★★★ ご注意下さい! ★★★

 このページは、日本ポピュラー音楽学会(JASPM)の旧ウェブ・サイトを、「歴史的文書」として保存・公開しているものです。
 内容の更新は、2001年1月以降おこなっていません。特に、リンクやアドレスにつきましては、現在では無効となっているものがございます。悪しからずご了解下さい。


犬も歩けば……

山田晴通(except otherwise noted)/柴 俊一(1)/三井 徹(6)/細川周平(9)/阿部勘一(10)



NEWSLETTER 17(1993.07.15.)

犬も歩けば……(1)

 日本においても、ポピュラー音楽やその周辺の事柄について、多少なりとも学術的な形式をとって発表されている論文は意外に多く存在しています。ところが、そうした論文の相当の部分は、一般の人々の眼に触れにくい、いわゆる「紀要」類などに掲載されています。
今回から、学術論文の体裁をとるポピュラー音楽関係の文献で、音楽専門雑誌以外の媒体(特に、大学紀要類)に掲載されたものを、この欄で、随時、紹介します。
 もちろん、文献探索の範囲は網羅的ではありません。また当然ながら、コメント・評価も私個人の趣味・関心を反映しています。また、必ずしも最新の文献ばかりを扱うわけでもありません。ともかく、日常の資料漁りからぶつかった日本語のPM(周辺)文献を紹介したいというのが、この欄の趣旨ですので、「こんな文献もある」という情報の提供も歓迎します。どうぞ宜しく。
 なお、[ ]内のコメント末尾の☆は「読物としての面白さ」で、五つ星が最高です。(山田晴通)

  ◇  ◇  ◇  ◇

小野純一郎(1987):
 現代都市文化産業にみる情報生産に関する考察−女性歌手を通して捉えたレコード音楽産業の事例−,地域研究(立正大学立正地理学会),28-2,pp17〜32.
[多様な業種の絡むレコード産業界の状況を、関連施設の立地やプロモーション活動の空間的展開に注目して、整理しようという試み。突っ込み不足だが、類例のないフィールドワーク報告。表題の「女性歌手」は浅香 唯。☆☆]

三浦 久(1993):
 とうもろこし畑でつかまえて −Field of Dreams と Bruce Sringsteen−,信州豊南女子短期大学紀要,10,pp25〜45.
[Bruce Springsteen の一連の代表的作品と、映画 Field of Dreams を主な素材に、現代アメリカ社会における「父親との和解」というモチーフを論じている。☆☆☆☆]

村越洋子(1993):
 アーティスト尾崎 豊の生と死−青年心理学的アプローチ−,大月短大論集,24,pp217〜250.
[副題に期待し過ぎると肩透かし気味。息子がファンだった尾崎について、母親が共感的にのめり込んで綴ったオマージュ。データ過多で論旨が見えにくいのが残念。☆]

山岡捷利(1988):
 はやり歌とことば−大陸ソングに沿って−,言語文化(明治学院大学言語文化研究所),5,pp20〜34.
山岡捷利(1993):
 はやり歌とことば(三)−中島みゆき篇−,言語文化(明治学院大学言語文化研究所),10,pp69〜92.
[山岡は千葉大学教養部所属。私のように、能の知識など文学的素養に欠けた人間には少々難解だが、複製される歌としての<はやり歌>の本質を、歌う主体の複製化という視点から捉えて掘り下げている。☆☆☆?]


 山田さんから電話でこの企画のアイデアを伺ったとき、ここまでまじめな原稿が来るとは予想していませんでした。あまり目につかないところで見つけたポピュラー音楽ネタ、ということでご笑覧ください。もともとは夏涸れの埋め草企画なのだ。(柴俊一)

  ◇  ◇  ◇  ◇

ジャック・ウォマック『テラプレーン』(ハヤカワ文庫)
[ポスト・サイバーパンク世代による傑作SFだが、何と伝説のブルーズマン、ロバート・ジョンスンが登場するので、ポピュラー音楽学会員もご注目を。ジョンスンに詳しい向きは、タイトルを見てははん、と思われるかも。主人公たちは21世紀のモスクワから一転1939年のニューヨークにタイムワープするのだが、これが、奴隷解放が20世紀になってからだったりフランクリン・ルーズベルトが就任直後に暗殺されたりしている、パラレル・ワールドの1939年。これから読む人のために詳しくは書かないが、登場人物の一人、凄腕の殺し屋ジェイク(21世紀人)がロバート・ジョンスンの崇拝者という設定で、全編にわたってジョンスンの歌が引用されている。当のジョンスンはクライマックス近くにチラッと登場。ジェイクが「あの人だ…」とつぶやくシーンは泣ける。ちなみにジョンスンは、こちらの世界では1938年に亡くなっている。ニューヨーク万博の未来パビリオン「フューチャラマ」とテスラ・コイルが物語の重要なモチーフになっているのも見逃せないポイント。流行りの「レトロ・フューチャー再評価モノ」でもある。☆☆☆☆]

Patricia McFall Night Butterfly (1992, St.Martins Press)
[神保町の古本屋で見つけたアメリカのミステリー、¥200也。(表紙参照)1970年代前半の日本が舞台で、アメリカから言語学研究のために来日した女子学生が東京のナイトクラブでホステスをするうちに、事件に巻き込まれる。「夢は夜ひらく」の歌詞がエピグラフに使われている。実はまだ読んでないのだが、傑作なのはこの表紙。写真をもとに描いたのだろうが、手前のネオンは「インカ」なのか「トリカ」なのか、どっちにしても意味不明。 ????]

