雑誌論文(その他):2002:

英国ミルトン・キーンズ市の地域計画(ローカル・プラン)策定作業.

人文自然科学論集(東京経済大学),113,pp69-85.


掲出に際して訂正した部分は青字としました。

英国ミルトン・キーンズ市の地域計画(ローカル・プラン)策定作業.

(英文要旨)

はじめに
ミルトン・キーンズの開発
地域計画の位置づけと策定作業の流れ
政策転換の方向:交通問題を軸に
おわりに


文献
謝辞


英国ミルトン・キーンズ市の地域計画(ローカル・プラン)策定作業

山田 晴通


In Progress: A New Local Plan for Milton Keynes, UK

Harumichi YAMADA


Milton Keynes is known as the largest New Town development in the UK. Conceived in the late 1960s, Milton Keynes has successfully been one of the fastest-growing areas in the UK from the 1970s on. To be precise, development of Milton Keynes as a New Town was halted in 1992 due to dissolution of the Milton Keynes Development Corporation, which had been the key player in the UK's largest urban development project. Since then, the role of the Milton Keynes Council has become more important in the development of the area, especially after the Milton Keynes Borough acquired unitary entity in 1997.

In 1998, the Council started the procedure for a new Local Plan of the Borough for the period of 2001-2011. This is the first Local Plan the Council drew free from the influence of the Development Corporation, and will show a new direction for the further development of the former New Town and its environs. The Deposit version of the new Local Plan was published in September 2000, and changes have been under discussion since then. The end of 2001 should deposit the revised version of the Local Plan again. Further procedure includes public inquiry and inspection by the Inspector appointed by the national government, and the Plan will be finalized in 2003 or later. Although there still are occasions where further revisions for details may be given, directions and structures of the Local Plan seem to be well established enough to remain unchanged.

Some of the ideas in the Plan show fairly different directions from those formerly seen in the New Town scheme. One of the most apparent changes is the shift of priority in transportation policy. Motorization was presumed in the development scheme of the New Town, and the road network and parking facilities in Milton Keynes are known as the most efficient and successful examples. Excessive dependency upon motorization, however, is now under reconsideration. The new Local Plan encourages more convenience for pedestrians, cyclists, and public transportation. The shift in transportation policy affects different aspects of the development, including higher density of dwellings for residential districts, smaller scale neighbourhood shopping facilities, and previously restricted use of residence as a home office.



はじめに

 ミルトン・キーンズは、ロンドンの中心部から北西に70キロメートルほど離れた、バッキンガムシャー州北部に位置する、ニュータウン地域を中心とした都市である1)。ミルトン・キーンズでは、1960年代からニュータウンが構想され、1970年代以降その建設が進められてきた。その間、ミルトン・キーンズは、(少なくとも英国では)良かれ悪しかれニュータウンの代名詞として言及される存在となってきた2)
 しかし、当然ながら、ミルトン・キーンズの発展も、当初の計画に沿って直線的に進んできたわけではない。この間、英国経済は大きな変動を経験しているし、英国政府の地域政策の重点も、その対象とする地域や政策課題が大きく変わってきている。経済状況や政策といった、いわば外的な環境の影響もあれば、事業主体内部の様々な事情もあって、ニュータウンの開発計画は常に見直され続けており、当初の計画は、それぞれの時代状況の中で、また様々なレベルにおいて、変化を遂げてきたし、これからも変化し続けてゆくことであろう。
 ここで紹介するのは、2001年現在、ミルトン・キーンズ市によって取り組まれている開発計画の策定作業の一端である。数十年以上の長期的展望に立って建設されるニュータウンは、大局的な観点に立つものであれ、細部に及ぶものであれ、計画の見直しを避けて通ることはできない。本稿は、ミルトン・キーンズ市の取り組みを例に、こうした計画の見直しが、新たな計画の策定作業という形で進められ、具体化される過程を把握し、その背後にある、近年のニュータウンに対する視点の変化を探ろうとするものである。以下では、ミルトン・キーンズのこれまでの開発の経緯について簡単に紹介した上で、ミルトン・キーンズ市当局が1998年から2003年にかけて手続きを進めている現下の地域計画(Local Plan)策定作業について、その手順と提案内容の一部を紹介していくことにしたい。


