コラム,記事等(学会誌等に寄稿されたもの):2005:

学界展望:学史・方法論.

人文地理(人文地理学会), 57,pp276-279.


人文地理学会のご了解を得て,全文を掲出いたします。ご配慮に深く感謝致します。
(2007.02.04.)


学史・方法論

 2004年はこの学界にとって,決してよい年ではなかった。1月には,大明堂が廃業し,1918年以来の地理学専門出版社としての歴史を閉じた。2月号の地理学評論には「日本地理学会グランドビジョン」が掲載され,学会が多くの新しい課題に直面していることを印象づけた。8月には財団法人日本学会事務センターが破綻し,様々な学会が影響を受けた。これらの事項は,将来,日本の地理学史が書き継がれるときには,年表の2004年の位置に書き込まれるはずである。(人文)地理学は,ある種の歴史的な曲り角に立っているのだろう。
 本項目でまず取り上げるのは,岡田俊裕による昨年の本項目(人地56-3)である。「本分野の研究は,若手研究者の参入もあって近年活発である」と始まる楽観的な展望は,どういうわけか経済地理学会学会史編纂委員会編『経済地理学会50年史』(経済地理学会,2003)を取り上げなかった。もとより,網羅的に文献を列挙するのは学会展望の本来の姿ではないから,遺漏というか,割愛される文献があって当然であろう(今年の本項目も当然そのような方針によっている)。また,学会の「正史」は,学史ではなく団体史に過ぎず,批判性を欠いたとるに足らない資料である,という観点からの判断もあるかもしれない。しかし,前史に関する新たな史料の掘り起こしや,近年における組織内の対立の経緯についての率直な記述を含め,きれいごとに終始していないこの「学会史」がもつ意義は無視すべきではない。この「学会史」と対になる経済地理学年報の特集号(経地年報49-5)も,経済地理一般の項目では言及されたものの,本項目では無視されたが,少なくとも矢田俊文「戦後日本の経済地理学の潮流」は,本項目で批判的に紹介する必要があったはずだ。
 その経済地理学では,ここ数年,戦後の経済地理学の隆勢を担い,イデオロギー対立の時代に最前線にいた先達の訃報が続いている。2003年2月に逝去した鴨澤巌(1924-2003)の追悼集『おりておりず おりずしておりる』(鴨澤巌さんを偲ぶ会)は没後一年をかけて準備された充実したものである。もとより研究書ではなく追悼文集であるが,様々な関係者が,鴨澤について,また戦後の学界状況について,貴重な証言や論点を提示しており,上記の『経済地理学会50年史』や,鴨澤の退職時に法政大関係で刊行された文集などと併せて読むと,戦後の日本の社会状況と,その中での地理学の意義,地理学徒の心情が,活き活きと伝わってくる。戦後の思想状況の中でイデオロギー的な論客として出発し,挫折や屈折を経ながら,良心的学徒として一生を全うする鴨澤の軌跡は,今後,完全に歴史として記述される時代になってこそ,語られ続けることに意義があるのだろう。
 渡辺良雄(1928-1986)は,1950年代からクリスタラー流の中心地理論の実証研究を牽引した先駆者であり,戦後日本の経済地理学の枠組みの中では鴨澤とは対称的な立場にいた。没後18年を経て企画された理論地理学ノート14の特集「日本の都市地理学と渡辺良雄の中心地研究」は,内容が実に奥深い。この特集で,寺阪昭信は同僚だった渡辺の都立大時代の仕事の背景について,森川洋は自らの学生時代以来の研究上の悪戦苦闘を先覚者としての渡辺とのかかわりを交えて,それぞれ率直に当時の事情を紹介している。阿部隆は渡辺が田辺健一の下で活躍した東北大における都市研究の状況を具体的なデータで跡づけている。竹内啓一は木内信蔵を軸に東大における都市地理学研究を総括し,山田誠は京大について同様の展望を記している。阿部和俊は,寺阪の言を引けば「その著作(『20世紀の日本の都市地理学』古今書院,2003)には書き難い個人的な研究軌跡を記しているので同書を補完するものとなる」一文を寄せている。また,助手として渡辺を支えた一人である中林一樹は,寺阪とはやや異なる,都市研究センターという組織の視点から晩年の渡辺の仕事を紹介し,渡辺が没したときに大学院生だった立岡裕士は,渡辺については何も語らず,中心地研究の前史にあたる戦前の商圏研究を淡々と整理して,その研究の核心地域が東北であったことを「偶然ではあるまい」と指摘している。巻末の論考で杉浦芳夫は,英文紀要に発表された渡辺の論考の海外への普及と,計量革命の中で計量地理学の限界を見据えていた渡辺の姿勢について,個人的な経験もふまえながら論じている。少なくとも都市地理学なり経済地理学を専攻とする者は,この展望の簡単な紹介の記述で済ませず,直接手にとってほしい。