NEWSLETTER 18(1993.10.15.)

犬も歩けば……(2)

 いつまで続くか解りませんが、今号も「会員に有益(かも知れない)情報」として、いくつか文献を紹介します。
 前号同様、[ ]内のコメント末尾の☆は「読物としての面白さ」で、五つ星が最高です。

◇  ◇  ◇  ◇

五十嵐太郎(1993):
 大・東京歌謡曲論−うたのなかの東京 明治編−,リベルス(柏書房),9,pp32〜35.
[明治期の「はやり唄」に現れる「東京」の景観を『日本流行歌史』から拾って紹介した小文。着想は面白いが、短く、もの足りない。表題にふさわしい長い論文を、今後に期待したい。☆]

前田一郎(1990):
 89年 New York 夏期ジャズ動向−The Jazz Scene in New York City of Summer 1989−,海外事情研究(熊本商科大学海外事情研究所),17-2(通巻34),pp91〜113.
[6月から8月にNYに滞在した前田が、JVC Jazz Festival などその夏に出かけた40回の演奏会について記した印象記。写真やプログラム、広告など、資料がふんだんに使われている。☆]

前田一郎(1991):
 1990年代のモダン・ジャズに関する一考察(上)−Mainly through the Jazz Scene in New York City of Summer 1990−,海外事情研究(熊本商科大学海外事情研究所),18-1・2(通巻35・36),pp31〜55.
前田一郎(1991):
 1990年代のモダン・ジャズに関する一考察(下)−Mainly through the Jazz Scene in New York City of Summer 1990−,海外事情研究(熊本商科大学海外事情研究所),19-1(通巻37),pp33〜49.
[Walter Davis, Jr. と Art Blakey の「追悼の章」では、1970年に Blakey が熊本商科大学を訪問した挿話などがある。この年の前田は8月はじめにNYへ渡ったらしく、9月初旬まで30回の演奏会について報告している。最後に「過去10年間のベスト・テン」があるのが、ジャズ狂らしい。☆]

前田一郎(1992):
 1991年 New York モダン・ジャズに関する一考察−The Jazz Scene in New York City of 1991−,海外事情研究(熊本商科大学海外事情研究所),20-1(通巻39),pp115〜145.
[Jazzmobile の規模縮小を憂いながら、前田は6月下旬から8月までNYで70回以上の演奏会に出かけている。例年と違って、その大半についてはパーソネルや曲目の提示にとどめられている。その代わりに、NY在住の日本人ジャズメンのパフォーマンスについて、まとまった紹介がされている(pp137〜142)。☆]

[以上、前田一郎氏の論文の評価は、ジャズに関心の薄い立場からの評価である。こうした報告にどれほど資料性があるのか、ふだんジャズに縁の無い私にはよくわからない。また、前田氏の文章に、ある種の雰囲気と疾走感があることは察せられるのだが、それとてただの酔狂のようでもある。ひょっとすると前田氏の文章は、ジャズ狂にはこの上なく楽しい文章なのかもしれない。]

NEWSLETTER 19(1994.01.15.)

犬も歩けば……(3)

 またまた、「会員に有益(かも知れない)情報」として、文献を紹介します。今回は、音楽図書館協議会(MLAJ)のニューズレター(MLAJ Newsletter)からも情報を集めてみました。同誌は、新たに刊行された音楽関係の書誌情報を網羅的にフォローする「MLAJ資料情報」を継続的に掲載しており、文献漁渉には貴重なトゥールです。以下で、[◆15-1]とあるのは、MLAJNewsletter 15巻1号に記載のあることを示します。
 MLAJ Newsletter に関心のある方は、さしあたり国立音楽大学図書館(JASPMの団体会員です)にあるMLAJ事務局へお問い合わせ下さい。なお、現在の編集担当者は、JASPM個人会員でもある松下 鈞さんです。
 従前のように、[ ]内のコメント末尾の☆は「読物としての面白さ」で、五つ星が最高です。(山田晴通)

◇  ◇  ◇  ◇

関口民恵(1993):
 現代の若者における言語感覚の研究−ドリームズ・カム・トゥルーの歌詞の中の「電話」を中心に,群女国文(群馬女子短期大学),20,pp126〜136.
[◆15-1:研究者の論文ではなく、短大国文科の優秀な卒論として紀要に紹介されているもの。そこまで勘案し、どっぷりハマった世代による分析として読めば、けっこう面白い。ちなみに、今年は私のゼミの卒論でもドリカムを取り上げたものがあり、そこではキーワードとして「自転車」が注目されていました。☆☆]