ミルトン・キーンズの開発

 ミルトン・キーンズの開発史については、既に様々な形で紹介され、論じられている。ここでは、簡単な概要のみを紹介する3)
 もともと、ミルトン・キーンズのニュータウン指定区域一帯には、南のブレッチリー(Bletchley)、北西のウォルヴァートン(Wolverton)とストーニー・ストラトフォード(Stony Stratford)など、それぞれに歴史があり、自治体として独立していた町があった。また、現在のミルトン・キーンズ市(Milton Keynes Borough)の範域内には、指定区域に隣接したニューポート・ペグネル(Newport Pegnell)という町も自治体として存在していた。近代以前の歴史はさて置くとしても、この地域がロンドンとミッドランド地方を結ぶ交通路の中間地点に当たり、以上に名を挙げた町が、それぞれ交通の結節点として産業革命以降の交通網の発達において重要な役割を果たしてきたことは、ニュータウン計画の背景としても重要である4)。ロンドンとミッドランドの中間にあり、交通路が整備されていながら、都市化がさほど進んでいないという1960年代当時バッキンガムシャー北部の状況は、ロンドンへの人口集中を緩和するための政策としてのニュータウン建設にとって恰好の条件を備えていたといえるだろう。
 ミルトン・キーンズは、およそ110平方キロメートルの範囲に、最終的には25万人程度の人口を擁する田園都市を建設することを目指す英国最大のニュータウンとして、1966年に最初の構想が政府から示された5)。翌1967年初めには、やや規模を縮小したおよそ88平方キロメートルを指定区域とし、「ノース・バッキンガムシャー・ニュータウン」(すなわちミルトン・キーンズ)の開発が正式に政府決定され、ミルトン・キーンズ開発公社(Milton Keynes Development Corporation)が組織された。当時、指定区域内には、既存市街地を中心におよそ4万人の人口があったが、計画では1981年までに7万人、将来は15万人まで、流入人口を受け入れることを前提として、住宅と雇用機会が開発されることになっていた。
 1968年からマスター・プラン策定作業を進めていたミルトン・キーンズ開発公社は、1970年にニュータウンのマスター・プラン(The Plan for Milton Keynes)を公表した。このマスター・プランは、公聴会などの手続きを経て、若干の修正の上で1971年に政府に承認された。最終的なマスター・プランは、ニュータウンの全域にわたって、ほぼ1キロメートル間隔の格子状道路網が広がる、自動車利用を前提とした低密度の住宅配置を基本的な方針としていた。計画人口は、1990年に15万人、2000年に25万人とされた6)。この間、1969年には、一部の開発が、計画の正式承認に先行する形で着工となった7)
 開発の初期、とりわけウィルソン労働党が政権に返り咲いた1974年からは、低廉な賃貸住宅の供給に重点が置かれていた8)。しかし、1976年の英国の通貨危機を経て、1979年にサッチャー保守党政権が成立すると、政府からの投資が削減されるようになる。サッチャー政権下では、民間部門の投資の比重が拡大した。各地のニュータウン開発公社は、行政改革の対象として槍玉に挙げられ、ミルトン・キーンズを含む各地の開発公社の廃止日程が決定し、ミルトン・キーンズ開発公社は、1989年に廃止されるものとされた。こうした状況の中で、1980年代の半ばには、住宅開発の重点は販売物件の供給に移り、開発公社も政府出資の削減を受けて資金回収により多くの努力を傾けるようになった9)
 基本的なインフラストラクチャーの整備状況に注目すると、ミルトン・キーンズは、概ね1980年前後に都市らしい機能がひと通り揃うようになったといえそうである。1979年には、セントラル・ミルトン・キーンズに、官公庁のオフィスや、英国最大級の規模を誇るショッピング・センターが開業し、1982年にはミルトン・キーンズ・セントラル駅が開業した。このほか、図書館、病院、ホスピス、公園、屋外コンサート会場などがこの前後に次々と開設された。こうしたインフラの充実もあって、1978年のフォルクスワーゲン・アウディ・グループの進出を先駆けに、外国資本の大規模な事業所の進出が促進され、1985年には、外国資本の事業所が150社を数えるに至った10)
 ミルトン・キーンズは、1970年代、1980年代を通して、英国でもっとも急速に雇用が拡大した地域である11)。それを支える地域への投資は、1970年代までは公共投資が中心だったが、1980年代以降は、行政改革の影響と民間投資の活性化で、ほとんどが民間投資となっている12)。大局的な観点に立てば、ミルトン・キーンズのニュータウン計画は、概して順調に展開し、成功を収めたと評価してよいだろう。
 ミルトン・キーンズの建設に中核的な役割を果たしたミルトン・キーンズ開発公社は、当初1989年と設定された日程が繰り延べられたものの、最終的に1992年に解散した。ミルトン・キーンズにおける開発について全面的な権限を有していた開発公社は、解散に先立って、その時点までの開発計画の考え方を集成した「計画手引書」を刊行した。開発公社解散後、その権限の一部を引き継いだ国・州・市などの諸官庁は、この手引書に記載された従前の開発指針を尊重して、業務を行うことになった13)
 開発公社の解散以降、開発の主な担い手は民間資本となり、政策面ではミルトン・キーンズ市の役割が大きくなった。市当局は、1991年〜2001年を対象とする地域計画の作成に着手し、1991年に原案を公開し、最終的には1995年に現行の地域計画が採択された14)。この地域計画は、策定段階で開発公社がまだ存在しており、その方針を引き継ぐという性格をもっていた。
 1990年代においても、ミルトン・キーンズは成長を続けた。特に1990年代後半には、好調な英国経済に支えられ、民間投資がいっそう活発になった。住宅供給と雇用機会の拡大によって、ニュータウン指定区域の人口も、1983年のおよそ11万人、1991年のおよそ14万人あまりから、1999年には17万人あまりへと順調に増加した15)
 もっとも、指定区域の人口はマスター・プランの目標にはまだ達していない。また、区域内には開発に着手されないままの保留地も各所に残されている。その意味では、ニュータウンとしてのミルトン・キーンズは、間違いなくまだ建設途上である。しかし、ニュータウン開発公社は解散しており、マスター・プランも拘束力はなくなっている。厳密に考えるならば、ニュータウンとしてのミルトン・キーンズの開発は、完成を待たずして中断され、自治体であるミルトン・キーンズ市が主導する通常の地域計画がそれを引き継いだ、ということになる。
 ミルトン・キーンズ市は、1997年に州から大幅な権限を委譲され、いわゆる単一自治体(unitary authority)に昇格した16)。こうした状況の中で、ミルトン・キーンズ市は、2001年〜2011年を対象とする新たな地域計画策定作業に1998年から取り組んでいる。開発公社の解散を受け、ミルトン・キーンズ市が独自の判断を下す余地が拡大した最初の地域計画は、ミルトン・キーンズの開発史において一つの転換点となる可能性をもっているのである。