 2004年,欧米の地理学界では古典的業績の回顧と再評価が目立った。8月のIGCグラスゴーでは,ラッツェルの死去とマッキンダーの「地理学からみた歴史の回転軸」講演について,それぞれ百周年を回顧するセッションが多くの参加者を集めた。また,ドイツでは,一般誌「シュピーゲル」が南米探検二百周年としてフンボルト特集を組み,さらに『コスモス』の普及版が刊行されるという盛り上がりがあった。
 日本では,こうした周年行事に呼応した動きはなかったが,国際的な地理学史研究として,竹内啓一「ナショナルスクール」(地理学研究[駒澤大学]32),森川洋『人文地理学の発展』(古今書院)が出た。前者は,IGU地理思想史研究委員会の蓄積を踏まえたラディカルな批判的展望であり,大著への展開を予感させる序論的なスケッチである。後者は,英米を基軸とする20世紀後半の人文地理学の展開を,それとは一線を画して独自の展開をみせたドイツ語圏の地理学と対照しながら包括的に整理した力技の著作である。後者は,著者自身が「すべてうまく整理されているとはいえない」と正直に記すように,行論は必ずしもエレガントではない。しかし,個別の研究者を深く掘り下げるモノグラフはあっても,大きなスケールでの学史にまともに取り組み,さらに方法論的反省へと向かう論述が少ない近年の研究状況の中で,著者の実直な研究姿勢は貴重である。
 実直といえば,2005年1月に亡くなった浮田典良が,2004年4月号から12回にわたって雑誌地理に連載した「ブックサーフィン−地理学の名著を訪ねて−(1900〜1969年)」(地理,49-4〜50-3)は,飾り気のない簡潔な記述で,自然地理学分野を含め,日本人地理学者の著作ばかり百数十点を淡々と紹介する文章を積み上げたものだが,同時に,浮田自身がどのような書物を通じて地理学を学んだのか後生に伝えようとした,心情的には遺書とも自伝ともとれる記述である。なお,浮田の最後の著作はこの連載ではなく,死後に出た単著だが,その版元が,大明堂刊行本の一部を引き継いだ出版社であったことは,何とも象徴的である。(ウェブ公開版への追記:この記述は,この記事の執筆当時,大明堂の版権の一部をナカニシヤ書店が引き継ぐという話が学界で流布されていたことを踏まえているが,実際にはこれは実現しなかった。結果的に誤った記述となっているので注意されたい。)
 浮田の連載は,小田内通敏『帝都と近郊』(1918)で始まり,最も古いものとしては,吉田東伍『大日本地名辞書』(1900-1907)や牧口常三郎『人生地理学』(1903)にも言及しているが,当然ながら1930年代以降のアカデミー地理学が生み出した著作群が中心になっている。その少し前に時代をずらし,今日的な観点からアカデミズム以前の地理的知のあり方に迫ったのが,島津俊之「河田 羆の地理思想と実践」(人地56-4)である。河田羆(かわだ・たけし:1842-1920)は,幕臣から明治政府の地誌編纂官となり,さらに事業の中止によって官職を離れた後も,在野で執筆活動を続けた人物であり,吉田東伍の『大日本地名辞書 汎論索引』(1907)にも一文を寄せている。島津は,この「忘れ去られた地理学者」の足跡をたどり,河田が通過していった昌平坂学問所,静岡学問所,内務省地理局,史学会等々の「知の空間」の性格を重ね合わせて,河田の実践の意義を浮き彫りにしており,方法論が明確に自覚された学史記述として優れたものとなっている。