前田一郎(1993):
 1992年 New York モダン・ジャズに関する一考察−The Jazz Scene in New York City of 1992−,海外事情研究(熊本商科大学海外事情研究所),21-1(通巻41),pp47〜76.[前回、一挙に紹介した前田による報告の最新版。コンサート記録、ベスト・アルバム、追悼記事で構成されている。☆]

牧野陽子(1993):
 ラフカディオ・ハーンの詞による歌曲について,成城大学経済研究,121,(横組)pp54〜30(163〜187).
[NYのコロンビア大学ハーン・コレクション所蔵の2曲の楽譜資料の紹介。それぞれの作曲者、F.N.Barbour と F.Foster は20世紀初頭のアメリカの女性作曲家。作品はハーンが著作中で英訳紹介した都々逸(Barbour,1910)と民謡(Foster,1917)の歌詞にメロディをつけたもので、今日では忘れられた存在となっている。歌の素材を異文化へ翻訳する作業の事例として、なかなか興味深い。☆☆☆]

◇  ◇  ◇  ◇

清水義範(1990):
 ジャポン大衆シャンソン史,『秘湯中の秘湯』大陸書房(文庫化:1993年,新潮文庫,pp223〜257).
[上記の牧野論文を読んでいて、思い出したパスティーシュ。架空の仏文『日本大衆歌謡史』を翻訳する、という手法で「赤いリンゴ」(「リンゴの歌」のこと)から「パラダイス銀河」まで、36曲の解体=脱構築をやっている。翻訳による「ぼやけ」を(疑似)重訳で戯画化するのは清水の得意技の一つ。この作品も大いに笑えるが、同時に、PM研究者がまともに受け止めるべき問題を提起をしているともいえる。☆☆☆]



NEWSLETTER 20(1994.04.15.)

犬も歩けば……(4)

 今号も、「会員に有益(かも知れない)情報」として、会員のアウトプット以外の日本語PM文献を紹介します。今回は、なぜか歌詞分析ものが多くなりました。
 従前のように、[ ]内のコメント末尾の☆は「読物としての面白さ」で、五つ星が最高です。

    ◇  ◇  ◇  ◇

大津栄一郎(1994):
 「ノルウェイの森」雑考,図書(岩波書店),538(1994・4),pp11〜15.
[ビートルズの‘Norwegian Wood’が「ノルウェイの森」ではなく「ノルウェー材」の意であることは、よく知られているが、この「誤訳」を入口に、原詞と既存の訳詞のズレについて考察を加えている。著者は明治学院大学の英文学者。☆☆☆☆]

江原真弓(1994):
 現代の若者の言語感覚〜B'z稲葉浩志氏の詞から〜,群女国文(群馬女子短期大学),21,pp84〜91.
鈴木千友(1994):
 現代の若者における言語感覚−氷室京介氏の歌詞より−,群女国文(群馬女子短期大学),21,pp91〜101.
深沢恵美(1994):
 井上陽水の歌詞に見る「青」の形容,群女国文(群馬女子短期大学),21,pp101〜108.
[前回、ドリカムの歌詞分析をした関口(1993)を紹介したが、同じ国文学研究室の紀要の最新号が送られてきて、また驚いた。何と、優秀な卒論として一挙に3篇ものPM歌詞の分析が掲載されていたのである。これはただ事ではない。ついでに卒論題目一覧にも眼を通すと、140本のうち同種の歌詞分析が何と 15本(この3本を含む)もある。稲葉、氷室のほか、大江千里が2本ずつ、さらに藤井郁弥、平松愛理、岡村孝子、森高千里、BUCK・TICK、WANDS、KAN、JUN SKY WALKER(S)が取り上げられている。現代の地方短大生の好みが素直に反映されているような感じである。もちろん、短大の卒論に過ぎないといってしまえばそれまでだが、国語学/国文学からアプローチする歌詞分析の可能性が(限界も含めて)見えてくるという意味で、いずれも貴重である。☆☆]

石森秀三・編(1991):
 『観光と音楽』(民族音楽叢書6)東京書籍,338ps.
[京都の国立民族学博物館を中心に刊行された叢書(全10冊)の1冊。刊行は3年前だが、最近になって読む機会があった。13篇の論文(うち翻訳9篇)が収められ、PM関係の論文も多い。ハワイアン音楽が観光化によってどのように影響を受けたか論じたタタール論文(II−1)、カリブ海諸国の事例を論じた第III部の4論文(すべて翻訳)、昭和歌謡曲の歌詞の総観的な展望を試みた久保論文などPMを取り上げた第V部の3論文など、全体の過半はPM研究である。ただし、各論文の視点、議論のレベルはばらばらで、読者によって「面白い」論文は違ってきそうである。私の評価は、論文ごとに☆〜☆☆☆☆までばらついた。]

[なお、学術文献ではないが、「図書館雑誌」で音楽文献目録委員会のことが紹介されていたので付記しておく。
 シリーズ【会】情報(12) 音楽文献目録委員会
 図書館雑誌(日本図書館協会),88-3,pp170〜171.]


NEWSLETTER 21(1994.07.15.)

犬も歩けば……(5)

 今号は、「会員に有益(かも知れない)情報」として、英文のPM文献(ただし日本の媒体)も紹介しますし、ライヴ評つきの文献紹介もあります。
 編集の柴さんからは、日本語の「ロック哲学本」の書評を求められているのですが、当分はそんな難しい本を読む余裕ができそうにありません。ゴメンナサイ (^^;)ゞ
 従前のように、[ ]内のコメント末尾の☆は「読物としての面白さ」で、五つ星が最高です。

村越洋子(1994):
アーティスト 尾崎 豊の存在 −青年期における社会的意義−,大月短大論集,25,pp241〜280.
[以前に紹介した村越(1993)の続報。尾崎の実家への訪問、父親へのインタビューなどを踏まえ、青年期の聴き手にとって尾崎がもつ意味を考察している。前稿ほどではないが、筆者の尾崎への傾斜は強く、冷静な分析にはなっていないように思われる。ひょっとすると、筆者の専攻分野(青年心理学)には、こういうスタイルの論文もあるのかもしれないが...。☆]

SEWARD, Robert(1994): Radio Happy Isles−The Play of Media in the Small Island States of the Pacific−,明治学院大学国際学部付属研究所Occasional Paper,3,25ps.
[南太平洋の島嶼国家におけるラジオ放送の現状報告。直接PMを論じているわけではないが、PMのみならず、ポピュラー文化を支えるのはメディアであり、その運営環境は、当然PMのあり方を左右するのだから、この論文はPM研究者にも有益である。文中からは、南の島のDJの生活感も伝わってくる。英文はややクセがあるようだが、難解ではない。☆☆☆]

沖縄国際大学文学部社会学科石原昌家ゼミナール・編(1994):
『戦後コザにおける民衆生活と音楽文化』 榕樹社(発売元・緑林堂書店[宜野湾市]),622ps,\6180.
[本書は、沖縄国際大の石原ゼミが1992年度に行った「社会学演習調査」の報告である。しかし、中身は学部生のまとめた報告書とは思えないほどしっかりしている(誤植がほとんどないのもモラールの高さの証だろう)。
 沖縄の音楽文化状況については、現地でも、また大和=本土でも、ジャーナリスティックな視点から繰り返し取り上げられてきた。雑誌記事や雑誌特集号のみならず、出版物もそこそこ存在することだろう。しかし、歴史として記述することを目的に、学問的関心に基づくインタビューを積み上げ、背景となる社会状況の記述を付した本書は、極めて貴重な資料である。また、沖縄戦後史に通じない大和人(ヤマトゥンチュ)にとっての本書は、民衆音楽のみならず、沖縄戦後史の全体像をも伝える格好の導きの手となってくれるだろう。
 本書は、もともとは沖縄市コザのパークアベニュー(旧センター通り)の社会史を跡付ける調査から出発しており、調査には沖縄市史編集室が協力している。全体の構成は、時間軸に沿って編成され、戦後〜ベトナム戦争〜本土復帰〜ベトナム戦後といったそれぞれの時代に、コザを拠点とした音楽家たちの描いた軌跡を編み上げて、時代状況を立体的に描き出している。
 インタビューに応じたインフォーマントは24名。ジョージ・紫、宮永英一(ともに元「紫」)、川満勝弘(元「コンディショングリーン」)、喜屋武幸雄(沖縄ロックの草分けの一人、喜屋武マリーの夫)、さらに喜納昌吉、そして照屋林助(!!)といった人々が入っている。個別の内容を紹介する余裕はないが、インタビューの中では、ミュージシャン側からみた地域社会、米軍・米兵、ドラッグ、本土のビジネス、そして沖縄を覆う社会的矛盾が、生々しく浮き彫りにされている。
 ワープロ打ち原稿をそのまま印刷した本書は、編者であるゼミナールの機関誌『あし』第15号に表紙をつけて、一般に販売できるようにしたものである。しかし、取り次ぎには流れていないらしく、入手するには発売元(tel.098-893-4076)に直接問い合わせるしか方法はないようだ。☆☆☆☆☆]

NEWSLETTER 21(1994.07.15.)

犬も歩けば……:蛇足:紫の爆音

 私が『戦後コザにおける民衆生活と音楽文化』を手に入れたのは、6月26日(日)、琉球大学で開催されていた日本マス・コミュニケーション学会の会場においてであった。そして、その日の夜、私は同じ学会に参加していた小川博司氏に誘われてコザのライヴ・ハウス「アイランド」に出かけた。目的は、実に「11年ぶり」という「紫」の再結成(同窓会?)ライヴである。このイベントを地元紙『沖縄タイムス』の雑報から見つけ出した小川氏には、いくら感謝しても感謝しきれないだろう。
「紫」は、1970年代の沖縄を代表するハードロック・バンドであり、アルバムも(私の記憶では)3枚ほどあった。当時の「紫」は、初期ディープ・パープルそのもの、といったスタイルで、パープルのカヴァー曲を中心に、オリジナルも交えながらガンガン演奏する力技のバンドとして、本土でもよく知られていた。1978年に解散した後、1983年に再結成ライヴが行われた(現在のピースフル・ロック・フェスティバルの契機となった)が、その後メンバーは、個別に音楽活動を続けたり、あるいはプロとしての活動から引退したりという状態にあった。その後も「紫」名義の活動はいろいろあったが、全盛期のメンバーによる復活は「11年ぶり」ということらしい。
 開演予定時間ぎりぎりに到着すると、さほど広くもない店内に、ざっと四百人は入っている。ほとんどは若い連中だが、我々同様のオールド・ファンらしい世代も多く、さらに彼らが連れてきた子供もいる。年齢層は赤ん坊から50代まで幅広い。店内ではフリー・ドリンク、フリー・フードで、並んだ食べ物はどことなくアメリカナイズされている(けっこう美味しい)。
 予定時間をやや過ぎた頃、ヴォーカルの城間正男が、全盛期を思わせる長髪で登場(実はカツラ)、遅れて始まることを告げる。語り口は、実にアット・ホームだ。そうこうするうち、一時間くらいは遅れた感じで、フロアに紛れて飲んでいたメンバーがステージに上がった。40代に入った彼らは、けっこういいオジサンたちに見えた。
 店内を真っ暗にして、B52を思わせる爆音で始まったステージは、前半は、パープルのオン・パレードである。「ブラック・ナイト」から「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「レイジー」まで、かつて彼らがベトナムへ向かう米兵達の前で(時には彼らと大立ち回りを演じながら)演奏した曲である。ただのオジサンのようにも見えたキーボードのジョージ・紫も、演奏が始まると全く別人。ジョン・ロード以上にジョン・ロード的に(?)、ハモンドから音を叩き出していた。途中でバラードが2曲(1曲はプロコル・ハルムの「青い影」)入ったものの、疾走感を十二分に感じさせる。一面では、ヴォーカルが歌詞カードを見ていたり、ギターのソロが淡泊だったりと、長年のブランクを隠せない所もあったが、城間正男がMCで「コンサートじゃなくて、パーティーだから」と繰り返した言葉(彼の言では、この企画は6月始めに決まったのだそうだ)も悪びれた感じはなく、とにかく楽しいステージだった。
「紫」前半のステージに続いては、モノマネ芸人が喜納昌吉のマネなどで笑わせた後、ドラムスの宮永英一による「琉球マジック」のパフォーマンス。これは、彼が現在活動しているバンド(Zodiac)のテープをバックに、太鼓を叩きながら沖縄口(ウチナーグチ)と英語で歌うというものである。私は沖縄口はほとんど理解しないが、断片的に聞き取れるキーワードから判断する限り、かなりシリアスな内容のように思われた。
「紫」後半のステージでは、オリジナル曲が中心で、彼らのオリジナルでは最も重要なものとされる「ファラウェイ」[ページ掲出に際しての注:「フライアウェイ」の誤記です](沖縄民謡「ナンタ浜」のメロディを引用した箇所がある)も聴かれた。最後はアンコールの声に、メンバーはしばしステージ上でミーティング(アンコールまで考えていなかったらしい)。結局、前半で一度演奏した「ブラック・ナイト」を再度演奏して「紫」のステージは終わった。
「紫」のメンバーがステージを降りた後、ベースの城間俊雄が「アイランド」のオーナーとして挨拶し、「今夜はまだまだ閉めない」と宣言し、さらにハウス・バンドの「アイランド」(城間兄弟以外は若手のメンバー)が、クラプトンの曲などを演奏した(小川氏は、「ギターに色気がある」と評価されていた)。さらに、まだ帰ろうとしない二百名以上の客を相手に、ゲスト・ミュージシャンたちによる演奏が続いた(ゲストの大半は、「紫」よりさらに上の世代で、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」などを演奏)。私と小川氏が、まだまだ続く演奏の途中で店を出たのは、午前3時近くであった。
 ステージで城間正男が言ったように「『紫』はまだまだ忘れられていない」。りんけんバンドやネーネーズ、あるいはディアマンテスばかりが沖縄の音ではない。そして沖縄のハードロックが一つの社会的必然であったことは、『戦後コザにおける民衆生活と音楽文化』が精密に描き出した通りである。
 正男はステージで、「年に一回くらいはパーティーがあってもいいよな」とも言った。もしいつか、沖縄を訪れる機会があれば、コザの「アイランド」に顔を出してみよう。ひょっとすると、また、新しいだけの音でも、単なるノスタルジーでもない、重たい歴史としての爆音に出会えるかも知れない。


NEWSLETTER 22(1994.10.15.)

犬も歩けば……(6)

今年は、暑く、渇水の厳しい夏でした。「犬棒」も夏枯れです。

水野邦彦(1994):
大衆芸術を考える―芸術社会学覚書―,『一橋論叢』112, pp.284-297(8月号、pp.64-77)
[筆者は法政大学講師。PM論ではなく、大衆芸術の一般的議論。生硬な上、〈覚書〉の域を出ていない平凡な議論だが、PMがチラチラと引き合いに出されている点が目に止まった。この手の議論と、もっと活きのいい現象追跡型の話を、うまく接合することは出来ないだろうか。☆]

 この一本では寂しいので、もう少し、範囲を広げて、この夏の目に止まった、音楽誌でも研究誌でもない、一般誌の記事を少し紹介します。
 この夏、見逃せなかったのは、6回連載企画「浮上する[大中華共栄圏]」を打ち出した『アサヒグラフ』。連載第2回:音楽(1)(7月15日号)で唐調、何勇、李泉、艾敬を、第3回:音楽(2)(7月22日号)で林憶蓮(サンディ・ラム)や業界関係者などを取り上げ、さらに第4回:媒體(7月29日号)でMTV ASIAを紹介しています。  続いて、『AERA』の5頁署名記事「現代の肖像」は、8月15-22日号で桂銀淑(執筆・山本茂)、9月5日号でサンディー(執筆・宮原安春)を取り上げています。この手の記事には歪みがつきものとはいえ、どちらもアジアPM論として結構読める出来でした。
 最後に、『日経パソコン』9月26日号のCD-ROM特集で、ピーター・ゲイブリエルの『XPLORA1』をメインに、ボウイと(元)プリンスのソフトが紹介されています(執筆・清水達也)。ピーター・バラカン、鈴木喜之のコメントがあり、PM系CD-ROMについて手っとりばやく概要が理解できます。

 ところで、(日本の)MTVは、8月から日本のビデオ・クリップも放送するようになりました。まだ、圧倒的に少数ですが、もう一つの音楽専門CSチャンネル『スペースシャワー』との棲み分けがどう変化していくのか、気になるところです。              (山田晴通)

"A Study of English Popular Songs" 
 大西雅雄氏(昭和3年、つまり1928年、駒沢大学英文学科第1回卒業生)の卒業論文。

 昨年の夏、研究室を引っ越すために荷作り作業をした際に、うっかり荷作り洩れした数点の本の中に『駒沢大学英文学研究』第1号(1931年3月発行)があり、ぱらぱらめくったところ、第1回卒業生から第4回卒業生までの卒業論文一覧でこの1点が目にとまった。
 この題名の popular songs がどういった歌を指しているのかが知りたく、駒沢大学英米文学科に問い合わせたところ、この卒業論文は以前に御本人が帯出されたままになっており、御本人は病気で昏睡状態とのこと(1993年9月27日現在)。その後、どこかに違った形ででも発表されていないかと調べようとしたが、お手あげ。
 これが書かれた頃の1920年代半ばの時点では、後に称する traditional ballads を指した popular ballads という言葉が知られていたはずだが、popular songs がここで何を指すのかは不明。1859年に出たウィリアム・チャペルの2巻本の書名にある popular music が指す類の歌を指しているのだろうか。              (三井 徹)

NEWSLETTER 23(1995.01.15.)

犬も歩けば……(7)

 新年のご挨拶には遅くなりましたが、亥年の今年も犬は歩き続けます。皆さんからの投稿や、文献の情報も大歓迎します。どうか今年もご支援を。
 従前のように、[ ]内のコメント末尾の☆は「読物としての面白さ」で、五つ星が最高です。

八木康幸(1994):
ふるさとの太鼓―長崎県における郷土芸能の創出と地域文化のゆくえ―,人文地理(人文地理学会),46-6,pp581〜603(pp23〜45).
[八木は、関西学院大学文学部の教授。長崎県の創作和太鼓の現状を多角的に検討することで、創作される「伝統」という問題に取り組んだ、意欲的な論文。〈和太鼓という fakelore の創出を通じて表現される現代の地域文化は、地域住民にとって「生きられる文化」ではなく、地域に関係を持つ人々や機関によって「語られる文化」なのである〉という結論は、周到な分析を踏まえており重要だ。「民謡」のポピュラー音楽性といった議論に関心がある方には、ぜひ読んで頂きたい。☆☆☆☆]

前田一郎(1994):
1993年 New York モダン・ジャズに関する一考察―The Jazz Scene in New York in 1993―,海外事情研究(熊本学園大学付属海外事情研究所),22-1(通巻43),pp45〜71.
[以前にまとめて紹介した前田氏のニューヨーク・ジャズ三昧記録の最新版である。例年通り、ページのほとんどは、パーソネルと曲目の羅列だが、大前きよを氏の急逝について追記で触れられている。なお、熊本学園大学は旧・熊本商科大学。☆]

[以下の3篇は、日本音楽著作権協会(JASRAC)と久留米大学法学部が共催したシンポジウム「音楽と著作権」における発表である。このシンポジウムでは、この他にも数本の発表があったらしいが、活字にはなっていないようである。]

中田喜直(1993):
音楽家と著作権,久留米大学法学,19,pp107〜119.
[中田は作曲家、日本童謡協会会長、JASRAC理事。しかし、高齢のせいか、講演の大半は本題から外れた禁煙論になっている上、本題部分も雑談に終始している。こんな与太話が活字に残されて、御本人は不名誉とは思わないのだろうか。☆]

草野昌一(1993):
歌手とレコードと音楽出版社,久留米大学法学,19,pp121〜130.
[草野はシンコー・ミュージック社長、音楽出版社協会理事長、JASRAC理事。音楽出版社の業務の概要を、近年の新しい動向なども含め、わかりやすく平易に解説している。☆☆☆]

河野愛(1993):
最近の著作権問題,久留米大学法学,19,pp131〜149.
[河野は文部省のお役人だが、元は横浜国大の助教授。欧米において、著作権をめぐる代表的な二つの考え方となっている、英米法的コピーライトアプローチと大陸法的オーサーズライトアプローチの対立を解説し、ホームテーピングに各国がどう対処しているか、といった例を上げながら多様な複製技術の存在する著作権問題を国際的に展望している。用語はとっつきにくいが、この手の話としては読み易い方だと思う。☆☆]


NEWSLETTER 27(1996.01.15.)

犬も歩けば……(8)

 結果的には1年ぶりとなってしまった「犬棒」です。今回も軽量版ですが、どうか今年も皆様のご支援を。
 従前のように、[ ]内のコメント末尾の☆は「読物としての面白さ」で、五つ星が最高です。

野々村千恵子(1995):
ブラジル日系社会の音楽調査,移住研究(国際協力事業団), 32, pp92-107.
[野々村は聖徳学園女子短期大学助教授。ブラジルで日本語教育に従事した経験をもつ。1993年に行ったアンケートによって在伯日系人の「好きな歌」(日本語の歌)を、世代別などの形で集計した簡単な報告。1995年に出た会員のoutputでは、細川周平『サンバの国に演歌は流れる』が非常に面白かったが、細川の本の読者なら、この論文は「資料編」として面白いだろう。☆☆]

ラパン(1995):
1960年代ジャズ喫茶地図,ラパン(三栄書房), 2, pp137-141.
[1995年に出た創刊雑誌では、〈想像力が旅する 大人の地図マガジン〉とモットーを掲げた『ラパン』(羅盤)がなかなか面白かった。この記事は、1960年代の東京の地図に当時のジャズ喫茶の位置をプロットし、地図のまわりに『スイング・ジャーナル』誌に掲載されていた各店の広告を配置したページと、奥成達のエッセーから成っている。論文ではないが☆☆くらいはあげたい。]

大谷博(1994):
浅草オペラ論考 ―芸術性と娯楽性に関する考察―,尚美学園短期大学研究紀要, 9, pp31-54. (実際の刊行は1995年)
[大谷は、NHK出身の尚美短大教授。〈はじめに〉から引けば、〈わが国のポピュラー音楽史の黎明期を彩った「浅草オペラ」〉の本質を、〈芸術性と娯楽性の相剋〉といった視点で捉えようとする議論。しかし、そんなに大げさな内容でもなく、むしろ、要領よく浅草オペラの流れを紹介した読み物として面白かった。☆☆☆]


NEWSLETTER 32(1997.04.25.)

犬も歩けば……(9)

 回を追うごとに掲載間隔が広がっているこのコーナーですが、迷子の犬は忘れた頃に帰ってくるものです。
 前回(Newsletter27)以降、インターネットの普及とともに「犬」もWWWに居場所を見つけました。
   http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/JASPM/nltext/dog.html
しかも「ポピュラー音楽研究文献表」という(まだよちよち歩きの)子どもまで作ったようです。
   http://camp.ff.tku.ac.jp/TOOL-BOX/PMlibrary/PMbiblio.html
 「犬」は今後とも、電脳空間と紙媒体をうろつくはずです。情報の提供、原稿の寄稿も歓迎します。特に「ポピュラー音楽研究文献表」で紹介文のない文献についてのコメントを歓迎します。どしどしJASPM事務局宛でお送り下さい。

大里俊晴(1994):
ヴィデオ・クリップの戦略.武蔵野美術大学研究紀要,25,pp83〜91.
[あの <ガセネタの荒野> の大里氏が、武蔵美の非常勤講師として講じた内容を論文にしたもの。1991年頃にフランスで採録したビデオ・クリップを素材に、映像、音楽、歌詞の関係を論じている。☆☆]

勝部章人(1994):
アメリカにおける現在フォーク・ミュージック事情−その研究史と芸術性について−.大手前女子大学論集,28,(横組)pp17〜26.
[狭義の(1960年代的)フォークソングを包含した、より広い「フォーク・ミュージック」概念についての概説的展望。やや平板で一面的か?☆]

成瀬 厚(1996):
現代吟遊詩人の声を聴く−甲斐バンド『英雄と悪漢』の分析.地理(古今書院),41-12,pp46〜52.
[アルバム『英雄と悪漢』を通して流れる二項対立的テーマ(「都会/田舎」「俺たち/やつら」等 ) の考察。著者は都立大の院生。リアルタイムの聴き手だった私には、今一つ食い足りない。☆☆]
(山田 晴通)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

芸大でもポピュラー音楽研究がはやり?

東京芸大からは今年28本の卒業論文が提出されたのだが、そのうちの5本がポピュラー音楽関係だった。

内田雅子「現代日本の男性アイドル・グループについての一考察. SMAPを中心に」
奥西絵師「ラップ・ミュージック.ヒップ・ホップ・カルチャーと黒人政治運動を背景にして」
伏見かるな「ファドの音楽構造.リスボンのファドとコインブラのファド」
二田綾子「ソンの研究.キューバ大衆音楽の諸相」
山形まどか「クイーカの起源と変遷」

 要旨を読むかぎりそれぞれの分野の標準的な本の紹介が中心らしい。SMAP 論は日本のテレビ文化とキアイドル文化の接点としてこのグループの「多面性」を論じたものらしい。いずれにしても、上野からも堂々とこのような卒論がたくさん出てくるというのは、卒業生としては愉快なもの。     (細川 周平)

NEWSLETTER 34(1997.10.21.)

犬も歩けば……(10)(阿部勘一

田中 純(1996):
自殺するロックンロール デヴィッド・ボウイ試論.
東京大学超域文化科学紀要,1,pp85〜114.
[デヴィッド・ボウイ論を、従来のロック論に見られる技法論、大衆文化論としてではなく、あくまで作家論として記述しようとした論文。
 ロックという共同性のイデオロギーに対する批判、<呼びかけ>る主体としてのロック・スターにおける象徴的委託の拒絶、といったことをボウイの作品の中から読みとっている。この意味で、ロックは、一種の古典的完成に達成した60年代末に終わり、あるいは死んでしまっていると言える。したがって、その時代以降に登場したボウイは、ひたすらロックの<終わり>の中で、死後の生とでも呼ぶべき時間を生き残り続けており、そして彼の作品は、ロックの<終わり>を反復的に終わり続けさせる自分自身へのレクイエムであった。だから、ロックンローラー(=ボウイ)は、もはや自殺者であることを避けられず、我々はボウイの作品を聴くことは、ロックの<約束>の裏切りと破綻の過程(=ロックが持っていたであろう我々を魅惑する官能の<メディア力>あるいはイデオロギー的呼びかけ)を、自殺するロックンロールの中に確認する作業であると述べている。
 筆者は、東京大学大学院総合文化研究科で表象文化論を講じる助教授。「前衛芸術(特に現代建築)の起源史・現代ドイツの文化と芸術」が、特に専門領域である。そのためか、ベンヤミンはもちろんのこと、F.キットラーにも依拠しており、この点には感心した。あくまで言説、表象を中心とした「作品論」を展開しようとしている点は、ロック論としては新鮮で、既存のナイーブなものを払拭する力を包含しているように思われる。何よりも、<終わり>を迎えた(であろう)ロックに対して、あえて「イデオロギーの復権」だとか「共同性への憧憬の復興」などということを「説教臭く」語らず、あくまで冷静にテキストに即して分析しているのには好感が持てる。表象文化論を専攻しているからこそ、なせる技なのだろうか?]

アートエクスプレス編集部(1994):
『季刊アートエクスプレス』No.3(1994年夏号)総特集:ロックには何もやるな,新書館,154ps.
[50年代のプレスリーに始まり、60年代のビートルズ、ローリングストーンズで一大スペクタクルを展開したロック。政治、経済、社会そして文化の領域に多大なる影響を与えた芸術潮流であるロック。そのロックはこれからどこへ行くのか。その可能性の核心に迫る内容となっている。辻仁成などのミュージシャン、北中正和、松村洋などの音楽評論家をはじめとして、大澤真幸京都大学助教授(「エルヴィスが母にロックを捧げた理由」)や、鷲田清一大阪大学教授(「ミック・ジャガーが大統領より年上になった日」)などの異色の(?)書き手による論文も所収。小沢健二と柴田元幸という組み合わせによる、これまた異色の対談も興味深い。「ファン批評」的な視点からの文章が多い中で、アカデミックなポピュラー音楽研究の見本としても面白い。読みごたえがある雑誌である。]


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