地域計画の位置づけと策定作業の流れ

 かつて、ミルトン・キーンズ開発公社は、指定区域内について、通常ならば市や州に帰属するものまでをも含めた幅広い権限をもっていた。公社が解散した現在、通常の自治体における場合と同じように、地域開発に関わる許認可に最も広範な権限を有するのはミルトン・キーンズ市である。ミルトン・キーンズ市によって策定される地域計画は、ニュータウン指定区域のみを対象とするものではなく、市の全域を対象とするが、指定区域内の開発と、隣接する周辺地域における開発の兼ね合いは、新たに浮上してくる問題であろう。
 ミルトン・キーンズ市の権限には、より広範囲を対象とした他の開発計画に規定される部分もある。そもそも、単一自治体となっているミルトン・キーンズが、独自の単一開発計画(Unitary Development Plan)ではなく地域計画の策定に取り組んでいるのは、現行のバッキンガムシャー州の構造計画(Structure Plan)が2011年まで有効なためである。ミルトン・キーンズ市の地域計画はまた、政府の策定した地域計画指針(Regional Planning Guidance)の枠組みに沿うのもでなければならない。2000年に改定されたイングランド南東部の地域計画指針は、ミルトン・キーンズをこの地方における成長点として位置づけており、一層の開発を促している。
 一方で市当局は、かつてミルトン・キーンズ開発公社が保有した資産を引き継ぎ、指定区域内に広大な開発用地を所有しているイングリッシュ・パートナーシップスの動向にも配慮をしなければならない。イングリッシュ・パートナーシップスは、その保有地における開発行為について、かつて開発公社が政府から与えられた方針の範囲内であれば、相当の裁量権を有しており、依然として重要な役割を果たしている。
 一般的に、英国における都市計画の策定過程においては、関係する諸機関はもちろん、広く住民その他の関係者に情報が公開され、フィードバックはそれぞれの段階で計画に反映されながら手続きが進められる。ミルトン・キーンズ市の地域計画策定作業においても、広く関係者の意見を集約することを課題の一つとして、手続きが進められている。2001年〜2011年を範囲とする今回の地域計画は、概ね1998年から2003年頃までかかって最終的な採択に漕ぎ着ける段取りになっている。その間に、市当局が見解を文書の形にして刊行し、それに対する意見を集約して計画内容に反映させるというやり取りが、数回繰り返されることになる。もちろん、実際の手続きの進行は当初の予定よりも全体に遅れており、場合によっては採択が2003年よりも後にずれ込むことも予想されるが、正式な決定に至る以前であっても、地域計画案は市当局の政策として実質的に機能することになる。
 地域計画策定作業の最初の段階は、一連の課題書(Issues Papers)の刊行から始まった。これは、計画において考慮されるべき論点について、従前の経緯や現状をまとめ、検討の方向性を示した8冊の小冊子シリーズで、1998年の1月から4月にかけて刊行され、行政当局の関係部局や地域住民などに広く配布された17)。この小冊子シリーズに対する各方面からの意見を集約するために、関係部局の代表による顧問会議(Advisory Panel)や、市民会議(Citizens' Panel)が開かれた。こうした会議やその他の機会を通じて表明された課題書に対する反応は報告書に取りまとめられ、1998年10月に市の地域計画小委員会(Local Plan Sub Committee)に提出された。
 課題書に対する各方面からの意見を反映して、1999年1月には方針案(Directions Paper)が決定され、翌2月に報告書として刊行された。これは、地域計画を策定する上で政策的判断が求められる論点を整理し、20項目の質問と、それに対する回答と考えられる複数の選択肢という形で分かりやすくまとめたものである18)。地域計画の準備段階として論点を整理したこの方針案に基づいて、再び顧問会議や市民会議が開かれ、意見の集約が図られた。当初は、1999年内にも新たな地域計画案がまとめられ、デポジット/正式縦覧(deposit)にかかるという見通しだったが、環境関係の部局など、様々な方面から意見が寄せられ、新たな論点が提起されたこともあり、取りまとめ作業は大幅に遅れることになった。
 結局、2000年9月に、ようやくデポジット版の地域計画が公刊され、6週間の縦覧にかけられた。デポジット版の地域計画は冊子と235ページの冊子と、地図から構成されており、冊子には15の章が設けられている。この構成を、先行した課題書や方針案における8項目と照合してみると、この間の議論を踏まえて、デザイン、歴史的環境、自然環境、交通、住宅といった分野が新たに盛り込まれ、あるいは比重を増したことが判る19)
 デポジット版では、従来、かつてのニュータウン指定区域とほぼ同じ範囲を指していたミルトン・キーンズ・シティの区画を新たに拡大しており、ミルトン・キーンズ市による開発の射程が、もはや過去のものとなりつつあるニュータウン開発計画の枠組みを、文字通り乗り越えてゆくことを示している20)
 デポジット版公刊の段階では、翌年春までには必要な修正が施され、秋には公聴会に漕ぎ着けるという日程が示されていた。そのまま順調に進めば、計画審査庁(Planning Inspectorate)の審査官による調査などの手続きを経て、最終的には2003年の半ばに地域計画が政府に採択される見通しであった。ところが、デポジット版で示された原案へ修正を加える段階に至って、さらに様々な意見が寄せられたため、こうした日程の通りには手続きは進んでいない。地域計画審議会(Local Plan Panel:地域計画小委員会から改称)は、2001年の3月以降、修正に向けた検討を始めたが、更に時間をかけて調査を行うことを事務方に命じており、2001年10月現在、原案への修正作業は完了していない21)