 近藤裕幸「戦前期中学校における山埼直方の地理教育観」(新地理52-2)は,アカデミー地理学の形成期のキーパーソンである山崎直方(1870-1929)が地理教育について論じた文献や,山崎が関わった教科書の内容の分析を通じて検討し,山崎の言説が時間の流れの中で変化し,また地理教育に関する主張が,実際に作成された教科書の記述において実現していないことを指摘している。山崎は,1919年の論文以降,専門科学としての地理学と教育とを区別して扱うこと,また自然と人文の関係を重視すべきことを明確に主張するが,実際には研究面で重点があった自然地理学的側面への傾斜が,教科書にも反映されており,その矛盾は,山崎の立場を継承した辻村太郎が乗り越えるまで解消されなかったという。方法論の展開と実践とは,簡単には同軌できないのである。この教訓は,教育のみならず研究にも当てはまることだろう。
 さて,島津論文や,前述の森川の著作の例でも明らかなように,先行研究の学史的検討と方法論の模索は,しばしば表裏一体である。しかし,実際にそのような思索を論考としてまとめるとなると,方法論寄りのスタンスで論じるよりも,学史的に記述を編成していく方が,書く側からすれば文章をまとめやすく,読む側からすれば文章が分かりやすくなるようだ。そのような意味で,「学史的研究から生まれてきた発想をより広範な地理的記述の分析に応用すべきであることを主張したいのと同時に,そこにはらむ問題をも提起したかった」という成瀬厚「場所の文法」(地理科学59-2)は,学史にすり寄らずに地理学周辺で展開されてきた隠喩論を展望し,その発想を踏まえて「都市ガイド」のテキストを読むという,一筋縄ではいかない論考である。もっともらしく紹介してみたが,正直なところ成瀬の真意がどこまで読み取れたのかは心許ない。しかし,成瀬の行論が,「ある事実を認識するために他の言葉を参照することで理解するという言語体系を改めて認識」させるものであるのみならず,言説の対象となる「地理」(「地域」「景観」等々の言葉に置き換えてよい)に対する壮大な隠喩として「地理学」があるということを認識させるものであり,メタ言説の可能性と限界についての反省を喚起するものであることは,はっきりしている。
 泉谷洋平「地名のない地理学」(空間・社会・地理思想9)は,架空の対話篇の形をとり,成瀬に比べれば一見分かりやすそうなのだが,これまた難物である。読み手を巧妙な罠にかけ,いわばリトマス試験紙のような仕掛けが施してあるのだ。私自身は泉谷の状況認識に共感をもちつつも,おそらく「反動的な攻撃性」をはらんだ「原理主義」に立場は近いので,泉谷が自分の議論を「地理学」として展開したがるのはなぜか,疑問に思う。空間を論じることについて,地理学が特権的である必要はない。学問の枠組みは,所詮は科学社会学的に決する制度上の問題に過ぎない。泉谷の一連の議論を否定するつもりはないが,寺本潔・大西宏治『子供の初航海』(古今書院)の最初の方で,子どもたちの秘密基地づくりがTVゲームの普及によって駆逐されたのではないかという仮説を読んでいて,泉谷のことを想起したことは記しておく。泉谷は,例えば,鴨澤の生き方,あるいは(杉浦によって語られた)渡辺の姿勢をどう評価するのだろうか。
 なお,詳細は割愛するが,空間・社会・地理思想9には,学史あるいは方法論の観点から注目すべき邦訳論文もいくつか収録されている。
 もはや紙幅は尽きた。遠城明雄「モダニティと空間」(水内俊雄編『空間の社会地理学』朝倉書店),香川雄一「社会運動論の系譜と地理学におけるその展開」(地理科学59-1),志村喬「イギリスにおけるポストモダンと地理教育をめぐる最近の議論」(地理科学59-1)については,それぞれ関連項目で言及のあることを期待する。

(山田 晴通)


文中では敢えて誤記を残してありますが,書名のうち,『子の初航海』は『子どもの初航海』,『空間の社会地理』は『空間の社会地理』が正しい書名です。不手際をお詫びいたします。

(2012.08.30.誤字修正)

このページのはじめにもどる
テキスト公開にもどる
山田晴通・業績一覧にもどる   

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく