書評:2006:

加藤政洋・大城直樹 編著
『都市空間の地理学』

図書新聞,2006/12/09.[5面]



加藤政洋・大城直樹 編著
都市空間の地理学
9・15刊 A5判308頁 本体3000円
ミネルヴァ書房

<地に足の着いた都市論>と
<飛翔する地理学>のための玩具箱

人文地理学の現状への挑戦



山田 晴通

 地理学は古い学問である。極端な見方をすれば、人類が地域的情報や世界観を記述し始めたときから、あるいは、例えば地図という表現手段を獲得したときから、地理的知識の蓄積、すなわち地理学の原初的形態は用意されていたとさえ言うことができる。
 古い学問である地理学においては、今でも、観察された客観的事実から出発するという十九世紀的な科学思想が支配的パラダイムである。もちろん客観主義、あるいは緩やかな意味での実証主義は、絶対的地位を失ったとはいえ現代においても学問の一つの立場として健在なのだから、古い学問としてではあっても地理学の存在意義が根本から失われる訳ではない。また、特に地形や気候、生態や環境といった論点から議論を展開する(厳密科学ではなく経験科学としての)自然科学系の地理学徒、つまり自然地理学徒にとっては、客観主義に大きな問題を感じる必要性は希薄かもしれない。
 しかし、純然たる人文学ないし社会科学の範疇での地理学、つまり人文地理学を追求する者の大部分が、同様の傾向を広く強く共有していることは、他の人文学ないし社会科学の専攻者には奇妙に思われるだろう。この辺りのプラティークは、しばしば文学部に置かれながら、地理学が「理学」の刻印を負っていることを反映したものである。
 当然ながら、人文地理学においても、客観的事実から出発することへの懐疑が、もっぱら客観性の問い直しという問題として二十世紀を通じて何度か提起され、新たな視点を学史に書き加えてきた。しかし、評者が信じるところでは、そうした営みは、客観主義の主題を変奏し、それを補完するものにとどまっている。同様の状況は、歴史学や社会学などにおいても、いわば五十歩百歩で認められるものであろうが、地理学における方法なり視座の根本に関する反省的な議論は、そうした諸学に比しても限定的であるように思われる。
 本書は、そうした現状に挑戦するように、もっぱらその人文地理学の領域に身を置く若手研究者たちが、隣接する分野としての新都市社会学の助けも借りながら編纂した論文集である。ただし、本書には、吉田容子の「ゲイテッド・コミュニティ」論(第10章)を唯一の例外として、執筆者のオリジナルなフィールドワークの成果を中心においた議論はない。他の各章のテーマを、目次の順に、目次の表記を尊重して列挙すれば、シカゴ学派社会学、ベンヤミン、石川栄耀、シチュアシオニスト、ド・セルトー、レイとバンギ、ヘーゲルストランド、ダンカン&ダンカン、(ジェントリフィケーションからディズニーランドに至る)消費と都市空間、日本における景観論/風景論、ルフェーブル、ハーヴェイ、ラフェスタン、ロサンゼルス学派、フェミニスト地理学といった具合になる。各章の記述は、断片的に半可通の知識しか持たない者にとっては、有益な概説になるはずだ。評者は仏語圏の研究成果に疎いが、英語圏の議論に関する限り、各章の記述は、いずれも単に手際の良い展望というだけでなく、より踏み込んだ立場からの、いわば熱意と愛情が感じられる紹介になっている。その意味では、大学院レベルの教科書としても活用できそうだし、大学院受験生には便利な参考書となるだろう。
 人文地理学における個別事例の記述の重視と、理論の軽視は、それ自体が脱し難いプラティークとなっている。それは人文地理学徒自身が「クソ実証」と罵声を浴びせることがあるほどの重荷となっている。それは一方で、社会学畑のある種の都市論が、しばしば都市の現実から浮遊し、あるいは、突出した事象の断片を針小棒大に増幅させ、縦横に諸家からの引用を接合しながら、理論としての体裁を繕おうとするのとは好対照である。
 しかし、一九九〇年代以来、日本でも積み重ねられて来た、社会地理学と新都市社会学の対話は、より広く、ある種の社会学的都市論とある種の人文地理学の対話として定着してきたと評価できる。かつて、地理学はルフェーブルを、社会学はハーヴェイを黙殺できたが、今ではそれをどう消化するかがそれぞれにとっての課題となっている。
 もちろん、その行き着く先は、インターディシプリナリーな大競争状況、ポストモダン的百家争鳴に至ってハッピー・エンド、という予定調和的な結論ではない。和泉浩がハーヴェイについて述べている「理論的な視点が、はたしてどれだけ活かされているのか、あるいはその理論的視角によっていったい何が明らかになるのかについても、さらに検討されなければならない」という結論(p.225)は、本書で紹介された理論群すべてに妥当する。そして読者は、遠城明雄がハーヴェイやラフェスタンについて述べている「われわれに求められているのは、新たな問いを発し理論構築を志したこの先行者たちの試みを、それが書かれた学問的かつ社会的なコンテクストを意識しつつ、その可能性の中心において批判的に読むことである」という結論(p.237)の実践を迫られている。ただし評者としては、遠城の結論の最後を「……コンテクストにこだわらず、その可能性を中心において……」と読み替えたいという衝動も感じる。
 いずれにせよ、古い学問としての更新も、新しい議論としての構築も、とりあえずはプラクシス=実践として、最終的にはプラティーク=実践を通じてしか、実現はしない。その実現を目指す者にとって、本書は強力な武器庫とはならないまでも、貧弱ながら役に立つ道具箱となるだろう。しかし、それ以外の者にとっても、本書が魅力的な玩具箱であることは間違いなさそうだ。
(東京経済大学・メディア論)


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