政策転換の方向:交通問題を軸に

 デポジット版の地域計画は、具体的な敷地を示して開発行為の細部にわたって記述をしている部分もあり、その内容を網羅的に紹介することは、本稿の限られた紙幅では難しい。ここでは、従来のニュータウンとしてのミルトン・キーンズの開発方針との対比で、政策転換の意図が示されている例を、交通問題を軸に、他の分野との関係にも注目しながら紹介しておきたい。
 ミルトン・キーンズのニュータウン開発が取り組まれ始めた1960年代末には、モータリゼーションへの適確な対応が都市計画において大きな課題であった。既存の都市でしばしば経験される交通集中による渋滞が、ミルトン・キーンズではほとんど存在しない。これは、格子状道路網と施設の分散配置によって、交通の集中が回避されているためである。また、自動車による移動が通勤や買物に用いられることを前提に、開発に際しては駐車場の十分な確保が義務づけられてきたことも大きな特色である。
 モータリゼーションを前提に比較的低密度の開発を行うという分散指向は、住宅開発にも反映されている。ニュータウン指定区域にほぼ相当するミルトン・キーンズ・シティにおける住宅密度は、1ヘクタールあたり27戸となっているが、この数字は、ミルトン・キーンズが、英国のニュータウンとしては極めて低密度の住宅開発を行ってきたことを示している22)
 こうしたモータリゼーションへの対応は、自動車利用者にとって間違いなく快適な住環境・交通環境を作ってきたが、近年に至り、省エネルギーや環境への配慮といった視点から、見直しを迫られている。地域計画の構想の中に「持続可能な生活様式の奨励」といった観点や、より具体的な「交通手段の多様化」が盛り込まれたことは、住宅開発のあり方にも影響を及ぼしている。住宅密度についても、低密度に好ましい面があるのは当然だが、同時に、低密度であれば公共交通機関の維持が困難になり、自動車依存が深まるといった論点も提起されている。
 こうした議論を踏まえ、新しい地域計画では、一方で、セントラル・ミルトン・キーンズやその他の既成市街地から1.5キロメートル以内における新規の住宅開発について、1ヘクタールあたり40戸以上という高めの住宅密度が求められており23)、また他方では、交通政策における優先順位を歩行者や自転車に置くことが謳われている24)。こうした文言自体は必ずしも目新しくないが、交通政策において、歩道や自転車道のネットワークの整備や、異なる交通手段の間の乗り継ぎを奨励する方策(例えば、自転車置き場や、パーク・アンド・ライド用の施設の整備など)が体系的に論じられている点は、大きな転換を示唆している。
 また、従来、住宅の目的外使用は抑制されてきたが、新しい地域計画では、近年インターネットの普及などを背景にホーム・オフィス就労が一般化しつつあることを踏まえ、一定の条件下で自宅を事務所など就労の場として用いることを認めている25)。その背景には、小規模事業者の育成といった狙いとともに、通勤移動量の抑制という意向が働いている。
 交通量の抑制という発想は、通勤流動だけでなく、買物行動にも適用されており、これまで設定が遅れていた近隣センター(Local Centres)が、既開発の地区で8ヶ所追加され、さらに今回新たにシティに繰り入れられる新規の住宅地区にも設定されることになっている。一般的に、商業施設を中心としたサービス・センターの機能は、集積が大きいほど魅力が増す傾向にあるため、モータリゼーションが発達すると、近隣センターなど、狭域を対象とする小規模なセンターは採算性を失い、最上位のセンターが有利になるという傾向がある。ミルトン・キーンズの開発においても、セントラル・ミルトン・キーンズの駐車場を完備した巨大ショッピング・センターがいち早く1979年に開業し、段階的に機能を積み上げてきたのに対し、地区センターの整備は、1990年代まで本格化しなかった。また、近隣センターについてもほとんど整備はされず、セントラル・ミルトン・キーンズ以外で買物をする場所は、ブレッチリーなど周辺の既存市街地に依存していた。
 新しい地域計画では、住宅からおよそ500メートル程度の徒歩圏内に近隣センターを配置していくことを想定している。また、このような小規模センターにおける店舗経営の難しさも踏まえて、場合によっては、コンビニエンス・ストアを1軒だけを配置することも想定に入れている。上位センターへの依存と、買物行動の広域化は並行する関係にあるが、近隣に小規模センターを設けることが買物に伴う移動を抑制することにつながるかどうかは、判断が難しいところであろう26)
 このように、持続可能な生活様式というモチーフと結びついた、モータリゼーション中心から徒歩移動や公共交通機関の重視へという政策的な転換は、単に交通政策分野に影響を与えるだけでなく、他の様々な施設配置や土地利用にも関連性をもつことになる。また、一つの政策的な転換が地域計画のあちこちに反映されていくというあり方は、交通政策に限って見受けられることではない。
 例えば、シティの範域の拡大にしても、もっぱらニュータウン指定区域内の開発だけに注意を払っていた開発公社に対し、指定区域内のみならず周辺も含めた広い範域をもつ自治体であるミルトン・キーンズ市が、より広域的な観点から判断を下した結果だと見なすことができるだろう。ミルトン・キーンズ市にとっては、ニュータウンとして成立したシティ地区におけるサービス水準を、やがては市の全域に広げていくという発想がある。さらに、例えばセントラル・ミルトン・キーンズの商業・娯楽機能を検討する際には、当然ながら市外から流入してくる利用者の存在を考慮した議論がなされている27)。こうした境界線を越えていく発想は、今後のミルトン・キーンズの開発を新たな段階に導いてゆくことだろう。
 最初の構想から三十年以上が経過し、ニュータウン建設という枠組みでの開発は開発公社の解散とともに雲散霧消し、ミルトン・キーンズは大きな転換点を迎えようとしている。もちろん、外的な経済要因や、環境への関心の増大など社会的背景も、この間に大きく変化した。新たな方向づけを打ち出している今回の地域計画だが、これとて、意地悪な見方をすれば、かつてマスター・プランの作成時に却下された方(A案)の発想を少々取り込んで、現状とは異なる方向を示しただけ、ということになるのかもしれない。しかし、微調整に終わるにせよ、大転換になってゆくにせよ、何より重要なのは、こうした政策的転換が情報公開と公聴活動を通じた意見集約の積み重ねの上で行われているという点であろう28)



おわりに

 ミルトン・キーンズの地域計画策定作業は、まだその途中の段階にあり、最終的にどのような案が提出され、採択に至るかは、未だ確定していない。しかし、本稿で言及したような基本的な部分は、おそらくはそのまま活かされて行くものと思われる。
 日本にも、ミルトン・キーンズと並行して、ほぼ同時期に建設された大型ニュータウンが多数ある。そうした「古いニュータウン」は、様々な形態で施設更新や再開発といった問題に直面している。日本の場合、モータリゼーションへの対応が少々遅れたため、古いニュータウンでは自家用自動車をめぐるトラブルが様々な形をとって現れている。そういう意味では、モータリゼーションへの対応におけるミルトン・キーンズの先進性は、素直に評価すべきであろう。しかし現在では、そのモータリゼーションへの依存が新たな問題となり、交通量の抑制と、移動手段の選択の多様化を目指す動きが出ているわけで、何とも因果なものである。
 自動車依存からの脱却という課題は、ミルトン・キーンズにとって単なる建前ではない29)。しかし、現状では、セントラル・ミルトン・キーンズの住人の大多数は、教会へ行くのも、パブに行くのも、車がなければ難しい状況にある。
 大量生産、大量消費、そして大量移動を前提とした生産体制の拡大再生産は、産業革命以降の近代文明がひたすら突き進んできた道であった。しかし、ここに来て、広帯域通信網の飛躍的発展を受けて、大量移動についてはブレーキも少々かかり始めている。大規模なところでは航空運輸業界の世界的不振から、小規模なところではかつて夢見られた「エレクトロニック・コテージ」の一つの帰結としてのホーム・オフィスまで、人の移動コストを圧縮しようという動きはさまざまなレベルで表面化しつつあるようだ。ミルトン・キーンズ市の地域計画策定の取り組みは、そういう時代を敏感に反映しているのかもしれない。




1)ミルトン・キーンズ(Milton Keynes)という地名で言及される範囲は、文脈によって多少違ったものになる。広い範囲を指す場合には、1974年の地方自治制度の改革に際に、バッキンガムシャー州の北東端を占めるニュータウン計画地域周辺の町村を統合して成立した、現在のミルトン・キーンズ市(Milton Keynes Borough)のことである。1967年のニュータウン指定区域(designated area)は、当初は複数の自治体にまたがる形になっていたが、ミルトン・キーンズ市の成立によって全域が市域に含まれることになった。一方、ミルトン・キーンズがニュータウンとして言及される場合は、この指定区域のみを指すのが普通である。また、ミルトン・キーンズ市当局は、開発計画において市域内の集落について開発区画(Development Boundary)を設けているが、ニュータウン指定区域とほぼ一致する(ごく一部の保全緑地などを除いてある)開発区画の名称は、ミルトン・キーンズ・シティ(Milton Keynes City)となっている(単に the City として言及されることもある)。「シティ」は中心市街の意であり、自治体ではないので「市」とは訳さない。
 ニュータウン指定区域、ないし、ミルトン・キーンズ・シティの中には、ニュータウン計画以前から市街化が進んでいた地区(先行して存在した町)も含まれているが、それらを除いたニュータウンの中心部一帯はセントラル・ミルトン・キーンズ(Central Milton Keynes)、あるいは略してCMKと称される。通常、ミルトン・キーンズとしてイメージされるのは、このセントラル・ミルトン・キーンズ一帯であろう。なお、セントラル・ミルトン・キーンズにある鉄道駅はミルトン・キーンズ・セントラル駅(Milton Keynes Central Station)なので、少々紛らわしい。
 ミルトン・キーンズという地名は、指定区域東側の高速道路(M1)に近い小村(現在では、ミルトン・キーンズ全体と区別して、Milton Keynes Village と称される)の名から選ばれたものである。しかし、当時、この名称を詩人ミルトン(John Milton, 1608-1674)と経済学者ケインズ(John Maynard Keynes, 1883-1946:発音は違うが綴りは同じ)にちなむ名だとする話が広まったほど、ミルトン・キーンズは無名であった(Mynard & Hunt, 1994,[pages not numbered: Introduction p.1])。
2)例えば、1985年に発表された、The Style Council の "Come to Milton Keynes" の暗澹たる歌詞は、その好例である。小市民的価値によって画一化された表層の背後に渦巻く狂気、という郊外のイメージは、パンク以降のロック音楽の歌詞にしばしば現れる普遍的なモチーフとなっている。
3)ミルトン・キーンズの概略についてはウェブ上でもいろいろと紹介がある。また地図類もいろいろな形でウェブ上に公開されている。さしあたり、日本語のページとして「英国一見録」(http://www.ecocity.co.jp/96UK/ARAKI96E.HTM)を参照。
4)以下、Mynard & Hunt(1994,[pages not numbered: Introduction pp.6-8])によって、ニュータウン計画以前の、この地域の概略をまとめておく。
 18世紀には、馬車を中心とした陸上交通が、有料道路(turnpike roads)の発達という形で発展した。そうした道路網の要衝にあったストーニー・ストラトフォードは、宿場町として繁栄した。18世紀末には、現在も残っている運河網(現在のグランド・ユニオン運河 Grand Union Canal)がこの地域に到達し、ウォルヴァートン、その東のグレート・リンフォード(Great Linford)を経て南下し、ブレッチリーの東隣のフェニー・ストラトフォード(Fenny Stratford)に至り、さらに南へ向かうことが可能になった。運河の開通によって物資輸送が盛んになり、19世紀にはこの地域でも産業が活性化し、グレート・リンフォードなどで煉瓦製造が盛んに行われるようになった。
 1838年には、ロンドン・バーミンガム鉄道(the London to Birmingham Railway)が開通し、その工場・操車場がロンドンとバーミンガムの中間点に当たるウォルヴァートンに置かれた。鉄道の発達とともに、工場の規模も拡大し、多数の労働者が集まるようになったウォルヴァートンでは1840年頃から1880年頃まで住宅建設が盛んに行われた。ブレッチリーでは、19世紀中頃に相次いで2本の鉄道支線との分岐点となったことをきっかけに、運河沿いのフェニー・ストラトフォードから経済活動が移ってきた。19世紀後半には、ニューポート・ペグネルとウォルヴァートンを結ぶ路線や、ウォルヴァートンとストーニー・ストラトフォードを結ぶ路線で鉄道が開通した。
 1920年代以降、自動車交通の普及が進み、運河や鉄道の衰退傾向がうかがわれるようになる。ロンドンとミッドランド地方を結ぶ自動車交通の大動脈となる高速道路(M1)は、1959年に開通した。現在のミルトン・キーンズ市の範域を南東から北西に貫く形になっているM1のルートは、鉄道沿いの既成の市街地を避ける形で、東寄りに設定されたものである。
 現在では、運河はもっぱらレジャー用の水路となっており、鉄道も、West Coast Main Line という名称になっている幹線と、ブレッチリーで東へ分岐するベッドフォード(Bedford)支線以外は、廃止されている。
5)この構想は、もともとはバッキンガムシャー州の建設関係部局から出されたものである。当時、バッキンガムシャー州当局は、ロンドンの無秩序な都市拡大に対して危機意識を強くもっていた。既に州内には、1952年市街地開発法(the Town Development Act)に基づいて、ロンドンへの通勤人口を計画的に収容することを目的とした市街地開発を、地元の自治体とロンドン市議会(London County Council)が協力して実施する例があり、ブレッチリーでも同法に基づいて人口15000人規模の住宅開発が進められていた。
 ロンドンの経済的な成長の中で、ロンドン市側が郊外の衛星都市開発へ関心を寄せていたのに対し、バッキンガムシャー州は、自前の産業基盤をもったまったく新たな都市を建設する構想を練っていた。バッキンガムシャー州の County Architect and Planning Officer であった Fred Pooleyを中心にまとめられた構想は、比較的高い人口密度を前提とし、自動車の全面的な利用と、モノレールを交通システムの主軸にすることを想定したものだった。(Benedixson & Platt, 1992, pp.20-21.)
 この州当局による構想が、当時のウィルソン労働党内閣の住宅・自治大臣だったリチャード・クロスマン(Richard Crossman)によって取り上げられ、換骨奪胎された形で提起されたのが、1966年の構想である。(Mynard & Hunt, 1994,[pages not numbered: Introduction pp.8-9].)
 この構想が提起された後、地元の意見を集約するための公聴会が開催され、計画に反対する意見も少なからず上がった。これを受けて政府に提出された審査官報告は、計画範囲を75平方キロメートル程度に縮小し、人口密度を上げて27万人近い人口を収容することを提言したが、この提案は政府に受け入れられず、1967年には、むしろ原案に近い形で計画が決定された。(Benedixson & Platt, 1992, pp.5-11.)
 ちなみに Pooley は、後にミルトン・キーンズ開発公社にも関係し、マスター・プラン作りに参画するが、彼が主張したモノレール網や比較的高密度の住宅配置を前提とした案(A案)は最終的に採用されなかった。(Benedixson & Platt, 1992, pp.49-52, pp.57-65.)
6)最終的なマスター・プランの原案は検討の過程でB案とされていたものを軸に策定された。人口を増加させるためには雇用の確保が必要だが、当時の想定では製造業の誘致が期待されており、1991年には雇用の35パーセントから50パーセントが製造業に就業するものとされていた。ショッピング・センターは、当面は分散させずに中央に大規模なものを設置し、あとは既存の市街地の商業地を活用するという考え方であった(Benedixson & Platt, 1992, p.60.)。計画の数値目標にはその後の変更もあったが、この初期の段階から一貫して自動車交通への対応が重視され、その後の開発行為における細部の設計に際しても道路設計や駐車場確保に意が払われていた。
7)住宅の建設は、ストーニー・ストラトフォードやシンプソン(Simpson)でいち早く1969年から始まった。
 また、オープン・ユニバーシティは、1968年の段階でミルトン・キーンズ開発公社に接触し、ニュータウン内にキャンパスを設けることを打診していた。当時は、ニュータウンに大学が立地する前例がなく、開発公社も積極的に大学の受け入れを位置づけ、マスター・プランの検討段階から、大学のキャンパスが計画に盛り込まれていた(Benedixson & Platt, 1992, pp.74-76.)。当初は、ストーニー・ストラトフォードの東に隣接した区画が高等教育機関に割り当てられていたが、最終的には、セントラル・ミルトン・キーンズ南東のウォルトン・ホール(Walton Hall)がオープン・ユニバーシティに割り当てられた。1969年には移転が始まり、1970年には、公式に移転が完了した。現在では、社会人教育に対応する高等教育機関を中心に、複数の「大学」がミルトン・キーンズに立地している。
