後半以降の人口拡大
 1861年の国勢調査では,現在のボーンブルック地区を含むセリー・オークの村落は341世帯,人口1483人であったが,1871年にはこれがほぼ倍増し,591世帯,人口2854人と記録された(Leonard, 1933, p.6)。その後も,十年ごとにほぼ倍増を続けるような勢いで人口は拡大した(Saunders, n.d., p.5)8)
 急激な人口増の背景には,運河の結節点という立地条件による各種工場の集積があった。製鉄関連,各種金属加工,これらに関連する化学工業などの工場の集積は19世紀前半から形成され始めていたが,19世紀後半には一層の集積と規模拡大が急速に進んだ。例えば,最盛期のセリー・オークの工業を代表した企業のひとつであるエリオッツ・メタル(Elliott’s Metal Co.)は,1853年から当地で操業を始め(Leonard, 1933, pp.16-17; Skipp, 1983, p.64)9),バーミンガム・バッテリー・アンド・メタル(The Birmingham Battery and Metal Co.)は,1876年前後に工場をバーミンガム市街地中心部のディグベス(Digbeth)からセリー・オークへ移転させた(Leonard, 1933, pp.17-18)10)。バーミンガム市街地中心部からセリー・オークへ移転してくる事業所はほかにもあり,また,成功した実業家がセリー・オーク周辺に居を構える例もあって(Leonard, 1933, p.18)11),この一帯が,工場の郊外移転という文脈で有望な候補地であったことが伺われる。当時のセリー・オークには製鉄を中心とした重化学工業系の工場ばかりではなく,食品関連事業12)やゴルフ・ボール製造の工場もあったという(Leonard, 1933, p.18)。そうした文脈で考えれば,キャドバリーの(当時,まだ地名は存在していなかったが)ボーンヴィルへの工場移転も,必ずしも独創的な取り組みではなく,様々な理由から工場の郊外移転を考えていた事業者にとってはごくありふれた候補地の選択であったのかもしれない。
 1876年には,現在はクロスシティ線の路線の一部となっているバーミンガム西部郊外鉄道(Birmingham West Suburban Railway)が開通し,セリー・オーク駅も同年に設けられた(Stephens, 1964, p.2213))。運河と鉄道によって交通条件に恵まれ,また,ノースフィールド・パリッシュの中で最もバーミンガム中心市街地に近かったセリー・オークでは,1882年までにはブリストル・ロード沿いに工場や労働者向け住宅が貼り付き,住宅地の形成が始まっていた(Stephens, 1964, p.22)。Stephens(1964, p.15)は,陸地測量部(OS)地図などの読み取りに基づいてバーミンガムの市街地拡大の段階を示す主題図を示しているが,それによるとセリー・オーク一帯は,1885年の時点ではブリストル・ロードの南側の一部のみが市街地化されているが,1913年には一帯全域の市街地化が進行したように表現されている。[図3]
 セリー・オーク駅の南隣,バーミンガム中心部からみてひとつ外側にあたる現在のボーンヴィル駅がスターチリー・ストリート(Stirchley Street)駅として開通したのはセリー・オーク駅と同じ1876年,キャドバリー兄弟が駅の西側一帯に現在の工場敷地やボーンヴィル・エステートとなっている広大な土地を手に入れたのは1878年,ボーンヴィル工場の操業開始は1879年であったが,工場周辺で住宅地の開発が着手されたのは1895年である(山田, 2012, pp.12-13)。Stephens(1962, p.22)は,ノースフィールド・パリッシュ全体の人口が,1891年の10,000人から,1911年の31,000人まで急増した主たる原因を,おもにセリー・オークとボーンヴィルにおける住宅地形成に求めている。しかし,セリー・オークでは,ボーンヴィルに十数年から二十年ほど先行して,住宅地の形成が始まっており,1911年の時点でパリッシュの人口の8割近くは,セリー・オークに集中していたのであり,少なくとも量的な観点からは,当時のボーンヴィルの人口増への寄与を過大に評価することは危険であろう14)
 また,1870年代半ばには,後に路面電車,さらに,バス路線へと転換されていくことになる,バーミンガム中心部からセリー・オークへと伸びる鉄道馬車の線路が敷設され始めた。鉄道馬車は,鉄路を敷設・管理する会社と,車両を運行する会社を分離する形での運営が行なわれ,セリー・オークとバーミンガム市街地の間で,通勤客などを運ぶ役割を担うようになった15)
 1889年前後に,ボーンブルック川の流れの途中に位置していたカービーズ・プールズ(Kirby’s Pools)と称された複数の池(湿地)が埋め立てられ,以降,一帯は工場用地となった(Leonard, 1933, p.18)。それまで,セリー・オークの工場の多くは,ブリストル・ロードとハーボーン・レーンの間の運河沿いの場所に集積が進んでいたが,それより北東で,運河が通っていた台地面上よりも低い,ボーンブルック川の谷筋に位置していたカービーズ・プールズ周辺は,未利用のままの土地であった。新たな工業用地に立地したのは,複数の自転車やその部品の製造工場や,銃器の製造工場であった(Leonard, 1933, p.18)。この立地は,運河との高低差があまり問題とならない組み立て工場を中心に立地が進んだものとも,また,物流に占める運河の重要性が低下していたことの反映とも見受けられる。当時は「安全自転車(Safety Bicycle)」と称された現在の標準的な形態に近い自転車が開発され,また,ゴム製タイヤが普及するなど,自転車への需要が拡大して,技術開発競争が盛んに行なわれ,モーターバイクの開発も取り組まれていた。自転車工場の立地は,当時の先端産業の立地を意味していた。[図4]
写真6ボーンブルックのテラスハウス:
バーミンガム大学構内からの遠望
 新たな工場群の登場により,現在のボーブルック側における労働者向けの住宅の供給も盛んに行なわれるようになった。テラスハウス形式の住宅が建て込むようになり,特にブリストル・ロードの南側には,新たな横丁が南北方向に開かれ,ブリストル・ロードから南方へ,台地面上向かう登り坂に沿って均質な造りのテラスハウスが長く連なるよう建設されていった。[写真6]
 こうしたテラスハウスのほとんどは,開発事業者によって借家として建設された。平均的な1戸は,幅6メートル前後,奥行き30から50メートル程度の敷地に,奥行き20から30メートル程度の建物占有部分がある,という形状になっているのが標準的なところだ。通常は10戸程度がテラスハウス1棟を成している。現代日本の感覚であれば,70坪程度の短冊形の敷地というのは,決して狭小ではないし,より密集した劣悪な環境が一般的であった当時のバーミンガム中心部に比べれば,当時の労働者たちにとっては,望ましい条件に恵まれた住宅であったと考えるべきであろう。しかし,ボーンヴィルにおける初期の標準的なセミデタッチト・ハウスの1戸が占める敷地に比べれば,半分以下の水準であった(山田, 2012, 注22)。
 労働者が居住するようになったボーンブルックには,新たなパブなどが開設されたが,1894年には,ジョージ・キャドバリーの主導によって,若者にパブとは別の(飲酒を伴わない)社交と,社会人教育の機会を与える施設として,ブリストル・ロード沿いにセリー・オーク・インスティテュート(the Selly Oak Institute)が開設された(Selly Oak Centre, 1994, pp.2-3)16)。この施設の開設以前から,キャドバリーらの尽力により,セリー・オークでもバーミンガム市内の夜間学校の分校という形で,労働者の教育への取り組みが進められていたが,独立した施設の設置は,当地における需要の高さを反映したものであった。この施設は,セリー・オーク・センター(Selly Oak Centre)の名で現在も存続している。
 1900年から建設が始まったバーミンガム大学のエジバストン・キャンパスは,1908年7月7日にエドワード7世王夫妻の臨席の下で開校式典を挙行した(Maxam, 2004, 写真12)。このキャンパス自体はエジバストンに位置しているが,1978年にユニヴァーシティ駅が開業するまで,学生,教職員の多くは,近隣に住居を求めるにせよ,公共交通機関を利用するにせよ,おもにブリストル・ロード側に開かれた門を通ってキャンパスに通学・通勤していた。キャンパスの開設以降,ボーンブルック地区を中心としたセリー・オーク一帯は,学生・教職員の居住地としてバーミンガム大学にとって重要な地域となっており(Dowling, 1987, p.317),ボーンブルックないしセリー・オークの商店等にとっても,バーミンガム大学の存在は重要なものとなって現在に至っている。
 こうして,現在のボーンブルック地区は,1916年までに全面的に宅地化が進み,セリー・オークからは分割分離されたサバーブ(住宅地区)として扱われるようになった。分割後のボーンブルックは,セリー・オークよりもむしろ広い住宅地区を抱えることとなった(Muller, 1985, Figure 3.1)18)。[図5]

c)20世紀における工業の衰退
 Muller(1985, p.10)は,1933年に刊行されたLeonard(1933)以降,同時代のセリー・オークの概況をまとまって記述する文献が見られなくなったことを指摘し,この文献空白の時期に,セリー・オークは郊外から,中間環状帯(middle ring area)に移行したとする認識を述べている(Muller, 1985, pp.10-11)。この認識は,関係者が積極的に同時代の記録や直近の歴史を残そうと尽力した成長と変化の時代が去って,停滞なり衰退の時代に入ったことが示唆されている,と読み解くこともできる。
 セリー・オークの産業基盤の出発点であった運河網は,アトリー労働党政権下の1848年に国有化された後,1950年以降はほとんど利用されなくなった(Hodges, 1986, p.16)19)。この時点で,かつてセリー・オークの工業において中心的役割を果たしていた重化学工業系の工場が閉鎖や規模縮小の方向へと追い込まれはじめていたであろうことは容易に想像される。しかし,他の業種も含め,セリー・オークにあった様々な業種の個々の工場が,いつ,どのように規模縮小なり閉鎖に追い込まれていったのかを網羅的に調べることは容易ではない。以下では断片的ながらいくつかの具体的事例を列挙することで,その一端を押さえておく。
 1897年にダンロップ・タイヤの後ろ盾の下でカービーズ・プールズの埋め立て地に創業し,自転車製造業からモーターバイク製造へと展開したアリエル(Ariel)は,1932年に破産し,工場施設の大部分は売却された。ブランドとともに工場を買ったBSAは,Arielブランドのモーターバイクを生産し続けたが,最終的には1962年にボーンブルック工場を閉鎖した。グランジ・ロードに面した工場の建物の一部は2000年まで残存していたが,解体され,跡地にはバーミンガム大学の学生寮が建設された20)。住宅の設計案は,エステートの建築家が承認しなければ実際に建設することはできず,どのようなデザインで,どのような大きさの家が建てられるのかは,厳しく規制された。また,安価で劣悪な住宅が建てられないように,住宅の建築費には下限が設定された(当初は150ポンド)。公共の緑地,運動施設等の配置にも意が払われ,開発当初から共同浴場の開設も構想されていた(1904年,工場敷地の一角に実現)。学校等の整備も当初から配慮されていた(pp.39-40)21)
 1853年にセリー・オークで創業し,セリー・オーク駅と運河を挟んで東隣にあったエリオッツ・メタルは,化学工業から金属加工まで様々な事業を展開していたが,1928年にインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(Imperial Chemical Industries, ICI)に合流し,その金属工業グループの一環としてキノック(Kynoch)などとともに再編された22)。工場跡地の一部は,インダストリアル・エステートとして各種の小規模事業所が入居する施設となっているが,敷地の大部分は空き地として残されている。
 1871年にセリー・オークへ移転して以来,ダドリー運河とウスター=バーミンガム運河の両方に接して工場を展開し,ブリストル・ロードに面して事務棟を構えていたバーミンガム・バッテリー・アンド・メタルは,いわゆる英国病の時代に規模を縮小させながらも事業継続を図ったが,1980年代に至って経営に行き詰まった。敷地の一部はBattery Parkと名付けられたパワーセンターに転換された23),1871年に建設された事務棟は2009年に解体されるまで残されていた24)
 英国経済の第二次世界大戦後の浮沈については,世界覇権を完全に失って以降の経済的衰退が常々論じられながらも,完全雇用と福祉社会の実現に接近し,1960年代は高い成長率と準完全雇用を実現していたが,1970年代に入っていわゆる「英国病」と称される構造的危機に陥った,とする見方が一般的である。しかし,セリー・オーク周辺においては,1960年代において既に危機は表面化しており,見方によっては19世紀に地域経済を牽引した諸産業が徐々に衰退を始めたのは1920年代以来であったと論じることもできる。
 1968年以降は,ブリストル・ロードの道路拡張案が,しばしば取りざたされるようになった(Holland, 1986, p.10)。1983年から1986年にかけて鉄道より西側で道路拡張が進められ,おもにブリストル・ロードの北側にあった建物がセットバックの犠牲となって姿を消したが,鉄道より東のボーンブルック側の区間では,提案されたセットバックは実施されず,それまでの道幅のまま現在に至っている(Muller, 1985, pp.43-45)25)
 総じて,一部の例外を除けば26),1970年代はじめには,セリー・オーク一帯の工場地帯は,ほぼ壊滅状態にあったようだ。セリー・オークで創業しながら,ウスターへ移転して成功していた小企業Selly Oak Diecatingの創業者たちを紹介する1972年の記事に,雑誌『New Scientist』の記者は,次のような印象的な一文を織り込んだ。「セリー・オークにあったこの会社の最初の工場は,崩れ落ちた工場の敷地の一角にあった — もし崩れ落ちていないものがあったとしたら,それは引き倒されたものだった。」(Kenward, 1972, p.598)

d)住宅ストックの劣化と1980年代の住宅改善事業
 既に見たように,セリー・オークやボーンブルックにおける市街地形成は,概ね1910年代までに現在と大きく変わらない範囲まで進んでいた。当然,住宅ストックの大部分は,1910年代までに形成されたものが大部分であり,一部に,いったん形成された市街地の一角をクリアランスした上で再開発したものが存在しているということになる。
 英国の諸制度,ないし,社会的文脈においては,土地利用の変更は容易ではない,あるいは,好まれない傾向が強い。また,不動産所有制度の特性から,リースホールド(長期借地権)の保有者は既存の住宅ストックへの追加的投資を極力避ける傾向があり,また,何らかの事情でフリーホールド(土地所有権)を得て物件を所有している場合でも,それがテラスハウスの一部であれば構造上一体化している他者所有の区分を無視して改修などの追加的投資を行なうことは容易ではないという状況がある。特にボーンブルックで卓越しているような,当初,労働者向け住宅として建設された19世紀末から20世紀初頭のテラスハウスが立ち並ぶ地域では,建設後半世紀あまりを経た20世紀後半に入るころから,住宅ストックの維持管理や更新が,徐々に大きな課題として浮上してくることとなった。
 セリー・オークやボーンブルックにとって僥倖であったのは,地元の工場が徐々に縮小されて雇用の機会が後退していった時期における,モータリゼーションの進行とモビリティの向上であった。通勤可能な範囲も拡大し,さらに郊外へとつながるバス路線が充実され,また,自家用車の普及もあって,バーミンガム市内をはじめ,各地への通勤は容易になった。地元の徒歩圏での仕事を失っても,この地域を離れる必要は時代とともに低くなっていった。核家族化や,高齢化の進行によって人口の減少は見られたが,極端な戸数の減少は生じなかった。
 1960年代から1970年代前半にかけては,市当局が主導するスラム・クリアランスの一環として,セリー・オーク周辺でも一部のテラスハウスの撤去が行なわれたが,それはごく小規模なものに留まった(Muller, 1985, p.45)。しかし,この時期に,行政側がセリー・オークやボーンブルックの住宅ストックの一部について,何らかの改善が必要な「スラム」だとする認識をもっていた,という事実は重要であろう。工場跡地の問題が,おもにセリー・オーク側において生じていたのに対し,住宅老朽化の問題は,おもにボーンブルック側で深刻化していた。
 1981年,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラスト(Bournville Village Trust, BVT)は,ボーンブルックのブリストル・ロードから南へ伸びるティヴァートン・ロード一帯27)を事例とした調査研究を,バーミンガム大学の都市・地域研究センター(the Centre for Urban and Regional Studies)に委嘱した(Thomas, 1984, p.4)。この一帯は19世紀末のテラスハウスが建ち並ぶ典型的な街区である。ハウジング・アソシエーションの立場にあるBVTは,バーミンガム市当局や地域住民との協働の中で,自らのノウハウを活かした住宅改善への貢献の可能性を探り,本拠地ボンーンヴィル以外の場所における活動のひとつとして,この地区で実験的取り組みを行なっていたが,その評価を外部に求めたわけである28)
 当時は政策上の転換期にあたっており,1974年住宅法(Housing Act 1974)の制定前後から盛んになっていたハウジング・アソシエーションへの公的支援がサッチャー政権下で圧縮され,また既存の借家の改善よりも新設に重きが置かれたため,総体的に見ると,供給される借家は質量ともに後退を余儀なくされていた(Thomas, 1984, p.4)。また,ハウジング・アソシエーションには,一方では民間資本の誘導が求められるとともに,公正な家賃水準の維持との両立も求められるという状況であった(Thomas, 1984, p.5)。
 現状分析の中で,Thomas(1984, pp.9-10)は,Newton Groveという10戸から成る典型的なテラスハウスの例を挙げ,次のように描写している。「各戸には,寝室は2室あり,平屋の拡張部分が裏庭側にある。空家1戸を除いて,残り9戸のうち5戸は所有者自身が居住しており,そのうち3戸は所有者が高齢である。テラスハウスの構造自体は健全だが,外装上の問題は悲惨な状態にある。ほとんどの世帯は,最近も修理をしているが,その内容は不十分なものに留まっていることが少なくない。」
 こうしたテラスハウスのほとんどは,当初は開発事業者によって借家として建設されたものであるが,中には様々な経緯を経て市当局の管理下で公営住宅として供給されている物件もある。また,1967 年のリースホールド改革法(Leasehold Reform Act)が,長く賃借人として家賃を払った実績のある者にフリーホールド(土地を含めた所有権)を獲得できる途を開いて以降は,少なからぬ数のフリーホールダーが登場することになった。フリーホールダーとなった住民は,そのまま高齢者になるまで住み続けることが多い。上で言及されたテラスハウスの典型例は,まさにそうした状況を反映したものである。
 家屋の老朽化は,暖房や衛生などの面で問題を引き起こし,時間の経過とともにそれは深刻化していったが,一方では住宅改善のための公的支援制度が様々な形であっても,住民個々がそれを活用することは,手続きなどを含めて実際には難しいという状況があった。特に高齢者の住民にとっては,必ずしも大きな額ではないとしても,住宅の維持・改善のために負債を負うことへの心理的抵抗感は強い。単なる公的支援制度の提供では実際の住宅改善に結びつかない状況を踏まえ,BVTは,住宅改善を目的とした住民組織の形成と,BVTのようなハウジング・アソシエーションなどによる行政と住民組織の仲介によって,行政側にも取り組みやすい環境を作り,三つのセクターの協働による組織的な住宅改善の実現を目指した。
写真7ボーンブルックのテラスハウス:
ティヴァートン・ロード・プロジェクトで
改修されたテラスハウス。
その後もよくメインテナンスされている。
写真8ボーンブルックのテラスハウス:
同上。1897年建設であることを示す
プラークが誇らしげに掲げられている。
写真9キリスト教会を改装した
モスク、ボーンブルック:
 1982年には,地元セリー・オーク選挙区選出の市議会議員が市街地再開発委員会の議長になったこともあり(Muller, 1985, p.46),他の地域の参考となり得るモデル事業を地元に誘致する形で,行政による一般改善地域(General Improvement Area, GIA)の設定や,具体的な住民組織の編成とそれを踏まえた住宅行動地域(Housing Action Area, HAA)の設定などの取り組みが始められた。こうした,住民組織,行政,関連諸団体などの協働の取り組みによって,特にブリストル・ロードの南側に設定された2つのHAAの範囲29)では,集中的な住宅改善の作業が取り組まれ,成果が挙げられた30)。[写真7・8]

おわりに

 本稿では,ボーンヴィルとの対比を念頭に,19世紀から20世紀にかけてのセリー・オークとボーンブルックにおける市街地形成とその後の変化について素描を行なった。ボーンヴィルが特殊な理想主義的住宅地開発の事例であった時代における,ごく普通の隣町の市街地形成過程と,その現在の景観を把握するという当初の課題は,不十分ながらある程度は果たせたと思う。
 上述のように,フリーホールダーの住民は,フリーホールドの取得後そのまま永く高齢者になるまで住み続けることが多いが,やがて代替わりを経たりすると,物件はしばしば民間ルートで貸家として提供されることになる。こうして提供される貸家を,家主が部屋単位で貸したり,家ごと借りた代表者が部屋を(英国では認められている)又貸しにすることもある。少なくとも1980年代以降31),ボーンブルックに多いかつての労働者住宅のストックの少なからぬ部分が,学生下宿として利用されるようになっているが,最近に至り,バーミンガム大学が,かつてのカービーズ・プールズの埋め立て地にあった工場敷地跡などに学生寮の拡充を図っている影響を受けて,こうした労働者住宅/学生下宿向けの住宅ストックには空家が目立つようにもなっている。
 セリー・オークやボーンブルックにとって長年の課題だったブリストル・ロードの拡幅問題は,A38バイパスの開通によって,事実上なくなったといってよい。地元における関心は,もっぱら未利用のまま残されているセリー・オーク側の工場跡地再開発に向けられているようだ。しかし,住宅改修問題に関心が集った1980年代から既に30年が経過し,この問題は近い将来に再度この地域で課題として浮上してくる可能性が高いようにも思われる。
 かつての路面電車の車庫が、バス車庫を経て、現在も貸し倉庫として機能し続けているように、英国では安易なスクラップ・アンド・ビルドよりも、転用可能な施設を永く活用しようとすることがよくある。ボーンブルックには、かつてのキリスト教会をモスクに転用した建物もある。[写真9]
 これは、税金その他の制度上、そのように扱う方が有利になっているという面もあるが、そもそもそのような文化があるからこそ、制度が構築されてきたのだともいえるだろう。住宅ストックにしても、老朽化への対処や、新たなインフラストラクチャーへの対応などを工夫しつつ、既存の古いスタイルの住宅を維持していこうという指向性は強くあるように思われる。
 また,この百年間あまり,この地域における存在感を徐々に高めてきたバーミンガム大学は,段階的に校地を拡張していく中で,近年では歴史的な州境を越えてボーブルックの工場跡地に,複数の大規模な学生寮を建設している。英国では,大学が徐々に隣接する町を校地に組み込んで行くことはよくあるが,長期的に展望すれば,ボーンブルックが今後,徐々に大学校地に組み込まれていく,少なくとも大学町としての性格を強めていくことは,十分に想像されることである。労働者の町として市街地が形成されたこの地域が,今後どう変化していくのか,興味深く見守っていきたいところである。

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1) ボーンヴィルの建設を主導したジョージ・キャドバリーが,エジバストンから転居し,住んでいた屋敷(いずれも他人が建てた屋敷を購入し,後から拡充したウッドブルックとノースフィールド・マナー・ハウス)は,いずれもブリストル・ロードに面した場所にあった。
2) Selly Oak という地名は,地区/サバーブ(suburb)の名称であると同時に,より広い領域を構成する市議会議員選挙区(local council ward)や議会庶民院の選挙区(parliament constituency)の名称にもなっている。前者は地区としての Selly Oak 全域に加え,周辺のサバーブの全部または一部を含む広がりをもっており,後者は市議会議員選挙区としてのSelly Oak に加え,同じくBournville や Kings Norton の市議会議員選挙区を範囲に加えている。ボーンブルック地区は,セリー・オーク地区とともに,いずれの選挙区についてもそれぞれその一部となっている。
3) 地元図書館における資料収集においても,両地区の境界線を明確に示した地図等を見出すことはできなかった。例えば西側の運河と東側の鉄路に挟まれた位置にあるセリー・オーク駅の所在地がセリー・オークであるのは了解されるとしても,東側のボーンブルック地区であるはずの施設が,しばしば所在地表示としてセリー・オークを用いていることは,一見奇妙に見える現象であるが,これはかつてのセリー・オークの集落が,市街地化の後でセリー・オーク地区とボーンブルック地区に分割されたという歴史的経緯の名残でもある。とりあえず,ここでは運河と鉄道の西側をセリー・オーク地区,東側をボーンブルック地区と捉えた上で,ボーンブルック地区も含め,セリー・オークの名で言及されることがしばしばある,言い換えれば通称地名としてのセリー・オークはボーンブルックを包含する,という関係を了解されたい。
4) 加えて,隣接するセリー・オーク側にも,同大学のセリー・オーク・キャンパスとして一括される諸施設が散在している。その多くは,セリー・オーク・カレッジズ(Selly Oak Colleges)と総称された各種の神学校や社会教育施設,地域住民のために開放されていた図書館など,何らかの形でキャドバリー家との縁がある施設を継承するもの,その跡地にあるものが多い。
5) セリー・オークにおいて,歴史的なパリッシュが行政単位としての機能を失ってから,バーミンガム市への編入時点までの期間に,基礎自治体となっていたのは,King's Norton and Northfield Urban Districtであったが,その時期にも統計などは旧パリッシュ単位でとられていることが多い。
6) ノースフィールド・パリッシュの国勢調査人口は,1801年2807人,1811年3068人,1821年3651人,1831年3977人,1841年5550人,1851年7759人と推移した。
7) Saunders(n.d.)は,来歴不詳のタイプ原稿であるが,大学の卒業論文であるような印象を与える学術的スタイルで書かれており,また,1861年と1871年の国勢調査に関する数値は,Leonard(1933, p.6)とも一致している。したがって,一般的には普及していない国勢調査の地区別集計に遡ってセリー・オークの数値を得たという記述の内容自体は一定の信を置いてよいものと思われる。この原稿は作成年次が明記されていないが,参照文献の最新のものが1973年であり,おそらくは手打ちのタイプライターによる印字と思われるので,1970年代後半か,その前後に執筆されたものと推測される。
8) 本来なら,当時の国勢調査のデータに遡って確認すべきところであるが,現時点では未確認であり,引用であることを断って以下に数値を挙げておく。
 Saunders(n.d., p.5)によると,当時のセリー・オークの国勢調査人口は,1851年618人,1861年1483人,1871年2854人,1881年5089人,1891年7459人,1901年16222人,1911年(原表には「1912」とあるが,表の名称などから1911年の誤記と判断される)25155人であったという。
9) エリオッツ・メタルは,先行して存在していた化学工場を買収して当地で操業を始め,1928年にインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(Imperial Chemical Industries, ICI)に合流した後も,セリー・オークでの操業を続けた。
10) バーミンガム・バッテリー・アンド・メタルは,1836年にバーミンガム中心部のディグベスで創業し,1871年からセリー・オークに事業所を設け,1876年には全面移転した。以降1980年代まで当地で事業が存続した。社名の「バッテリー」は,「電池」ではなく,鉄板を成形する叩き出し工程のことである。
11) Leonard(1933, p.18)は,郊外移転してきた企業の例として,このほかに Patent Enamel Co. を挙げ,セリー・オークに居を構えた事業家としてはエルキントン家(the Elkingtons),ギロット家(the Gillots),ウィギンズ家(the Wiggins)を挙例している。ギロット家と同様にペン製造業で成功し,ブリストル・ロードに面した場所にウッドブルック(Woodbrook)の屋敷を構え,後にジョージ・キャドバリーにこれを売却したジョサイア・メイソン(Josiah Mason)もまた,同様の例として挙げることが可能であろう(山田, 2012, p.13)。
12) Leonard(1933, p.18)が「a Jam Factory」として言及しているのは,Maxam(2004, 裏表紙)に広告の画像が掲載されている Greenwood Paige & Co. のことであろう。同社は1915年までセリー・オークで操業していた(Maxam, 2004, 表紙裏)。なお,Maxam(2004)はページ番号が打たれていないので,以下,内容に言及する場合は通し番号が打たれている写真の番号によるが,表紙・裏表紙の写真には写真番号が付されておらず,さらに解説のおかれたページが異なるため,上のように言及個所を表現している。
13) 現在,バーミンガム大都市圏を南北に貫く形で,北のリッチフィールド(Lichfield, Trent Valley)から南のレディッチ(Redditch)までを結んでいるクロスシティ線(Cross-City Line)は,バーミンガムの代表的な郊外鉄道のひとつである。この路線は,もともとは別々に建設された歴史的路線複数の区間を経由して構成されており,セリー・オーク駅やボーンヴィル駅を含むバーミンガム・ニュー・ストリート(Birmingham New Street)駅からキングス・ノートン(Kings Norton)駅までの区間は,1876年にバーミンガム西部郊外鉄道として開通したものである。クロスシティ線としての運行は1978年に北のフォー・オークス(Four Oaks)駅から南のロングブリッジ(Longbridge)駅の間で始まり,その際にバーミンガム大学エジバストン・キャンパスの西側にユニヴァーシティ(University)駅が新設された。1991年から1993年にかけて全線の電化が進められた。
14) ボーンヴィルの開発が始まった当初は,おもに直営建設事業によって住宅の建設が行なわれていたが,その戸数は1911年の時点で650戸あまりに留まっていた。ボーンヴィル・エステートにおいて供給戸数が急増するのは,1906年から導入された公益事業組合方式による住宅建設が拡大していく1920年代以降のことであった。(山田, 2012, pp.16-19)
15) 上下分離方式による鉄道馬車の運行は,1906年いっぱいまで続けられていたが,1907年初から2階建ての路面電車がこの線路を利用して運行され,セリー・オークには電車の車庫が設けられた(Leonard, 1933, p.16)。1911年にバーミンガムの市域が拡大されて間もなく,1912年はじめに,路面電車の運営会社は公有化された。
 1924年には,この路面電車の路線はセリー・オークから7キロメートルほど南西に延伸され,ブリストル・ロードに沿ってノースフィールド(Northfield)を経て,レッドナル(Rednal)まで延伸された(Holland, 1986, p.10; Maxam, 2004, 写真38)。1927年には,当初ダウリッシュ・ロードとティヴァートン・ロードの間にあった当初の車庫に代えて,ハーボーン・レーンに新しく大規模な車庫が設けられ(Maxam, 2004, 写真19),旧車庫の跡地は住宅用地に転用された。
 この2階建ての路面電車は,最終的に1952年7月5日に廃止され(Dowling et al., 1987, p.16),ハーボーン・レーンの電車車庫は転用され1986年までバス車庫として利用され,その後はさらに貸し倉庫に転用されて現在に至っている(Maxam, 2004, 写真19)。
16) この施設の当初の名称は,Friends Institute(Dowling et al., 1987, p.11),Selly Oak Friends Institute(Maxam, 2004, 写真48)とも説明されているが,ここでは後継施設であるSelly Oak Centreの自己言及を優先しておく。いずれにせよ,あらゆる宗派の人々を対象としながらも,クエーカー色を強く帯びた施設として発足したことは間違いない。
17) セリー・オーク図書館に郷土資料としてタイプ原稿の写しが収蔵されているMuller(1985, p.16)は,1971年と1981年の国勢調査における局地的データの集計にもとづいて,1971年にセリー・オーク一帯に居住していた「学生」が少数(人口およそ25,900人に対して学生93人,構成比0.35%)に留まっていたのに対し,1981年にはそれが急増した(人口およそ22,900人に対して学生1,985人,構成比8.6%)ことを示している。Muller(1985)が検討の対象としているのは,概ね市議会議員選挙区としてのセリー・オークの範囲であり,本稿の検討対象範囲より広いが(Muller, 1985, p.11),いずれにせよこの指摘とDowling(1987, p.3)の記述を整合的に説明することは,今のところは難しい。少なくとも,1980年代以降に多数の学生がボーンブルックやセリー・オークに居住するようになっていることは間違いないとしても,それ以前から一貫して大学関係者多数が地元に居住していた,と単純に考えることには問題があるように思われる。
 なお,Muller(1985)は,ダラム大学(University of Durham)地理学科に提出された卒業論文であり,著者はB.A.Honoursを獲得している。
18) セリー・オーク図書館に郷土資料として収蔵されているMuller(1985)のタイプ原稿のコピーでは,図版のページはページの通し番号から外されており,Figure 3.1 は27ページの直後に挿入されている。
写真102011年に開通したA38バイパス:
西側から東方向を撮影
手前がクロスシティ線の鉄道橋、
奥がウスター=バーミンガム運河の運河橋。
運河沿いの歩道に歩行者が見える。
奥左手がバーミンガム大学。
19) その後,遊覧船を中心に運河の再整備と利用促進が進むのは,1970年代以降のことである。今日では,ダドリー運河セリー・オオーク支線は放棄され,狭い水路として自然状態に戻りつつあるが,ウスター=バーミンガム運河は遊覧船の行き交う現役の運河として運用されている。2011年に完成したA38バイパスの建設に際しては,それまで谷筋に盛り土してその上を水路としていた運河の区間を掘り崩して切り通しとし,新たに運河橋と鉄道橋を並行して架橋する大工事が行なわれた。ウスター=バーミンガム運河が現役の水路として活用されていることの証左であろう。[写真10]
20) アリエルについては,Jeremy P. Mortimore という人物によって,ボーンブルックにあった工場について詳しい情報を提供するウェブサイトが構築されている。ここでは,このウェブサイトの記述を参照した。このサイトでは,関係する画像も多数公開されている。
http://www.arielcycles.me.uk/home.html
 なお、以下、注記で言及されるウェブページの内容については、いずれも2013年12月29日に最終確認をした。
21) ICIへの統合以降のエリオッツについては,staffshomeguard.co.ukのサイト内にあるキノック社についての記述に関連事項が見える。ここでは次のページを参照した。
http://www.staffshomeguard.co.uk/KOtherInformationKynochV2A.htm
22) 注21同様,ここでは次のページを参照した。
http://www.staffshomeguard.co.uk/KOtherInformationKynochV2B.htm
23) 現在は,さらにそのBattery Parkや,チャペル・ロードを挟んで対面する,かつて映画館や商店などがあった敷地にある大規模小売店Sainsburyなど、かつての工場敷地以外をも含めた,大規模な再開発計画が提起されている。Land Securities Groupによる下記のサイトを参照されたい。
http://sellyoak-regeneration.co.uk
24) Living Proof Filmのサイトには,解体直前のバーミンガム・バッテリー・アンド・メタル事務棟の状況を捉えた短編映画『Take Only Photographs Leave Nothings but Footprints』の紹介があり,YouTubeで公開されている映像へのリンクもある。
http://livingprooffilms.co.uk/takeonlyphotos.html
25) 2011年に開通したA38バイパスの建設は,ボーンブルックにおける強力な拡幅反対の声を反映したものであったようだ。現在,セリー・オークを通って,ノースフィールドなどその先の地区へ向かうバスは,以前と同様にブリストル・ロードを通っているが,バーミンガム市内から郊外へ向かう通過交通の多くは,バイパスを介してハーボーン・レーンに新たに設けられたラウンドアバウトへ誘導され,ハーボーン・レーンからブリストル・ロードへ戻って,その先へ進むようになっている。
26) 例えば,1812年創業の銃器製造業者Westley Richards Gunmakersは,1898年にカービーズ・プールズ跡に工場を建設し,近年までセリー・オークで生産を継続していた。しかし,A38バイパスの建設にともなって,工場はバーミンガム市街地中心部へ2008年に移転し,残された建物は2009年7月に解体された。
 公式サイト内には,沿革が説明されている。
http://www.westleyrichards.com/the-company
 また,midlandsheritage.co.uk のサイト内には,解体直前の工場跡の画像などが公開されている。ここでは次のページを参照した。
http://www.midlandsheritage.co.uk/industrial/1205-westley-richards-gunmakers-selly-oak.html
27) 対象とされた,北辺をブリストル・ロード,東辺をハロー・ロード〜セリー・ヒル・ロード,南辺をエクスター・ロード〜コロネーション・ロード,西辺をティヴァートン・ロードとする,およそ5haほどの範囲は,後述するふたつのHAAのうちひとつが指定された区域である。
28) 当時,バーミンガム大学都市・地域計画研究センターの教授で,Thomas(1984)にも序文を寄せているゴードン・E・チェリー(Gordon E. Cherry)は,この時期にバーミンガム大学の代表としてBVTの理事のひとりとなっていた。したがって,外部組織とはいっても,チェリーを介してBVTとバーミンガム大学,あるいは都市・地域計画研究センターとの間に密接に関連があったことは指摘しておかなければならない。チェリーは,後年,大学退職後にBVTの理事長も務めた。
29) 北辺をブリストル・ロード,東辺をハロー・ロード〜セリー・ヒル・ロード,南辺をエクスター・ロード〜コロネーション・ロード,西辺をヒーリー・ロードとする,およそ10haほど。東側が,Thomas(1984)で具体的に検討されている範囲である。
30) 実際の事業の実施にあたっては,地元における雇用の創出という観点にも力点が置かれていた。その背景には,地域における小規模な事業の起業支援への公金の支出は,それをしなかった場合の失業者対策や社会保障の負担増に比べ,有利な公的投資であるという判断があった。市街地再開発を含む建設事業は雇用創出の面からも有利であると考えられていた上,良質な住環境の提供は,地域の経済発展に資するものであるとも判断されていた(Thomas, 1984, p.5)。
31) Muller(1985, p.16)は,国勢調査の局地的データにもとづいて,1971年にはセリー・オークにいた「学生」が少数であったという見方を示している。注17参照。。


文献


謝辞

 本稿は,2012年3月に実施したバーミンガム郊外での現地調査と,その際に得られた地元図書館が所蔵する郷土資料等を通した考察である。個々のお名前は挙げないが,現地調査にご協力をいただいた地元の公共図書館であるSelly Oak Libraryの司書の皆さん,またボーンヴィル・ヴレッジ・トラスト(BVT)のアラン・シュリンプトン(Alan Shrimpton)氏に,特に深く感謝を申し上げる。
 本研究には, 2011年度の東京経済大学個人研究助成費(C11-33)「19世紀末のバーミンガム郊外における,商業的性格の郊外住宅地開発の歴史と現在の景観」,および,2011年度-2012年度の東京経済大学個人研究費の一部を用いた。

 本稿のテキストは,当研究室のウェブサイト上で公開している。(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html)



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