8)1970年代初頭の賃貸住宅については、経済の混乱を反映して「資材も熟練労働も不足した時代に建設された」という見方がある(Mynard & Hunt, 1994, [pages not numbered: pict.154].)。
 1970年代の英国は、いわゆる英国病と呼ばれた構造的な経済不振に陥っていた。これに世界的な通貨体制の動揺と、石油危機などが重なり、経済はどん底に落ち込んでいた。ミルトン・キーンズにおいても、安価な住宅の供給は重要な課題となっていた。また、新たに成立したミルトン・キーンズ市当局が、自前の賃貸住宅の供給を行うとともに、開発公社の賃貸物件の管理も行うようになっており、安価な賃貸住宅は豊富にあった。(Benedixson & Platt, 1992, pp.119-125.)
9)販売物件への比重の移行だけでなく、賃貸物件自体の性格も1980年代半ばを境に変化した。新婚世帯を想定したような、比較的安価な賃貸物件の供給は足りなくなっていった。(Benedixson & Platt, 1992, pp.126-127.)
 なお、サッチャー政権下のミルトン・キーンズについては、Benedixson & Platt(1992, pp.193-202.)も参照。
10)インフラストラクチャーの整備年次は、Commission for New Towns (2000, pp.i-iv.)を参照。外国資本の事業所はその後も順調に増加し、1996年には、235社の事業所が存在し、地域の雇用の6分の1を占めるに至っていた(Milton Keynes Council, 1998b, p.6.)。現在では、外国資本の進出企業は、250社以上あるとされている。
 1980年代には、日本企業の進出も盛んだった。ミルトン・キーンズにおける日本企業の集積は、英国ではロンドンに次ぐ規模であるとされている(Benedixson & Platt, 1992, pp.251-253.)。ミルトン・キーンズにおける日本のプレゼンスは、企業ばかりによるものではない。1980年には、日本山妙法寺、1986年には英国暁星国際学園が進出している(英国暁星国際学園の開校は1987年)。
 1993年当時、日本企業の進出数は45社とされていたが、ポスト・バブル期に入り日本企業のプレゼンスは相対的に後退している。
 [英国暁星国際学園は、2002年3月に最後の卒業生を出して閉校した。(英国暁星国際学園の公式サイト跡)]
11)1971年から1981年、および1981年から1989年の時期に英国各地で新たに創出された雇用の数を見ると、ミルトン・キーンズは、1970年代は27481人でアバディーン(48505人)に次いで2位、1980年代は30500人で1位(2位はリーズの20300人)となっており、この間に一貫して顕著な成長を遂げたことがわかる。特に、1970年代は、英国全体で雇用数がマイナス成長であったにもかかわらず、ミルトン・キーンズでは一貫して安定的に雇用数が増加している。この間、1979年には、ショッピング・センターの開設によって、小売業の雇用が一挙に生み出されている。Benedixson & Platt(1992, p.148, p.194, p.243.)の図・表を参照。ただし、Benedixson & Platt(1992)の図表には、細かい典拠の記載がない場合が多いことに注意。
12)1981年3月の段階で、累積投資額(8億5600万ポンド)と、1980/1981会計年度(1980年度)における投資額(1億4200万ポンド)に占める公共投資と民間投資の比率を見ると、公共投資は累積で68パーセント、直近年度で57パーセント(市や州など、他の公共機関の投資を除いた、ミルトン・キーンズ開発公社だけの数字では。累積で45パーセント、直近年度で42パーセント)となっており、民間の比率が高まりつつあるとはいえ、初期の開発が公共投資に大きく依存していたことが明らかである。ところが10年後の1991年における数字を見ると、累積投資額(29億6700万ポンド)、直近年度投資額(3億0400万ポンド)に対して、公共投資は累積でも29パーセントを占めるだけとなっており、直近年度ではマイナス(つまり、投資ではなく回収が進む段階に入っているということ)になっている。この傾向は、住宅の供給数からも明らかである。1982年度までは住宅供給における民間の比率が半分以下であったのに対し、以降は住宅供給の8〜9割以上が民間依存となっている。Benedixson & Platt(1992, p.199, p.217, p.270.)の図を参照。
13)「開発手引書」第12章は、公社解散後の業務引継ぎの説明に充てられている(Milton Keynes Development Corporation, 1992, pp.201-212.)。
 開発公社の資産等を引き継いだのは、開発が終了したニュータウンにおける国有資産を管理する組織として1959年ニュータウン法(the New Town Act)の下で設置された、ニュータウン委員会(the Commission for the New Towns)であった。ニュータウン委員会は、1999年にイングリッシュ・パートナーシップス(English Partnerships)に統合されたが、現在でも Carrying on business as English Partnerships と但し書きをつけて旧称が用いられる場合もある。
 開発公社は、通常なら州や市に帰属する行政権限を集中して掌握していた。公社の解散後、これらの諸権限は、通常の自治体におけるのと同じように州や市に帰属することとなった。開発公社に集約されていた開発行為の諸手続きは、採鉱や廃棄物処理など州に帰属する一部の権限を除いて、ほとんどが市によって引き継がれることになった。
 このほかでは、一部の公園が、1990年に設立された信託財団(Milton Keynes Parks Trust, Ltd)に委譲ないし寄託され、行政の直接的な管理から切り離されたことが注目される。
14)1991年〜2001年の地域計画が、1991年原案公表、1995年採択といったスケジュールで策定されることは、決して異例ではないが、やはり時間がかかりすぎるという批判もあったようだ。しかし、地域計画は最終的な採択前でも、政策の指針として関係者に認識され、実質的に機能することになる。
15)ミルトン・キーンズ市の要覧(Milton Keynes Council, 2001)によれば、市域全体の人口はおよそ20万4000人である(p.75)。
 また、1996年の数字に基づく雇用に関するディスカッション・ペーパー(Milton Keynes Council, 1998b)の記述によれば、ミルトン・キーンズを中心に設定されている「通勤地域(Travel to Work Area)」には、およそ10万5000人の雇用があり、通勤地域外へ通勤する居住者は1万7000人あまり、地域外から流入する通勤者は2万3500人ほどその76パーセントはサービス業となっている(p.5)。
16)単一自治体になると、州(カウンティ:県とも訳される)と市(バラ、ディストリクト)の二段階の地方行政から離れて、地方自治に関するほとんどの業務を市が一元的に扱うことになる。その意味では、日本の政令指定都市や韓国の広域市などの制度にも似ているが、英国の場合は大都市に限った制度ではないところが異なっている。単一自治体となっても、警察や消防などをはじめ、州の管轄下に残る業務もある。また、移行期において、州の策定した諸計画が有効な期間は、単一自治体もそれを尊重しなければならない。
17)課題書はそれぞれ、構想と目標(Vision and Aims)、開発戦略(Development Strategy)、シティの充実と拡大(City Infill and Expansion)、農村問題(Rural Issues)、雇用(Employment)、新たな開発の質(The Quality of New Development)、市街地センター(Town Centres)、余暇活動(Leisure)、と題されている。いずれもA4判、簡易印刷、ステープラー綴じの小冊子で、ページ数も11〜34ページという簡易なものである。
18)20項目の質問内容を要約すると、概ね以下のようになる(Milton Keynes Council, 1999, p11)。
構想と目標:
1.構想には市の将来像についてより具体的に踏み込んだ表現をすべきか。
2.地域計画の目標は何であるべきか。
開発戦略:
3.雇用の拡大をどの水準まで計画するか。
4.シティ外との対比で、シティ内にはどの程度の新規開発を計画すべきか。
5.新規開発は「活動の結節点」に集中すべきか、交通路に沿道型にすべきか。
シティの充実と拡大:
6.シティ内に、現在の計画を超えて更に開発を進める余地はどの程度あるか。
7.現在のシティの境界線を越えて開発を広げるとすれば、どれくらいの土地が必要か。
8.シティの拡張をする場合、拡張する地域についての評価は何が最も重要か。
農村問題:
9.新たな住宅、雇用、サービス提供の場として、最も好ましい集落はどこか。
10.他の集落の開発についてはどう対処すべきか。
11.集落外の農地などの空間にはどう対処すべきか。
雇用:
12.シティ内や隣接地に、更に事業所用地を設ける必要があるか。
13.事業所用地には、十分な多様性があるか。
14.事業所用地は、従前どおりシティの周辺部に分散させるべきか。
新たな開発の質:
15.古い市街地における町並みの更新と保存のバランスをどのようのとるべきか。
16.新規開発において高水準のデザインを実現するために地域計画はどうすればよいか。
市街地センター:
17.新規の商業開発における戦略はどのようなものであるべきか。
18.古い市街地の更新を促進するためには地域計画をどのように使えるか。
余暇活動:
19.市単位より広い、地方レベルの余暇施設を計画すべきか。
20.公共のオープン・スペースを確保するために、何をなすべきか。
19)デポジット版の冊子の章は以下の15章から成り、これに付録として資料編が加えられている。
1.序章(Introduction)
2.構想と目標(Vision and Aims)○
3.戦略的政策(Strategic Policy)△
4.デザイン(Design)
5.歴史的環境(Historic Environment)
6.自然環境(Natural Environment)
7.交通(Transport)
8.シティ拡大地域と主要な敷地(City Expansion Areas and Key Sites)△
9.住宅政策(Housing Policies)
10.新たな住宅用地(New Housing Sites)
11.雇用(Employment)○
12.市街地センターと買い物(Town Centres and Shopping)△
13.余暇とリクリエーション(Leisure and Recreation)△
14.コミュニティ施設(Community Facilities)
15.計画義務(Planning Obligations)
このうち、○は同じ表現、△は類似した表現が、課題書や方針案にあったことを示している。
20)提案されたシティの拡張は、東部、西部、北部で合わせておよそ2.6平方キロメートルに及ぶ。
 M1に沿った東部は、事業所用地と住宅用地、そして将来に備えた戦略的な保留地などに充てられる。また、M1に隣接していることを踏まえて、パーク・アンド・ライド施設の整備が提起されている。
 西部は、若干の事業所用地や墓地のほかは、住宅用地としての開発が構想されている。
 北部については、必ずしも戦略的な性格のものではなく、現在のシティの境界に隣接する古い工場跡地の再開発を円滑に進めるために、その敷地をシティに繰り入れるものである。
21)デポジット版の地域計画に寄せられた意見はおよそ5000件で、1991年〜2001年の地域計画に比べて7倍という膨大な量になった。地域計画審議会による修正案の検討には、この膨大な量の意見に対応するためもあって、予定よりも長い期間が費やされている。2001年10月現在の時点でミルトン・キーンズ市が公表している今後の見通しは、修正案の公表が2002年はじめにずれ込むことを前提としており、少なくとも2001年いっぱいは検討作業が続けられる模様である。
 この間、ミルトン・キーンズ市とイングリッシュ・パートナーシップスは、セントラル・ミルトン・キーンズにおける新たな開発計画の具体案を取りまとめており、その内容は修正案に反映されることになる。
22)これは、1992年の段階で、既成の住宅地区における住宅(dwellings)数(集合住宅の場合はユニット数がこれに当たる)を、住宅用地とこれに付随する道路・歩道・その他小空間を合わせた面積で除した、正味密度(net density)の値である。住宅地区に配置された住宅以外の施設(学校など)の用地や、公園など大規模な空間は、面積から外して計算されている。以下、同じ基準で計算した場合の数字を比べると、シティ内においてもブロックによって16〜30戸程度の密度の差が存在している(Milton Keynes Development Corporation, 1992, pp90-92)。一方、全国的に新規に開発される住宅地区の密度は30〜35戸程度であり、さらに、政府の地方行政管理委員会(the Local Government Management Board)は、新規の住宅地区開発においては40〜50戸程度の水準が望ましいとしている(Milton Keynes Council, 1998a, p23)。なお、一般的に住宅の密度が低くなれば、住宅の面積は大きくなり、平均的な世帯規模も大きくなるので、人口密度の差は、戸数密度の差ほど極端にはならない。
23)また、市街地から離れた地域であっても、1ヘクタールあたり20戸未満の開発は認められないとされている(Milton Keynes Council, 2000, pp97-98)。
24)優先順位は、歩行者および移動に障害のある者、自転車利用者、公共交通機関およびタクシー、自家用車となっており、歩行者の尊重と並んで、障害者が自家用車を利用してアクセスするようなケースへの配慮が強く求められている(Milton Keynes Council, 2000, pp53-59)。多くの障害者が、何らかのモータリゼーションによって移動性を確保している以上、モータリゼーションそのものを抑制するような政策が採られることはない。提言されているのは、他の交通手段の奨励による、モータリゼーションへの過剰な依存からの脱却である。
 歩行者の徒歩による移動については、従来の計画でもないがしろにされていたわけではない。開発公社の残した「計画手引書」にも、自動車用の道路と並行しつつ、車道から立体交差などで分離された the Redway System と称される歩道・自転車道のネットワークや、緑地などを結ぶその他の歩道についての記述があるし、英国らしく乗馬用道路網の設定についても論じられている(Milton Keynes Development Corporation, 1992, pp52-56)。新しい地域計画では、この歩道・自転車道のネットワークを維持した上で、同様に徒歩で移動できる道路が整備される範囲を、セントラル・ミルトン・キーンズ以外の市街地や、シティの外まで広げることが謳われている(Milton Keynes Council, 2000, pp56-57)。
25)自動車のアクセスや駐車場が確保されていること、住環境に影響を与えないことなどを条件に、居住者の就業に限って、住宅の事業所としての利用が認められることになっている(Milton Keynes Council, 2000, p142)。
26)ミルトン・キーンズにおける商業集積は、5段階の階層性をもつものとして計画配置されている。最初のレベルが(a)村落の商店と近隣センター(Village shops and Local Centres)で、以降順に、(b)地区センター(District Centres)、(c)ニュータウンに先行した既存市街地のセンター(Town Centres)、(d)ブレッチリーのセンター、(e)セントラル・ミルトン・キーンズと規模が大きくなってゆく(Milton Keynes Council, 2000, p148)。
 ここでは、歩いて行ける場所で日常的な買物ができれば、徒歩で買物に行くだろう、という想定がなされている(Milton Keynes Council, 2000, p149)。しかし、ニュータウンにおける近隣センターの衰退というわが国の経験を踏まえて考えれば、こうした判断には懐疑的にならざるを得ない(山田, 1986)。
27)例えば、セントラル・ミルトン・キーンズにおける新たな開発行為は、市外を含め周辺のいかなる商業集積にも影響を与えてはいけない、という趣旨の文言がある(Milton Keynes Council, 2000, p165)。これは、セントラル・ミルトン・キーンズのショッピング・センターが、既に周辺の購買力を相当に吸収している中で、周辺自治体への配慮も込めて盛り込まれているものと思われる。実際、2000年のショッピング・センターの増床(Midsummer Place の開業)によって商業は供給過剰気味であると判断されているほどである(Milton Keynes Council, 2000, p164)。
 他方では、周辺には見られないような高次のサービスを提供することで、広域からの来街者を獲得しようという発想は以前から存在しており、劇場、遊園地、屋内スキー場といった施設の積極的な誘致につながっている。
28)英国の都市計画における合意形成過程については、中井・村木(1998)を参照。
29)日本でも自動車の使用自粛を呼びかける運動はさまざまな形であるが、ミルトン・キーンズでも、自動車の使用自粛を呼びかける Car Free Days を時々行っている。2001年9月には、その行事の一環として放置自動車の撤去・解体がデモンストレーションされた。目に見えるモノとしての車を破壊し、リサイクルするというデモンストレーションは、この問題に対する市当局の姿勢をきわめて象徴的に示すものといえるだろう。(http://www.miltonkeynes.gov.uk/localnews/DisplayArticle.asp?ID=7938
 また、地域計画には具体的な言及はないが、ブレッチリーから分岐してオックスフォード方面に向かう鉄道の復活も、ミルトン・キーンズ市の交通政策の視野に入っている。

文献

Benedixson, Terence & Platt, John (1992): Milton Keynes: Image and Reality, Granta Editions, Chesterton, 301ps.
Commission for New Town (2000): 2001 Official City Atlas: Milton Keynes, GEOprojects (UK), South Street Reading, vi+27ps.
Milton Keynes Council (1998a): City Infill & Expansion a Discussion Paper: Local Plans Issues Paper 3, Milton Keynes Council, 27ps.
Milton Keynes Council (1998b): Employment a Discussion Paper: Local Plans Issues Paper 5, Milton Keynes Council, 18ps.
Milton Keynes Council (1999): Directions Paper: Towards a new Local Plan, Milton Keynes Council, 73ps.
Milton Keynes Council (2000): The Milton Keynes Local Plan: Deposit Version, Milton Keynes Council, 235ps.
Milton Keynes Council (2001): Milton Keynes and District Official Guide, The British Publishing Company, 100ps.
Milton Keynes Development Corporation (1992): The Milton Keynes Planning Manual, Chesterton Consulting, 278ps.
Mynard, Dennis & Hunt, Julian (1994): Milton Keynes: A Pictorial History, Phillimore, Chichester, (approx.)116ps.

中井検裕・村木美貴(1998):『英国都市計画とマスタープラン』学芸出版社, 320ps.
山田晴通(1986): 商業施設としてのニュータウン近隣センターの現状と問題点―多摩ニュータウンの事例から―, 松商短大論叢, 35, pp79-103.


謝辞

 本稿執筆に際し、ミルトン・キーンズ市の Senior Planning Officer である Michael Moore 氏には、資料の提供と丁寧な背景説明をして頂いた。また、長期国外研究のためストーニー・ストラトフォードに居住されている本学コミュニケーション学部の安藤明之教授(オープン・ユニバーシティ客員教授)には、資料収集へのご支援を頂き、また、居住者の立場からの有益なお話を伺った。また、英文要旨は、中期国外研究で筆者が滞在しているマコーリー大学(オーストラリア)の Susan Poetsch 女史に校閲をお願いした。以上、記して感謝する次第である。

 本研究には、2001年度の東京経済大学個人研究費を用いた。
 本稿のテキストは、当研究室のページで公開している。(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html


Dr Harumichi YAMADA'S English home page

////社会経済地理学/地域研究/地誌////英国関係ページへの入口////

このページのはじめにもどる
テキスト公開にもどる
山田晴通・業績一覧にもどる   

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく